2013/04/09 開始
01
張説、字を道濟と言った。その祖先は范陽の人で、河東に何代にも渡って居を構えていたが、何代か前に河南の洛陽に移住してきていた。弱冠に詔挙に応じ、對策で乙第となると、太子校書に任命された。いくつかを経て右補闕に転じられると、『三教珠英』の編纂に携わる事となった。
第二回更新〜第六回更新
02
久視元年(700)、則天武后が三陽宮へ夏四月に幸したまま、秋になっても都に戻ってこなかった。これを説が上疏して
「
陛下は万乗を屯(連)ねて、離宮へ幸されましたが、暑さの退(去)りて涼の帰したるに、未だ還旨を降されておりません。愚臣は固陋なれども、これの良策に非ざるを恐れております。陛下の為にその可ならざるを陳べさせていただきます。
03
三陽宮は洛城を去ること一百六十里、伊水の隔、

坂の峻を有しておりますれば、夏を過ぎて秋に渉(及)ぶと、水潦(大雨)が降り続くようになり、道は壊れ山は険しさを増して、通行は難しくなり、河の幅も梁が渡せないほどになり、咫尺の距離も千里に変わってしまいます。扈従や兵馬は、毎日資給を費やしますが、連雨が数旬に及びますと、行き渡らせるのも難しくなるでしょう。陛下の太倉も武庫も、共に都邑にあり、そこには紅粟も利器も、山丘の如く積まれております。であれば、宗廟の上都を去られ、山谷の僻処で安んじられるでしょうか?これは倒持劍戟であり、人に

柄を示しているようなものです。この説、陛下の為に取りはしませんが。そも禍変の生ずるは、人が忽せにした所であり、故に言うのです。「安樂必誡,無行所悔(安樂するに必ず誡むれば、行いて悔むる所の無し)。」と。これが止(留)まるべからざる理のその一です。
04
告成は褊小ながら、万方から物が輻湊されたため、城を填め郭から溢れてしまい、

を併(並)べる所も無いほどです。そのため、居人は排斥されてしまい、蓬や草で急ごしらえの家と呼べないような家に宿っております。そのため、風雨が暴(俄)かに至れば、身を庇い託する所も分からない状況です。それでもまだましな方で、孤

(独り身)や老病の者は、衢巷を流転するしかないのです。陛下は人民の父母であり、これをどうなさいますか?これが止(留)まるべからざる理のその二です。
05
池も亭も奇巧を凝らして、上心を誘うべく、巒を削って觀を起(建)て、流れを

(塞)いで海を漲(溢)れさせ、俯しては地脈を貫き、仰いでは雲路に出でさせたため、山川の気を易(変)え、農桑の土を奪ってしまいました。木や石を延(広)げ、斧斤を運ぶために、山谷には声が連らなり、春も夏も輟(止)む事はありませんでした。勸陛下にこれを作すよう勧めた者は、どうして正人と言えるでしょうか?『詩』に言います。「人亦勞止,

可小康(人も亦た勞止せり,

(今)にも小康させるべし)。」と。これが止(留)まるべからざる理のその三です。
06
御苑は東西に二十里、出入や往来する所であるため、人が甚だごった返しているのにもかかわらず、外に対して牆垣も

扉もありません。その内には榛叢や谿谷が有り、猛獣が伏す場所に十分であり、暴慝のままに居ついてしまいました。陛下はともすれば軽装で外に出られ、その時には警蹕も厳重にはしておりません。そして、草木の蒙密な場所に入り込み、嶮

に乗り出されていると聞いております。それでは、突然に逸獣や狂夫が現れた場合、左右の側近も驚き途惑ってしまいかねません。これが、殆(危)うくないと言えるでしょうか!たとい万全で疑い無しであったとしても、しかし、人主の行動は、軽はずみに為されてはいけません。『易』に言います。「思患預防(患を思いて預め防ぐ)。」願わくは陛下、万姓の為に慎重な行動をされますように。これが止(留)まるべからざる理のその四です。
07
今、國家の北では胡寇が邊(國境)を

