2012/01/22 開始
01
宇文述、字を伯通と言い、代郡は武川の人であり、本姓は破野頭と言った。鮮卑部の宇文俟豆歸の下にいたため、後に宇文氏に改めた。父の宇文盛は、北周にあって上柱國とされた。述は若い頃から驍鋭として知られ、便弓馬に巧みであった。年十一の時、相者が述に
「
公子よ、善く自愛されよ。されば、後に位は人臣を極めよう。
」
と言った。北周の武帝(宇文

)の治世(560〜578)、父の軍功により開府として官界入りする。述の性格は、恭謹にして沈密であったため、北周の大冢宰である宇文護は大いに目を掛け、領護として親信した。天和七年(572、陳の太建四年)の三月、武帝が護を誅殺し、建コと改元すると、親政を行うようになった。左宮伯として中央に呼ばれ、累遷して英果中大夫となり、博陵郡公を賜爵され、濮陽郡公に改封されている。
第二回更新
02
大象二年(580、太建十二年)の五月、前年の二月に太子の宇文闡に譲位して、天元皇帝と称した宣帝が崩御した。宣帝が譲位しても天元皇帝と称したため、譲位された闡は帝位を称し得ず、正陽宮と称していた。宣帝の崩御の翌日、喪を発した。闡とは靜帝である。この後に任命があり、楊堅が、後の隋の高祖とされる人物だが、丞相に任命された。六月、尉迥(尉遲迥)が相州で叛乱を起こすと、述は行軍總管に任命されて、歩兵騎兵の合わせて三千を与えられると、行軍元帥の韋孝ェに従った。軍が河陽に至ると、迥は部下の李儁に懷州を攻撃させた。述は別働隊として儁軍に攻撃を加えて、これを破った。八月、諸將と共に永橋の東に布陣していた尉惇(尉遲惇)に攻撃を仕掛けると、述は先鋒として惇軍に突撃した。惇軍を撃ち破ると、俘馘は甚だしい数に上った。

城に追い込まれた迥が自ら命を絶った事によって、この叛乱は平定された。この平定に至るまでの戦いで、多くの戦功を挙げた事によって、一足飛びに上柱國に任命され、褒國公に進爵し、

三千匹を賜された。
第三回更新
03
年が明けると、大定元年(581、太建十三年)と改めた。その翌月の二月、靜帝は楊堅に禪位した。隋の文帝である。開皇元年と改める。述は右衞大將軍に任命された。開皇八年(588、禎明二年)の十月、平陳の軍が起こされると、再び行軍總管に任命され、兵三万を与えられた。六合縣から渡河していた。同時に韓擒、賀若弼の両軍が丹陽に向かっていたため、述は石頭へと軍を進めて、その援護を為した。開皇九年(589、禎明三年)の正月、陳主を捕らえた。しかし、翌二月、蕭

、蕭巖が東呉の地に拠ると、兵を擁して抵抗に出た。述は行軍總管の元契、張默言らを指揮下に置いて、この討伐に向かうべく、水陸から進軍した。落叢公の燕榮が舟師を率いて海から至ると、述の節度を受けた。文帝は詔を下して
「
公は大業に鴻勳を示し、名は高く望は重くなった。その奉國の誠は、久しく悉く知るところである。金陵の寇は、既已に清蕩されるも、呉、會の地は、東路に遙かであり、蕭巖、蕭

が、共にそこに拠している。公は將を率いて戎旅し、彼方を撫慰し、國威を振揚して、朝化を宣布されよ。公の明略を以って、勝ちに乘じて往けば、風行電掃、自と稽服させられよう。しかし、干戈を用いずして、黎庶(人民)から安を獲られるのであれば、それはまさに朕の懷に副うところであり、公の力である。
」
と陳べた。陳の永新侯であった陳君範は、晉陵から蕭

