2012/04/21
01
袁耽、字を彦道と言った。若くして才気を有し、俶儻として捕らわれる事が無かったため、士類から称賛されるところとなった。桓温は若い時、博徒との博打に大負けして、全財産を取られた事があった。しかし、それでもなお負債が残っていた。そのため、何とか捻出しようとしたが、どうにもならなかった。そこで、耽に助けを求めようとした。この時、耽は服喪していたため、温は断られると覚悟しながら、事の次第を告白した。これに耽は難色を見せる事無く、遂に服を着替え布帽を手にすると、温に債権主の賭場へと案内させた。耽の藝名は世間に知れ渡っていた。債権者もその名を聞いていたが、耽がどのような風貌かは知らなかった。そのため耽に
「
お前はあの袁彦道か?
」
と言った。遂に開帳された。十万で一擲だったが、すぐに百万を荒稼ぎした。耽は馬に飛び乗っては絶叫したり、布帽を探し出して地に擲げるなどの行動を取り
「
最後まで袁彦道か分からなかったか?
」
と言った。その通脱ぶりは、このようであった。
第二回更新
02
咸和二年(327)の蘇峻が叛乱を起こすと、王導に參軍として引き入れられ、導に従って石頭に赴いた。路永、匡術、賈寧はいずれも峻の腹心であったが、咸和三年(328)の八月、祖約が敗走したと聞くと、事が成功しないのではと懼れ、峻に大臣(王導)を誅殺するよう、入れ替わり立ち代りで説いた。しかし峻はこれに耳を貸さなかった。永らはこれでは必ず敗れるであろうと、裏で導と結びつこうとした。導は耽を密使として永の下へ派遣して、これを帰順させた。九月、峻の叛乱が平定されると、咸和四年(329)の三月、論功行賞によって、

歸男に封じられ、建威將軍、歴陽太守に任命された。
第三回更新
03
咸康元年(335)の三月、後趙の石虎が騎十余匹を引き連れて歴陽に至った。耽はこの事を上表したが、その騎兵の数が少ない事を伝えなかった。この時、胡寇が強盛であったため、朝も野も危機感を抱き、王導は宰輔の重を以って自ら討伐する事を願い出た。四月、出陣体勢が整えられたが、後趙の騎兵が多くなかった上に、既に退去しているとの報がもたらされた。導は出陣を取り止めた。朝廷は耽の軽妄を叱責して、罷免した。すぐに導の從事中郎として復帰すると、大任が加えられる事となったが、その時には死去していた。享年二十五。子に袁質がいる。
2012/04/21 終了
『晉書』 袁

/從祖準/準孫耽 - 2170 -
第一回更新 開始 残り02段 全03段 2012/04/21
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