チュニジア 旅のアルバム【世界遺産】




チュニジアの世界遺産

下記の内イシュケウルのみ自然遺産であり、他の7ヶ所は文化遺産である。
今回の旅行では文化遺産7ヶ所を訪れた。
■■■チュニスのメディナ
■■■カルタゴ遺跡
■■■ドゥッガ
■■■スースのメディナ
■■■ケルクアンの古代カルタゴ遺跡
■■■古都ケロアン
■■■エル・ジェムの円形闘技場
■■■イシュケウル国立公園



チュニスのメディナ

メディナには金物細工屋、土産物屋などが所狭しと並んでいる。
添乗員嬢からは再三「バッグは斜めがけ!ディバッグも前で持って下さい!」と注意を受けた。
現地ガイドさんが気を悪くしないかとちょっと心配したりしたが、 そういう注意を受けている間に、同じツアーの女性のすぐ後ろに怪しげな若い男性が立っていて、 偶然近くにいたお巡りさんに大声で叱責されてどこかに連行されて行った。。。
 メディナの入り口にそびえるフランス門
昔はこの門の両脇から城壁が延びてメディナを囲んでいた。
 メディナには金細工の店も多い
 グランド・モスク(Jamaa ez Zitouna)
オリーブの木のモスクという別名を持ち、698年に建設が始まり9世紀半ばに完成した。
ケロアンのグランドモスクについで国内では二番目に古い。 中央ホールの柱の殆どはカルタゴ遺跡から運ばれたもの。
 シディ・ユセフ・モスク
1616年オスマントルコ帝国のユセフ王時代に建設された。 チュニス最古のトルコスタイルのモスクで八角形のミナレット(塔)が美しい。
 内務省の警備兵
「写真はダメ!」と言っているのだが…

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カルタゴ遺跡

伝説によれば、フェニキアの王女エリッサが紀元前800年頃にこの地に町を建設したという。
その後、カルタゴは海上貿易や農業を中心に繁栄したが、ローマとの第一次〜第三次にわたる ポエニ戦争により紀元前146年に滅亡した。
ローマ軍はカルタゴの廃墟に塩まで撒いて徹底的に破壊したが、紀元前30年頃からローマの 植民市として復興した。 2世紀にはローマにより巨大建造物が多数作られローマ有数の大都市となったが、 7世紀のアラブ支配後は中心がケロアンに移り、カルタゴは次第に廃墟と化した。 近年は高級住宅地へと変貌しており、その邸宅群の下には多くの未発掘遺跡が眠っている。
したがってカルタゴの地には、フェニキア人によるカルタゴ遺跡→塩→ローマ遺跡→現代の住宅という層ができていることになる。
 ビュルサの丘

ポエニ戦争で滅びたフェニキア人のカルタゴの中心だった場所。
「ビュルサ」というのは牛の皮という意味。
フェニキアの王女エリッサがここに都市を建設しようとした際、現地人から牛の皮1枚で覆える 土地しか譲れないと言われたが、牛の皮を裂いた細い紐で囲った広い土地を 手に入れたという伝説に基づいている。
一休さんの「このはし渡るべからず」という話を思い出したのは私だけ?
 トフェ(タニト神の聖域)

ローマ以前のカルタゴの遺跡。
墓場とポエニ時代の最高神であるバール・ハモン神(火の神)と タニト神(天と豊穣の女神)が祭られていた場所。
当時カルタゴでは幼児を神への生贄に捧げるという習慣があり、高貴な家柄の長男が神に喜ばれると考えられていたそうだ。
ハンニバルがローマに敗れた第二次ポエニ戦争の際にも夥しい数の幼児が生贄にされたと伝えられている。 この墓の下からは多くの炭化した幼児の骨が発見されている。
 アントニヌスの共同浴場
2世紀にローマ皇帝アントニヌス・ピウス(在138〜161年)により建設され、 浴場に使う水は60kmも離れたザグーアンから水道橋によって運ばれていた。
建物は2階建てで、温浴風呂、水風呂、サウナ、プールなど100以上の部屋があり、 フレスコ画の壁やモザイクの床という豪華な建物だった。
1階の冷浴室の高さだけでも土台から5.6m。
その上階の円柱は15mあるので、天井の高さは30m以上あったと思われる。
5世紀にヴァンダル人によって破壊された後、この浴場の大理石等は オスマン・トルコやイタリアへ建築資材として運ばれた。
 カルタゴ博物館
カルタゴからの出土品が充実しており、中でもエトルリア美術の影響がみられる前4世紀頃の石棺は 見応えがある。
ポエニ戦争時代のカルタゴ想像図。
この円形の港は直径300mで220隻の船を係留でき、いざと言うときには鉄の鎖で閉ざされる仕組みがなされていた。
ローマ時代の彫刻も数多く展示されている。 美術館の案内の方によると幼児のおしゃぶりだそうだ。もしかしたら生贄にされた子供の副葬品だろうか。

