ほーむへ 人物へ戻る    


最終更新 2011/04/10



  







2011/04/10 開始

01

 、字を彦寶と言い、新野の人である。幼い頃から聡明で学問に篤く、經史から百家に至るまで、目を通さなかったものは無かった。緯候や書や射、棋やや機巧は、いずれも一時の絶であった。その性格は夷簡で、特に林泉を愛した。十畝の宅を有していたが、山池と半々で居していた。蔬食に弊衣で、産業を治める事は無かった。ある時、舟に乗って田舍から帰った。舟には米百五十石が載せられていたが、ある人が三十石を運んでくれないかと頼んできたので、これを一緒に運んだ。しかし、いざ宅に至ると、頼んだ者が


 君が三十斛で、私が百五十石だな。


と言ったではないか。は黙然として何も言わず、その取るに任せた。隣人が盗みを犯したと誣告されると、その取り調べを一任された。事実でない事が分かると、はこれを矜れんだ。そこで、書を質草にして銭二万を用立てると、門生をその親に仕立てて、身柄を引き取りに向かわせた。隣人が保釈されると、にお礼を言いに向かった。これに


 私は天下の無辜を矜んだだけ。謝辞などいりませんよ。


と答えた。その行の多くは、この類のようであった。


第二回更新

02

 蕭衍、後の梁の高祖であるが、若い頃からと親交が厚く、衍はを推重していた。義軍が起こると、平西府記室參軍に任命されたが、は受け入れる事をしなかった。平生から人と関わる事は稀であり、河東の柳ツが交際を求めてきた時も、は拒否している。後に湘東王の蕭繹が荊州に赴任してくると、鎮西府記室參軍に任命されたが、就く事は無かった。普通年間中(520〜5526)、詔が下されて


 明振滞は、政事の第一とする所である。旌賢求士は、この急なるを切に望むを夢みる。新野のは止足栖退して、自ら却掃を事とし、經史や文藝は、多くが貫習する所である。潁川の承先は、その学は黄帝、老子に通じ、釋教も兼ね備えている。どちらも競わず営まず、枯槁に安じており、躁を鎮し俗を敦する事が出来よう。これを以って、を黄門侍郎に、承先を中書侍郎に任命する。州縣を勒(治)め時に敦遣を加え、こいねがうは志を屈して、鹽梅とならん事を。

とされたが、は病気と称して赴かなかった。


第三回更新

03

 晩年以後、釋教に深く傾倒するようになり、宅内に道場を建て、そこを禮懺して回り、六時に止む事は無かった。法華經を誦し、毎日一回行われた。夜中に忽然と一人の道人が現われた。自ら願公と称し、その容止は甚だ異なるものがあり、を上行先生と呼ぶと、香を授けて姿を消した。中大通四年(532)、昼寝をしていた時、急に飛び起きると


 願公が再び来られる。久しく住く事は出来ぬ。


と言った。顏色は変わらなかったが、言い終えると息を引き取っていた。享年七十八。室内にいた人は皆な


 上行先生は既に彌淨域で生を送られている。


と言う空中からの唱を聞いた。高祖はこの訃報を聞くと、詔を下して


 善を旌され行を表されるは、前王の敦くしたところである。新野のは、荊山の珠玉であり、江陵の杞梓であり、静かに南度を侯(待)ち、もとより名徳を有しながらも、独り苦節を貞し、孤(ひと)り素履を芳した。奄ちに運往されてしまわれて、懐を惻愴させた。貞節處士の諡号を贈って、以って高烈を顕彰せん。


と陳べた。が撰した『帝歴』二十卷、『易林』二十卷、『續伍端休江陵記』一卷、『晉朝雜事』五卷、『總抄』八十卷は、世に広まった。



 曼倩




第四回更新

01

 子の曼倩は、字を世華と言い、父のと同じく早くから令誉を集めていた。蕭繹が、後の世祖であるが、荊州に赴任した時、主簿に任命され、中録事に遷された。出てくるたびに、世祖はいつも目を送って、劉之


 荊南は誠に君子が多い。その美なるは田鳳(後漢)に帰し、その清なるは桓階(後漢)に属しているが、賞徳標奇は、未だこの子に及ばない。


と言った。この後、諮議參軍に転じられた。『喪服儀』、『文字體例』、『莊老義疏』、『注算經』及び『七曜歴術』を著し、他にも文章を作した。凡そ九十五卷がある。



 季才




第五回更新

01

 子の季才は、学行を有していた。承聖年間中(552〜554)、中書侍郎にまでなっている。江陵が陥落すると、隨例して入關した。


2011/04/10  終了。


『晉書』「處士」  子曼倩 孫季才 - 750〜752 -


第一回更新    開始 残り03段 全04段  2011/04/10
第二回更新    更新 残り02段
第三回更新    終了

第四回更新    曼倩  全01段  2011/04/10

第五回更新    季才  全01段  2011/04/10


2011/04/10 終了。