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最終更新 2011/11/06



源 子恭







2011/11/06 開始

01

 源子雍の弟の源子恭は、字を靈順と言い、聡明で学問を好んだ。司空參軍事として初出仕している。司徒祭酒、尚書北主客郎中となると、南主客事を担当した。


第二回更新

02

 梁から亡命してきた許周が、梁朝にあって給事黄門待郎であったと陳べると、朝士は翕然として、皆な信待した。しかし子恭は上奏して


 徐州で投化を表したのは、許團とその弟の周です。その牒状を究明しましたところ、周は蕭衍(梁)の下では黄門侍郎であったと言います。また心は山水にあり、栄宦を求めてはいないとも称しています。何度も辞譲を重ねたが、それが彼に赫怒をもたらし、遂に齊康郡に左遷されたとの事です。そのため、我が國に帰して、嵩嶺を志して畢(終)える事を願っている、と。そこで採訪を加えましたところ、何一つ証明する物は出てきませんでした。その表状も同じです。案牒から推理しますに、実に疑わしき所があると言わねばなりません。どこにか?その昔、夷齊(殷末周初の伯夷、叔齊)は往きて、周王はその志を屈する事が出来ませんでした。伯況(後漢の隠士、周黨。伯況は字)は祿を辞すと、漢帝(光武帝)はそれを美とした。古先哲王には、必ず不臣の人が有ったのです。蕭衍は江左を崎嶇し、一隅にて窃号してはいますが、処物に至っては、未だ甚しく禮に悖る事はしておりません。であれば、士が栄祿を辞す事を求めた時、聞き入れないような事があるでしょうか?情理を推察すれば、これは孟浪(でたらめ)との結論に至ります。仮に蕭衍が昏狂して、雅道を失ったとしても、士に出郡を逼(迫)ったのであって、未だ死急は為しておりません。どうして軽々しく生養の土を去り、長く父母の邦を辞すでしょうか?もし言の通りに栄誉官を好まず、志は嵩嶺を願うのであれば、初屆の日に、すぐにでも杖策して山を尋ね、負帙して水を沿い、広く知己を尋ね、遍く執事を造しなかったのでしょうか?希榮の心は既に見えており、逃宦の志はどこに在ると言うのでしょうか?その昔、梁鴻が郷を去ると、終に呉會に傭しました。萌(後漢、隠士)は浮海して、遠く遼東に客しました。どちらも志も養性も全するために、逍遙したのであって、この事実から考えますと、その遠く隔たっていると言えないでしょうか?また、その履歴は清華であり、名位に高達しており、その家累を計ってみますれば、軽いものではありません。今、帰化してきましたが、どうして孤迥(単身)で来たのでしょう?もし怱遽であったため、共に来る事が適わなかったのであれば、その来る後に、家貲や産業で簿を斂(集)めさせ、尊卑の口累も法に従うのではないでしょか。しかし、周兄弟は怡然しており、憂戚を見せた事は一度もありません。もし種族が無いのであれば、理は或いは通るかもしれません。坐しないのであれば、衍が潜り込ませたのであって、周の投化ではないでしょう。しかし、二三を推究しても、その真偽は辨じ難いものがあります。そこで、徐揚の二州に密訪を出す事を求めます。必ずや実態を得る事が出来るでしょう。数旬もせずして、玉石は判明します。


と陳べた。これによって、推訪の詔が下され、周は果して罪を以って帰闕したと言う結果が出た。その職位も、勝手に称したに過ぎなかった。子恭の疑った通りであった。


第三回更新

03

 神龜元年(518、天監十七年)の七月、河州の羌の却鐵怱が叛乱を起こして、長吏を殺害した。子恭に詔が下され、持節として行臺に任命し、諸将を率いて討伐するよう命じられた。子恭が率いた州郡兵や諸軍を厳しく統率したため、人民の物を一切略奪する事が無っかった。賊と軽々には戦わず、然る後に威恩を示していった。これによって、兩旬の間に、尽く降款してきた。八月には平定された。朝廷はこれを嘉した。正光元年(520、普通元年)、行臺左丞に任命されて、北辺を巡行した。