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ケルクアンの古代カルタゴ遺跡

紀元前6世紀頃に築かれ、紀元前2世紀の第一次ポエニ戦争の際に破壊された都市。
ローマはこの都市を再建しなかったため、世界でも珍しいフェニキア遺跡がそのまま残された。 この町は職人と商人の町であったようで、遺跡からは石工、左官、ガラス職人等の 工房跡が発見されている。
土台だけしか残っていないが、まっすぐに伸びる街路に沿ってだいたい同じ 大きさの住居が並んでおり、排水設備も整っていたようだ。 床のモザイクもローマ時代と比べると非常にシンプルである。
ローマ人が公共浴場を利用していたのに比べ、カルタゴ人は各家に浴室を 持っていた。大きさは現代日本のユニットバス程度。 1968年に発見された、古代カルタゴ人の墓であるネクロポリスから出土した副葬品。

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ドゥッガ

北アフリカ最大のヌミディア・ローマ・ビザンチン複合遺跡。 チュニジアでも最も保存状態がよいといれている。 起源2〜4世紀に繁栄を極め、市内には少なくとも1万人もの人が住んでいたという。 標高600mの丘の上にあり、素晴らしい眺望である。
 キャピトル
神殿はジュピター、ジュノー、ミネルヴァの3神を祀るもの。
 劇場
3500人を収容できる劇場。現在も時折古典劇が上演されるそうだ。
 リキニアの浴場の床タイル
他のローマ時代の大浴場と同様、温浴室、冷浴室、運動場などが左右対称に並び、 床には美しいモザイクが残っている。
 頭部のない彫刻
現地ガイドのジーナ嬢が「皇帝がかわる度に全身像を作るのが大変なので、 頭部だけすげ替えていたのです」と教えてくれた。
うーむ、合理的。
 トリフォリウムの家
公営の売春宿だったそうである。
隣にある浴場からこっそり入ることができる構造になっていた...
 トイレ
10人以上が一緒に入れる。用を足しながら世間話をしたらしい。ローマ人は随分オープンな人達である。

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スースのメディナ

「サヘル地方の真珠」と呼ばれる美しい町。 紀元前9世紀頃フェニキア人により建設され、紀元前202年の第二次ポエニ戦争時には 名将ハンニバルがここに拠点をおいていたともいわれている。 メディナは南北約700m、東西約450mで、周囲は9世紀アグラブ朝時代に立て直された 高さ8mの城壁に囲まれている。
  グランド・モスク
オリジナルは851年にアブル・アバス帝によって建てられた。
 モスクの看板
モスクでは勿論携帯禁止
 リバト
7世紀に侵攻の前線基地として建てられた、メディナで最も古い建物。
 ファルハット・ハシェド広場
スースの町の中心。

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古都ケロアン(カイルアン)

7世紀、ウマイヤ朝の総督ウクバ・イブン・ナーフィにより建設された マグレブ(チュニジア・アルジェリア・モロッコ)諸国で最初にできたイスラム都市。
北アフリカ最初のイスラム寺院であるグランド・モスクもが建設され、 メッカ、メディナ、エルサレムに次ぐイスラムの聖地とされる町である。
 グランド・モスク
640年に建立されたアフリカ最古のグランド・モスク。 現在の建物は9世紀のアグラブ朝の時代に再建されたもの。 ミナレット(塔)の最下段は728年に造られており、イスラム世界で最も古いものだという。 
 グランド・モスクの礼拝堂
中庭は中央の排水溝に向けて緩やかに傾斜し、雨水が地下の貯水槽に貯められるようになっている。
礼拝堂の中にはミフラーブ(メッカの方向を示す壁のくぼみ)が見える。
 シディ・サハブ霊廟
モハメッドの同士で専属の床屋さんでもあった聖者、アブ・ザマエル・ベラウィが眠る霊廟。
マグレブで最も美しい霊廟といわれるだけあり、壁、床、天井の至る所に色鮮やかな アラベスク模様が施されている。

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エル・ジェムの円形闘技場

2世紀ローマ帝国のゴルディアン皇帝の時に着工されたといわれているが、 資金不足等のため完成にはいたらなかった。 未完成とはいえ、その保存状態はローマのコロセウムよりも良いとされている。 現在も毎年夏には音楽祭が催されているそうだ。
7世紀末に中東から攻め込んできたイスラム・アラブ軍と先住民ベルベル人との最 後の決戦はこのエル・ジェムで行われた。 ベルベル軍の女王カヒナは、このコロセウムに立てこもり、701年この中で炎に身 を投じて自ら命を絶ったといわれている。
コロセウムの大きさは縦149m、横124m、高さ36m、アリーナの直径は65mである。 アリーナの地下には、奴隷がつながれていた牢や猛獣用の檻が残っており、 「ベン・ハー」や「グラディエーター」の場面を思い出させる。

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