2012/10/02 開始
01
袁粲、字を景倩と言い、陳郡は陽夏の人で、太尉の袁淑の兄子に当たる。父の袁濯は、揚州で秀才として知られたが、早くに亡くなっている。祖母は粲が幼くして孤となったのを哀しみ、愍孫と名付けた。伯も叔も当代の栄顕であったため、愍孫は饑えや寒さに見舞われる事は無かった。しかし、母が琅邪の王氏で出であり、太尉長史であった王誕の娘ではあったが、自ら績紡を事として、以って日用品を供しなければならなかった。愍孫は小さい頃から学問を好んでおり、清才を有すまでに至った。従兄の袁と結婚したいと言う者がいたが、伯父の袁洵は、つまりの父であるが
「
では堪えられない。愍孫と結婚させるべきであろう。
」
と言った。時に愍孫は座中に在ったが、流涕しながら起き上がり出ていった。
第二回更新
02
早くから操立と志行によって、知られる存在となっていた。揚州從事として初任官すると、劉駿が、後の世祖(孝武帝)であるが、安北將軍、鎮軍將軍、北中郎に任命された時、その行參軍となり、南中郎將に任命されると主簿とされた。駿は、太祖(劉義隆)を弑殺した劉劭を討伐すると、記室參軍に転じられた。その駿が即位すると、尚書吏部郎、太子右衞率、侍中に任命される事となった。孝建元年(454)、世祖が群臣を引き連れて、中興寺で八關齋を共にした。中食が終わったが、愍孫はこれとは別に、黄門郎の張淹に魚肉食を進めた。尚書令の何尚之は法を奉じて素より謹んだが、密かにこの事を世祖に報告した。世祖は、御史中丞の王謙之に糾奏させ、二人共に免官した。孝建二年(455)、廷尉として復帰すると、太子中庶子、領右軍將軍に任命された。輔國將軍、西陽王の劉子尚の下で、北中郎長史、廣陵太守に任命されて中央を離れると、

州の事を行った。永嘉王の劉子仁の冠軍長史に任命された。將軍、太守はそのままである。大明元年(457)、侍中として中央に復帰すると、領射聲校尉とされ、興平縣子に封じられ、食邑五百戸とされた。大明三年(459)、山陰民の丁彖文の貨を納れたこと、會稽郡の孝廉を挙げた事に連座して、免官された。程無くして、西陽王の子尚の撫軍長史に任命されると、また中庶子、領左軍將軍とされた。大明四年(460)、補豫章太守として中央を離れたが、秩中二千石が加えられた。大明五年(461)、再び侍中として中央に復帰し、領長水校尉とされ、左衞將軍に遷され、給事中が加えられた。大明七年(463)の五月、吏部尚書に転じられた。左衞はそのままである。この年、皇太子が冠(成人)となると、世祖が東宮で臨宴した。愍孫は顏師伯に酒を勧めたが、師伯は飲まなかった。そのため愍孫は、師伯を辱めた。しかし、この師伯が世祖の寵を受けており、そのため世祖は、常日頃から愍孫が寒素の出にも関わらず、師伯を凌いでいた事に嫌悪を抱いていた。そして、この事に怒りを発し、愍孫を海陵太守に左遷した。大明八年(464)、太子の劉子業が即位すると、前廢帝であるが、御史中丞に任命されたが、これを受けなかった。そのため、吏部尚書に任命された。永光元年(465)、右衞將軍に徙されて、給事中が加えられた。景和元年(465)、再び侍中として中央に戻り、領驍騎將軍とされた。劉ケが即位すると、太宗(明帝)であるが、泰始元年(465)と改めた。司徒左長史に転じられると、冠軍將軍、南東海太守に任命された。
第三回更新〜第四回更新
03
愍孫は清整にして風操を有しており、自ら遇すること甚だ厚く、以前に『妙コ先生傳』を著し、

