ほーむへ 人物へ戻る    


最終更新 2012/04/10



袁  喬




2012/04/10

01

 袁喬、字を彦叔と言った。佐著作郎として初出仕する。輔國將軍の桓温が自らの司馬とするよう求めると、喬は司徒左西屬に任命された。しかし喬が就かなかったため、尚書郎に任命された。温が京口に鎮すると、再び司馬として引き入れようとして、領廣陵相とした。喬はと親交が厚った。の娘にして康帝の皇后である氏(康獻皇后)が、建元二年(344)の九月、臨朝する事となった。この前月の八月、康帝が年二十三の若さで崩御し、その後に立った穆帝が、まだ二歳だったためである。喬はに書を送って


 皇太后が正に践登して、皇朝に臨御された。將軍はこれによって國においては、外姓の太上皇となった。皇子の近属となるに至った。そのため、皆な揖讓の禮を示している。まして、人臣に策名して、人父を交するのは、天性の尊とする所であり、また、體國の重とすべきだ。故友の好みだからこそ、この辞を伝えたのだ。染絲の変に、墨(戰國)が懐を致し、岐路の感に、楊朱(戰國)が歎を興した。まして、將軍と游処して長いのだ、世誉が先後しようとも、臭味は同帰するであろう。平昔の交は、禮数と共に降り、箕踞の歓は、時事に随って替わっており、濠肆を虚詠し、儀制を脱落しようとしても、それを得る事が出来ようか!来物は停まる無く、変化は遷代するものだ。どうして寸だけが、事であろうか。そもそも御器とは神なるもので、衆を制して以って約すものであり、願くは、將軍が怡情無事で、理を以って任に勝(堪)え、賢達を親杖して、以って納善すれば大となるであろう。惆悵を執筆しようと思っていたが、尽くす事が出来なかった。


と陳べた。論者は以って禮を得たとした。


第二回更新

02

 安西諮議參軍、長沙相に遷さる事となったが、これを受けなかった。そのため、督中諸戍江夏隨義陽三郡軍事、建武將軍、江夏相に任命された。永和二年(346)の五月、桓温が蜀(成漢)討伐について謀ったが、皆な不可であるとした。そんな中、喬がだけが


 そも経略は大事なるものであり、故に常情で陳べられる所ではありません。智なる者が胸心を了(明)らかにして、然る後に挙げれば遺算は無いでしょう。今、天下にある難は、二寇(蜀、胡)だけです。蜀は険固ではありますが、胡に方(比)べて弱であり、こちらを除くのは、容易でしょう。しかし今、万里を泝流し、天険を通過していては、彼方は或いは備えをするでしょうから、勝てるかどうか分かりません。しかし、蜀人は一方が斗絶されているとして、その完固を恃みとしており、攻戦の具を整えてもいません。ですので、精兵一万を以って、軽軍で速進すれば、彼方が我らが動きを聞いた時には、我らは既にその険要の中に進入しており、李勢の君臣が力戦したところで、これを擒えるは必定でしょう。論者は大軍が既に西にあり、胡が必ずや隙を窺っていると恐れておりますが、これもまたそうではありません。それは何故か?胡は万里の征伐と聞いたらば、以って守りを厳重にするので、動く事はありません。ただ、ほしいままに江渚を侵軼される恐れがありますが、これも諸軍に境を守らせておけば足るものであり、やはり、憂う事ではありません。蜀土は富実であり、天府と号称されるほどです。その昔、諸葛武侯(三國・蜀、諸葛亮)が中國に抗衡しようとしたのは、知られた話です。今、害することの能わざれば、その勢力は上流に拠して、易々と寇盗を為される事になります。もし、襲してこれを取れば、その人民を獲得する事となります。つまり、國の大利となると言う事です。


と勧めた。桓温はこれに従った。十一月、温は喬に江夏相として兵二千を与えて、前鋒とした。永和三年(347)の三月、温は彭模まで軍を進めた。蜀に接近したこの地点で、議者は二手に分かれて並進して、蜀軍を分散させるべきとした。しかし喬は


 今、万里の外に深入りしています。つまり、死地にいる事になります。しかし、士には反顧の心はありません。これは兵が、戦わなければならないと決心したと言う事です。にもかかわらず、今、軍を二つに分けてしまっては、軍力が一つにならなくなる可能性があり、万が一に一方が敗れてしまっては、大事が去ってしまいます。ここは全軍で進むべきです。釜甑を棄て去り、三日分の兵糧だけを携帯して決戦を挑めば、勝てない事がありましょうか。


と反論した。桓温はこれを採用すると、すぐさま全軍に進軍を命じた。成都を去ること十里の地点で、蜀軍と大戦を繰り広げた。前鋒が劣勢に立たされ、喬も軍を退かざるを得なくなった。矢が温まで及ぶほどに蜀軍に押し込まれると、温の左右の側近は色を失った。そんな中、喬が麾を振るって進軍を命じ、その声気を盛んにした。遂にこの戦いに勝利を収め、長駆して成都に至った。李勢は降服したが、勢の將であったケ定、隗文がこれに従わず兵を挙げた。兵はそれぞれ一万余であった。温が定を、喬が文を攻撃して、共に撃ち破っている。この戦功によって、永和四年(348)の八月、龍驤將軍に進号され、湘西伯に封じられた。間も無くして死去している。享年三十六であった。温はこの訃報に、甚だ悼惜した。益州刺史が追贈され、諡号を「簡」とされた。


第三回更新

03

 喬は博学にして文才を有していた。『論語』や『詩』に注を附したり、諸文筆も皆な世に広まった。

04

 子の袁方平が後を継いだ。方平も軌を有した人物であった。大司馬掾に任命されると、義興、琅邪太守を歴任した。死去すると、子の袁山松が家督を継いだ。


2012/04/10 終了


『晉書』 袁/子喬 - 2167 -


第一回更新    開始 残り03段 全04段  2012/04/10
第二回更新    更新 残り02段
第三回更新    終了