2012/09/04 開始
01
袁淑、字を陽源と言い、陳郡は陽夏の人であり、丹陽尹の袁豹の少子である。
02
幼い頃から風気を有していて、数歳だと言うのに、伯父の袁湛が家人に
「
これは非凡な兒だな。
」
と言ったほどだった。十余歳に至ると、姑夫の王弘から賞されている。章句の学は為さなかったが、広くに通じていて、よく文を綴っていた。その辞采は遒艶であり、才辯を有していた。州から主簿、著作佐郎、太子舍人と任命されているが、どれにも就いていない。彭城王の劉義康が司徒祭酒に任命した。義康は文学を好まず、表面的には禮接していたが、内心では甚だ疎んじていた。劉湛は、淑の從母兄であるが、自分の近くに寄せようと考えたが、当の淑はこれに乗り気を示さなかった。これによって、大いに互いに相容れなくなり、久疾を理由にして免官された。衡陽王の劉義季の右軍主簿に補され、太子洗馬に遷される事となったが、脚疾を理由にして拜さなかった。衞將軍で臨川王の劉義慶は、文章を好んでおり、淑を諮議參軍として迎えたいと求めた。程無くして、司徒左西屬に遷された。宣城太守として中央を離れたが、補中書侍郎として中央に呼び戻された。母の死去に伴い、官職を辞した。喪が明けると、太子中庶子に任命された。元嘉二十六年(449)、尚書吏部郎に遷された。この秋、大規模な北伐が行われる事となった。侍坐していた淑は、従容として
「
今、中岳に鳴鑾して、趙、魏に席卷なされようとしていますが、ならば岱宗に検玉するのは、今がその時でしょう。この淑、この千載の会に逢いまして、願わくは封禪書一篇を上したいと存じます。
」
と言った。太祖(文帝)は笑いながら
「
それは盛徳の事。私が為すに足りんや。
」
と答えた。始興王で征北將軍の劉濬の長史、南東海太守として中央を離れた。淑が府に到着すると、濬がすぐに引見して
「
意せずして舅は、遂に佐に垂屈されてきたか。
」
と言った。これに淑は
「
朝廷は下官として遣わしたが、本より光たる公府は、望んでいたところだよ。
」
と答えた。御史中丞として召還されている。
第二回更新〜第八回更新
03
元嘉二十七年(450)、索虜(北魏)が南侵してきて、遂に瓜歩まで侵入を許してしまった。太祖は百官に防禦の策を議させた。これに淑が上議して
「
この淑が聞きましたところでは、函車の獣は、山を離れれば必ず斃れると。絶波の鱗は、宕流すれば則ち枯すると。羯寇は遺醜に過ぎず、趨(走)りて畿甸に致たるも、蟻が萃(聚)まり螽が集まっているようなもので、已に崩れ殪したと聞きます。天の険は巖の曠さにあり、地の限(境)は深く遐(遠)いが故、全魏はその図を

(収)めて、盛晉はその議を輟(止)めました。情は屈して力の殫(尽)き、気は挫かれて勇は竭(尽)きており、諒(誠)に来臨を虞る事は無く、つまり、本より濟(救)う能うかを

(恐)れる事も無いのです。乃者、変定(安定)は遠くに携(連)ね、阻違には律を授けた事により、將は弛拙を有すようになり、士の士気も上がっていません。これで、囲潰の衆でも、寇しても傾淪させられず、攻制の師でも、空しく自と班散してしまい、済西の勁騎でも、急戦するも旅に二の足を蹴(踏)み、淮上の訓卒でも、簡備していても旗に靡きました。これによって、綏整からは衷が寡くなり、戎昭には昧が多くなってしまったのです。そのため遂に、