康(西晉)の『高士傳』の続編として、以って自らの有り様を陳べた。その内容は
「
妙コ先生と言う者がいた。陳國の人である。気志は淵虚にして、姿神は清映であり、その性は孝にして順を履み、冲に栖して簡(倹簡)を業として、舜の遺風を有していた。先生は幼い時から病気がちであった。疎嬾な性格から、営尚するところは無かった。九流百氏の言、雕龍談天の藝を然りとして、広くその大歸(大要)を識るも、以って名を成さなかった。
04
家が貧しかったため嘗て仕えはしたが、その好むものには非らざれば、その声(声望)と迹(事迹)を混(濁)し、その心用を晦まそうとして、故に深交は或いは

(悖)っていた。そのため、俗からは罔識と察せられた。処したる席門は常に掩(閉)じられ、三逕は通りが作られた程度で、揚子の寂漠さや、嚴叟の沈冥さと言えども、これより過ぎたるものではなかった。道を修め志を遂げても、終に称しなかった。また、ある時、周旋の人に『昔、一國が有り、國中に一水が有り、狂泉と号された。國人がこの水を飲まば、狂わざる者の無く、唯だ國君は井を穿ちて而して汲んでいたため、一人だけ恙無きを得ていた。國人が既に狂となったため、反(却)って國主が狂っていないのを狂であると言い出し、そのため聚は謀り、共に國主を執えると、その狂疾を療するとして、火艾や針、薬を用いるなど、終わる事が無かった。國主はその苦しさに耐え切れず、泉に到ると水を酌んで飲んでしまった。飲み畢えると、遂に狂となってしまった。君臣は大から小に至るまで、その狂が一となったため、皆な歓然となった。私はまだ狂となっていないが、独り立つは難しい。試しにこの水を飲んでみたいものだ。』と言った。
」
と言うものであった。
第五回更新
05
愍孫は幼い頃から荀奉倩(三國・魏。荀粲、奉倩は字)の人となりを慕っており、その事を世祖に伝えて、粲と改名する許可を求めたが、許されなかった。ここに至って、太宗にも伝えて、これが許され、名を粲と改め、字を景倩とした。
06
泰始二年(466)、領軍將軍に遷されて、仗士三十人を六門に入れた。この年、中書令に徙されて、領太子・事とされると、三百戸に摯浮キるとされたが、固辞して受けなかった。泰始三年(467)の五月、尚書僕射に転じられると、程無くして領吏部とされた。泰始五年(469)、中書令が加えられ、また領丹陽尹とされた。泰始六年(470)、太宗が華林園の茅堂にて『周易』を講義させると、粲が執經した。また、知東宮事とされ、六月、徙されて右僕射とされた。泰始七年(471)、領太子・事とされた。僕射はそのままである。しかし、まだ拜する前に、五月、尚書令に遷された。丹陽尹はそのままである。前選に連座して武衞將軍の江柳が江州刺史に左遷されたが、柳の有罪が確定すると、粲は守尚書令に降格された。泰豫元年(472)の四月、太宗は臨崩に際して、粲は

淵、劉

と共に顧命を受け、班劍二十人が加えられ、鼓吹一部が給された。劉cが即位すると、後廢帝であるが、兵五百人が加えられた。後廢帝はまだ十歳であったため、自ら朝政に当たる事が出来なかったため、詔が下され
「
昨今、序(順)に亢(抗)し度を愆(誤)り、熏を留めて

