邦夫氏、生誕50周年

祝賀ムードをぶち壊したある事件

―誕生日のとんだ贈り物―

私はこれまで、二人の子供たちから誕生日プレゼントをもらったことがなかった。ところが50歳の記念すべき誕生日に、20歳の息子からとんでもない贈り物をもらった。

それはまさに私の誕生日、615日を迎えるまさに午前0時、息子からの電話で始まった。その日は土曜日であった。すでに寝入っていた私に妻が息子からの電話の話を私に伝える。友達が飲みつぶれたので、駅まで車で迎えに来てくれと言うのだ。息子は今年大学生になったばかりで、その夜もよその大学の女子学生と合コンだったらしい。たまたま、その会合の場所が我が家に近いJR稲毛駅周辺の飲み屋だったらしく、酔っ払いを一人うちに連れてくると言うのである。

30分ほどたっただろうか。タクシーが家の前に止まり、何か騒がしい。と思っていたら、息子が仲間2人と酔いつぶれた友達を引きずるように家に運び込んだ。タクシーの中を汚したらしく、追加料金を払う払わないという声が聞こえてきた。こちらは床の中で知らぬふりである。

何分もしないうちに、妻と息子が飛んできて、さっきの酔っ払いの様子がおかしいというので見に来てくれという。酔いつぶれた友達は息子の部屋で寝かされていた。息子たち3人は必死に呼びかけるのだが、反応がない。「息してないんじゃないの」誰かが言った。私はそいつの口元に耳を近づける。「本当だ。これはやばい。救急車呼ばないと・・・」「こいつ18歳だから、まずいっすよ」「そんなこと言ってる場合じゃないよ、こりゃ」ほっぺたをたたく。「おい、○○、わかるか・・・」119番に電話をしてから、20分くらいでサイレンが聞こえてきた。家の前に救急車が到着した。息子が救急隊員に事情を説明する。「酎ハイをピッチャーで3杯一気に飲んだらひっくり返ったんです」救急隊員は心臓マッサージをするが意識は戻らない。「これは病院に運ばないと危ない」救急隊員は私に一緒に乗ってくださいという。○○の親に電話する。「海浜病院に今から向かうので着てください」

初めて救急車に乗った。○○は酸素マスクをつけられた。瞳孔をチェックする。瞳孔の値から、危険な状態であるのが感じられた。「急性アルコール中毒というのは、こんな症状になるんですよ」

海浜病院に着くと、真夜中にもかかわらず、けっこうな人が救急診療に来ていた。すぐに点滴が始まった。30分くらいしたとき、ぴくっと○○の体が動いた。「もう大丈夫ですよ」医者は私が父親と思ったのだろう。そのうち○○の両親が車でやってきた。恐縮しながら何度も頭を下げる。これで私はお役ごめんとなり、父親に乗せられ帰宅した。午前3時になっていた。悪夢のような出来事は一件落着。「そうだ今日はおれの記念すべき50歳の誕生日だったんだ」

初めての入院

緊急入院

0月の終わりのある日、左目に蚊が飛ぶのが見えた。2、3日すると、その左目が少しかすみ始め、内側に影が見えだしたのだ。はじめは、右目をつぶって片目(左目)でだけで見て気づく程度だった。11月7日早朝、行きつけの眼科に行き検査を受けると網膜はく離の疑いがあると言われ、すぐに千葉大病院に向かう。午後から会社に出るつもりで鞄も持った。いろいろな検査装置で検査を受け、先生の診察を受けると「今日は入院の準備をしてきましたか」と言うではないか。やはり網膜はく離ですぐに手術が必要とのこと。もはや覚悟を決めるしかない。

3時ごろ妻が入院の仕度を持って来院した。入院の手続きを済ませ病棟に向かう。車椅子に乗せられてである。担当の看護婦は絶対安静との指示を受けていたのだ。とにかく手術までは動いてはいけないと言うのだ。はく離した場所が(左目の)左上のあたりなので、なるべく左を下に横たわるように言われた。こうしたほうが進行を抑えることができるらしいのだが、同じ姿勢を続けるのも疲れる。両目には「のれん」のような白い布で目隠しがされた。片目だけだと目が動くので両目にするのだと言う。とにかく目を休めていろということか。「のれん」の隙間からのぞいて食事したりトイレに行くのだ。翌日からは「のれん」では甘いということで、完全に両目とも眼帯でふさがれてしまった。食事とトイレの時だけは片側を取れるが、それ以外は一日中闇の世界だ。手術前3日間はこんな状態で過ごしたのであった。

網膜はく離

網膜はく離というのは、目の中でフィルムの役目をしている網膜に穴があき、眼球のなかみの水分がその穴から網膜のうしろに廻り込んで網膜が剥がれてくる病気である。放置すれば網膜は全部剥がれて失明してしまうという。昔は網膜剥離という病名もないままに患者の多くが失明していったらしい。30年ほど前までは、高周波電流で剥離箇所を焼きつけるというのが唯一の治療法で、入院安静が半年というのも珍しくはなかった。その後の眼科の進歩はめざましく、新しい手術法が次々と開発されて網膜剥離の治療はめざましく進展し、治癒率も飛躍的に向上している。私が入院した千葉大では、一回の手術で治る確率は85%と聞かされた。