(窺)っており、南では夷

が徼(國境)を騷がさんとしております。關西では、ここ最近、日照りが続いており、このままでは耕稼に影響が出かねません。安東は平じられたばかりで、まだ輸漕も始まろうとしている段階です。この説の願わくは、陛下が時の旋軫するに及べば、深く上京に居されて、人を息(憩)わせて以て農を展(広)げ、徳を修めて以って遠より来たらせ、不急の役を罷め、無用の費を省かれる事です。心を澄ませ懐を澹(安)んじ、億万年を惟(思)われれば、蒼蒼たる群生(人民)は、不その幸の甚だ為らざる事は無いでしょう。この説、芻議を何度と無くしてまいりましたが、十に一つも聞き入れられる事はありませんでした。何故でしょうか?盤遊の娯によって沮まれ、林沚の玩によって間(省)かれた為です。遠図を規(謀)るも近適の為に替(捨)てられ、後の利を要(求)めんとしても前歓によって棄てられてしまい、未だ明主の心に沃(注)がれておらず、これは貴臣の意に戻(背)いていると言わざるを得ません。この説の血誠からの密奏は、死を惜しむところに非ざず。陛下よりの言責の職に負(背)くを願わざる為に他なりません。軽々に天威を觸(犯)したのですから、地に伏して罪も待ちます。
」
と諫めたが、疏奏は省みられる事は無かった。
第七回更新
08
大足元年(701)と改元した同年中の十月、長安元年と改められた。この頃、『三教珠英』の編纂が終わっている。この終了に伴い、右史、内供奉に遷され、知考功貢舉事を兼任し、鳳閣舍人に抜擢された。長安三年(703)の九月、麟臺監の張易之が弟の張昌宗と共に、御史大夫の魏元忠の追い落としを画策し、元忠に謀反の疑いありと則天武后に告げた。説に証言するよう、昌宗は手はずを整えた。その説が御前に至ると、元忠に謀反の事実は無く、これは全て易之が誣構しようとした事であると、はっきりと言い切った。元忠はこれによって、誅殺こそ免じられた。説はこの忤旨に連座して、欽州へと左遷されてしまった。嶺外に置かれること一年余り、神龍元年(705)の正月、中宗(李顯)が復位して、國号が周から唐に戻された。中宗は、弘道元年(683)、高宗の死を受けて即位したが、翌年の嗣聖元年(684)に則天武后に廃位されていた。この交代によって、兵部員外郎として中央に呼び戻される事となり、工部侍郎へと転じられていった。景龍年間中(707〜710)、母の死去に伴い、喪に服するために職を辞した。黄門侍郎に任命されたが、まだ服喪中であったため、何度も上表して固辞した。その言が甚だ切至であったため、優詔によってこれが許された。この時、風教は頽紊していおり、多くがこの起復を受けて栄と為っていたが、説は節を固くして辞を懇願し、遂に喪制を終えたため、識者から大いに称賛された。喪が明けると、工部侍郎として官職に復帰し、時を置かずして兵部侍郎に任命され、弘文館學士が加えられた。
第八回更新
09
唐隆元年(710)の六月、李旦が即位した。睿宗である。中書侍郎に遷され、雍州長史を兼任した。秋七月、景雲元年と改められた。

王の李重福が東都で叛乱を起こしたが、八月、その叛乱は失敗し、自ら命を絶った。その枝党の数百人を捕縛した東都留守は、結構の状の訊問に掛かった。しかし、時間が経過するだけで、判決にまで至らなかった。そこで睿宗は、説に按獄へと赴かせ、取り調べに当たらせた。一夜にして、重福の謀主であった張靈均、鄭

らを捕縛したばかりか、その情状を尽く吐かせた。その他の誤って捕縛された者は、その一切を釈放した。睿宗はこの労を労って
「
卿が此度の獄を取り調べてくれたおかげで、不良善を枉する事無く、また、罪人を逃す事も無く終えられた。卿が忠正に非らざれば、どうしてこのような事が出来たであろうか?
」
と言った。
第九回更新
10
李隆基が六月に太子に立てられたが、後の玄宗であるが、説は國子司業の

