2012/07/16 開始
01
元

、字を微之と言い、河南は河内の人ある。六代祖の元巖は、隋朝にあって兵部尚書となっている。幼くして父親を喪ったが、母の鄭氏は、賢にして学問を有していたため、自ら書傳の手解きをした。九歳には文を巧みに綴れるようになり、十五歳にして明經を受けると、等に入ると判じられ、補校書郎とされた。元和元年(806)には制科を受け、対策の第一とされ、左拾遺に任命された。その性質は聡明で舌鋒鋭く、事に遇するや否や取り上げたのであった。
第二回更新〜第四回更新
02
王叔文、王

が太子宮(東宮)から寵愛を受けて、國政をゆがめていた。これに

は、正人を選んで輔導させるべきであると考え、献言した。その内容は、以下のようであった。
「
謹んで陛下が降されました明詔を見ましたとところ、廃学を修復し、冑子を増やすとありましたが、しかし、これより優先すべき事があり、この

、敢えて死を昧(冒)しましても、これを言わせていただきます。
03
賈誼(前漢)に言が有ります。『三代の君は、仁にして且つ久しかったが、教えの然なるものである。』と。周の成王は中才でありましたが、管(管叔鮮)、蔡(蔡叔度)を近づけると、讒言を入れてしまいました。周(周公旦)、召(召公

)を任じると、善言を聞くようになりました。これは天聡の明なるものでしょうか?克く道を終えるとは、教です。太子となると、太公(太公望)を師に、周公を傅に、召公を保にして、伯禽、唐叔と游すると、目には淫艶を閲(み)せず、耳には優笑を聞かせず、居には庸邪を近づけさせず、玩には珍異を備えさせなかった。君となるに及べば、血気は既に定まり、游も習も既に成っており、放心を有したとしても、已成の性を奪うには至りませんでした。則ちかの道徳の言とは、固(もと)より我らが習聞するところであり、これを陳ぶる者は諭し易いでしょう。回佞や庸違は、固より我らが積懼するところであり、これに諂する者は辨し易いものです。人の情は能とするところを耀かせざるはなく、近づくところを党とせざるところはなく、苟にも志を得れば、必ずその蘊するところを快とするものです。物性も亦た然りであり、故に魚は水を得て游し、鳥は風に乗りて翔し、火は薪を得て熾するのです。そも成王の蘊したところは、道徳であったのです。近づけたところは、聖賢であったのです。その蘊を快としたため、則ち禮樂が興り、諸侯は朝し、刑罰を措す事となり、教の至りと言えましょう。
04
しかし、秦はそうではありませんでした。先王の学を滅し、師保の位を黜しました。胡亥(二世皇帝)は誕生してから、詩も書も聞く事は無く、聖も賢も近づけませんでした。彼の趙高は、刑余の人(宦官)であり、これを傅(輔佐)するのに残忍

賊の術を以ってしたため、日に日に恣

となり、天下の人は未だ愚に尽きてはいませんでしたが、亥はと言えば、馬と鹿を分ける事も出来ませんでした。高の威は天下を懾(畏)れさせるに至り、亥は自と深宮に幽されました。秦が亡したのは、則ちこれらを致したためでしょう。
05
太宗(李世民)が太子と為られた時、道徳者として知られた十八人を選んで、これらと游されました。即位の後は、濶モ竏食の間と言えども、十八人は皆な在ったと言います。上の失に対して言わざる事は無く、下の情が達しない事はありませんでした。三、四年せずして、名は盛古より高くなり、これは游習の致りと言えましょう。この貞觀以来、保、傅はいずれも宰相を兼領し、余官も亦た時に重選されました。それ故に馬周は、位の高きも司議郎とされなかった事を恨んだと言うのが、その実例と言えます。
06
母后(則天武后)が臨朝すると、王室を剪棄しました。中、睿が太子と為られた時、骨

にして敢言の士を有しておりましたが、調護保安の職に就く事は出来ず、讒言や中傷に晒され、惟だ楽工が腹を剖して証としようとしたと言う事です。どうして哀しまずにいられましょうか!近頃ではこの弊は尤も甚しくなり、師資も保傅も、疾廃や

瞶でなければ、即ち休戎罷帥の者がこれに処すようになっています。また、僻滞とした華首の儒を以って侍直、侍讀に据えましたが、越月踰時しても召されませんでした。そも匹士がその子を愛すのは、明哲慈恵の師を求めるようであり、それが天下の元良となれば、反して及ばない事が有り得ましょうか?
07
この

