2012/04/01
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袁

、字を山甫と言い、陳郡は陽夏の人であり、三國魏の郎中令であった袁渙の曾孫である。祖父、父は共に若死にしている。

は弟の袁猷と共に、母を連れて乱を避けるため、江淮あたりの縣の官職を求めた。そして呂令に任命され、更に江都に転じられた。これによって、江を南に渡ったのである。琅邪王の司馬睿によって、丹楊令に任命されている。建興四年(316)、愍王(西晉・司馬業)が漢の劉曜に降服した事により、晉朝は一時滅亡した。翌年、睿が晉王を称し、その翌年(318)に皇帝位に即いた。これによって、晉朝は中興された。東晉、元帝である。

は奉朝請に任命され、治書御史に遷されている。永嘉五年(311)の三月に病没した東海王の司馬越は、その尸を翌月の四月に、後に後趙を建てた石勒によって焚かれていた。ここに至って、越の妃であった裴氏が、越を招魂葬するよう求めてきた。これを認めるかどうか、朝廷は判断がつかなかった。

は博士の傅純と共に議して、招魂葬とは埋神と言う事であって、認めてはならない、と言う結論を出した。元帝はこれを聞き入れた。裴氏の越の招魂葬すると言う求めに対して、これを聞き入れる方向に議が傾いていたが、

らの意見を聞き入れて、これを禁ずる詔が下された。程無くして、廬江太守に任命された。大將軍の王敦に引き入れられ、諮議參軍に任命された。その間も無く、臨川太守に任命された。太寧二年(324)の七月、敦の死によって叛乱が平定されると、鎮南將軍の卞敦の軍司に任命された。しかし、すぐに職を辞して還都すると、會稽を経巡った。咸和二年(327)、蘇峻が叛乱を起こすと、王舒と共に義軍を挙げた。この時の功によって、長合郷侯に封じられ、補散騎常侍として召還され、大司農に徙された。程無くして、國子祭酒に任命された。そして、散騎常侍が加えられた。
第二回更新
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喪乱の後、禮教が廃れ始めた。咸康三年(337)の正月、

が上疏して
「
この

が聞いたところによれば、先王の教えとは、典訓を崇して以って遠代に弘め、禮樂を明らかにして以って後生に流すのは、万物の性を導き、為善の道を暢するためである、と。宗周が興ると、文史は煥を載して、端委は南蛮に垂れ、頌声は四海に溢れたため、延州(春秋・呉、季札)が魯に聘すと、雅の音を聞いて歎じたそうです。韓起(春秋・晉)が魯に適くと、易の象を観して美としたそうです。どうしてでしょうか?立人の道が、首となっていたからです。孔子が恂恂として以って洙泗にて教え、孟軻がこれに係り、誨誘するに倦む事の無かったため、仁義の声は今に猶お存し、禮讓の節は時に有ったのです。
第三回更新
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疇昔、皇運が陵替し、喪乱が幾度も臻(至)ると、儒林の教も次第に頽していってしまい、庠序の禮は闕(欠)を有し、國學は索然となり、墳籍は啓(開)かれなくなり、有心の徒は志を抱く由を失いました。その昔、魏武帝が自ら介冑を纏い、その務を武功に置きながらも、鞍を廃して卷を覧じ、戈を投じて吟詠したと言います。まして今、陛下は聖明を以って朝(朝政)に臨み、百官は虔恭を以って莅事した事によって、朝野は虞いが無くなり、江外は謐靜(寧靜)となり、泱泱の風は漠然として聞く無く、洋洋の美が聖世に墜(失)われる事が起こりましょうか!古人に言が有ります。『詩書は義の府であり、禮樂は徳の則である』と。誠に経籍に留心して、學義を闡明し、諷誦の音をして京室に盈れ、味道の賢が是れ則り是れ詠わば、どうして盛んならざる事がありましょうか!その宅地を給して、その學徒を備えさせれば、博士や僚属はその官を有する事になるでしょう。これがこの

の願いです。
」
と陳べた。疏が奏されると、成帝はこれを聞き入れた。國學の興りは、

より始まったのである。年が懸車(七十)になると、告老を上疏した。その後、程無くして死去した。光祿大夫が追贈されている。諡号を恭とされた。子の袁喬が家督を継いでいる。
2012/04/01 終了
『晉書』 袁

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