春の生命

高田義一郎




       發端

 やすふゆは、開會時間かいくわいじかんさだめられてあつた午後ごごすでに、もう薄暗うすぐらくなつてて、澤山たくさん街燈がいとう大小だいせうのビルヂングの電燈でんとうが、老松らうしようみどりふか千代田城ちよだじやうのおほりみづえて、ひるよりか幾倍いくばいうつくしいながめであつた。しかし定刻ていこくになつても、中々なか/\來賓らいひんそろはなかつた。自動車じどうしやが來たとおもふと、おとなり帝劇ていげきとまつて、玄關げんくわんつた案内役あんないやくが、いくつかの欠伸あくびころしてから、やうや開會かいくわいせんせられたのは、もう六を十五ふんあまりもぎて、すつかりりたよるとばりが、くろでは今日けふ會合くわいがふにふさはしくないとかしてか、眞珠色しんじゆいろもや立籠たちこめてころであつた。
 東京會館とうきやうくわいかんの四かいの一しつおほきなテーブル中央ちうあうつたのは、今日けふ主催者しゆさいしやたる××しや社長しやちやう山田良やまだりやうであつた。
本夕ほんせきが××しやが、刻下こくか重大問題ぢうだいもんだいであり、急務きふむであるところせい問題もんだいたとへば「性教育せいけういくあるひは、「産兒制限さんじせいげん諸問題しよもんだいくわんする是非ぜひ批判ひはんついて、忌憚無きたんな御討論ごたうろんねがひたいといふかんがへから、御來會ごらいくわいわづらはしましたところが、公私こうし御多用ごたようであらるゝにかゝはらず、かくも多數たすうに、各方面かくはうめん諸名士しよめいしとくにその問題もんだいくわんする專門家せんもんかまたはその問題もんだい日常にちじやう直面ちよくめんして、きはめて造詣ざうけいふか方々かた/″\の、御出席ごしゆつせきましたことは、主催者しゆさいしやとして非常ひじやう光榮くわうえいぞんずるところであります。皆樣みなさま御意見ごいけんしや雜誌ざつしせることよつて、世間せけん裨益ひえきすることを、無上むじやうよろこびとするものであります。一げんして開會かいくわい御挨拶ごあいさつへます。』
 社長しやちやう挨拶あいさつをはるのをつて、××しや發行はつかう雜誌ざつし科學世界くわがくせかい」の主筆しゆひつ秋山あきやま助氏すけし立上たちあがつた。
『それでは僣越せんゑつながら、わたしこれから進行係しんかうがかりつとめます。で、づ「産兒制限さんじせいげん是非ぜひ」についての御意見ごいけんからうかゞひたいとおもひます。如何いかゞでせう、安井先生やすゐせんせい御意見ごいけんは?』
 安井先生やすゐせんせいばれたのは、社會改良家しやくわいかいりやうかとして、また昭和大學せうわだいがく教授けうじゆとして有名いうめい安井濱藏氏やすゐはまざうしであつた。安井氏やすゐし顏面神經麻痺がんめんしんけいまひにでもかゝつたのか、ひだりほそくてみぎおほきいばかりでなく、ほとん無表情むへうじやうかほげて、
わたしは十餘年前よねんぜんから機會きくわいごとろんじてごとく、産兒制限さんじせいげん必要ひつえう高唱かうしやうしてるものであつて、今日こんにち最早もはや是非ぜひ議論ぎろんをしたりする時代じだいではないとおもふ。今日こんにちその問題もんだいろんずるならば、如何いかなる方法はうはふよつてすべきか、あるひはその講習機關かうしふきくわん[#ルビの「かうしふきくわん」は底本では「かうしふきくれん」]如何いかにすべきかといふ程度ていどでなければならないのである。だがわたしは、醫者いしやでないから、それをかた資格しかくい。たれ適當てきたうひと指名しめいしたらよからう。』
 と、至極しごく無雜作むざふさはなつたのであつた。
 おたがひに一面識めんしき種々しゆ/″\方面はうめん人々ひと/″\集合しふがふで、不便ふべんおほいのを懸念けねんしたためであらう。卓上たくじやうにはみなまへに、厚紙あつがみちひさくつて屏風びやうぶなりにしたものに、各自かくじ氏名しめいいたのをてゝ、衆議院しうぎゐん議席ぎせき名札なふだやうにしてあつた。安井氏やすゐしが、順次じゆんじにその名札なふだつて、平等醫院長びやうどういゐんちやう佐藤平次郎さとうへいじらうドクトルのはういたときであつた。突如とつじよ指名しめいたずに立上たちあがつたのは、辯護士べんごし只木花吉たゞきはなきちといふ法學士はふがくしであつた。
自分じぶん安井先生やすゐせんせい同意見どういけんでありますが、自分じぶん業務上げふむじやう、もつとすゝんだ、深刻しんこくかんがへをいだいてります。』只木法學士たゞきはふがくしは、ふとこゑつた。
産兒制限さんじせいげんならばはふれないから、勿論もちろん問題もんだいでないのでありますが、墮胎だたいをですな、刑法けいはふだい二百十二でう乃至ないし二百十六でう墮胎だたいつみ體刑たいけいであるのをあらためて、たん罰金刑ばつきんけい改正かいせいしたいといふ意見いけんつてります。をとこあざむかれて姙娠にんしんしたところが、をとこがそれつきりげてしまつたとか、若氣わかげあやまりで一しよにはなつたが、子供こども出來できては生活せいくわつ出來できないとかいふどくもの墮胎だたいは、おほい寛大くわんだいにしてやりたいとかんがへてります。』
強姦がうかんされて姙娠にんしんしたもの墮胎だたい公認こうにんせよと、小川滋次郎をがはしげじらうさんや、浮田和民うきたかずたみさんあたりがろんじたのはもうふることで、それはあまり新説しんせつではないね!』安井氏やすゐしは、また無雜作むざふさ批評ひひやうした。
生活せいくわつこま男女だんぢよ墮胎だたい寛大くわんだいにするのもいゝが、刑法けいはふ醫者いしやのした墮胎だたいとくおもばつするのはこまる。墮胎だたい素人しろうとがすれば、生命せいめい危險きけんおほいのにはんして、醫者いしやがすれば安全あんぜんだといふ意味いみで、醫者いしやのをとく寛大くわんだいにしてもらひたいですなあ。如何いかゞでせう? 只木たゞきさん!』
 と、佐藤さとうドクトルが、得手勝手えてかつてせつしたが、只木法學士たゞきはふがくし安井氏やすゐし横槍よこやりしよげたものか、今度こんどなんともこたへなかつた。
 すると、佐藤さとうドクトルとおなはたけ醫學博士いがくはかせで、○○醫科大學いくわだいがく學長がくちやうをして夏本赤なつもとあか郎君らうくんくちひらいた。醫者いしや同志どうしことで、賛成演説さんせいえんぜつかとおもつてると、意外いぐわいにも正反對せいはんたい議論ぎろんだつたのには、佐藤さとうドクトルよりも、むし人々ひと/″\はうがひどくおどかされた。して、『おな醫者いしやでも流石さすがに、大學だいがく學長がくちやうえらいものだ。』と感心かんしんしたひとすくなくなかつた。