無量と共に侍讀に任命されたため、隆基から深く親敬されるようになった。景雲二年(711)の正月、同中書門下平章事に任命されると、國史の監修を命じられた。二月、睿宗は侍臣に
「
術者から上言があったのだが、五日の内に急兵が宮に侵入してくるとの事だ。卿ら、朕の為にこれに備えよ。
」
と言った。左右の側近は顔を見合わせるばかりで、答えられずにいた。その中にあって、説は進み出ると
「
それは讒人が設けた計で、東宮を動揺させようとしているのでしょう。陛下、太子をして監國に当たらしむれば、則ち君臣の分は定まり、自然と窺覦の路は絶たれるはずです。災難が生じようはずもありません。
」
と陳べた。睿宗は大いにスび、即日に制が下され、太子の李隆基は監國に任じられた。翌年の延和元年(712)の八月、皇太子が帝位に即くのに尽力した。先天元年と改元される。時を置かずして、太平公主のお引きによって、蕭至忠、崔Gが宰相とされた。その逆に、説は尚書左丞に転じられ、知政事を罷免され、東都留司として赴任するよう太平公主が画策した。説が太平公主に付かなかったためである。説は、以前から、太平公主らが密かに異計を巡らせている事を察知していた。そのため、佩刀を玄宗に献上した際、機先を制してこれを討伐すべしと進言すると、玄宗は深く嘉納した。先天二年(713)の七月、至忠らが誅殺されると、説は中書令に任命され、燕國公に封じられると、実封二百戸を賜された。十二月、開元元年と改元されると、官名の改称が行われ、中書令は紫微令に改められた。
第十回更新
11
則天武后の末年以来、季冬(十二月)には

寒胡戲が行われるようになり、中宗は御樓からこれを観覧していた。ここに至って、蕃夷が入朝して来た事により、この戲が行われた。説は上疏して
「
この説の聞きましたところでは、韓宣(春秋・晉、韓起)が魯に適(赴)いた時、周禮を見て歎いたと言います。孔子が齊に會(赴)くと、倡優の罪を数え上げ責めたと言います。列國でこの如くなれば、況んや天朝をや。今、外蕃が和を請うために、使を選んで朝謁して来たのですぞ。望まれるのは、接するに禮樂を以ってし、示すに兵威を以ってする事ではないでしょうか。戎夷と言いましても、軽易すべきではありません。駒支(春秋)の辯、由余の賢なるはお知りになられてますよね?そもそも、