が以為えらく、高祖から陛下に至るまでの十一聖は、生まれながらにして神明であり、長じては仁聖となられたため、この事は屑屑たるものであり、故に省みられなかったのです。萬世が設けられた後、有周の成(成王)が如き中才が、深宮に生まれ、保助の教えが無かったらば、則ち喜怒哀樂の生じたる所を知らずに育つ事になり、まして稼穡の艱難は尚更でしょう!願わくは、皇太子と諸王の歯冑に講業させ、厳師問道の禮を行わせると共に、禽色の娯を輟(止)めさせ、游習の善を資(助)ければ、何と美なる事ではないでしょうか!
」
と。
第五回更新〜第七回更新
08
また、自ら諫諍を職務と心得ていたが、召見されない日々が続いたため、上疏して
「
この

が聞いたところでは、治乱の始まりには、それぞれ萌象が有ると言う事です。直言を容れ、視聴を広げ、躬(自)ら庶務に勤め、大臣を委信して、左右の近習をして疏遠の人を蔽させない、これが治象です。大臣と不親(不仲)で、直言を進(入)れず、忌諱に抵(触)れた者は殺し、左右を犯した者は刑し、一人二人の近習と事を深宮の中で決し、群臣と与しなくなる、これが乱萌です。人君が即位してすぐには、萌象はまだ現れていませんが、必ず狂直敢言の者がいます。上は或いは激してこれを進めれば、則ち天下の君子は望風して『彼(か)が狂なるも上に容られるは、それは天下の士の来たるを欲しているのか?さすれば、我らが道は以って行われるであろう!』と言うでしょう。それが小人であったらば則ち利を竦(敬)しており『彼は直なれば、上より幸を得ており、我らも直言して利を徼(求)めようではないか!』と言うでしょう。これによって、天下の賢や不肖は、それぞれ忠するところを以って上に貢するようになり、上下の志は霈然として通じるでしょう。天下の智が合わされば、万物の心は治まり、人々は楽としてその所を得て、上を戴くこと赤子の慈母に親しむが如くであり、これを誘(唆)して乱を為させようとして、そうさせ得る事が出来るでしょうか?しかし、進計する者が入られ、直言する者が戮されるに及べば、則ち天下の君子は内謀して『言を与しても用られず身は戮さるなれば、我らは寧ろ行を危ぶみ遜(逃)を言いて、以って終を保とうではないか!』と言うでしょう。小人であれば則ち利を択して『我が君が悪(憎)むところは、心に拂(悖)り耳に逆らう事である。我らはその是非に順(従)って以ってこれに事えればいい。』と言うでしょう。これによって、進見する者は革(罷)されて内(入)れられず、言事する者は寝(止)められて聞かれないようになり、このようになってしまえば、則ち十歩の事も見えないようになり、まして天下四方の遠なるをや!故に言うのです。『聾瞽と言われた君は、その耳目の無きは非らず。左右前後の者がこれを屏蔽して、視聴せしめないのであり、乱の起こらざるを欲すれども得る事が出来ようか!』と。
09
太宗が即位されたばかりの時、天下に有言の者は無かったため、孫伏伽が小事を以って諫めた事を受けて、厚賜して以ってこれに勉めさせました。これによって、事を論ずる者は、唯だ言の直ならざるを、諫の極ならざるを、上の盛意を激する能わざるを懼れるようになり、忌諱を虞としなくなりました。そして、房(房玄齡)、杜(杜如晦)、王(王珪)、魏(魏徴)に可否を前にて議させるようになり、四方に得失を外から言させると、数年せずして大治に至りました。文皇が聡明なる者を上に引き上げた事によるものでしょうか?蓋し下がその言を尽して、以ってこれを宣揚して発暢したからに他なりません。そも全安を楽しみ、戮辱を悪(憎)むのは、古今の情の一とするところです。どうして貞觀の人だけが忌諱を犯すを軽んじ、戮辱を好んだでしょうか?そうさせなかったのは、蓋し上が激してこれを進めたからではありませんか。順従を喜び、蹇犯を怒るも、亦た古今の情の一とするところです。どうして文皇だけが逆耳を甘じ、従心に怒ったでしょうか?蓋し順従の利は軽であり、危亡の禍は大なるものであり、思いますに子孫に永安の計を建つる為です。後嗣と為る者は、その可一朝の意に順い、文皇の天下を蔑するべきでしょうか?
10
陛下が即位されて已に一歳となっております。百辟や卿士、天下四方の人で、未だ一計を献し一言を進した者で、賞を受けた者はおりません。左右前後や拾遺補闕でも、亦た未だ奏封や執諫して勧めた者はおりません。ここは諫鼓を設け、