醫師いし墮胎罪だたいざいかるくせよとは、不都合ふつがふばんせつである。かりに一ぢやう座談ざだんとしても、そんな言葉ことば醫師いし一人ひとりくちからくことは、醫育いいく從事じうじして我々われ/\の、ちからおよばないためほかならぬことゝ、ふかみづかづるところである。墮胎だたいき、産兒制限さんじせいげんにしても、講習機關かうしふきくわん設置せつちごときことはもつてのほかであるとかんがへるから、すくなくとも我々われ/\主宰しゆさいする醫科大學いくわだいがくでは、たれなんつてもそんなものは、受付うけつけない方針はうしんであることを、とく申述まをしのべてくのである。』
 酒好さけずきらしい、本來ほんらい赤光あかびかりの夏本博士なつもとはかせかほは、五十をだあまり餘計よけいないであらうとおもはれるのに、年齡ねんれいわりいぼれてためか、それともあまりに興奮こうふんしためか、首筋くびすぢまでも眞赤まつかにして呼吸いきくるしさうに見えるくらゐであつた。
 そのとき發言はつげんしたのは、大野高等女學校おほのかうとうぢよがくかう校長かうちやうで、廢娼運動はいしやううんどう熱心ねつしん嬌娼會けうしやうくわい幹事かんじ大野源作おほのげんさくといふ文學士ぶんがくしであつた。大野學士おほのがくしは、如何いかにもなれた態度たいどで、けてたロイド眼鏡めがねをはづして卓上たくじやういてから、おほきなでギヨロ/\と列席者れつせきしやかほ見廻みまはしてたのちに、すこしかすれたこゑ莊重さうちようかたりはじめるのであつた。
産兒制限さんじせいげんなどは、是非ぜひ彼是かれこれいふ必要ひつえうい。だまつててもおこなふものはおこなふし、をしへてもおこなはないものおこなはないから、議論ぎろんをするだけむだであります。近年きんねん人口じんこう増殖率ぞうしよくりついちじるしく減少げんせうしてところくにおいては、産兒制限さんじせいげんごときことは、むし嚴禁げんきんすべきであらうとかたしんじてるものであります。』
これ意外いぐわいだ!』只木法學士たゞきはふがくしつた。『内閣書記官長ないかくしよきくわんちやうとしての鳩山はとやま郎君らうくんが、れを是認ぜにんしてることが新聞紙上しんぶんしじやう今日こんにちに、教育者達けういくしやたちがさういふかんがへであるとは、じつ意外いぐわいだ! 鳩山君はとやまくんくちから、優生學的いうせいがくてきわる遺傳關係ゐでんくわんけいのあるをとこには、輸精管結紮術ゆせいくわんけつさつじゆつほどこして、子供こどもませないやうにしようといふ法律案はふりつあんを、つぎ議會ぎくわい提出ていしゆつしようといふことまではれて今日こんにちに、……』
教育者けういくしやは、教育家けういくか立場たちばとしては……』
 大野校長おほのかうちやうなに應酬おうしうしようとして、座談ざだんでも批判ひはんでもない、一まつ嶮惡けんあくおこつたとると、流石さすがひと顏色かほいろつけて商賣しやうばいである。秋山主筆あきやましゆひつ先手せんてつて、たくみ二人ふたりくちをふさがしてしまつた。
『いろ/\産兒制限さんじせいげんくわんする御意見ごいけんうけたまはりましたから、つぎには廢娼問題はいしやうもんだいうつりたいとおもひますが一々御起立ごきりつねがふのも御迷惑ごめいわくぞんじますから、何卒どうぞ御着席ごちやくせきのまゝで、談話だんわのつもりで御話おはなしをねがひます。』
 言葉ことばおだやかだが、つまりおだやかにして激論げきろんおよぶなといふ、ていのいゝ命令めいれいである。秋山主筆あきやましゆひつ箝口令かんこうれい手前てまへ、それから大野校長おほのかうちやう指名しめいしたのも、中々なか/\如才じよさいのないかたであつた。
『では、大野おほのさん、何卒どうぞ廢娼問題はいしやうもんだい皮切かはきりをねがひます。』
 大野高女校長おほのかうぢよかうちやうちかけて、また何卒どうぞそのまゝで。』の注意ちういをうけて、しりおろしてから、かたるのであつた。
わたしには廢娼はいしやう必要ひつえうや、遊廓いうくわく設置せつち罪惡ざいあくであることが、立派りつぱ宗教しうけう形式けいしきになつて、信仰しんかうとしてあたまなか滲込しみこんでるので、たれなんはれても、その信仰しんかううちこはしない程度ていどになつてります。人身賣買じんしんばいばいであり、奴隷制度どれいせいどである娼妓しやうぎを、政府せいふ公認こうにんするのはじつしからぬことでありますし、外國人ぐわいこくじんたいしてもづべきであらうとおもはれるのに、議會ぎくわい廢娼案はいしやうあん年々ねん/\否決ひけつしてしまふのは、まつたあきれはてた國柄くにがらであります。』
わたしも一げんさせていたゞきます。』とききぬやうこゑてたのは、淑風會しゆくふうくわい會長くわいちやうとして各方面かくはうめん活動くわつどうして内海葉子女史うちみえふこぢよしそのひとであつた。御定おさだまりの洋裝やうさうに、ほそからぬすねにはかゝとたかくつをはいて、薄化粧うすげしやうだしなみに四十をすこしはしたはずかほが、夜目よめにはやつと三十そこ/\にもえたが眼鏡めがね金縁きんぶちかゞやいて、折角せつかくうつくしさをしたしみがたくするかとおもはれた。しかしまたてん淑風會しゆくふうくわい會員くわいゐんどう尊敬そんけいまとあふがれる氣高けだかさであつたことは、いふまでもなからう。
大野先生おほのせんせいおほせは、一々御尤ごもつともとぞんじます。娼妓しやうぎけといふ御議論おぎろんには、消毒せうどく出來できるからとありますけれども、あれは醫學的いがくてきにはきはめて不完全ふくわんぜんなものであるとまをすでは御座ございませんか? そのてんきましては、一つも存娼ぞんしやう理由りいうになるものがいとぞんじます。公娼こうしやう廢止はいしすれば、私娼ししやうすといふのはうそで、遊廓いうくわく近所きんじよに一ばん私娼ししやうおほいではありませんか? 公娼こうしやう廢止はいしすれば、私娼ししやうげんじこそすれ、けつして増加ぞうかしないのであります。それからまた未婚者みこんしや遊廓いうくわくかずに、妻子さいしのあるものがおさけうへで、笑談半分ぜうだんはんぶん遊廓いうくわくことも、存娼論者ぞんしやうろんしやによくいていたゞきたいとおもてん御座ございます。』