寒胡は未だその典故を聞いた事は無く、裸体で跳足する姿など、盛徳の者がどうして観るに堪えられましょうか。水を揮って泥を投げるなど、その失容さは甚だなものです。法は魯禮の殊(異)なり、褻なるは齊優に比すもので、干羽による柔遠の義に、樽俎による折衝の禮に非らざる事を恐れております。
」
と諫めた。これによって、この戲は途絶える事となった。
第十一回更新
12
紫微令に改称されたこの十二月、姚崇が紫微令を兼任する事となった。その崇が説の追い落としを画策し、これによって説は相州刺史に左遷され、河北道按察使に充てられた。しかし、またも事に連座して岳州刺史に更に転じられ、食実封三百戸が停止された。その後、右羽林將軍に遷され、檢校幽州都督を兼任した。開元七年(719)、檢校并州大都督府長史に任命され、天兵軍大使を兼任し、御史大夫を摂行した。十二月、國史を兼修する事となり、史本隨軍修撰を持って赴任した。開元八年(720)の秋、朔方大使の王ラが、河曲の降虜の阿布思ら千余人を皆殺しにした。この時、并州の大同、野軍には、九姓や同羅、拔曳固などの部落がいたが、これを聞くと皆な震撼した。そのため説が軽騎兵二十騎を引き連れ、旌節を持ってそれら部落を直接に訪れ、その帳下に宿して生殺を預けると、酋帥を集めて慰撫した。副使の李憲は、この説の行動に対して
「
夷虜は信の置けない連中であり、不測の事態の起こりかねない場に、軽々しく出てはなりません。
」
と言う内容の諫文を、早馬に持たせた。説はこの書に対して
「
我が肉は黄羊のでもあるまいし、喫(食)われる心配などする必要は無い。我が血は野馬のでもあるまいし、刺して飲むような事もするわけが無かろう。『士見危致命(士は危うきを見れば命を致す)』と言うではないか。今こそ我が効死の秋(時)に他ならんのだ。
」
と返して、聞き入れる事は無かった。この説の行動によって、九姓はその義に感じて、安心を取り戻したのであった。
第十二回更新
13
開元九年(721)の四月、胡賊の康待賓が降戸を誘引して反旗を翻して、長泉縣に拠点を構え、葉護を自称すると、蘭池など六州に攻め込み、次々と陥落させていった。王ラに詔が下され、兵を率いて討伐が命じられた。説は経略を任された。叛胡は密かに党項と連結して、銀城、連谷に攻め込んで、その倉糧を占拠した。これに対して説は、騎兵と歩兵の合わせて一万を率いると、合河關から出撃して奇襲を仕掛けると、大いに撃ち破った。駱駝堰まで追撃し続けると、叛胡と党項が不和を起こして相殺を始めた。夜の暗きに紛れて、叛胡は西へと遁走し、鐵建山へと逃げ込んだ。主力部隊以外の余党は、散り散りになって逃げ去った。説は党項を呼び寄せると、その生業に復帰させる事を約束した。副使の史獻(阿史那獻)は、関わった党項を誅殺して、その翻動の計を絶つよう求めたが、これに説は
「
先王の道は、『推亡固存(亡は推して存は固くす)』である。これを尽く誅するような事は、天道に逆する事となろうぞ。
」
と言って、聞き入れなかった。そして、麟州を設けて以って党項の余燼を安置するよう上奏した。九月、兵部尚書、同中書門下三品に任命され、旧に依って國史を修した。
第十三回更新
14
年が明けて、開元十年(722)の四月、説は朔方軍節度大使に任命されると、閏五月、五城を巡察すると、兵馬を処置した。八月、康待賓の余党、慶州は方渠縣の降胡である康願子が自立して可汗を自称すると、兵を挙げて叛乱を起こした。そして、監牧から馬を略奪せんと謀り、西の河を渡って塞を出た。説は軍を進めて討擒に乗り出した。その家属を木盤山で捕らえると、都へと護送した。皆な斬首されている。これによって党は全て平じられ、男女の合わせて三千余人を組み入れた。ここで、河曲六州にいた残胡の五万余口を許、汝、唐、ケ、仙、豫州に移住させた。これによって、河南、朔方の千里の地は空になった。説はこの討賊の功によって、再び実封二百戸を賜された。これに先立って、縁辺の鎮兵は六十余万が常設されていた事に対して、説は
「
今の時に強寇は無く、師衆が出る機会は無くなってきており、二十余万を軍から解いて、帰農させるべきではないでしょうか。
」
と説いた。玄宗が疑問を呈すると、これに説は
「
この説、久しく疆

におり、辺事については詳しくなっております。軍將は自衛と雑使によって、私益を得る事しか考えておりません。敵を禦して勝を制する事を考えましても、多くを擁していても無駄であるばかりか、妨農務の妨げにもなります。陛下がもし疑われるのであれば、この説、闔門の百口を以って保つ事に致します。陛下の明なるを以って、四夷を畏伏させており、兵を減じた事により、寇を招くような事を慮る必要はありません。
」
と答えた。玄宗はこれに従った。
第十四回更新
15
時に当番の衞士が、次第に貧弱になり、逃亡して殆どいなくなってしまった。そこで説はまた建策して
「
今いる一切を罷免して、新たに強壯の者を募集して、宿衛に当たらせるべきです。色役を怠らない者には、その為に条例を制定すれば、逋逃した者は必ずや争って募に応じるでしょう。
」
と陳べると、玄宗はこれに従った。旬日もすると、精兵十三万人が集まった。これを諸衛に配分して、交替で任に就かせた事により、京師にも十分な数が確保された。後の

騎に繋がるものである。
第十五回更新
16
十二月、玄宗が還京の際に、并州に幸しようとした。すると、説が進み出て
「
太原は國家王業の起こりし所であり、陛下が行幸されるとなると、威を振い武を耀かす事となりますが、これに併せまして碑を建てて徳を紀(記)す事によりまして、以って永思の意を申すべきではないでしょうか。また、入京されるとの事ですが、そうなると路は河東を経由される事となりますが、漢武が