の下へと合流した。これによって、

軍は勢いを増した。しかし、述軍の接近を目の当たりにすると、

は恐怖心が勝り、晉陵城の東に柵を設けて、また、塘道を絶って、兵を配して述軍に備えさせた。そして、

は義興から太湖へと入ると、述軍の背後に回り込もうと図った。述は軍を進めて柵を撃ち破ると、ここで反転して背後を突こうとしていた

軍を強襲し、これを大いに敗った。この戦いで、

の司馬であった曹勒叉の首級を挙げている。この時、前軍が呉州を陥落させていたため、

は敗残兵を集めると、包山に立て籠もった。しかし、榮の攻撃を受け、敗れている。述が奉公

まで軍を進めると、巖は陳君範と共に會稽を明け渡して、降服する事を願い出た。述はこれを聞き入れた。二人は面縛して路の左で、述を向かえた。これにより、呉は全て平定された。この功を以って一子が開府儀同三司に任命され、物三千段を賜されると、安州總管に任命された。
第四回更新
04
開皇二十年(600)の六月、晉王の楊廣が揚州總管として赴鎮すると、以前より述を甚だ評価していたため、述を自分の近くに置こうと、壽州刺史總管とするよう上奏した。王は時に奪宗の志を抱き始めており、述にそのための計を求めた。これに述は
「
皇太子(楊勇)は失愛して已に久しく、そのコは天下に及んでいません。大王(楊廣)の仁孝は著称であり、その才能は世を蓋い、幾度と無く將領を率いて、深う大功を挙げられました。主上の内宮に与するは、咸(皆)な鍾愛する所であり、四海の望は、実に大王に帰しています。しかし、廃立は國家の大事であり、人の父子骨肉の間の話であるため、誠に易き謀ではありません。主上(文帝)の考えを移す事が出来るのは、唯だ楊素だけです。その素の謀を為すのは、唯だその弟の約のみです。この述、以前より約を知っております。そこで請京師に朝して、約と対面を果たし、共に廃立を謀って参りましょう。
」
と答えた。楊廣は大いにスび、多くの金宝を与えて、述の入關の資金に当てさせた。述は何度も楊約を招いては、盛大に器玩を並べ、共に酒宴を楽しんだ。その席上、博が供された。しかし、述は片八百長をして勝とうとせず、廣から与えられた金宝を、全て約の手に渡るようにした。約は大金を獲得したため、申し訳無さを感じて述に謝した。すると述は
「
これは晉王からの賜り物。述をして公と歓楽を為すようにとの事でな。
」
と言った。これに楊約は大いに驚き
「
何の理由でか?
」
と問うた。述は楊廣の考えを伝えた。約はこの話を然りとし、退いて兄の楊素に伝えた。素もこれに同意した。これによって、素は述と謀事を共にする事となる。廣は述と更に親密になり、述の子の宇文士及に南陽公主を降嫁させ、前後の賞賜は計り切れない程であった。十一月、廣が皇太子に立てられると、十二月、述は左衞率に任命された。旧令では、率官は第四品であったが、述が素より貴であった事を考慮して、遂に率品を第三に上げる事とした。その重され方は、このようであった。
第五回更新
05
仁壽四年(604)の七月、文帝が急死した事により、晉王の楊廣が後継に立った。煬帝である。述は左衞大將軍に任命され、許國公に改封された。大業三年(607)、開府儀同三司が加えられ、冬の正朝會では、鼓吹一部が給された。大業四年(608)の七月、楡林への行幸に従った時、鐵勒の契弊歌稜が吐谷渾を撃ち破ると、吐谷渾の部は散り散りに逃亡して行ったため、遂に使者を派遣して降服を願い出た。これを受けて煬帝は、述に兵を与えて、西平の臨羌城に駐屯させ、降服を受け入れて撫納させようとした。しかし、吐谷渾は述が強兵を率いてきたのを見ると、恐れおののいて、降服せずに西へと遁走していった。述は鷹揚郎將の梁元禮、張峻、崔師を引き連れて追撃を掛け、曼頭城に至った所で追いつき、首級三千を挙げる勝利を収めた。この勝ちに乗じて赤水城まで進軍して、ここも撃ち破った。残党が丘尼川で体勢を整えたが、述はここも大いに撃ち破った。王公、尚書、將軍二百人を生け捕りにし、男女四千口を捕虜として帰還した。吐谷渾の主は南の雪山へと落ち延び、その故地は領主のいない情況になった。煬帝は大いにスんだ。大業五年(609)の六月、帝の西幸に従い、金山を巡る時や、燕支山に登る時などは、述がいつも斥候役を買っていた。時に吐谷渾が再び張掖に侵攻してきたため、これを追い払っている。江都宮に帰還すると、述を蘇威と共に選舉を任させ、朝政に参与させた。