 備忘用びばうよう紙片しへんもつてのはなしで、また何度なんども/\繰返くりかへした文句もんくではあつたらうが、中々なか/\流暢りうちやう列座れつざ男子達だんしたち感心かんしんさすだけのうまさは十ぶんにあつた。
公娼こうしやう檢黴けんばい不完全ふくわんぜんだから、檢黴けんばいをしない私娼ししやうはうがいゝといふやうくちぶりには、醫者いしやとしては、少々せう/\同意どうい出來できません。不完全ふくわんぜんでも、しないよりはましです。不完全ふくわんぜんならばめろといふならば、警察けいさつがあつても泥棒どろぼうとられないから、警察けいさつめてしまへといふのとどう一の論法ろんぱふでせう。それには到底たうてい賛成さんせい出來できません。また公娼こうしやうがあると、近所きんじよにそれを眞似まね私娼ししやう出來できるとか、公娼こうしやうめれば私娼ししやう減少げんせうするとかいふことは、なに根據こんきよとしての御話おはなしらないが、とん納得なつとくすることが出來できません。公娼こうしやう人身賣買じんしんばいばいであり、奴隷制度どれいせいどちかいといふのは、彼等かれら自由じいう束縛そくばくして、外出ぐわいしゆつひとつさせないからのことで、彼等かれら自由じいうゆるしたならば、遊廓いうくわくそんしてはう安全あんぜんであります。文明國ぶんめいこく對面たいめん々々/\といふが、對面たいめんため遊廓いうくわくくし、檢黴けんばいをしない私娼ししやう跋扈ばつこさせるのは危險きけんばんであります。』これ佐藤さとうドクトルの廢娼反對論はいしやうはんたいろんであつた。
 只木法學士たゞきはふがくしまた佐藤さとうドクトルにしてつた。
娼妓しやうぎ自由じいうあたへて、きやく選擇せんたくまでもゆるしてやれば、丁度ちやうど藝妓げいぎどう一になります。藝妓げいぎでも娼妓しやうぎ同樣どうやう行動かうどうをやつてるのに、廢娼はいしやうさけひとが、藝妓廢止げいぎはいしはないのは、おほきな不合理ふがふりはなければなりますまい。藝妓げいぎ問題もんだいにしないのは何故なぜですか? 大野おほのさん!』只木法學士たゞきはふがくし隣席りんせき大野校長おほのかうちやうかへりみた。こたへたくなかつたらうが、こたへなければならぬ羽目はめおちいつた大野校長おほのかうちやうは、微苦笑びくせうたゝへながら、眼鏡めがねをはづさずにこたへた。眼鏡めがねをはづすのは、得意とくい長廣舌ちやうくわうぜつふるときに、かれこのんでするくせらしい。
『いや藝妓げいぎ廢止はいししたいのが、我々われ/\理想りさうです。しかし娼妓しやうぎひとつさへむづかしいのに、同時どうじ藝妓げいぎまでも問題もんだいにしては、結果けつくわ運動うんどう全部ぜんぶこうそうしないことをはおそれがあります。そこで便宜上べんぎじやう藝妓げいぎきりはなして、これだいだん運動うんどうのこしてある次第しだいです。』
『そりやいかん! そこまで熱心ねつしん運動うんどう方便はうべんはいけない! 方便はうべんとか便宜べんぎとかいふところ虚僞きよぎじる。虚僞きよぎそんするところねつめる。方便はうべんりの廢娼論はいしやうろんでは、中々なか/\ひと感動かんどうさせられないのは當然たうぜんでせう。』
 只木法學士たゞきはふがくしたゝみかけた。そこへ割込わりこんだのは、あかがほ夏本博士なつもとはかせで、
きみ! 理窟りくつはさうかもれないが、なかはさう一本調子ぽんでうしくものではない。我輩わがはい醫師いし一人ひとりとして、佐藤君さとうくん同樣どうやう檢黴けんばい必要ひつえうみとめてはるが、しかし大野校長おほのかうちやう御説おせつごとく、藝妓廢止げいぎはいし問題もんだいにしないはうがいゝとかんがへてる。』
 と、どつちに賛成さんせいかわからないことをいふのであつた。兩面主義りやうめんしゆぎ夏本氏なつもとし長技ちやうぎで、これためてきつくらずに、無事ぶじに三十餘年間よねんかん勤續きんぞくして、學長がくちやうになりわけであつた。
問題もんだいにしないはうがいゝとはれるが、内海女史うちみぢよし淑風會しゆくふうくわいから、△△ばし開通式かいつうしき藝妓げいぎ渡初わたりぞめをさせるのはしからん、彼等かれら醜業婦しうげふふだからさぬやうにしろといふ、強硬きやうかう議論ぎろんましたね。醜業婦しうげふふとして攻撃こうげきしながら、その藝妓げいぎ廢娼論はいしやうろんから除外ぢよぐわいする、それは方便はうべんといふ、あまりに懸引かけひきはなはだしいのは、政治的手腕せいぢてきしゆわん敬服けいふくすると同時どうじに、主義しゆぎために、社會運動しやくわいうんどうためにといふ、淑風會しゆくふうくわい矯娼會けうしやうくわいごと人々ひと/″\行爲かうゐとしては、はなは感服かんぷく出來できないとおもふのであります。』
 只木法學士たゞきはふがくし言葉ことばは、少壯せうさう辯護士べんごしだけに中々なか/\いたところ遠慮無ゑんりよな突込つゝこんでつた。
『まあ/\さういふものではい。渡初わたりぞめと廢娼運動はいしやううんどうとを混同こんどうすることはない。それでは折角せつかく會合くわいがふ主意しゆいにもはんする……』
 夏本博士なつもとはかせ相變あひかはらずうみともやまともつかない調停てうていこととして、なん答辯たふべんしようかとおもわづらつて内海女史うちみぢよしと、大野校長おほのかうちやうとにホツと一息ひといきつくだけの餘裕よゆうあたへたのであつた。大野校長おほのかうちやう話頭わとうてんじて逆襲ぎやくしふにかゝつた。
『シンガポールその東洋とうやう南洋なんやう各地かくち日本にほん醜業婦しうげふふて、外國人ぐわいこくじん物笑ものわらひのたねとなつてるだけでも、日本にほん重大ぢうだい恥辱ちじよくであつて、是非共ぜひとも廢娼はいしやう斷行だんかうすべき必要ひつえうがあることは、何人なんぴと異議いぎことかんがへますが、皆樣みなさま御意見ごいけん如何いかゞでせう?』
同感どうかんです。』とこたへたのは、夏本醫科大學なつもといくわだいがく學長がくちやう
『シンガポールける日本にほん醜業婦しうげふふは、遊廓いうくわくける娼妓しやうぎではない。自由じいう出歩であいて私娼ししやうであります。わたしところではさうです。しからば廢娼論者はいしやうろんしや國内こくない娼妓しやうぎのみを對照たいせうとして、藝妓げいぎその私娼ししやう論外ろんぐわいきながら、あし領土外りやうどぐわいれば、廢娼はいしやう對照たいせう變更へんかうするのは、自家撞着じかどうちやくでありませう。』