子に患を入れさせ、伊川に擾をもたらしてしまい、姫風を紛(乱)し殄(尽)くし、禹績を泯(乱)し毒(損)う事態となり、騰書には渭陰の迫が記され、懸烽には咸陽の警が見られます。しかして虚実(状況)を揣(図)かりますと、先に彰(現)れたるを伏匿して、伎能を校索(考察)し、既に顕(現)れたるを譎詭するべきかと。地の綿なること千里、行けば行くほど阻にして深であり、表裏で碍に躓かせ、後先で逼を介するのです。陵衍の習を捨てて、湍沙の利を競うのです。今、虹が見え萍が生じており、土膏が泉で動かされ、津が溢し陸が陷して、

禍が

(しき)りに興こり、蒭も藁も已に単(尽)き、米も粟も係(続)かず、水宇は衿帯であり、進めば必ず傾

となり、河隘は扁固であり、退いても亦た墮滅するでしょう。いわゆる烏を烈火の上に栖まわせ、魚を叢棘の中に養うと言う状況です。
04
或いは江右を損(減)らし緩め、淮内をェ(広)く繕うと言えるでしょう。竊謂(私見)によれば

城を拯(助)け扼(守)ったのは、旧史が允(正)とするところであり、涼土を棄てて遠ざかるのは、前言が非と称するところです。この要荒に限っても、委(棄)て割いてはならないのです。まして聯(連)なり被われた京國、咫尺の神甸であれば、数州が摧(砕)き掃われれば、列邑が殲(滅)ぼし痍(害)されれば、山淵は反覆し、草木は地に塗れてしまうでしょう。
05
今、丘は千乗を賦し、井は万集を算す程となり、肩が摩すること長安に倍しており、締袂すること臨

に百しており、その什一(十分の一)から籍(税)としているので、実に氓(人民)の願いを慊(満)たし、畝を履(測)り以って税としているので、既に農(農民)が和するのに協(適)っております。戸は戦心を競い、人は鋭志を含み、皆な贏糧(余糧)で奮うを請い、緯を釈(解)いて城に乗らんと欲しております。ここは鑄印を懸金として、壯果の士を要(求)めて、重き幣と甘き辞で、摧決の將を招き、挙げて板築の下に薦め、抽きて臺

の間に登らせ、これを賞するに以って書を焚いて、これに報ゆるに以って相と爵でするべきです。そうすれば、俄かに昭才が闕を賀し、異能が間(頃)に至るでしょう。
06
戎は貪ではありますが、そのための謀は無く、勝手に動いて整う事が無く、向背の次に迷い、合散の宜を謬まり、軍志の極害を犯しているなど、兵家の甚だ諱とするに触れております。咸(皆)なが憤りを畜え、僉(皆)なが戦を策(図)り、影(後)ろに従うを願い称し、命に緡(従)うと謠い言っております。敢悍数千を選び、急速に潜行させるべきです。旗を偃(伏)せて甲は裹(包)み、馬には枚を銜ませてです。檜稽に着き次第に姿を現させ、晨の未だ陣ならざる内に圧するのです。旌を掲げて譟を起こし乱挙し、火炬と鼓を以って四臨すれば、景に移る暇を与えず、塵を起させないでしょう。さすれば、禽で

(挫)かれないものは無く獣で

(震)えないものは無く、氷が解け霧が散し、

類を掃洗し、浮山に漂鹵させられるでしょう。

(網)を決(破)して網から漏れ、

(巣)に逡(戻)りて穴に逗(留)まろうとしても、淮、汝の戈船に命じて、その還逕を遏(断)たせ、

部の勁卒に命じて、その帰塗(帰途)を梗(塞)がせるのです。そうすれば、必ずや元雄(元凶)を剪ち、麾下に懸首するでしょう。隻輪も反(返)らせず、戦

も旋(返)らせずにです。ここにおいて、信臣に威を騰げさせ、武士に力を繕させ、

組を陰(裏)まで接(連)ならせて、

柝を響き聯(連)ねさせるのです。
07
瀛漲(大海)に偽遁すれば、出るも没するも際は無く、楚の言う『漢旆は、顕するも黙するも神の如し』です。固(素)より已に日月は蔽虧しており、川谷は蕩貿しています。塞を負った殘