 私の手術方法は強膜内陥術というやつで、網膜の穴を冷凍凝固し、網膜と眼球壁を癒着させ、シリコンを縫いつけるのだ。網膜はく離の比較的軽い場合に行われる手術だそうだ。

手術

入院から3日後の11月10日は、夕方から点滴となった。前の患者の手術が長引き予定より一時間遅れの6時ごろ手術室に向かう。この分野では有名な山本修一教授が執刀する予定であったが、体調が優れないので若い四倉先生が替わって行うという。ここはもう信じるしかないだろう。担当の女医、久我先生ももちろん立ち会っていた。局部麻酔を左目の下に打たれる。右腕には血圧計のベルト、左手には心電図のセンサーがつけられ、縛られた。まな板の鯉とはこのことである。手術中、左目かすみながらも動きが見え、先生の声も聞こえてくる。痛ければ声も出して知らせることができる。しかし始まったらもうどんなに痛くても容赦なかった。痛みにあわせて心電図の音のパターンが変わるのがわかる。激痛に耐え、1時間に及ぶ手術が無事終わった。

病室に戻ると、ほとんど死んだようにぐったりと横たわるだけだった。妻とも口を聞ける状態ではない。痛み止めの薬を飲んだ。2時間の安静の後(妻はすでに帰ったので)なんとか一人で夕食だけは食べることができた。そしてそのまま熟睡したのであった。

翌朝、眼帯を取って術後最初の診察を受ける。眼帯は血と目やにで汚れていた。手術はうまくいったと言われ安心した。視界の欠損はなくなっていた。しかしまだぼやけてはっきりとは見えない。目薬で瞳孔(黒目)が開いている(大きくなっている)からであろう。目を動かすとまだ痛みを感じる。

入院生活

眼科病棟は8階である。はじめの5日間は6人部屋の入り口近くだった。その後病院側の都合で4人部屋の窓側に移された。病院の周りは緑が多く、遠くに海が見えた。ここには目を患っているやつらばっかりいる。(当たり前か?)網膜はく離、白内障、緑内障、脳腫瘍による目の異常などなど。年寄りが多いが20、30代もいる。男女の部屋は隣り合わせだ。入院の予約は半年先まで入っていると言う。

網膜はく離でも私と違う硝子体手術というのをやった人は、つらそうだった。術後1週間うつぶせに寝てないといけないのだ。糖尿病で白内障のおやじは術後も良く見えずブツブツ言っていた。足も腐りかけてきたようだ。隣のベッドにやってきた20台の若者はロックのCDを聞きながら口ずさむのでうるさい。九十九里の70代の爺さんは入院したと思ったら即手術、3日で退院していった。白内障は早い。4人部屋の隣の60歳の元トランペッターは上野中学出身で私の母校上野高校を落ちたと言う。白内障、緑内障それにベーチェット病もあり、目の病気のデパートといったところか。

一日の日課はこんな感じだ。6時起床で朝食は8時。終わると朝の診察だ。12時昼食。2時に検温と血圧測定。6時夕食。消灯は9時半である。その間、各自飲薬と目薬の時間が決められている。

横になっている間は、携帯ラジオでAM、FM、テレビ音声を聞いて過ごした。MDで落語も楽しんだ。

食事の時間が楽しみだった。特に術前3日間は食事中眼帯をはずせるのでほっとした。もちろん病院食だからうまいものはない。晩酌のない夕食は味気なかったがアルコールなしでも熟睡できたので、アルコール中毒ではなかったと安心した。

入院の日から洗顔、洗髪、歯磨き、髭剃りは禁止されていた。入院中2度シャワーを使えた。洗髪は看護婦が2回やってくれた。術後の1回はテガダームというシールを目に貼って水が入らないように注意してやらなければならなかった。歯磨きの代わりにモンダミンで口をゆすいだ。ひげは生え放題だったのでイメージがだいぶ変わってしまった。

退院

入院から9日目の11月15日、無事退院した。9日ぶりに外の空気をすった。まだ瞳孔が大きいせい、ぼやけて見えるので不自由だ。あと1週間、自宅療養になる。

退院前日、看護婦から退院後の生活指導を受けた。歯磨きと髭剃りは解禁となった。ただし電動はまだ使えない。前述のテガダームを使って洗髪は4日に1度OKだ。寝るときは左目に眼帯をつける。就寝中あやまって触らないようにである。飲み薬と目薬のスケジュールも決められた。自分の血液からつくった自己血清点眼液というのもある。

重いものは持たない、硬いものは食べない、大便のとき力まないなども言われた。

術後2週間は入浴、洗顔はできない。運動、アルコールの許可は1ヶ月かかるのではないか。風呂(温泉)、運動(マラソン)、アルコールを生きがいとしている私にとって、これは大きな試練である。そして網膜はく離という爆弾を抱えてのこれから生きていかなければならない。

これが長いようで短かった、私の初めての入院体験の顛末であった。