 これ佐藤さとうドクトルの言葉ことばであつた。
議論ぎろんこまります。意見いけん相違さうゐぎません。』
 大野校長おほのかうちやうつた。
『いや議論ぎろんではない。對照たいせう不定ふていでははなし出來できないからです。うしうまとをせろとつては、小學校せうがくかう算術さんじゆつ問題もんだいにもなりません。』
 佐藤さとうドクトルもゆづらない。兩方りやうはうかないから、たれすゝんでくちはさまうとはしなかつた。
 またしらけかゝるのをて、秋山主筆あきやましゆひつくちひらいた。
如何いかゞでせう、これ安井先生やすゐせんせい御意見ごいけんうけたまはるべきものだとおもひますが……』
 とひながら、ひさしく沈默ちんもくして安井教授やすゐけうじゆはうると、議論好ぎろんずきのくせに、くちひらかなかつたも道理だうり、スチームのあたゝかさに、胡麻鹽ごましほあたまかるげて、いゝ氣持きもち居眠ゐねむつてところであつた。室内しつない視線しせんを一しんあつめて、すこ狼狽らうばいしたが、なんこと見當けんたうがつかない。隣席りんせき只木法學士たゞきはふがくしが、かして、「廢娼問題はいしやうもんだい」と耳語じごするのをいて、やうやかたしたのが、いままでと一寸ちよつとそぐはぬ方面はうめんであつたので、みなわらつてしまつたために、おこりかけた口論氣分こうろんきぶんたちま退散たいさんしたのは、怪我けが功名こうみやうであつた。
遊廓いうくわく不便ふべんなものである。いざとつてかけるにはあまりに遠過とほすぎる。性慾せいよく火急くわきふなもので、遠路とほみちをするまでつてはくれない。そこで近所きんじよ私娼ししやうはう繁昌はんじやうする。加之しかのみならず遊廓いうくわくくと體裁ていさいくない。私娼ししやうならば體裁ていさいもいゝ。そこで益々ます/\私娼ししやう繁昌はんじやうしてしまふ。遊廓いうくわくはもう自然しぜん消滅せうめつすべき時期じき到達たうたつしてる。不便ふべん不體裁ふていさいでは、存續そんぞくながくあるまい。廢娼はいしやう結構けつこうぢやが、わい/\さわがんでも、ちか將來しやうらいこと/″\おのづか私娼ししやうへんじてしまふことと、しんじてうたがはないものである。』
 その超然てうぜんたる態度たいどが、益々ます/\だうわらひをそゝつて、てき味方みかたも一どう拍手はくしゆおくつた。
『しかしわたしはもう老人らうじんで、わたし娼婦論しやうふろん非實際的ひじつさいてき非難ひなんまぬかれまいとおもふ。問題もんだいわたしでない、もつとわかい、血氣盛けつきさかんな人々ひと/″\議論ぎろんすべきものだとおもふ。おほい諸君しよくんせつきたいものだね。』安井教授やすゐけうじゆまたつゞけた。
『いやもう一通ひととほり、みな議論ぎろんみました。』と秋山主筆あきやましゆひつこたへると、
『さうかね、としのせゐですこみゝとほい!』
 獨語ひとりごとやう辯明べんめいをした。みゝはいくらちかくてもてはきこえるはずがない。室内しつないまた一寸ちよつと笑聲わらひごゑ滿ちた。
『では、これから晩餐ばんさんをあがつていたゞいて、それからまたあらためて、御話おはなしうけたまはることにいたしたいとおもひます。隣室りんしつ晩餐ばんさん用意ようい出來できましたから、何卒どうぞ……』
 山田社長やまだしやちやう適宜てきぎ好機會かうきくわいとらへて、わらひのうち食卓しよくたくみちびいた。
 安井教授やすゐけうじゆが、自分じぶんことわらつてるともがつかずに、自分じぶんも一しよにつりまれて、うれしさうにニコニコしながら、山田社長やまだしやちやうかたならべてはなしてるのが、なんともへぬ愛嬌あいけう滿ちて、一だんといゝ老大家振らうたいかぶりであつた。

       一

 大野源作氏おほのげんさくし校長かうちやうとして大野高等女學校おほのかうとうぢよがくかうでは、毎年まいねん新入生しんにふせいために「性教育せいけういく」をほどこすことが年中行事ねんちうぎやうじひとつにかぞへられてる。しかし、大野校長おほのかうちやう中々なか/\謹嚴きんげん方針はうしんむねとした關係くわんけいから、方面はうめんにはおよぼさずに、唯々たゞ月經げつけい初潮しよてうとき狼狽らうばいしたりすることがやうにといふ意味いみ注意ちういだけをするのが、れいになつてた。そんなに謹嚴きんげんで、性的問題せいてきもんだいなどを、くちにするのをいさぎよしとしないならば、むしなにはずに、沈默ちんもくすればいゝはずなのに、とおもはれるけれども、そこはまた大野校長おほのかうちやうが、おほい進取的しんしゆてきで、モダーンなこゝろみにおいては、けつして學校がくかうにヒケをらないといふ、名譽心めいよしん承知しようちしなかつたのであらう。
かうおいては、天下てんか率先そつしんして性教育せいけういくほどこしてりますが、いまかつ何一なにひと非難ひなんをうけるやうわる結果けつくわません。』
 といふのが性教育せいけういくくわんする機會きくわいあるごとに、大野校長おほのかうちやうくちからかれる紋切型もんぎりがた言葉ことばなのであつた。
 その天下てんか率先そつせんした年中行事ねんちうぎやうじにも、これまでかなりの變遷へんせんがあつた。一番最初ばんさいしよとしには大野校長おほのかうちやうみづから、講堂かうだう全校ぜんかう生徒せいとどうあつめたのであつたが、これ見事みごと失敗しつぱいであつた。校長かうちやうといふ役目やくめと、謹嚴きんげん看板かんばんとに束縛そくばくされて用語ようご不自由ふじいうため意味いみ不徹底ふてつていであつたうへに、年齡ねんれい經驗けいけんとに大差たいさのある各年級かくねんきふを一だうあつめたことは、一ぱう難解なんかいであるとともに、他方たはうには「わかりつた滑稽こつけいはなし」とされてしまつて、一かうたれにもやくたないといふ結果けつくわたのであつた。けれども、校長かうちやうとして各年級かくねんきふ別々べつ/\あつめて、各級かくきふおうずるやうに、性教育せいけういくをすることも、出來できかねるといふので、つぎには體操たいさう受持教員うけもちけうゐんが、その各級別かくきふべつ教育擔當者けういくたんたうしやえらまれたのである。