第四回更新

04

 起部郎に転じられる。明堂、辟雍がいまだ完成していなかったため、子恭は上書して


 この子恭が聞きましたところでは、辟臺の望気は、軌物の徳の既に高き事を、方堂の布政は、範世の道の遠き事を示す、と。そのため、書契の重は、理が造化に冠たるものであり、推尊の美は、事が生民を絶つのです。郊天饗帝するには、蓋し対越上靈を以ってす。宗祀配天するには、酬膺下土を以ってす。大孝でこれより加うるは無く、嚴父でこれより大なるは無く、皇王の休業は、國の盛典を有します。皇魏は震に居して極を統べ、宙を総して宇を馭し、土中の制を革め、無外に式を垂れております。北から南に至るまで、同卜して洛食に維しました。定鼎して民を遷して、気候を寒暑に均しくしております。高祖が基を始じめ、世宗が構を恢しました。功が成されれば樂を作し、治が定まれば禮を制し、遺文を訪ねて、廃典を修め、明堂を建て、學校を立て、一代の茂矩を興し、千載の英規を標しました。永平中、雉構が創り始め、基趾が草昧されただけで、未だに成功(完成)しておりません。故尚書令、任城王の臣澄(元澄)は、故司空の臣沖が明堂を造する所を按じて、詔答、兩京の模式を連表して、営起を求める奏をしました。期によって旨が発せられ、葺繕が加えられました。侍中、領軍の臣叉(元叉)は、総動して官を作し、宣贊して令を授かりました。ここより以後、兵人が配され、或いは千を給され、或いは数百を与えられるようになりましたが、進退や節縮に関しては、基準が定められた事は無く、速やかに望まれる事ではありますが、理は難しいものがあります。この功に専任すれば、長く造営に関わる事が出来て、一任する事により、完成の期日が見えてくるでしょう。しかし、所給の夫が寡少であるため、諸処から借りてはきてはいますが、千に届くかどうかと言う数です。繕作の名を有していても、終に就功の実は得られないでしょう。爽にして荒茫であれば、年載に淹積して、崇構を結架しようとも、完成の兆しは見えません。肄冑の禮をして、掩仰して進まず。養老の儀をして、寂寥して返さず。構厦を尺土に止どめ、山を一匱に頓しても、惜しむべきでしょうか!愚見を申し上げれば、民を招集して造営を始めれば、必ずや子來の歌を有しましょう。興造の亟(速)やかんらざれば、不日の美を致してしまいます。ましてや、本兵は多くないにも関わらず、この牽役を兼ねており、此方を廃して彼方に与えれば、循環は終わる事がありません。創禮の重を輟(止)めて、不急の費を資し、經國の功を廃して、寺館の役に供するのです。この遠図を求めれば、闕(欠)ける事があるでしょうか?今、諸寺の大作は、次々と完成しており、徹減する事は可能です。事に専して綜を経し、工匠を厳しく管理して、完成に邁進させるのです。祖宗をして薦配の期を有させ、蒼生(人民)をして禮樂の富を覩(見)させるのです。


と陳べた。書が奏されると、聞き入れられた。冠軍將軍、中散大夫に任命され、また治書侍御史を領した。


第五回更新

05

 正光二年(521、普通二年)の十一月、秦益のが叛乱を起したため、子恭に詔が下されて、持節として都督、河間王軍司に任命されて、この討伐を任された。事が平定されると、南秦州事を任された。六鎮が叛乱を起こすと、子恭は兼給事黄門郎とされ、持節として慰労を命じられた。帰還すると、河内太守に任命され、後將軍が加えられ、孝昌二年(526、普通七年)の六月、絳蜀の叛乱を平定した。普泰元年(531、中大通三年)の二月、丹谷、清廉の二路が険澀のために不通であったため、子恭を當郡別將に任命した。建興の蜀が再び叛乱を起こすと、方々の勢力が連携した。子恭は持節、散騎常侍、假平北將軍、征建興都督とされて、兼尚書行臺にん瞑されると、正平都督の長孫稚と共に進討して、これを大いに破った。正平賊帥の范明遠は、賊帥の劉牙奴と共に面縛して降服を願い出た。事が平定されると、平南將軍、豫州刺史に任命され、程無くして散騎常侍、撫軍將軍が加えられた。


第六回更新

06

 武泰元年(528、大通二年)の四月、郢州刺史の元願達が城ごと蕭衍(梁)に帰順してしまった。そのため、都督の尉慶賓に詔を下して、京師に帰還させると、子恭を麾下に加えて討伐に向かわせた。梁將の夏侯が兵を率いて、何度も侵攻してきたため、遠近は不安に陥った。は勢いに乗って軍を分けて、遂に新蔡に迫り、毛城へと攻め込んできた。子恭がこれを迎え撃ち、敗走させている。梁の豫州刺史の夏侯亶は、四將に兵三万を与えて、南頓を包囲し、北の陳項に攻め込んできた。子恭は軍を出し、この防禦に当たらせた。これも撃退に成功している。鎮南將軍が加えられ、尚書行臺を兼任する事となった。子恭は兵を率いて淮を渡ると、民を淮北に移住させ、郡縣を設置して、戍を設けて帰還した。梁の直閤將軍、軍主の胡智達ら八將が、監軍の閻次洪と共に侵攻し、州城の東北四十余里に布陣した。子恭はこれを撃ち破り、智達の首級を挙げ、次洪を生け捕った。