、山を阻した燼党が、険を收めて命を窃(潜)め、城に憑って借一してきても、則ち威に因って席卷して、機に乗じて芟剿し得るでしょう。泗、

の秀士は、星が流れ電(雷)が燭(光)るように、徐、阜の厳兵は、雨が湊(集)まり雲が集まるようにして、桑溪の北を慌て乱し、澣海以南を搖らし潰して、その心根を絶やし、植する能わしめざれば、銜索が枯れ、蠧(蝕)まれざること幾何でしょう。これは、涸れた沢で漁をするが如く、焚けた林で狩りをするが如しであり、浚風の軽

を

い上げるが如く、杲日が浮霜を払うが如しでしょう。既にして尉は荷掠の余を洽(遍)くし、網悲の鬼を吊るさんと望んでいます。然る後に、天が枢運を行い、

(疾風)が煙升を挙げるように、青蓋が西巡し、翠華が東幸して、州野を経巡って、遺策の無く挙げれば、高闕を再び勒(抑)え、燕然に後に銘せましょう。方乃山を奠(祭)って河に沈め、禮を創りて策を輯(集)めれば、炎(炎帝)、昊(太昊)の遺則を闡燿し、商、夏の舊文を貫軼し得ましょう。
08
今、衆(人民)も賈(商人)も勇を拳(握)り、將も術(術士)も怯を疎(棄)て、意するところは、稔泰が日々に積まれ、承平が歳に久しくして、邑では驚赴の急が無くなり、家では餽戦の勤が緩み、閲 訓の禮を闕(減)らし、参属の飾を簡(省)く事であり、亦た薦採の法で、未だ至らない事がありましょうか。邦は里選を造(行)い、

論すること深切であり、躬(自)ら

(貫)くこと幽を尽くし、帯を斬って遠くを尋ねるに至り、沈明は照らし、俊偉は自ら宣し、誠は泉雨を感じさせ、流れは金石を通じ、気は飛、賁を懾(畏)れさせ、知は苴、起を窮め、邪正順逆の数を審かにし、昏明益損の宜に達して、民心を

合し、愚叡の物性が、丹

を登りて而して策を敷し、青蒲を躡(踏)みて而して謀を揚げれば、上は辰鑒を説き、下は素言を弭(止)めれば、民を安んじ國を

(和)らげ、災を救いて患を恤(憂)うに足るでしょう。則ち寵貴の上に拔過して、戚旧の右に襃升し、その

章を別け、その班祿を栄とし、専誉を出得し、命を稟(受)けざれば、席を降して節を折りて、廣武の請と同じゅうし、壇を設けて禮を致せば、淮陰の授と均しくさせるべきです。必ずや要盟の功、竊符の捷を有すでしょう。
09
夷裔は暴し很され、内外は侮り棄されてしまい、附いたばかりの衆は、

(茂み)を分けたように序は無く、蠱が威を以って利するように、勢は必ずや携離してしまい、首順の徒にも、靡然と自と及ぶでしょう。今、

繹の故典、

土の纓

によって、幽播を翦ち、凶狡を折首しようとしています。これは眇なる者が明なるを願い、痿を患う者の歩くを思い、動商の

に会おうとするものであって、功は終に動かされ易いものとなるでしょう。劫晉は善覘に在り、全鄭は実に良諜に寄って、多く反間をほしいままにし、心耳を

惑しては、險易の前に発し、興喪の術に抵し、その猜伏を衝き、その嫌嗜を払い、

(惑)わすに連率の貴を以ってし、餌するに析壤の資を以ってし、筆端の用を尽くし、辞鋒の鋭を展べ、辯を振えば則ち堅囲は解く事が出来て、羽を馳せば巖邑も傾き易くなるでしょう。必ず府鬲は土崩し、枝幹は瓦裂する事となり、故に燕(戰國・燕、惠王)、樂(戰國・燕、樂毅)は相い悔やみ、項(項羽)、范(范掾jは交(互)いに疑うようになったのです。
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或いは言は功の深きを約し、事は広さに応じて邇(近)づくと言いますように、齊が反駕を圉(飼)い、趙が還君を養ったと言うもので、輿誦の道を尽して、能事の効を畢えるのです。この淑、幸いにも層禁(深宮)に出内(出入)し、明代に游息するを得た事により、澤(祿)は身の泰なるほどに与えられ、恩は年の行くに隨われているのであり、逢迎(迎合)を以って運を昌(盛)んとしたのでも、潤飾を以って法を鴻(盛)んとしたのでもありません。今、塗に(途)に遺鏃が有り、それは