上に建てた后土の祀があるのですが、ここでの禮が久しく闕(疎)かにされており、何代にも渡っても行えておりません。願わくは、陛下がこの墜(廃)れし典を紹(継)いで、以って三農(農民)の為に穀を祈らん事を。さすれば、これは誠に万姓の福となりましょう。
」
と陳べた。玄宗はこれに従った。祀后土での禮を畢えると、開元十一年(723)の二月、説は張嘉貞に代わって中書令に任命された。夏四月、玄宗は自ら詔を為して
「
動きはこれ直道であり、累(重)ねて献替の誠を聞くところである。言は則ち諛わず、自と謀猷の体を得ている。政令を為さんとすれば必ずその搗ケを俟(待)ち、図書も又たその刊削に藉(頼)るところであり、才も望も兼ねて著しく、理は合(当)に褒升すべきである。中上に考する。
」
と陳べた。
第十六回更新
17
開元十二年(724)の閏十一月、説は今度は先頭に立って封禪の議を建てた。開元十三年(725)、説に詔が下されて、右散騎常侍の徐堅、太常少卿の韋

と共に『東封儀注』を撰する事となった。旧儀で現在に合わないものは、説がその多くを裁正している。これは、「禮志」にて語られている。四月、玄宗は説を初めとした禮官、學士を集仙殿に集め、酒宴を催した。その席にあって、玄宗は説に
「
今、卿ら賢才とこの宴を同じゅうしている。ここに名を改めて、集賢殿とする。
」
と言うと、制を下して麗正書院を集賢殿書院に改め、説に集賢院學士を授けて、知院事とした。
第十七回更新
18
十月、東封を行う事が決定されると、説は右丞相兼中書令に、源乾曜は左丞相兼侍中に任命されると、岱宗(泰山)に勒成して、以って宰相が王化を佐(助)け成した事を明らかにしようと考えた。説は、また、「封禪壇頌」を撰して以って聖徳を紀した。乾曜は、本意では封禪を求めていなかった。その逆に、説が封禪を強く勧めていたため、これによって二人は相容れない関係になっていった。十一月、玄宗は泰山に登ると、説は親しいところの供奉官や主事を連れて従った。加階されて五品に超入している。その他の官の多くは、加階されなかった。また、随行した兵士も、ただ勲が加えられただけで、賜物をえる事は無かった。これによって、内外から頗る怨みを買うところとなった。これに先立って、御史中丞の宇文融が献策して、天下の逃戸、籍外の剩田を取り締まるべく、十道に勸農使を設置して、検察に分往させる事を求めた事があった。説はその人を擾(安)んずるのに適当ではないとして、何度か建議してこれに反対していた。十二月、東封から帰還すると、融は再び密奏して、吏部を分けて十銓を置く事を求めた。これにより融は、禮部尚書の蘇

らと共に選事を分掌する事となった。融らの奏請は、その全てが説によって抑えられたため、銓綜は混乱を来たした。開元十四年(726)の四月、融は御史大夫の崔隱甫、中丞の李林甫と共に、説が術士を引き入れ占わせたこと、及び贓を受けたと弾劾する上奏をした。これを受けて、宰臣の源乾曜、刑部尚書の韋抗、大理少卿の胡珪、御史大夫の崔隱甫に命が下され、尚書省に入って鞫問に当たる事となった。説の兄で左庶子の張光は、朝堂を詣でると耳を割いて、冤罪であると訴えた。時に中書主事の張觀、左衞長史の范堯臣は、共に説の権勢を頼みとしていた事から、賄賂を渡しただろう、と鎌を掛けられた。また、私度僧の王慶則は、説の下を行き来していた事から、説の為に吉凶を占卜していただろう、と鎌を掛けられた。この隱甫による鞫問によって、いずれもその事実を認めた。二晩後、玄宗は中官の高力士に、説の情況を確認に行かせた。力士は戻ってくると
「
説は草上に座して、瓦器にて食事を取っておりました。蓬首に垢面であり、自ら罰し憂懼すること甚だの様子でした。
」
と報告した。玄宗はこれを聞いて憫れんだ。高力士は続けて
「
説はかつて侍讀にありましたし、また國に対して功を挙げてもおります。
」
と陳べると、玄宗はその通りと思い、兼務していた中書令を停止するに止どめた。張觀と王慶則は杖刑に処され、結果、死亡した。連座によって遷貶された者は、十余人に上った。崔隱甫を始め宇文融らは、説が更に自分たちの患いとなる事を恐れて、再び密奏して排除を図り続けた。開元十五年(727)の二月、説の致仕を認める詔が下され、家にて史を修めるようにとされた。
第十八回更新
19
説が宰相だった時、玄宗は吐蕃討伐に意欲を見せたが、説は密奏して、逆に吐蕃と通和する事によって、辺境を安息にする事を求めたが、玄宗に聞き入れられなかった。しかし、九月、瓜州が守りを失い、閏九月、王君