函を置いて、雪冤や决事を聞き入れて、察幽の意を明らかにすべきす。陛下の睿博にして洪深なるを以って、励精して治を求めるのに、どうして言を用いないでしょうか?これでは、蓋し下は明を発する所を得られません!顧問を承くる者の一人二人だけが執政していては、対(上奏)に多くの時間を割けずに罷(止)んでしまい、どうして治安を陳べ、教化を議する暇など有りましょうか?他の有司は或いは時に召見されましても、僅かに銭穀の登降を計した簿書を奉じる事くらいしか出来ておりません。陛下の政は、貞觀と比べてどうでしょうか?貞觀の時には、房、杜、王、魏の輔翊の智が有り、日に日に有獻可替否する者がおりました。今、陛下が致治の初に当たられ、言事進計する者は年に一人もおりませんが、これは群下による因循竊位の罪となるでしょうか?そこで死を昧(冒)しましても、十事を条上いたします。一、太子を教して、邦本を正す。二、諸王を封じて、磐石を固める。三、宮人を出(逐)す。四、宗女を嫁す。五、時に宰相を召して庶政を講じさす。六、その次に群臣と対して、聡明を広げさす。七、正衙での奏事を復す。八、方幅と糾弾するを許す。九、非時の貢献を禁ず。十、出入や游畋を省す。以上です。
」
と陳べた。
第八回更新
11
時に論

、高弘本、豆盧靖が刺史として中央を逐われたが、閲旬して召還の詔書が出された。そのため

は
「
詔令がころころ変えては、天下から信用を失います。
」
と諫言した。また、西北の辺事についても陳べた。憲宗はこれにスび、呼び出して得失を問うた。当路の者から憎まれて、河南尉に左遷されてしまった。母が死去し、喪に服すため、官職を辞した。喪が明けると、監察御史に任命された。東川の巡察に派遣されると、東川節度使の嚴礪が詔に違って、賦数百万を過徴していたと、塗山甫ら八十余家の田産や奴婢を沒入していたと劾奏した。この時、礪は既に死去していたため、七刺史が奪俸に処されたため、礪の党友は怒った。程無くして分司東都に任命された。
第九回更新
12
時に浙西觀察使の韓皋が安吉令の孫

を杖刑に処し、

が数日後にこれが元で死んでしまった。武寧の王紹が、監軍であった孟昇の棺を護送して乘驛すると、無断で郵中で葬儀を挙げたが、吏は誰も止めようとしなかった。内園使が勝手に人を繋いで、そのまま越年していたが、臺はこれを知らなかった。河南尹が諸生の尹大階を誣殺した。飛龍使が亡命してきた奴を養子とした。田季安が洛陽の衣冠の娘を盗取した。

州が死賈の銭千万を没入していた。およそ十余事、尽く論奏した。時に河南尹房式が罪を犯したが、

がこれを弾劾し、故事に則って追摂して、移書して停務に処した。式を罪とする詔が下され、

は召還された。敷水驛に至った時、中人の仇士良もその夜に至ったが、

が譲らなかったため、士良は怒り、

を撃ち付けて顔に傷を負わせた。宰相は

が年少であり、樹威を軽んじており、憲臣(御史)の體を失しているとして、江陵士曹參軍に左遷させた。これに李絳、崔羣、白居易が枉法であると論じた。しばらくして通州司馬に徙され、

州長史に改められた。元和末、膳部員外郎として召還された。
第十回更新
13

は詩を最も得意とし、白居易と名を埒(等)しくし、天下で伝諷されると「元和體」と呼ばれ、ついには楽府にまで広がった。李恆は時に東宮にあったが、後の穆宗であるが、妃嬪や近習も皆な誦していて、宮中では元才子と呼ばれるようになった。

は江陵に謫されていた時、監軍の崔潭峻と親交を深めていた。恆が即位した長慶初、潭峻は中央に呼び戻され、

の歌詞数十百篇を奏御すると、穆宗は大いにスんだ。そこで

の今の安在を問うと
「
南宮散郎です。
」
との回答があり、その場で祠部郎中、知制誥に取り立てるよう命じた。詔の書体を変え、務めるに純厚にして明切であったため、世に盛伝された。しかし、進位が公議(正統)ではなかったため、士類からは不評を買っていた。これを感じた