第六回更新
06
述は時に貴にして重であり、蘇威らと共に任を委ねられていた。だが、その親愛の度はこれらを凌いでいた。煬帝は遠方から貢献や四時(四季)の口味を得えると、それらを賜したため、中使は道に長い列を作った。述は供奉、俯仰や折旋、容止や便辟を善くし、宿衞の者は皆なその指示を聞いた。また巧思を有していて、裝飾した所は、いずれも出人の意表を突く物が多かった。幾度と無く奇服や異物を宮掖を献上したため、煬帝はますますスんだ。時に述は貴倖となっていたため、言すれば全てその通りとなっていた。その権勢は朝廷を左右するほどとなっていた。左衞將軍の張瑾は述と共に官に連なっていたが、ある時に評議があり、たまたま述の意にそぐわない事を言ってしまった。これに述は目を張って、瑾を叱責した。瑾は惶懼のあまり議場から逃げ出してしまった事があった。これ以降、文武官や百僚から敢えて違忤する者はいなくなった。述の貪鄙な性質であり、知人が珍異の物を所有していると、必ずこれを寄こすよう求めるのであった。富商や大賈、隴右の諸胡の子弟に対しては、述は恩意を以って接して、これらを兒(児)と呼んだ。これによって、競うようにして贈答品が贈られるようになり、金宝はうず高く積まれるまでになった。後庭で羅綺を曳く者が数百、家僮は千余人を数え、そのいずれもが良馬を有し、服には金玉があしらわれていた。述の寵遇は、時に比べる者の無きほどであった。
第七回更新
07
大業八年(612)、高麗遠征軍が起こされると、述は扶餘道の軍將とされた。出発に際して、煬帝が述に
「
『禮』では、七十なる者が行役する時は、婦人を以って從わすとある。公であれば、家累を以って隨わすのが妥当であろう。古えから婦人は軍に入れずと言われるが、それは臨戦の時のみである。營壘の間は傷する所ではない。項籍と虞姫が、即ちその故事である。
」
と言った。六月、述は九軍と鴨告の西で合流したが、兵糧が尽きてしまったために、ここで軍を返すか議を起こした。諸將の間でも意見が分かれ、また、述も煬帝の意思を測れなかった。時に高麗から乙支文コが、述の營へと派遣されてきた。述は于仲文と共に密旨を奉じており、文コを誘き寄せて捕らえようとしたが、緩縱していたために、文コが逃帰するを許してしまった。述は内心で不安に陥り、そのため、諸將と共に鴨告を渡って行方を捜した。この時、文コは述軍に飢色が広がっているのを見逃さなかった。そこで、更に述軍の兵を疲弊させるために、戦闘のたびに負けたように見せかけて、退却を繰り返した。これに気づかず、述はこの一日で七回も戦い、その全てで勝利を挙げたと思ってしまった。そして、連勝に乗じて、また、内部からの群議に押されて、更なる進軍が決定されると、東の薩水を渡って、平壤城を去ること三十里、山に拠って營を築いた。文コが再び使者を派遣して、降服を申し出て、偽計であるが、述に
「
もし軍を引き返してくださるのであれば、高元(高句麗王)を奉じて行在所に朝しましょう。
」
と言った。述は士卒の疲弊の度合いが、もはや戦うに能たわないと見て、また、平壤城が嶮固にあり、今の情況では落とすのは無理と判断して、遂に軍を返した。七月、述軍が薩水を開始し、その半分が渡った時である。高麗軍が後ろから軍に奇襲を掛けられ、大混乱に陥り、収拾する事が出来なかった。これによって九軍は大打撃を受け、一昼夜の強行軍で鴨告まで戻ってきた。四百五十里の行程であった。遼水を渡河した九軍は、兵三十万五千であったが、今、遼東城に無事に帰還できたのは、たったの二千七百人であった。この結果に煬帝は激怒し、述らを属吏に降格した。九月、東都に至ると、十一月、更に除名されて民に降された。
第八回更新
08
翌年の大業九年(613)の二月、煬帝は遼東で事を構えようと、復述の官爵を復帰させ、以前と変わり無い待遇をした。四月、遼東遠征に従うと、將軍の楊義臣と共に兵を率いると、再び鴨告に臨んだ。六月、楊玄感が叛乱を起こした。そのため、煬帝は述軍を呼び戻すと、馳驛して河陽に赴かせて、諸郡兵を発して玄感の討伐に当たらせた。時に玄感は東都に接近していたが、七月、述軍が動き出したと知ると、これを恐れて西へと逃れ、關中を図ろうと考えた。述は刑部尚書の衞玄、左禦衞將軍の來護兒、武衞將軍の屈突通と共に、玄感軍の後を追った。