が戦死した。説は

州で闘羊を捕獲すると、上表と共にこれを献上して、諷諭を陳べた。上表の内容は
「
この説の聞きましたところでは、勇士が

を冠し、武夫が

を戴き、情を推して類を挙げて、この闘羊を捕らえたとの事です。遠く越

に生息するため、その蓄性は剛(剛強)にして決(勇敢)です。敵が強かろうとも避ける事をせず、戦うに死を顧る事をせず、微物を相手にしようとも、その志(本性)を挫(無)くす事はありません。伏して惟んみるは、陛下が良家を六郡から選び、猛士を四方に求める事です。鳥は才を遁(隠)さず、獣は伎(技)を藏さないものです。効の奇なる霊圃に蒙り、力を天場にて角(競)うが如く、却(退)いては鼓怒して以って氣(勇)を作し、前しては躑躅して以って撃を奮うのです。

するに奔雲の交触するが若く、碎するに転石の相い叩くが如く、骨を裂いて勝を賭け、血を濺(散)らして雄を争い、敢(勇敢)にして毅(剛毅)なりて、見れば冠を衝(突)き合わせ、鷙(凶猛)にして狠(残忍)なれば、聞けば節を撃ち合せます。冀います事は、明主が駿骨を市(商)い、怒蛙の意を揖する事です。もし仮に羊が言する能えば、必ずや言う事でしょう。『闘いて解けざれば、立ちて死す者の有り』と。頼りとする所は、至仁が残(悪)を無くし、力を量りて勧を取る事です。この説、足を損しており、未だ履に堪えられざれば、謹んで男を遣りて金明門を詣でさせ奉進させる所です。
」
と言うものであった。玄宗は深くその意を悟り、絹と雜綵一千匹を下賜した。
第十九回更新
20
開元十七年(729)、再び尚書左丞相、集賢院學士に任命されると、程無くして源乾曜に代わって尚書左丞相とされた。視事の日、玄宗は所司に供帳と、音樂を設けるよう命が下された。宮中には酒食が設けられ、御製詩一篇を以ってこの事が叙された。『謁陵儀』に注した功によって、開府儀同三司が加えられた。時に長子の張均が中書舍人に任命され、次子の張

は寧親公主を降嫁されて、

馬都尉を拝命していた。また、説の兄で慶王傅の張光は銀青光祿大夫に任じられた。この栄寵は、肩を並べる者が無いほどであった。
第二十回更新
21
開元十八年(730)、病床に臥すと、玄宗は、毎日、中使に病状を問わせに赴かせ、併せて手ずから薬方を写して賜した。十二月に薨した。享年六十四。訃報を聞いた玄宗は、しばらく

惻から立ち直れなかったが、光順門で挙哀すると、年が明けた開元十九年(731)の元正の朝会を中止する事とした。詔を下して
「
弘(広)く艱難を濟(救)うは、その功に参(加)わるは時に傑たるものであった。禮樂を経緯するは、その道を贊(導)くは人の師たるものであった。式瞻(敬仰)するは百度の釐(治)を允(正)し、この既往の事が千載に範を貽(残)した事である。台衡(宰輔)として鼎(王業)を軒(揚)げ、その黼藻を当今に垂れている。徽策は章を寵(尊)び、その芳

を後葉(後世)に播(広)げている。故したる開府儀同三司、尚書左丞相、集賢院學士知院事、上柱國、燕國公の張説には、辰象は霊を降し、雲龍は契を合わせた。元和はその冲粹を體とし、妙有はその至