 ところが、體操教員たいさうけうゐんくちから、體操たいさう時間じかん雨天體操場うてんたいさうぢやうあたへられる「性教育せいけういく」はまた不評判ふひやうばんために、わづかに二年間ねんかんめられることになつた。それは體操教員たいさうけうゐんが、わかいからであつたか、あるひはそのにもなに理由りいうがあつたものかよくわからなかつたが、
『あの先生せんせい、いやなことばつかりふから、きらひだわ。』
『さうよ。わたしつぎ時間じかんやすむわ。』
 といふやう會話くわいわが、生徒せいとかんはじまつて、體操たいさうとき非常ひじやう缺席者けつせきしやえてしまつた。それを、
月經中げつけいちうには、安靜あんせいにしてはうがよろしい。過激くわげき運動うんどうは、けなければいけません。』
 とつたのをまもつて、缺席けつせきするものがおほいのであらうとかんがへてところが、實際じつさい月經中げつけいちうのものは、そんなことをふのをいやがつて、平氣へいき體操たいさうをしてるといふ、矛盾むじゆんした結果けつくわんだので、結局けつきよく受持うけもち女教員ぢよけうゐん[#「女教員に」は底本では「女教育に」]その役目やくめゆづることを餘儀よぎなくせられたのであつた。
 けれども受持うけもち女教員ぢよけうゐんも、あまり成績せいせきげることは出來できなかつた。同性どうせいといふ便宜べんぎはあつたけれども、受持うけもちで、始終しじうかほあはせてるといふ關係くわんけいから、せい問題もんだいについてはなしにくいことは、家庭かてい母親はゝおやどう一の立場たちばにあつたので、どうもりない――ものりないところがある――のをまぬかれなかつた。
 こんな工合ぐあひ擔當たんたう變更へんかうして、どれも結果けつくわずに、轉々てん/\して落着おちついたのが、いままでわすれられてた、囑託しよくたく學校醫がくかういであつた。
 醫者いしやは、職務しよくむ關係上くわんけいじやう平氣へいきでいろ/\説明せつめいすることに躊躇ちうちよしなかつたけれども、大野校長おほのかうちやう謹嚴きんげんそこなふまいとする註文ちうもんたいして、つぎやう抗辯かうべんあへてした。
『たつたそれだけのことをふのですか? それならば、各級かくきふ必要ひつえうりますまい。づ一年級ねんきふ――精々せい/″\年級ねんきふまでゝ十ぶんですね。上級生じやうきふせい月經げつけいはなしなどは、釋迦しやか説法せつぱふで、茶化ちやくわされるのにまつてるでせう!』
 醫者いしや言葉ことばは、わかりつたはなしで、べつ卓見たくけんでもなんでもない。勿論もちろん擔任たんにん女教員ぢよけうゐんも、わか體操教師たいさうけうしも、がついてたにちがひない。それにもかゝはらず、それ人々ひと/″\沈默ちんもくしてて、醫者いしやはじめて抗辯かうべん持出もちだしたのは何故なぜかといふと、これ醫者いしや囑託しよくたくで、ほか生活せいくわつみちがあつて、學校がくかうとの關係くわんけいかるるのと反對はんたいに、專屬せんぞく教員けうゐんとしては、校長かうちやうにらまれたが最後さいごたゞち生活せいくわつ脅威けふゐにぶつからなければならないといふ懸念けねんがある、その兩者りやうしや立場たちば相違さうゐぎなかつたのであつた。
 そんな變遷へんせんて、校醫かういくちから初年級しよねんきふ生徒せいとだけに、大野校長おほのかうちやう所謂いはゆる性教育せいけういく」をほどこすことになつて、幾年いくねんかを無事ぶじ經過けいくわしてたのであつたが、今年ことしは、從前じうぜん校醫かういが一しん都合上つがふじやう辭職じしよくして、あたらしく囑託しよくたくされた、べつ校醫かういくちからかれる、最初さいしよとしなのであつた。
 あたらしい校醫かういたいして、大野校長おほのかうちやうから、あらかじめその内容ないよう限定げんていされてたことは、ふまでもかつた――が、――
 が、由來ゆらい囑託しよくたく自由じいう境地きやうちにあるために、往々わう/\禁止きんしそとにまで出勝でがちで、校長かうちやう謹嚴きんげん限定げんていが、輕視けいしせられちの醫者いしやで、しかも新任しんにんで、――校長かうちやう氣質きしつをよくんでない校醫かういことであるから『どんなことをふかしらん。』といふ不安ふあんと、興味きようみとが、のあいて教員けうゐんを、こと/″\くその室内しつないみちびいて、來觀らいくわんせきかせたのであつた。なかにも大野校長おほのかうちやうは、校長かうちやうとして「性教育せいけういく」の必要ひつえう所以ゆゑん説明せつめいし、それから新任しんにん校醫かうい紹介せうかいしてのちに、がいがいして、
『では、これから、新任しんにん校醫かういかたから、靜肅せいしゆくにしてそのはなし御聽おききなさい!』
 と、をはつてからも、中々なか/\校長室かうちやうしつへは引上ひきあげずに、いつまでも/\例年れいねんにない熱心ねつしんで、その講話かうわみゝかたむけてたのであつた。

       二

 新任しんにん學校醫がくかういは、野々村一雄のゝむらかずをぶ三十二、三さい醫學士いがくしであつた。かれしづか登壇とうだんしてしづかかたはじめた。
只今たゞいま校長先生かうちやうせんせいからおはなしがありましたやうに、女性ぢよせいとしてあなたがたつてなければならないことについて、おはなししようとおもひます。うめもゝ御覽ごらんなさい、芽生めばえからだん/\おほきくなつても、何年なんねんかのあひだつぼみ出來できずに、唯々たゞ枝葉えだはしげるだけですが、ときるとはながなることは「もゝくりねんかきねん」といふことわざでゝもわかりませう。我々われ/\人間にんげんまたそのとほりで、ちひさいあひだにはらなかつたことが、丁度ちやうどあなたがたぐらゐ年頃としごろからそろ/\はじまつてまゐりますが、そのうちで一ばん意外いぐわいおどろかれるのは、月經げつけいといふものであります。月經げつけいといふものは、これから愈々いよ/\人前にんまへ婦人ふじんになるといふさきぶれのやうなもので、むしろそれがおこらない場合ばあひ心配しんぱいしなければならないのにかゝはらず、そのことらずにると、なに大怪我おほけがでもしたやうおどろいて、大騷おほさわぎをしてひとわられることになります。