郷の皇天原に至った所で、玄感軍に追いついた。八月、述は護兒と共に前鋒として当たり、通が奇兵を率いて、その背後から急襲した。この攻撃で玄感軍を大いに撃ち破って、遂に玄感の首級を挙げると、その首級は行在所へと送られた。これによる賜物は、数千段に及んだ。大業十年(614)の三月、東征に従ったが、七月、懷遠に至ったが、八月、軍は返された。
第九回更新
09
大業十一年(615)の八月、突厥に雁門を包囲されると、煬帝は恐れおののいた。述は包囲陣を突破して、脱出を試みるよう求めた。しかし、樊子蓋が強く不可であると諫めたため、煬帝はこれを却下した。九月、突厥が包囲を解いて去ったため、車駕は太原まで引き返せた。議者の多くが、煬帝に京師に帰還するよう求めたが、煬帝は難色を示した。ここで述が上奏して
「
從官の妻子の多くは東都に在ります。ここは洛陽に向かうべきでしょう。潼關から入るのがよいかと思います。
」
と陳べると、煬帝はこれに従った。十月、東都に到着した。大業十二年(616)の七月、述は煬帝の意を察知して、江都に行幸するよう勧めた。煬帝は大いいにスんだ。
第十回更新
10
述は江都で病気を発してしまった。中使が相継いで見舞いに訪れ、煬帝も自ら見舞いに赴こうとしたが、群臣は強く諫いめたため、これを中止した。そのため、司宮の魏氏を派遣して述に
「
必ず不諱は起こる。何か言い残したい事は無いか?
」
と問わせた。述には宇文化及、宇文智及の二子がいたが、時に二人とも罪を得て、謹慎の身となっていた。そこで述は上奏して
「
化及はこの述の長子であり、早に藩邸に預けました。願わくは陛下、これに哀憐をお加えくださいませ。
」
と伝えた。煬帝はこれを見て、

然して
「
我、忘れじ。
」
と言った。十月、薨した。煬帝は述のために廃朝した。司徒、尚書令、十郡太守が追贈され、班劍四十人、


車、前後部鼓吹が贈られ、諡号を恭とされた。煬帝は黄門侍郎の裴矩に太牢を祭させ、鴻臚監に喪事を取り仕切らせた。
2012/01/22 終了。
『隋書』 宇文述 -1463〜1467 -
第一回更新 開始 残り09段 全10段 2012/01/22
第二回更新 更新 残り08段
第三回更新 更新 残り07段
第四回更新 更新 残り06段
第五回更新 更新 残り05段
第六回更新 更新 残り04段
第七回更新 更新 残り03段
第八回更新 更新 残り02段
第九回更新 更新 残り01段
第十回更新 終了
2012/01/22 終了。