が未だ蜂(針)を息(収)めていないようなものであり、敢えて涼識を思うのであれば、酬を少なくして施を

(広)くするべきでしょう。しかし、幕に坐していては昭文に乏しくなり、冑を免じていては果を致すのも能わないものです。ここで都護の辺論、属國の兵謨、終、晁の抗辞、杜、耿の言事を観ますれば、咸(皆)な及經の棘を云っておりますが、それは上算を闕(欠)いたものであり、燭郛の敬は、下策を裁收したものと言わざるを得ません。自と懦木なるを、智の微ならを綜べざるを恥じ、敢えて昧見を露わにするのであれば、昭(明)らかに採るものは無いといわざるを得ません。
」
と陳べた。
第九回更新
11
淑は感情が昂ぶると誇誕になる性質であったため、周りの人から嘲笑の的となっていた。始興王の劉濬が、ある時、銭三万を淑に送ったが、一夜明けるとそれを取り返した。使用人には謬誤だったと言わせたが、淑をからかおうとしたのであった。淑は濬に書を送って
「
袁司直は館を視て、敢えて上國の宮尹に書を寓(寄)せます。日者(過日)に枉泉賦を猥りにしたため、弊邑に降委されました。弊邑は事を敬するのは是れ遑であり、無いか或いは違貳です。郊贈の禮、覲饗の資に非らざるを懼れ、君王がこれを恵しないのを慮らざれば、これ心が乱されます。旦に夕に咫尺の記を発するを図らざれば、左右に籍(記)させて請い、以って失旨を授けられたため、ここに先幣を速くする事となってしまいました。かつて庸臣に附いて末學に委して孤聞する者は、どうしてこれを疑うでしょうか。且つ亦た前志の曰う『七年の中、一与一奪』であり、義士は猶おこれに非らざるものです。まして旬次に密邇すれば、その