 月經げつけい出血しゆつけつ外形ぐわいけいどう一であるために、よく目立めだ血液けつえき鮮紅色せんこうしよくおどろきつけて人類じんるゐは、――こと月經げつけいといふことを、豫期よきしなかつた場合ばあひに、非常ひじやうおどろくのは無理むりもありません。胃潰瘍ゐくわいやうとき肺病はいびやうときあかいのをれば、もうぬにきまつたものゝやうかんがちの人類じんるゐが、意外いぐわい出血しゆつけつおどろくのは、當然たうぜんでありますが、月經げつけいおどろかないでいゝ、むし女性ぢよせい發達はつたつしめした祝福しゆくふくすべき現象げんしやうなのであります。
 月經げつけい初潮しよてう時期じきは、もゝくりが三ねんで、かきが八ねんといふほど差違さゐはありませんが、人種じんしゆにより、土地とち氣候きこうにより、またそのひと生活状態せいくわつじやうたい――食物しよくもつ習慣しふくわんなど相違さうゐつても、また多少たせう遲速ちそくがあつて、熱帶ねつたいひとはやいが、寒帶かんたいひとおそいとか、肉食者にくしよくしやや、花柳社會くわりうしやくわいちかくにものはやいのにはんして、それと反對はんたい生活せいくわつをしてものたとへば菜食者さいしよくしやおそいといふやう關係くわんけいがあります。
 その時期じきは、くに若干じやくかん高等女學校かうとうぢよがくかう統計とうけいをとつた結果けつくわによれば、平均へいきんして滿まん十四ねん七ヶげつぐらゐでありますから、かぞどしにすれば十六さいが一ばんおほいので、それにぐのは十五さい、それから十七さいでありました。ゆゑに、しそれよりも、非常ひじやうはやもの早熟さうじゆく異常者いじやうしやでありますし、非常ひじやうおくれるものまたなにかの病的びやうてき事故じこためでありますから、醫師いし診療しんれうける必要ひつえうがあります。
それから、その初潮しよてうまへには、二三にちあひだ下腹したばら氣持きもちわるく、なんとなく全身ぜんしんがだるくて氣不性きぶしやうになり、こと下肢かしがだるいうへに、手足てあし節々ふし/\いたむことがあります。そのうへに、食事しよくじすゝまなかつたり、むねくるしくてきさうになつたり、あせ餘計よけいたり、尿意ねうい頻繁ひんぱんになつて、尿量ねうりやうしたりしますが、ひとつては、兩方りやうはう乳房ちぶさかたつて、まれにはかる[#ルビの「かる」は底本では「とる」]いたやう氣持きもちのすることさへあります。』
 野々村校醫のゝむらかういは、いきをついでから、またかたつゞけた。
『それが――月經げつけい愈々いよ/\來潮らいてうはじめると、體温たいをんわづかではあるがのぼり、脈搏みやくはくいちじるしくしてますし、乳房ちぶさおほきくなるとか、食慾しよくよくすゝまないとかいふやうな、來潮前らいてうぜん容態ようたいが一ぱんつよくなつてうへに、さら精神的せいしんてき變化へんくわおこつて、一ぱん神經過敏しんけいくわびんかたむきますから、夜中よなか安眠あんみん出來できなくなつたり、わけもなくかなしくなるかとおもふと、またわけもなくはらつたりして、平生へいぜいとは一寸ちよつと性質せいしつちがやうになりますから、これとくをつける必要ひつえうのあるときで、ときにいろ/\の誘惑いうわくをうけるものは、けつしてすくなくないといふことであります。
 そんなふうでありますから、時期じきには、なるべく精神せいしん肉體にくたい安靜あんせいたもつて、過勞くわらうけなければなりません。たとへばテニスそののスポーツもめ、ふかしや徹夜てつや勉強べんきやうめる必要ひつえうがあります。こと下腹部かふくぶひやしたり、激動げきどうあたへたりするのはいけませんから、水泳すゐえいをしたり、自轉車じてんしやうまなどことは、もつと禁物きんもつでありませう。學校がくかう體操たいさうなども、やすはうがよからうとかんがへられるのであります。
 月經げつけいは、しかしはやひとは三、四ながひとでも六、七にちぐらゐんで、ふたゝもと状態じやうたい復歸ふくきするもので、これもあまりながつゞくのはなに故障こしやうがあるものかといふ注意ちういはらはなければなりません。
 しかして一たん來潮らいてうすれば、それからは健全けんぜんでさへあれば、規則正きそくたゞしくおほよそ四週間目しうかんめごとに、すなはち二十八日目にちめに一くわいづつ繰迄くりかへされるはずでありますからこれ不規則ふきそくになつて、その四週間しうかん間隔かんかくが、あまりみじかくなつたり、あるひまたあまりながくなつたりすれば、なに身體からだ異常いじやうがあるものとかんがへねばなりません。
 もつと初潮しよてう當時たうじには、比較的ひかくてき不規則ふきそくことおほいのではありますが、これはや醫者いしやもらふのがいので、一はづかしいといふやうかんがへから、はふつてけば、それがためりかへしのつかないことになる場合ばあひがあります。一はづかしさのために、終生しうせい不健康ふけんかうまねくのはおろかであります。
 月經げつけい度毎たびごと苦痛くつうは、くわいかさねるにしたがつて減少げんせうして、のちにはなん苦痛くつうおぼえないひと澤山たくさんありますが、またひとによつてはいつまでも、いろ/\の苦痛くつうがあつて、こと精神的せいしんてき變動へんどう中々なか/\つよひとまたまれではありません。』
 校醫かういはそこでまた言葉ことばつた。それでをはるかとおもつてると、卓上たくじやうみづを一ぱいしてから、ふたゝはなしはじまつたのである。
『その月經げつけいといふものが、健康けんかうでありながらむといふ例外れいぐわいときがあります。これが、すなは植物しよくぶつ果實くわじつ出來できるとおなじく、ひと姙娠にんしんするときで……』
 そのとき傍聽ばうちやうして大野校長おほのかうちやうかほに、ときならぬ暗雲あんうんがかゝるとに、たちまちそのくちからおほきなこゑおこつた。
野々村君のゝむらくん! 野々村君のゝむらくん!』
 野々村校醫のゝむらかういは、おどろいて言葉ことばつて、校長かうちやうかほた。『なんですか。』とひたいやう面持おももちであつたが校長かうちやうにがつたかほをして、なにはないので、すこかほ表情へうじやうをかへて、さら校長かうちやうかほたのである。
 それは『だんからりて、おたづねにきませうか。』とくつもりだつたのであらうが、大野校長おほのかうちやうはだまつてつか/\と教壇けうだん肉迫にくはくして校醫かうい耳許みゝもとつた。
『そのはなしめてくれたまへ。姙娠にんしんはなしは!』
 さゝやくつもりであつたらうが、げきしてこゑおほきかつたために、それが室内しつないみなきこえたので、隅々すみ/″\からもクス/\といふ笑聲わらひごゑおこつた。校長かうちやうかほは、一そう險惡けんあくになつた。