を燿かせており、このままでは秋稼を傷ましめ、方に民に

(苦)を貽(残)さん。しかし、朕は眇疚なるを以って、未だ政道を弘(広)められず、囹圄(牢獄)は尚お繁であり、枉滯は猶おも積もっており、晨に兢(戒)め夕に獅オて、いつも懐を惻(傷)めている。尚書令は執法以下と共に、衆獄から訊して、冤訟を洗(雪)ぎ遂げさせ、困弊を昭蘇されよ。州郡を頒下して、咸(皆)な壅の無さしめよ。
」
とされた。元徽元年(473)の十一月、母を喪う。葬が終わると、親職を兼務させ、衞將軍を加えるとされたが、受けなかった。敦く受けるよう逼まられ、中使が望んだのだが、粲は終に受けなかった。その性が至孝であったため、喪に居して毀なることの甚であったため、祖日や祥変が起こると、常に詔が発せられ、衞軍は客を断じるよう命じられていた。
第六回更新
07
元徽二年(474)の五月、桂陽王の劉休範が叛乱を起こした。これに粲は、助けを借りて入殿した。そこで詔が下され、兵が加えられた。これを従え、府に佐史を置いた。時に兵難は危急であり、賊は既に南掖門にまで至っていた。諸將の士気は落ち、皆な奮戦できなくなっていた。粲はこれに慷慨して、諸將帥に向かって
「
寇賊は已に逼まっていると言うのに、衆情は離沮している。孤子(私)は先帝から顧託を受けてより、本より死を以って報ゆものである。今日、

護軍(

淵、護軍將軍)と共に社稷の為に死を同じゅうせん!
」
と言った。そして、左右の側近に馬を引くよう命じた。その辞色からは哀壯が感じられた。これに陳顯達らが感激して出撃すると、賊は平殄された。事が寧じられると、九月、中書監に任命され、本號開府儀同三司、領司徒とされ、揚州を解いて府としたが、移る事は無かった。元徽三年(475)の六月、尚書令に徙される事となるも、衞軍、開府はそのままであるが、これを固辞して、七月、喪が明けてからこれを受けた。侍中が加えられ、進爵して侯とされたが、これも受けなかった。時に粲は、蕭道成、

淵、劉秉と共に入直し、万機を平決していた。時にこれを「四貴」と読んだ。粲は物静かで言の寡ない人物であった。事に当たるのを嫌っていたため、主書はいつも粲の下に赴いて、判断を仰いだ。時にはこれに高詠で答え、時に一意が立てられると、誰も改める事が出来ないものであった。宅宇は平素なもので、使っている器物は取給の品でまかなわれていた。酒を飲む事が好きで、善く吟諷しては、独り園庭で酌して、以って自適としていた。居は南郭を背にした場所にあり、時に杖をついて独り遊していた。素より往来が少なかったので、門には雑客も無かった。遺命を受けて権に当たるようになると、四方の訪問者で溢れるようになったが、閑居にて高臥しては、一人とも接する事は無かった。談客や文士であっても、会うのは一人か二人に過ぎなかった。
第七回更新
08
元徽五年(476)の七月、劉準が即位した。順帝である。昇明元年と改められる。中書監に遷された。司徒、侍中はそのままである。時に蕭道成は東府に居すと、八月、粲を石頭に鎮させた。粲は素より静退であるため、朝命が下されても、その多くに就く事も従う事も無かったが、この裏に道成がいると知っており、その逼切によって已むを得ず、然る後に就いた。石頭に移るよう詔が下されると、即座にその旨に順った。周旋人が望気したところを解いて
「
石頭の気は甚だ乖であり、往(行)かば必ずや禍が有ろう。
」
と陳べた。粲は答えなかった。また、油絡の通

車が給され、仗士五十人で入殿した。時に蕭道成は功の高く徳の重く、天命の帰すところとなっていたが、粲は身に顧託を受けており、二姓に事(仕)える事は欲せず、密かに道成を図ろうとした。丹陽尹の劉秉は、宋代の宗室であり、前湘州刺史の王蘊は、太后の兄子であるが、素より武事を好んでいた。そのため、どちらも道成に容られないと憂慮していたため、共に粲と関係を結んだ。將帥の黄回、任候伯、孫曇

、王宜興、彭文之、卜伯興らも、皆な粲と考えを同じくした。
第八回更新
09
十二月、荊州刺史の沈攸之が兵を挙げると、蕭道成は自ら粲の下を訪れた。粲は疾と称して、会おうとしなかった。粲の宗人で通直郎の袁達は、異同を示すべきではないとしたが、これに粲は
「
主の幼時の艱なるは、桂陽(劉休範、桂陽王)の時と異ならず、我らに入臺を劫(迫)ったが、その時、辞の無いままに拒したではないか。今回もその時と同じだ。どうして出られようか。
」
と返した。時に蕭道成は朝堂に入っていた。秉の從父弟で領軍將軍の劉

