芹沢 鴨

常州芹沢村出身(現玉造町)
生い立ち
芹沢鴨は現在の茨城県行方郡玉造町芹沢に上席郷士芹沢貞幹(芹沢家は足利時代の常陸大掾氏の一族芹沢家)
三男として生まれた。
幼名は玄太。
十五歳のとき潮来の延方郷校で医学を学んだがこのとき武田耕雲斉などの教えを受け水戸学を学び尊王攘夷の思想
を身に付けたようである。
このときの延方郷校は水戸から離れていた為に幕府や藩の目が行き届かず自由活発な議論が行われていたようであ
る。
この時代はまだ玉造の郷校は開校しておらず小川か延方の郷校どちらかに学ぶところであるが本来なら小川方が近
いのであるが兄が延方の郷校に学んだので玄太も同じく延方の郷校に学んだようである。
この後に玄太は北茨城磯原の神官である下村家に婿に入ったようである。ここで野口正安などと出会っている。
剣の手ほどきは神道無念流の戸ヶ崎熊太郎に師事し免許皆伝、師範役の腕前で居合の方も免許皆伝であったと伝え
られている。その後は江戸で道場を開いたという話もあるが立証できていない、ただ大河ドラマでは江戸で居酒屋の主
人役で登場する。
安政6年(1859年)には勅書返納を阻止する為の長岡事件に関わっていた様である。長岡事件後は玉造郷校で天狗
党(玉造党)を組織し玉造はもちろん潮来、佐原、などへ軍資金の調達に奔走して一説には三万両も集めたみたいで
ある。このときには藤田小四郎とも連携していたようである。
巨魁隊長の芹沢鴨は、丈が高くでっぷりとした人物。平素から、「尽忠報国の士芹沢鴨」と彫った三百匁(1125グラ
ム)の大鉄扇を振るっていた。

【京都】
文久三年当時は水戸、長州が尊王攘夷派の急先鋒であった。
一方相反する勢力も多数いた。薩摩や会津である。
こういった勢力争いが激化した結果、文久3年の8月18日、とうとう大政変が起こった。
当時朝廷は三条実美らの攘夷急進派が主導権を握っていました。彼らは長州と結び、外国に門戸を開けてしまった幕
府を倒して天皇の親政を実現すべきだと考えていました(水戸は御三家であったため倒幕ではなく敬幕のため公武一
体)が、当の孝明天皇はむしろ朝廷と幕府が協調していこうという公武合体派でした。
そこで孝明天皇は中川宮に密令を出します。

8月18日深夜1時。中川宮、近衛忠熈、二条斉敬、松平容保、稲葉正邦らが密かに参内、御所の門は全て固く閉じられ
て会津藩・薩摩藩らの兵によって厳重に警護されました。

そして、その中御前会議が開かれ、攘夷急進派の公家の参内停止と謹慎、長州藩の堺町門警衛解任などが議決され
ました。異変に気づいた三条実美らが駆けつけますが中に入ることはできず、長州兵もいそぎ堺町門へ行きますが会
津藩の兵とにらみ合いになったまま近寄ることはできませんでした。

諸藩は合同して、一斉に禁中の警備にあたって長州を禁中に入れないようにし、併せて、長州の宮中守護の役を解
き、事実上一気に長州を京都から追放しようとしたのだ。
 8月18日深夜、この時浪士組にも出動命令が下った。総勢52名の隊士達は勇んで、すぐさま隊伍を組んで出発し
た。しかし、蛤御門に着いてみると、会津藩の兵士達が門の内に通そうとしない。どうやら、浪士組のことが端々まで伝
わっていなかったようである。会津藩の兵達は、終いには槍ぶすまを作って抵抗を見せる始末。と、そこへ颯爽と現れ
たのが芹沢鴨。彼は自慢の鉄扇で、五寸余り離れたところで突き付けられた槍の穂をぱたぱたと煽いでみせ、気を張
り詰めている会津藩兵達に向って大胆な行動をとったのであった。この堂々とした心憎い演出は、まさしく芹沢の剛胆
を顕著に裏付けるもの。兵達もさすがにその勢いには呑まれてしまったという。

 この後誤解も解けて浪士組は無事その職務を遂行することができ、その後恩賞にも預かり、浪士組の名声は一挙に
高まった。ちなみに、「新選組」の名が公式な文書の上にあらわれるのは、この政変の時からである。 

【芹沢鴨、暗殺事件】
新選組局長芹沢鴨ら暗殺さる!
 文久三年九月十八日深更、壬生村の郷士八木源之丞方において、同邸に逗留中の新選組局長 芹沢鴨、同助勤 
平山五郎、芹沢の妾 お梅らが近藤の配下の手によって殺害された。
 
