| 曳山コースの変遷 平成17年10月制作 管理人:山内薬局 吉冨 寛 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
唐津神社が城内にでき、その後お供日が始まり、今日までのお供日コースの変遷を様々な資料を交えながら検討してみました。
寛文年間にはすでに唐津の城下は形をなし、下の地図の様であったと思われる。 現在の14台(紺屋町を入れて15台)の曳山が揃う前にも、と言うより、一番曳山刀町の赤獅子が作られる以前から西の浜御旅所へのご神幸は行われていたようである。 下の地図に記した線は、唐津神社が城内に御鎮座されてから、ご神幸が行われるようになった頃から、肥後堀が埋められる明治24年辺りまでのコースを示している。これはあくまでも私の想像であり、更に文献や資料を掘り起こしてより確かなものにしていきたいと思っている。 神祭今昔譚 |
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「神と仏の民俗学」飯田一郎著より抜粋 時間と道順 ヤマは廿八日ヤマ小屋から出て各自の町内の然るべきところに鎮座する。若者たちはこの日ヤマ引きの用意をし、子供たちは勝手にヤマに乗って大鼓をたたいたりして楽しい一日を過ごす。夜半過ぎになって多くの提灯をともしたヤマが明神さまの前の広場に集まる。勢揃いをして囃しをはやしながら夜を明かすのが本当なのかも知れないが今は若者たちは一旦帰宅して休養する。そして廿九日朝八時頃再び勢揃して神輿を迎え、刀町の一番ヤマを先頭に、賑かで情緒豊かなヤマ囃しをはやし、エイヤエイヤのかけ声も勇ましく町をまわるのである。昔は明神さまの前の広場から東に明神横小路を通って大名小路に出、それから南に行って大手門を出て内町に入り、本町を通って京町を東に曲り、札之辻橋を渡って魚屋町・大石町・水主町を通り、新堀から材木町を通って塩屋町に入り魚屋町から再び逆に札之辻橋を渡り、京町・紺屋町・平野町から新町を通って浄泰寺前に出、そこから名護屋口の難所を通って近松寺前にゆき、そこの角を曲って坊主町の通りを真直ぐ北に行って西の浜の御旅所に着いたのだという。そして帰りは逆に坊主町を通り名護屋口を過ぎた辺りから各自自由に自分の町内に行ったとのこと。 |
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※京町を曳いている小林君からの助言 現代の者にも場所が分かるようにとのこと。 私なりに解説をさせて頂きます。 |
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その1 大手門時代 ヤマは廿八日ヤマ小屋から出て各自の町内の然るべきところに鎮座する。 まずは当時の曳山小屋の場所をご紹介しましょう。
江戸時代後期の話 10月28日は各町の曳山小屋(上記参照)から曳山を出して、町内の適当な場所で飾り付けをし、頃を見計らって曳きだし大手門前の広場(大手口)に集結し夜を明かす。翌29日、明け六(寅の刻:午前6時)の大手門が開けられ、堀にかかった橋を渡って城内に入る。橋は現在の辻薬局辺りかバスセンターの前辺りかと思われる。大手門をくぐり大手小路(現在の裁判所から北上)を北上。突き当たりの明神横小路を左折し、神社前の広場に曳山を進める。(戸川省吾前宮司の記述による)社頭勢揃いの配置図も省吾さんは書き記していらっしゃる。
明神さんの御神輿を迎え、その年の順番に従って曳山を曳き出す。先ほどとは逆コース。明神横小路を東に進み、当時の城内メインストリートである大名小路を南下、大手門をくぐり、大手口広場に出て、お堀を左手にしながら本町に入り、京町で左折し札之辻橋を渡って魚屋町・大石町・水主町を通り、新堀(宮島の手前、恐らく現在恵比寿さんがある場所ではないかと思われます。若しくは宮島の角)から材木町を通って塩屋町(現在のハナミズキ通り。と言ってもピンと来ないかもしれませんが、道路拡張した通りです。かつての親不孝通り)に入り、魚屋町から再び逆に札之辻橋を渡り、京町・紺屋町・平野町から新町を通って浄泰寺前に出、そこから名護屋口(現在の藤井酒屋)の難所(階段に土嚢を積み、その上を曳山が通った)を通る。(恐らく前の曳山が難所を通過するまで現在の新町公園の広場は曳山が列び見物人も多かったと思われる。)名古屋口の難所を通って近松寺前にゆき、そこの角を右に曲って坊主町の通りを真直ぐ北に行って西の浜の御旅所に着いた。
明治に入って 大手門は解放され、「神と仏の民俗学」の記述になろう。 つまり、28日、各町飾り付けが終わって、夜が更けた頃まちまちに大手門をくぐり先ほどの行程で明神前広場に集結。囃子をしながら夜を明かし、29日朝8時頃に神輿を迎え曳山を出す。コースは上記と同様。 |
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その2 肥後堀が埋められる頃 古舘翁の「曳山のはなし」では明治24年にお堀が埋められた、更に新大橋ができたと記載してあるが、「佐賀県の地名」によれば新大橋の架橋は明治33年である。また、「唐津市史」によれば佐賀〜呼子の県道は明治23年竣工、完成は何年なのか書いてない。さらなる確認が必要であるが、新大橋架橋を明治24年として解説したい。また、下記の石井忠夫氏の記述に依ればお堀の埋め立て完成は明治26年のようである。
旧木造曳山小屋 刀町、中町、呉服町、魚屋町、新町、本町、木綿町、平野町、米屋町、京町 この曳山小屋の順番をご存じの方、どうか教えてください。 新大橋架橋の後 明治24年、新大橋架橋後は、大手門をくぐった後、内町に入り、本町に曲がらずに、新大橋を渡り、外町へ。材木町・新堀・水主町・大石町・魚屋町・札の辻橋・京町・紺屋町・平野町・・新町へと続く。 (松浦文化連盟編の写真集・明治大正昭和唐津によれば、新大橋架橋は明治23年である。23年説・24年説・33年説。どれを採るかで曳山のコースは決まってこよう。(現在調査中)
明治26年、お堀埋め立てにより明神横小路を通らずに明神さんの参道を真っ直ぐに南下し、大手口に出るようになる。その後は明治24年のコース。新大橋を渡り外町へ。 浄泰寺前を刀町に曲がったのはいつからかは調査中。 名護屋口へ向かわずに浄泰寺前から刀町に曲がった年代は古舘翁の記載から明治24年辺りとすべきであろうか? 上記、石井忠夫氏の記述に依れば、明治24年に佐賀・呼子県道が出来ている。つまり旧唐津銀行→大手口→大手口広場から刀町の北裏を肥後堀に沿うて開道。 この時に名護屋口に向かわずに刀町へ進んだとも考えられる。また、明治26年に明神小路の道幅が広くなり、肥後堀の埋め立てにより参道と現在の国道が繋がって、大手門をくぐらないようになった。 名護屋口に向かわずに刀町に曲がったのは佐賀・呼子県道が通じた明治24年にしたいところである。
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| その3 昭和初期あたりまで この地図ではまだ済生会の前の道がつながっていません。 |
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| 大正15年10月5日発行の地図を使用しました。 日本交通分県地図其二十九佐賀県より抜粋 佐世保要塞司令部認可 東宮御成婚記念
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