は、直門下省に入っていた。卜伯興は直閤となり、黄回ら諸將は皆な、軍を率いて新亭を出た。粲は日時を謀ると、太后令と偽って、

と伯興に宿衞兵を率いさせて、朝堂にいる道成を攻めさせた。回が軍を率いて、これに呼応した。秉、候伯らは、皆な石頭に赴き、本期である夜に発した。この日、秉は

擾に陥ってしまい、どうしていいか分からなくなってしまった。

の後、束裝を改めると、まだ暗くなっていなかったが、婦女を席卷に載せて粲の下へと向かった。これによって、事が発覚してしまったのである。これに先立って、道成は遣將薛淵、蘇烈、王天生らに兵を与えて、石頭の戍へと向かわせた。粲を助けるためと言っていたが、その実、粲を抑え込むためであった。また、腹心の王敬則を直閤として、伯興と共に禁兵を総じさせた。王蘊は秉が既に逃亡したと聞くや
「
今年の事、敗れたり。
」
と歎じた。時に蕭道成は、王蘊に人を募らせており、数百を得えていたが、蘊は狼狽して部曲を率いて石頭へと向かった。本期に南門が開かれ、既に暗夜となっていたが、薛淵らが門に拠していて、蘊に射掛けた。蘊は粲も既に敗れたと思い、ここからも散走した。道成は王敬則に伝えて、兵を率いて蘊を捕らえさせると、首を刎ねさせた。また、卜伯興も殺している。また、軍主の戴僧靜に薛淵を援護させるべく石頭に向かわせ、倉門から入るを得た。時に粲は、秉らと共に東門に登って兵を構えていたが、僧靜は兵を分けて府の西門から攻撃を仕掛けた。粲は秉と共に府に還赴する事に決めた。城を脱出すると、燭を並べて明かりを確保した。僧靜は単独で闇の中を追ってきていた。粲の子の袁最が、その気配を察知して、身を挺して粲を守ろうとしたが、僧靜がその直前で粲を斬り殺した。父子は共に殺され、左右は散り散りになって逃げた。粲、時に五十八であった。任候伯らは、この夜、輕舸に乗り込んで、新亭から石頭に赴こうとしていたが、粲が敗れたとの報を受け、逃げ戻っている。その後、皆な処刑されている。
第九回更新
10
蕭齊の永明元年(483)、詔が下された。その内容は
「
その昔、魏は袁紹を矜(哀)れんで、恩を丘墳に給した。晉は兩王を亮として、栄を餘裔に覃(延)した。これは蓋し、旧を懐しみて仁を流(広)め、心(本)を原(尋)ねて宥(寛)を興こした。二代の弘義は、前載の美談なり。袁粲、劉秉は、並びに先朝にて宋室を奬するを同じゅうした。沈攸之は景和(465)の世にあって、特なる乃心を有していた。末節は終えられなかったとは言えども、始めの誠なるは録すべきである。歳月は進んでおり、優隆を沾(添)えるべきであろう。粲、秉は前年に改葬されているが、塋兆は未だ修められていない。材官は経略を為せ。あらましは周の禮に合わせよ。攸之は、その諸子に及ぶまで喪柩は西に在り、荊州に符して以って時に致送させ、旧墓に還反させ、在所に葬事を営ませよ。
」
と言うものであった。
2012/10/02 終了。
『宋書』 袁粲 -2229〜2234 -
第一回更新 開始 残り09段 全10段 2012/10/02
第二回更新 更新 残り08段
第三回更新 更新 残り07段
第四回更新 更新 残り06段
第五回更新 更新 残り04段
第六回更新 更新 残り03段
第七回更新 更新 残り02段
第八回更新 更新 残り01段
第九回更新 終了
2012/10/02 終了。