富士山と大菩薩嶺/笠取山より
突き当り駒塚橋その右が芭蕉庵/神田川左岸
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広重の
名所江戸百景
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広重がこの絵(「名所江戸百景」)を描いたのは安政3年(1856)~5年(1858)とされています。
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つまり「明治維新(1868)」の十年前の東京の風物です。 ・・・・・と考えながら、これらの絵に接すると、また感慨も改めて無量です。
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まず下記 ①、②、③ をクリックして、『高田姿見のはし俤の橋砂利場』の写真他資料を見てください。
①
『
現代の
“風景”』 【クリックしてください】
②
『古地図』 と
『現代地図』
【クリックしてください】
③
“オマケ” 参考資料など
【クリックしてください】
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JR『高田馬場駅』下車、北に歩けば程なく『神田川』で、更に川下へ約1km弱歩くと『面影橋』です。
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幕府編纂の地誌に、高田馬場から北へ行くと『神田上水』に架かった土橋があり、その橋を渡って田圃道をさらに進むと小川に架かったもう一つの橋があり、前者を『面影橋』、後者は『姿見橋』としています。
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両者の名前があまりにも似通っているため、両者はよく混同され、広重も前者は『姿見橋』、後者を『面影橋』としています。
また、このあたり一帯は『山吹の里』と呼ばれていました。
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ある時、太田道灌が雨に遭い雨具を借りようと農家を訪ねると、少女が出てきて何も言わずに山吹の枝を差し出しました。
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『七重八重花は咲けども山吹の実の(蓑)一つだになきぞ悲しき』という和歌を引き合いに出して断ったのですが、太田道灌には意味が通じませんでした。
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このことを深く恥じた道灌は、以後和歌に精進したという伝説の地がここなのです。
広重の「名所江戸百景/高田姿見のはし俤の橋砂利場」
「 高田姿見のはし
俤の橋砂利場 」
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更新
('2017)
平成
29年 4 月 1 日
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