は、内心で不満が溜まり始めた。加えて、風俗を誡しめる詔が下されたため、、その憾を募らせていった。
第十一回更新
14
程無くして中書舍人、翰林承旨學士に遷された。頻繁に召入されるようになり、禮遇されることますます厚くなっていったため、天下の事を言うを得た、と言うようになった。そのため、中人は争うようにして

との交際を求めるようになり、魏弘簡は枢密にあったが、最も親交を結ぶに至った。裴度は鎮州に派遣されていたが、論奏しては、これを沮卻した。度の再三に渡って上疏し、弘簡と

が國政を乱しているとして弾劾し
「
陛下が賊を平らげんとお考えであるならば、先に朝廷を清されるべきです。
」
と陳べた。穆宗がこれを群議に掛けると、魏弘簡を罷免し、

は工部侍郎に左遷すべきとの結論に達した。しかし、これによって眷倚が衰える事は無く、時を置かずして、同中書門下平章事に進められたが、朝野から失笑を買う事となった。そのため

は、奇節を立てて天子に報い、以って人心を一変させようと考えるようになった。時に王廷湊が牛元翼のいる深州を包囲していたが、

と仲の良かった于方が
「
王昭、于友明はどちらも豪士であり、以前に燕、趙の間を游していたため、賊の要領を得る事が出来ます。二人に賊と元翼を反間させて、元翼を差し出すよう仕向けさせましょう。家貲を以って、兵部から告身二十を得てまいりますので、それらを用いて士を募りましょう。
」
と持ち掛けると、

はこれを採用した。しかし、この謀が李逢吉の知るところとなると、密かに李賞を裴度の下に派遣して
「
于方が

と結託して、公を暗殺しようとしている。
」
と伝えさせた。これを聴いた裴度は、身を隠した。この事態を神策軍中尉が上奏すると、韓皋と鄭覃、そして李逢吉に捜査するよう詔が下された。裴度を暗殺しようと言う証拠は出てこなかったが、于方の経略が暴露される形になり、遂に

は、度と共に宰相を罷免され、同州刺史に左遷されてしまった。諫官が度は罷免するに当たらず、また、

を黜すること軽いものである、と言ってきた。穆宗は

を憐れんで、長春宮使を削ずるに留めた。

の処遇がまだ決定していない内から、京兆の劉遵古が吏を派遣して、

の第を監視させていた。

がこれを訴えると、穆宗は怒って、遵古を責めると、捕賊尉を罷免し、使者を出して

を慰撫した。再期、浙東觀察使に徙された。明州の歳貢は蚶であり、役郵の子は万人を数えていたため、その疲に耐えられなくなっており、

は上奏してこれを止めさせた。
第十二回更新
15
大和三年(829)、尚書左丞として中央に呼び戻されると、綱紀の粛正に勤め、郎官で功績の無かった者の七人を左遷した。しかし、

は素より慎みに掛け、徳望が軽かったため、公議から右(尊)される事は無かった。大和四年(830)、王播が死去してしまった。この播は、輔政復帰のために助力してくれた人物であったため、復帰は遂に叶わなかった。程無くして、武昌節度使に任命された。大和五年(831)、死去した。享年五十三。尚書右僕射が追贈された。
16
論著は甚だ多く、いずれも世に広まった。在越の時、竇鞏に目を掛けていた。鞏は、天下に詩の巧みなる人物として知られており、酬和をしていた。そのため、鏡湖、秦望の奇は更に伝わるようになり、時に「蘭亭絶唱」と呼ばれた。

は事に言すること峭直であったが、立名を欲するようになり、斥廃されること十年、信道は堅さを無くし、守とする所も喪っていた。宦貴に附いて宰相の位を得たが、居位すること纔か三月で罷免されてしまった。晩年には沮喪すると、廉節が加わり飾らなくなったと言う。
2012/07/22 終了。
『新唐書』 元

- 5223〜5229 -
第一回更新 開始 残り15段 全16段 2012/07/16
第二回更新 更新 残り14段
第三回更新 更新 残り13段
第四回更新 更新 残り09段
第五回更新 更新 残り08段
第六回更新 更新 残り07段
第七回更新 更新 残り06段
第八回更新 更新 残り05段
第九回更新 更新 残り04段
第十回更新 更新 残り03段 2012/07/22
第十一回更新 更新 残り02段
第十二回更新 終了
2012/07/22 終了。
-->