を釈した。

して測る莫く、これを仰していよいよ高し。義を精して繋表の微を探り、辞を英して天下の動を鼓した。その昔、春誦に侍し、歳華を綢繆した。舂容の声を含めば、叩して尽く応じた。泉源の智を蘊(積)めば、啓して沃(導)いた。國を興こすよう命を授ければ、則ち天衢を以って通ず。民を和するよう濟(助)すれば、則ち朝政は允(正)された。鈞(政事)を司っては六官の紀を総じ、(百揆)を端(正)しては万邦の式を為した。風(風化)を弘(広)げて俗を緯(匡)し、本を上古の初に返した。徳に邁(努)めて仁を振うも、中寿の福は臻(至)らなかった。于嗟、憖(肯)んぜざるかな、既にこの文にて喪(弔)うを。宣室での余談は、

然と耳に在(残)る。王殿の遺草は、宛もその蹟を留めている。言は念は忠にして賢なるものであり、良(誠)に深く震悼するところである。これ当

(皇帝)をして几を撫させ、楽に臨むに徹懸させた。称觴の儀を罷(止)めて、往

の禮に遵(従)う事とする。太師を追贈し、賜物五百段とする。
」
と陳べた。
第二十一回更新
22
玄宗が東宮に在った時、説は禮遇を受ける事となった。太平公主が権力を掌握すると、太子の位が頗る危うくなった。説は一人、その一党を排除しようと、太子を監國とするよう求めた。その深謀密画によって、遂に内難が打ち払われた。これによって説は、遂に為開元の宗臣となったのである。前後して三度に渡って大政を秉り、文學の任を掌ること凡そ三十年であった。文を為せば俊麗であり、思を用いれば精密であった。朝廷の大手筆に関しては、全て中旨の撰述を一手に引き受けた。天下の詞人は、こぞってこれを諷誦したものであった。数ある中でも碑文、墓誌を最も得意とし、当代で肩を並べる者はいなかった程であった。後進を延納する事を厭わず、自分の為に活用した。文儒の士を引き入れて、王化の佐佑の為に用い、承平の歳を久しくしようとした。その志は、盛時に粉飾(褒揚)される事であった。泰山での封禪、

上に祠すること、五陵を謁すること、集賢を開くこと、太宗の政を修めること、これらは全て説が先頭に立って議を起こしたものである。また、気義に敦く、然諾を重じ、君臣や朋友の際にあって、大義は甚だ篤かった。時に中書舍人の徐堅は、文學を自負しており、常に集賢院學士の多くに対して、その存在を否定するような見解を示していた。所司や供膳は太だ厚遇していて、朝列に対して
「
この輩どもが、いったい國家に何の益となるんだ?これこそ虚費ではないか。
」
と言って、これを解散させるよう建議しようとした。これに対して説は
「
古えより帝王が功成すると、則ち奢縱の失を有し、或いは池臺を興し、或いは聲色を玩するようになる。今、聖上は儒を崇し道を重じられ、親自から論を講じられ、図書を刊正され、學者の心を詳延(掌握)されている。今、麗正書院は、天子の禮樂の司であり、永代の規模(制度)である。不易の道ではないか。費するものは細(小)にして、所益するところは大である。徐子の言の何と隘なる事かな!
」
と反論した。これが玄宗の知るところとなると、徐堅は遠ざけられるようになった。説は

鑠に遭って、知政事を罷免されると、集賢文史の任に専念するようになったが、軍國の大事の時には、玄宗は中使を派遣して、先んじてその可否を尋ねていた。説はその父である贈丹州刺史

(丹州刺史を追贈された父の張

)の碑文を自ら製したが、玄宗がこれを聞くと、その碑額を御書して下賜すると
「
嗚呼、積善の墓なり。
」
と言った。文集三十卷がある。太常が諡号を「文貞」とするか議すと、左司郎中の陽伯成が駁議して、これに反対した。工部侍郎の張九齡が立議して、太常の提案通りにするよう求めた。紛綸してなかなか決まらなかった。そこで玄宗が、説の為に自ら神道碑文を製すると、御筆して「文貞」の諡号を下賜した。これによって、諡号は定まったのであった。
2013/04/09 終了。
『舊唐書』 張説 - 3049〜3057 -
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