『では、それはそれといたしまして。』
 野々村校醫のゝむらかうい曖昧あいまい言葉ことばで、話頭わとうてんじた。
『その月經げつけいといふ現象げんしやうは、つまり女性ぢよせい體内たいないにある、卵巣らんさうといふ内分泌器管ないぶんぴきくわんが、十ぶん發育はついくして卵子らんしといふものをつくる。それにともなつておこ出血しゆつけつでありまして、それがまへべましたやうに、四週間目しうかんめ週間目しうかんめ出來できるのであります。
 せい問題もんだいきましては、女性ぢよせいとしてつてかなければならないことがすくなくありません。これらないと大變たいへん不幸ふかうまねくことがあります。たとへば先年せんねん大都會だいとくわい女學校ぢよがくかうの四ねんか五ねん生徒せいとで、なにらなかつたために、不徳義ふとくぎ醫學博士いがくはかせために……』
 局面きよくめん變後ぺんご成行なりゆき如何いかにと、いきころして一をも聞洩きゝもらすまいとして大野校長おほのかうちやうは、ときたちまち、らいやう大聲おほごゑで、そのせきから怒鳴どなつたのである。
きみ! 中止ちうし! 中止ちうし!』
 まへには教壇けうだんまで餘裕よゆうがあつたが、今度こんどはもうそれさへかつた。前回ぜんくわい中止ちうしめいずるとともに、冷笑れいせうめいたこゑが四はうからおこつて一そうはらてゝ矢先やさきへ、今度こんどさら自分じぶん謹嚴きんげんにといふ註文ちうもんはないふしがあるとみとめたので、それが假令たとひむすびの言葉ことばであつたにしろ、最早もはや寸時すんじ默止もくしすることは出來できないとおもつたのであらう。
 はじめて校醫かういになつて、だよく大野校長おほのかうちやう氣質きしつらない、野々村校醫のゝむらかういは、あんまりの權幕けんまくおどろいて、そのまゝだんくだつたのであつたが、それでもたれ後始末あとしまつをつけるひといので、自分じぶんせきから生徒せいとどうたいして、
『では、これわたしはなしをはります。』
 と、簡單かんたん挨拶あいさつをしたのであつた。
 生徒せいとおどろいてしまつて、今度こんどはクス/\とわらどころさわぎではない。おたがひ驚異きやういをさかしさうにかゞやかせながら、あとが一たいどうなるかと、注意ちういするため神經しんけいはりやうとがらしてるのみであつた。

       三

 氣持きもちのいゝほどあたゝかで、一人ひとりぽつねんとしてれば睡魔すいまおそはれさうなはるびながら、にはめんした座敷ざしきえんがはで、二人ふたりをとこ對話たいわをしてる。
『どうもおどろいたね。ぼくもやかましいとはいてたが、まさかあれほどではあるまいとおもつてたんだ。』
『どうせあのをとこことなら、中止ちうしぐらゐはさせるだらう。』
中止ちうしもいゝが、なにはさないんだ。月經げつけいはなしをしてさ、健康けんかうならばはずだが、健康けんかうでもときがある。それが姙娠にんしんで、これ重大ぢうだいなる女性ぢよせい天職てんしよくであり、使命しめいであるといふことを、一ごんしたいとおもつたらそれがいけないのさ。』
ほど、それで中止ちうしか? まる普通選擧ふつうせんきよで、わけのわからない警官けいくわんが、無産黨むさんたう演説えんぜつかたつぱしから中止ちうし々々/\とやる態度たいどだとでもひやうするかね?』
『まあ、そこいらのことだらう。しからずんば批評ひひやうかぎりにあらずといふところさ。』
『そこでそれからどうしたんだ?』
中止ちうしといふから、あの大野校長おほのかうちやう自身じしん體裁ていさいよく結末けつまつをつけるかとおもつて、沈默ちんもくしてたがあんまりおこぎたせゐなんにもはないんだ。傍聽ばうちやうして教員けうゐん連中れんちうは、勿論もちろん君子くんしあやふきにちかよらずとかんがへて、教育家けういくからしい敬虔けいけん態度たいどで、唯々たゞ直立不動ちよくりつふどう姿勢しせいをとつてるだけだらう。仕方しかたがないから、中止ちうしされたぼく自身じしんくちひらいてめくゝりをつけなければをさまらないといふことになつたのだ。』
『ふん面白おもしろい。それから。』
『その結果けつくわがね、豫定よてい結論けつろんふうじられたもんだから、そらY事件じけんね、凌辱りようじよく墮胎だたい牢獄らうごくはひつたれい博士事件はかせじけんはなして、醫者いしや勿論もちろんわるいけれども、被害者ひがいしや普通ふつうせいくわんする常識じやうしきさへつてれば、けつして、あんな間違まちがひはおこらなかつたはずである。高等女學校かうとうぢよがくかう卒業そつげふ間際まぎはになつてながら、凌辱りようじよく肺尖はいせんカタールの治療ちれうとして子宮しきうあたゝめるのとの區別くべつがつかないといふのは、せいくわんする知識ちしきけて證據しようこで、その常識じやうしき缺乏けつばふがあんな悲劇ひげきしたのだとして、支離滅裂しりめつれつになつた結末けつまつをつけようとしたのさ。』
『それは駄目だめだつたらう。あの大將たいしやうはそこまではせはしまいとおもふが……』
『おさつしのとほりで、又々また/\中止ちうしさ。校長かうちやう今度こんどおこぎて、あのくろかほあかくなつてから、紫色むらさきいろになつたものだ。そこへおほきなロイド眼鏡めがねがあるので、なんのことはいゆでだこのばけものつていふ恰好かつかうだらう。一目ひとめたらをかしくなつてわらへてる。わらふと一そう不隱ふをんになるから、ぼく君子くんし仲間入なかまいりをして、あやふきにちかよらぬ方針はうしん自宅じたく引上ひきあげてしまつたといふ始末しまつで、そののちことらないけれども、さだめて大騷おほさわぎだつたらう。いまかんがへてもしたくなるくらゐさ。』
『さうか。あの大野おほのといふひとは、ぼくもいつか科學世界くわがくせかいの「せい問題もんだい批判會ひはんくわい」で同席どうせきしたことがあるのだが、中々なか/\あたまかたさうだね。』
 對談たいだんして二人ふたりをとこは、大野高等女學校おほのかうとうぢよがくかう校醫かうい野々村一雄のゝむらかずをとその友人いうじんのドクトル佐藤平次郎さとうへいじらうとで、中々なか/\したしい間柄あひだがらやうえる。野々村學士のゝむらがくしは、またとも言葉ことばけてかたるのであつた。
