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最終更新 2011/11/06



源 延伯







2011/11/06 開始

01

 長子の源延伯は、從伯に養子に出された。次子の源士則は早世している。士則の弟の源士正、源士規は、どちらも事に連座して処刑されている。その下の源楷が、字を士質、小字を那延と言ったが、家督を継いだ。東魏の武定年間中(543〜550)、文襄王(高澄)府參軍に任命され、北齊が受禪すると、例降している。


第二回更新

02

 延伯は、司空參軍事として初仕官している。正光二年(521、普通二年)の十一月、に南秦民の呉富が叛乱を起こすと、詔が下され、河間王の蕭が都督に任命され、延伯の叔父の源子恭が軍司に任命された。延伯は統軍として、子恭の西討に従い、戦闘となると、必ず先陣を切って向かっていった。子恭はその年幼を見て、いつも自制するよう言葉を掛けたが、禁じる事は出来なかった。


第三回更新

03

 源子雍が夏州を任されていた時、上表して救援を求めると、延伯に詔が下され、羽林兵千が与えられてこれに派遣されると、城で野で戦い、その勇は三軍に冠たるものであった。正光五年(524、普通五年)の十月、子雍が東夏州に兵糧調達のために向かった時、延伯を留めて城の守りを預けて、後事を任された。延伯は兵士と共に湯菜を分け合い、城隍を堅く守った。子雍が胡に捕らえられると、城内に戦慄が走った。延伯は諭すように


 我が父の吉凶は測り難く、方寸(胸)は焦爛しており、実に裁割し難いものがある。それでも、守城を奉命したのだ、重とするところはこれであり、私を以って公を害しては、誠も孝も共に闕(欠)く事になる。諸君は願うのは、この心を得て、寄する所を虧(汚)しては無らんぞ。


と言って鼓舞すると、兵はその義に感じて、勵憤せざる者は無かった。朝廷はこれを聞いて、これを嘉しとした。龍驤將軍に任命されて、夏州事を行う事となり、五城縣開國子に封じられ、食邑三百戸とされた。兵は固守した。刺史が至ると、延伯は領義の兵を率いて源子雍の下へと戻り、共にK城を平定した。棠橋の戦いでは、先陣を切って突撃し、康維摩擁を生け捕りにした。白水に至ると、宿勤阿非の首級を挙げた。

04

 源子雍に従って都に至ると、浮陽伯に進爵、摯封S戸とされ、諫議大夫に任命された。冠軍將軍、別將とされると、子雍の北討に従軍した。孝昌三年(527、大通元年)の十一月、葛榮との戦闘で命を落としている。享年二十四。持節、平北將軍、涼州刺史が追贈されている。開國子はそのままとされた。

05

 子の源孝孫が家督を継いだ。北齊が受禪すると、爵は例降した。


2011/11/06  終了。


『魏書』 源賀/子雍子延伯 - 931〜932 -


第一回更新    開始 残り04段 全05段  2011/11/06
第二回更新    更新 残り03段
第三回更新    終了


2011/11/06 終了。