2012/08/07 開始
01
袁湛、字を士深と言い、陳郡は陽夏の人である。祖父の袁耽は、晉朝にあって歴陽太守となり、父の袁質は、琅邪内史となり、共にその名を知られた人物である。
02
湛は若くして從外祖の謝安の知られるところとなり、兄子の謝玄の娘を妻に迎えた。衞軍行參軍として初任官すると、員外散騎、通直正員郎、中軍功曹となり、桓玄の下で太尉參軍事となっている。中央に入ると中書黄門侍郎に任命されたが、その後、補桓脩撫軍長史として中央を出された。
第二回更新
03
元興三年(404)、前年に安帝を廃位に追い込み、自ら皇帝位に即いた桓玄の討伐に乗り出した劉裕の下で、鎮軍諮議參軍に任命された。翌年の義煕元年(405)、尚書吏部郎、司徒左長史、侍中に転じられた。従征の功によって、晉寧縣五等男に封じられた。太尉長史として中央を離れたが、左民尚書に遷され、掌吏部に徙された。呉興太守として中央を離れると、秩は中二千石であるが、その政事は理に適ったものであったため、吏からも民からも称賛された。補中書令として中央に呼び戻されたが、再び呉國内史として中央を離れた。こちらの秩も中二千石であった。義熙十二年(416)、尚書右僕射、本州大中正に転じられた。時に劉裕が北伐に乗り出した。湛は兼太尉とされていたが、兼司空、散騎常侍、尚書の范泰と共に九命の禮物を奉じて、裕に拜授しようとした。しかし、裕はこれを謙譲して辞退した。湛は随軍して洛陽に至たると、柏谷塢に留まった。泰が受使がまだ畢わっていないため、畢わるまでは晉帝陵は拜しないと議していたが、湛は一人、五陵に至って致敬していた。聞いた人は、これを美とした。
第三回更新
04
陳郡の謝重と言う物が、王胡の外孫であるが、諸舅に禮敬しない事が多かった。その重の子の謝絢も、湛の甥に当たるのだが、公座で湛を陵(侮)した事があった。しかし湛は
「
お前は、二代に渡って渭陽の情と言うものを解しておらんなあ。
」
と顔色も変えずに諭した。謝絢は愧色を浮かべた。
05
義熙十四年(418)、死去している。享年四十。左光祿大夫が追贈され、散騎常侍が加えられた。424年、劉義隆が即位すると、宋の太祖(文帝)だが、湛が袁后の父であったため、侍中、左光祿大夫、開府儀同三司が追贈されている。諡号を敬公とされた。世祖(孝武帝、劉駿)は、大明三年(459)、籍田を幸すると、湛の墓に行き掛かった。この後、詔を下して
「
故侍中、左光祿大夫、開府儀同三司なる晉寧敬公よ、外氏にして尊戚であり、その素風にして簡正なるが、歳紀(歳月)が次第に積もれば、墳塋には次第に遠ざかってしまっていた。朕は先頃、千畝(籍田)を巡覧したが、遙か松隧を瞻(眺)むれば、緬(遙)か徽塵を惟(思)い出され、感慕が搆汲ウれた。使祭を遣りて、僅かばかりなれども永懐を申さん。
」
と陳べた。また、守墓五戸を揩オた。
06
子に袁淳がおり、淳の子に袁桓がいたが、この時、既に亡くなっている。
2012/08/07 終了。
『宋書』 袁湛 - 1497〜1498 -
第一回更新 開始 残り04段 全06段 2012/08/07
第二回更新 更新 残り03段
第三回更新 終了
2012/08/07 終了。