益の亟はどうでしょうか。二三の諸侯を恐れさせたと藉されており、大國の政を観られます。是を用(以)って敢えて心腹を布きます。弊室は弱生であり、砥節や清廉は、是れ潔直であり、不邪の故を以って、天下に聞かれるのは貧(少)ないでしょう。寧ろ有昧の嗟金です。不腆の供賦は、束馬や先璧で以って俟命します。唯だ事を執るのは、これを図らんとする所以です。
」
と陳べた。
第十回更新
12
太子左衞率に遷された。元嘉三十年(453)の正月、元凶たる劉劭が、正に弑逆を為さんとしていた時であった。その夜、淑は当直に当たっていたが、二更の頃、劭は淑を始め蕭斌らを呼び出すと、流涕しながら
「
主上は讒言をお信じになられ、このままでは罪され廃されてしまう。内省してみたが過ちは見当たらず、枉を受け入れる事など出来はしない。そのため、明旦、大事を決行すると決めた。そこで勠力を求めんがために、呼び出したのだ。
」
と言った。淑と蕭斌が
「
古えよりそのような例はありません。願わくは善思を加えられん事を。
」
と答えた。これに劉劭は怒気を露わにすると、左右の側近が皆な構えた。蕭斌は恐れおののき
「
この斌、昔より伏事を忝くしてまいりましたが、常に思うは節を効(尽)す事でした。まして今、そのような憂慮すべき事が迫っているのであれば、正に身を竭して令を奉る所存であります。
」
と言った。これを聞くや、淑は蕭斌を
「
卿よ、殿下に真に是が有ると即断できるのか?殿下は幼なき時、風を患われたご経験がある。或いは是れ疾が再発されたのかもしれない。
」
と叱した。劉劭はますます怒りを増していき
「
事は克(能)わざるや不(否)や?
」
と淑に問うた。淑は
「
不疑の地に居されているのです。どうして克わざるを患う事がありましょう。ただ既克の後、天地の容られざる所と為れば、大禍も亦た旋至します。願くは速やかにお息(止)めになる事を。
」
と答えた。劉劭の左右の側近は、淑の衣を引いて
「
これ何事を言うか。止めろと言うのか。
」
と言った。淑らには袴褶が下賜された。また、主衣に錦を取らせると、三尺で截ちて一段と為すと、更に破って、蕭斌と淑、左右に与えると、袴に結ばせた。淑が左衛率省に戻り、牀に横たわると、四更を過ぎた頃には寝入ってしまっていた。劉劭が出発しようとした時、既に蕭斌は同乗していたが、淑を性急に呼び出した。淑は眠りに落ちており、終に目を覚まさなかった。劭は東宮の西門である奉化門に車を停めさせると、淑に後ろに続くように促す声を挙げた。淑はこの声にようやく目を覚まし、車後に至った。劭は車に乗るよう命じたが、淑が乗る事を辞退したため、劭は左右の側近に
「
刃を手に執れ。
」
と命じた。淑は奉化門外にて、斬り殺されたのであった。享年四十六。劉劭が即位すると、太常が追贈され、下賜は甚だ厚かった。
第十一回更新
13
四月、劉駿が即位すると、世祖(孝武帝)であるが、顏延之に詔を為させ
「
そも道義を軽とするか重とするかは、亟(速)やかにその教を聞けばよい。世の弊や國の危は、その人を遇すること希(稀)だからである。自と達義の至りに非ざる者が、識正の深きに非ざる者が、孰(誰)か能(よ)く心を抗(高)くして衛主を衞(守)るか、身を遺(捨)てて節を固くするか。故太子左衞率の淑は、その文辯は優洽であり、貞

を尚(尊)しとする事を秉(守)った。要逼の切なるに当たっても、意色は橈げずに、辞を氏i厳)しくして逆を道(説)き、その気は凶党を震わせた。虐刃が交至されても、斃を取りて移る事をしなかった。古えの忠を懐きて難に隕せし者で、未だにその右に出る者を見出す事は出来ない。言を興んにして嗟悼しても、心から廃される事は無い。ここに禮を加えて、永しえに宋の有臣に旌(表)すものである。侍中、太尉を贈り、諡号を忠憲公とする。
」
と陳べた。また別の詔を下して
「
袁淑は身を以って義に殉したが、その忠烈は古えを

(遥)かにするものである。遺されし孤(児)は在疚(服喪)しているが、特に矜(哀)れみを懐くところである。可厚く賜

を加え、以って存亡を慰めるものである。
」
と陳べた。淑を始め徐湛之、江湛、王僧綽、卜天の四家にも与えられ、ここにおいて長らく祿を給稟される事となったのである。文集は世に伝えられている。
14
子に袁幾、袁

、袁稜、袁凝、袁標がいる。

は、世祖の治世にあって歩兵校尉となっている。凝は、太宗の治世に御史中丞とされた。標は、晉陵太守として中央を逐われている。泰始二年(466)の正月、四方と同反したが、敗北すると帰順し、劉

の冠軍府主簿に補された。淑の諸子は、いずれも早くに死去している。
2012/09/04 終了。
『宋書』 袁淑 - 1835〜1841 -
第一回更新 開始 残り12段 全14段 2012/09/04
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第三回更新 更新 残り09段
第四回更新 更新 残り08段
第五回更新 更新 残り07段
第六回更新 更新 残り06段
第七回更新 更新 残り05段
第八回更新 更新 残り04段
第九回更新 更新 残り03段
第十回更新 更新 残り02段
第十一回更新 終了
2012/09/04 終了。