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最終更新 2011/10/29



源 子雍







2011/10/29 開始

01

 源玄諒の弟の源子雍は、字を靈和と言った。若い頃から文雅を好み、向学心に篤く、推誠して士を待していたため、士の多くから慕われる事となった。祕書郎から太子舍人、涼州中正に任命された。延昌四年(515、天監十四年)の正月、元が即位すると、肅宗である、宮臣の例によって奉車都尉に転じられ、司徒屬に遷された。太中大夫、司徒司馬に転じられる。恒農太守に任命され、夏州刺史に遷された。


第二回更新

02

 正光四年(523、普通四年)の四月、沃野鎮の破落汗拔陵が首謀者となって叛乱を起こすと、至る所で蜂起した。その中の統萬の逆胡が、互いに連携した。正光五年(524、普通五年)の十月、子雍は城の守りを固めていたが、城中の兵糧が尽きてしまったため、馬の皮を煮て食を繋いだ。それでも、子雍が善く綏撫していたため、士心を得ており、人々は協力体制を取って、離貳する者は出なかった。飢饉が甚だしくなったため、自ら出て兵糧を調達してこようと、子の源延伯を留めて守りを預ける事にした。しかし僚属が皆な


 今、天下は分析され、寇賊が万重しております。四方の音信は、断絶せざる所はありません。俄頃の間に、変が意せずして起こっています。どうして父子が分張するのですか?未若城を棄てて共に去り、更なる規略を展してください。


と言った。この言葉に子雍は涙を浮かべ


 私は何代にも渡って國恩を荷っており、早くから藩寄を受けた。ここは我が死地であり、更に何をか求めんや!しかし、守禦して以来、歳月は浅からぬほどに経ってしまい、兵糧の乏しきに患わされており、これでは勝ちを得る事は出来ない。そこで、私が今、東州に向って、数か月分の食料を調達してくる。還ってきたらば、諸人と共に保全する事を為し得よう。


と言うと、遂に羸弱の兵を引き連れて、東夏州へと兵糧の調達に向かった。源延伯は將士と共に城外まで送り出すと、哭して拜辞し、三軍からも嗚咽が漏れた。子雍が行くこと数日、朔方の胡帥曹の阿各拔に追撃され、力戦及ばず捕えられてしまった。子雍は密かに人に書を持たせて発し、城中の文武官に


 大軍が近くいる。努力して囲守せよ。必ず諸人が苗裔に福流するのだ。


と伝えさせた。また、源延伯にも固守するよう命じた。子雍は囚執されたとは言え、以前から胡人から敬されていたため、胡人は民禮を以って子雍に対した。子雍は安危禍福の理を陳べ、阿各拔に降伏する事を勧めた。阿各拔はこれに従う事にしたが、実行に移す前に死去してしまった。そのため、阿各拔の弟の桑生が代わって部兵を総べると、遂に子雍に従って降服した。時に北海王の蕭が大行臺であったが、子雍は賊を滅する事が出来ると、詳細に陳べた。これを聞き入れたは、子雍に兵馬を与えて、先行させた。時に東夏州の境では反叛が起きて、至る所で屯結していた。これに対して子雍は、転戦しながら進んでいき、九旬の間に数十戦して、東夏州を平定した。そして、租粟を徴税して、統萬へと運び入れた。これによって、二夏は安定を取り戻した。


第三回更新

03

 蕭寶らが賊によって敗れると、賊帥の宿勤明達は息子の宿勤阿非に兵を与えて、更に侵攻させた。これによって、華州、白水が包囲されてしまい、關右は混乱に陥り、僅かな距離でも不通となってしまった。時に子雍はK城を平定したばかりだったが、遂に士馬や夏州の募義の民を率いて、家族を携えて席巻し、鼓行して南に向かった。賊帥の康維摩擁が羌胡を率いて鋸谷を守っていたが、棠橋を断ち落として、子雍はこれと干戈を交えて大破之すると、維摩を生け捕った。また、賊帥の契官斤が立て籠もる楊氏堡に攻め込み、これを破った。子雍が西夏から出ると、東へと向かっていき、転戦すること千里、ここに至って、朝廷は始めてその委問を得た。散騎常侍、使持節、假撫軍將軍、都督、兼行臺尚書に任命された。また、賊帥の單歩胡提が守る曲沃堡を攻め落としている。肅宗は璽書でこれを労勉した。子雍は白水郡で再び阿非軍を破ると、多くを斬獲した。侍中、尚書令、城陽王の蕭徽に詔が下され、潼關に赴いて慰労を宣旨した。中軍將軍、金紫光祿大夫、給事黄門侍郎に任命され、樂平縣開國公に封じられて、邑一千戸とされた。


第四回更新

04

 還洛したが、孝昌三年(527、大通元年)の三月、葛榮によって長らく信都が危機に晒されていたため、子雍に詔が下され、征北將軍の職務を仮され、北討都督に任命された。七月、相州刺史で安樂王の蕭鑒が、を拠点に反旗を翻したため、八月、子雍は都督の李神軌と共に、こちらを先に討伐するよう命じられた。子雍が湯陰に達した時、鑒は弟の蕭斌之に子雍軍に夜襲を掛けさせたが、子雍はこれを返り討ちにし、斌之は退却した。子雍はこの勝ちに乗じて進軍を続け、城を包囲するに至ると、裴衍、神軌らと共に鑒に攻撃を加え、これを平定した。これによって、陽平縣開國公に改封され、邑千五百戸を増され、鎮東將軍に進号した。遂に裴衍と共にを発して、榮の討伐に乗り出し、信都城を陥落させた。十一月、子雍は冀州刺史に任命され、余官はそのままとされた。子雍は冀州を守らず、上書して


 賊中は甚だ飢えており、略奪に明け暮れています。今、朝廷は十分に兵糧があり、兵卒は飽暖しております。壁を高く壘を深くし、鋒を争ってはなりません。彼方が戦を求めても得られず、略奪しても獲られなければ、数旬もせぬ内に、凶醜を制する事が出来ましょう。


と述べた。時に裴衍も上表して子雍に同行する事を求めていて、子雍に詔が下され、衍と共に速進するよう命じられた。しかし、子雍は重ねて上表して強く不可であると陳べると、衍だけを行かせる事を求めた。もしこれが叶わないのであれば、衍を留めるように求めた。同行すれば、旦夕に敗れてしまう、と陳べたが、聞き入れられる事は無く、遂に衍と共に進軍する事となった。陽平郡の東北の曲に至ると、榮が兵十万を率いて攻撃を仕掛けてきた。子雍は戦死した。享年四十。朝も野も痛惜した。車騎大將軍、儀同三司、雍州刺史が追贈され、公はそのままとされた。永安中(528〜530)、司空が重贈され、諡号を莊穆とされた。


2011/10/29  終了。


『魏書』 源賀/懷子子雍 - 929〜931 -


第一回更新    開始 残り03段 全04段  2011/10/29
第二回更新    更新 残り02段
第三回更新    更新 残り01段
第四回更新    終了


2011/10/29 終了。