 犯行が行われた当日、新選組は島原の角屋で大々的な酒宴を張っており、芹沢らもかなり酔って帰営したようだが、
芹沢らはその後も邸内で酒盛りをしていたという話も聞かれ、就寝時には相当の飲酒量により泥酔状態であったもの
と思われる。
 八木邸では芹沢氏の留守中に来たお梅が待っていて、これに平山五郎の女であった桔梗屋の吉栄さんと平間重助
の女であった輪違屋の糸里が加わった。
 芹沢鴨はお梅とともに一番奥の部屋の縁側の近くで床に着き、それと一つ屏風を隔てた同じ部屋の手前側に平山五
郎と吉栄さんが寝た。左側に床の間があり、ともにそちらの方へ枕を置いて眠った。芹沢鴨は枕許へ鹿角の刀架けを
置いていた。 平間五郎と糸里は「玄関から右手の部屋」でともに寝たという。 
 事件発覚後発見された時は、平山五郎とお梅はそのまま床の上で亡くなっていたが、芹沢鴨は縁側を伝って左手に
ある隣の部屋で絶命していた。このことから、賊に切り掛かられた芹沢鴨は襖を蹴破って縁側に出て、そのまま隣の部
屋に逃げ込もうとしたところで、置いてあった机につまづき、そこでやられたものと推察されている。この部屋の鴨居や
柱には刺客のつけたと思われる刀傷が生々しく残っていた。
芹沢鴨が逃げ込んだ部屋には、八木源之丞氏の妻と次男為三郎君と三男勇之助君の3人がちょうど床についてい
た。幸いこの3人に命の別状はなかったが、勇之助は右足に傷を負った。
 
 芹沢鴨らの葬儀行われる
 九月十六日に八木邸で亡くなった新選組の局長芹沢鴨と同助勤の平山五郎の葬儀が、二十日、新選組が屯所を置
く壬生村の前川邸で行われた。
 喪主の近藤勇局長が厳粛に弔辞を読み上げた後、葬儀は粛々と進められた。
 葬儀には、水戸藩に仕える芹沢分家の兄ら(分家筋の人物)も駆け付けて参列した。
 遺体は紋付袴に木刀を差し、棺に収められて、壬生寺に埋葬された。壬生寺に向う葬列は隊士全員による堂々とし
た立派なもので、壬生寺に先頭がついてもなお、後ろの方は前川邸を出発するところだという程であった。

水戸天狗党で鴨は下村継次の名で水戸尊攘派「玉造党」の頭となり300名の部下を率いていたといいます。
 近藤勇の書簡には水府脱藩下村嗣次改め芹沢鴨と書いてあり、下村家に養子入りしていたが勤皇活動の為に下村
家を離縁した、と見るのが有力です。

 短慮一徹にして尊王攘夷の実践に加熱しすぎることが多く、敬神の念が強い天狗党では失敗も多かったようです。潮
来の宿で天狗党の資金集めが悪いといって怒りだし、地元の名主を鉄扇で殴り怪我を負わせたという記録も見られま
す。また佐原でも同様に鉄扇を振りかざして一騒動起こしています。また新徴組生き残りの草野剛三の語りのこしによ
ると、芹沢鴨と新見錦は東禅寺事件に関係して、そのため水戸で捕らえられ入牢していたともいいますが、他にも長岡
事件や潮来で部下を3名殺した件などもあり諸生党が藩政の実権を握ったことから芹沢も捕縛されたものではないか
と推察される。

投獄された鴨はいずれ死罪を覚悟して絶食し、小指を切って鮮血で辞世も記しました。

「雪霜に色よく花の魁けて散りても後に匂う梅の香」
鴨の豪胆な気質の中に意外なほどの繊細さを垣間見せています。

後に永倉新八が新撰組顛末記で
鴨は才幹で国家有事の秋にむざむざと横死したことは彼自身のみではない、
国家的損害であるとは当時心あるものの一致するところであった。
と記載されております。
このような記述を見ると本当に芹沢鴨は酒や女に溺れ暴虐の限りを尽くした人物なのか疑問に思います。

しかしながら何時の時代何事においても必ず敵役は必要であったようで
幕末から明治にかけては朝廷は正義で幕府は悪、新選組は近藤、土方側から見たら悪は芹沢や伊東であったようで
す。
小説なども物語を面白くさせるためには話を誇張したり史実を歪曲することもあったのではないでしょうか。




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