07

 永安二年(529、中大通元年)の五月、元が洛陽に入ると、子恭に車騎將軍が加えられた。子恭はこれを敢えて辞退せず、秘密裏に間使を出して、莊帝(元子攸)の動静を窺わせた。程無くして、が敗れている。車駕が洛陽に帰還すると、征南將軍、兼右僕射に進位され、車騎將軍を假され、後に散騎常侍が加えられた。

08

 板橋蠻の文石活、石忌が蕭衍から印節を授かると、党類を扇誘して、険阻に拠って略奪を働き始めた。これに子恭は、自ら將士を率いて、その柵に急襲を掛けた。数日の内、殲滅して平定した。諸蠻は款服して、皆な輸税する事を求めてきた。右光祿大夫、給事黄門侍郎に任命され、正式に車騎將軍とされた。記録されていた前後の征討の功によって、臨潁縣開國侯に封じられて、食邑六百戸とされ、散騎常侍が加えられた。時を置かずして、侍中に遷された。


第七回更新

09

 永安三年(530、中大通二年)の九月、爾朱榮が暗殺されると、子の爾朱世隆、爾朱度律は河橋に拠点を構えた。子恭に詔が下され、都督としてこれを討伐するよう命じられ、大夏門の北に布陣した。十月、太府卿の李苗が夜襲を掛けて河橋を焼き落とすと、世隆は北へと敗走した。子恭が尚書僕射を兼任し、大行臺、大都督に任命された。すぐさま衞將軍、假車騎將軍に遷されると、諸將を率いて太行に壘を築いて、防衛に当たった。爾朱兆が兵を率いて南に向かうと、十二月、子恭麾下で都督の史龍、羊文義は柵を開いて兆に降服してしまった。そのため、子恭は退却を余儀無くされたが、兆の追撃にあって撃ち破られた。兵が既に離散してしまったため、兆の洛陽侵入を許してしまった。子恭は氏縣へと逃げ込んだが、そこで捕らえられ護送されてしまった。しかし、すぐさま釈放されている。


第八回更新

10

 普泰元年(531、中大通三年)、驃騎將軍、左光祿大夫に任命された。侍中はそのままである。程無くして、散騎侍郎、都督三州諸軍事、本將軍、假車騎大將軍、行臺僕射、荊州刺史に任命された。定策の勲によって、臨汝縣開國子に封じられ、食邑三百戸とされた。時に叛蠻の雷亂清が、蕭衍から州刺史の章綬を授けられ、侵攻してくるようになった諸蠻はこれに追従して、郡縣を設置した。子恭がこれを平定している。永熙年間中(532〜534)、吏部尚書として中央に呼び戻され、驃騎大將軍が加えられた。子恭が以前に挙げた豫州の戦功が評価され、襄城縣開國男が追賞され、食邑二百戸とされた。また、子恭の余功が論じられ、新城縣開國子に封じられ、食邑四百戸とされた。子恭は上表して、第五子の源文盛に譲る事を求めると、これが認められた。東魏の天平元年(534、中大通六年)、中書監に任命されている。天平三年(536、大同二年)、魏尹に任命され、また齊獻武王(高歡)の軍司とされた。元象元年(538、大同四年)、死去した。興和二年(540、大同六年)、都督徐二州諸軍事、驃騎大將軍、尚書左僕射、司空公、州刺史が追贈され、諡号を文獻とされた。


第九回更新

11

 子の源彪は、字を文宗と言った。子恭が存りし日、臨潁縣開國侯を転授された。武定八年(550、大寶元年)、太子洗馬に任命されている。

12

 源彪の弟の源文瑤は、武定年間中(543〜550)、襄城縣開國男を継承した。武定八年(550、大寶元年)の五月、北齊が受禪すると、爵は降された。

13

 子恭の弟の源纂は、字を靈秀と言った。員外散騎侍郎とされ、征虜將軍、通直散騎常侍、涼州大中正を歴任し、太府少卿に転じられた。建義元年(528、大通二年)、河陰で殺害された。享年三十七。散騎常侍、征北將軍、定州刺史が追贈されている。

14

 源懷の弟の源奐は、字を思周と言い、若くして謹密であった。中書學生として出仕する。父の敕勒の討伐に従い、斬獲の功を挙げ、中散に遷された。州鎮十余所を検察し、功績を挙げている。長樂太守に任命されたが、母の老を理由に官職を離れ、介護に当たった。子が無いままに死去した。


2011/11/06  終了。


『魏書』 源賀/子雍弟子恭 - 932〜937 -


第一回更新    開始 残り13段 全14段  2011/11/06
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第九回更新    終了


2011/11/06 終了。