科學世界くわがくせかいつてば、あれにもあひだ性教育せいけういくはなしたぢやないか。大阪おほさか樟蔭高等女學校しやういんかうとうぢよがくかうの一年生ねんせいで、雜穀商ざつこくしやうすゑである一少女せうぢよが、去年きよねんなつ海水浴かいすゐよくかへみちに、友人いうじんから、「あのひとには月經げつけいがある」といはれたのをんで矢先やさきに、正月しやうぐわつから本統ほんとう月經げつけいはじまつた。そこで愈々いよ/\登校とうかうをいやがつて、奉公ほうこうをするつもりで家出いへでをして、神戸かうべ旅館りよくわんとまんでた。そこで自宅じたくはう大騷おほさわぎで、懸賞附けんしやうづきやつとその旅館りよくわんることをつきめたつてはなしだが、こんなのがあるとすればぽと眞劍しんけん性教育せいけういくほどこ必要ひつえうがあらうとおもふね。』
『さうかい、ぼくはあの雜誌ざつしないのでらなかつたが、それは自宅じたくぬかりだね。』
『さうさ、あねるし、母親はゝおやようし、資産家しさんか家庭圓滿かていゑんまんといふんだからおどろくぢやないか。いくら修身しうしん講釋かうしやくをして、聖人君子せいじんくんし仕上しあげても、人間にんげんとしてきて以上いじやう自分じぶん身體からだいてまは自然しぜん規則きそくらさなければ、駄目だめだらうぢやないか。ほとけつくつてたましひれないつていふやつだね。未開時代みかいじだい蠻人ばんじんが、自分じぶんむねをあてゝ心臟しんざう鼓動こどうおどろきながら、惡魔あくま飛込とびこんだのにちがひないとつて、切開きりひらいたら惡魔あくまないで自分じぶんんだといふはなしも、はず月經げつけいて、自分じぶん不具者ふぐしや病人びやうにんかと誤認ごにんしたため家出いへでをするのとは、程度ていどこそあれ、自分自身じぶんじしんきて過程くわてい要約えうやくらないといふてんおいては、まつたどう一だらうぢやないか。放屁はうひをしてこんな見下みさてた身體からだではきてられないと、自殺じさつくはだてるものがあればひとわらふが、月經げつけいおどろいて廢學はいがくするのもおなことさ。唯々たゞ世間せけん放屁はうひあきれて自殺じさつくはだてるものがいのに、月經げつけいおどろいて廢學はいがくするものがあるのはだね、つまり放屁はうひなんであるかといふこと放屁はうひはさうづべきことではない、きた人間にんげんには往々わう/\にして隨伴ずゐはんする生理的現象せいりてきげんしやうだといふことが、一ぱんをしへられてあるのにはんして、月經げつけいがそれとおなやうな、いなむし健康けんかう標徴へうちようとしてよろこばなければならない結構けつこう生理的現象せいりてきげんしやうであるといふことを、よくをしへないひとがあるからのことで、教育けういくが、放屁教育はうひけういくごとく一ぱん普及ふきふされたあかつきには、そんな馬鹿ばかげた現象げんしやうは、はらつてしまふはずだとおもふね。聖人君子せいじんくんしにも放屁はうひあり、烈女節婦れつぢよせつぷにも月經げつけいありといふことを、もつと/\よくらす必要ひつえうがあるんだが、修身しうしん講義かうぎひとは、まるかよはない人形にんぎやうやう教育けういくをするからどうもこまるんだ……』
『オイ/\きみ! そんな長講ちやうかうせきはいゝ加減かげんにしてもらひたいね。まるぼく不注意ふちういで、ぼくむすめ家出いへでしたやう説教せつけうめてほしいね。おまけに放屁教育はうひけういくのあたりは、少々せう/\脱線だつせん氣味きみ片腹かたはらいたいとところがあるぜ。』
失敬しつけいした、少々せう/\大野校長おほのかうちやうひたいところを、きみはうけちやつて。くちすべぎたのはわるかつた。』
『まあいゝや、それでめれば文句もんくしさ。脱線だつせんはしてても、きみ聖人有屁説せいじんいうひせつには敬意けいいへうするよ。聖人せいじんゆめしとはいてたが聖人せいじんありは初耳はつみゝだからね。高尚かうしやうとはひやうねるが、かく面白おもしろいよ。』
『さう茶化ちやくわすもんぢやないよ。』熱心ねつしんに、かほあかくしながらかたつてときひきかへて、野々村學士のゝむらがくしも、流石さすが一寸ちよつときまりのわるさうなふうえる。
茶化ちやくわしやしない。ぼくおほいきみせつ共鳴きようめいしてるんだ。科學世界くわがくせかいくわいつたときに、ぼく産兒制限さんじせいげんはなし脱線だつせんしてね、大分だいぶぎはしたんだけれども、あの大野おほのといふをとこ頑迷ぐわんめいまたがつけられないくらゐだつたからね。きみをあのときくわい出席しゆつせきさせて、おほい聖人有屁説せいじんいうひせつろんずる機會きくわいあたへなかつたのは遺憾ゐかんばんだ。』
ときにもう大分だいぶ時間じかんがたつね。』時計とけいおどろいたやうに、『もう五時半じはん大分だいぶぎたぜ。ぢやあ、すぐにこれからかけようか。』
『もうそんな時間じかんかい。よしかう。』
 佐藤さとうドクトルはつて、言葉ことばつゞけた。『ぼくはそれぢや一寸ちよつと用意よういをするからつてくれたまへ。』
 はるとはいふが、夕風ゆふかぜ中々なか/\はださむい。つめたはる夕風ゆふかぜに、にはさくらがヒラ/\る。佐藤さとうドクトルはさきつて、一人言ひとりごとやうなにひながらあるく。
『エート父子ふししんあり、長幼ちやうえうじよあり、夫婦ふうふべつあり、聖人せいじんありか。』
『オイまた有屁説いうひせつか? もうよしたまへつていふのに!』

       四

 二人ふたり歌舞伎座かぶきざはひつた。切符きつぷまへからつてあつて、一かいの「か」の十ばん、十一ばんといふせきは、るのには工合ぐあひわるくなかつたけれどもはひつたときには座席ざせきはうつくらに電氣でんきえて、舞臺ぶたいはうだけがあをいフツトライトでてらされて場面ばめんであつたので、二人ふたり大分だいぶ面食めんくらつたやうであつた。あと番附ばんづけると、それはもう一番目ばんめ狂言きやうげん、二まくんで、二番目ばんめのものも舞臺ぶたいまはつて、すで幕切まくきりちかときであつたことがわかつたが、そんな次第しだいで、なんことかわからない二人ふたりは、しばらくのあひだくらなかをパチクリさせながら、そのまくむのをちあぐんで姿すがたであつた。つまり十數分間すうふんかんかゝつて鴈治郎がんぢらうかほながいことだけを二人ふたりがかりで印象いんしやうしたにぎなかつた。
 幕合まくあひに、別館べつくわん食堂しよくだうはしうごかしながら、佐藤さとうドクトルがつた。
『どうせはじめはつまるまいとはおもつたが、あんまりちつきぎてわるかつたね。』
ぼくがしやべりぎたのがわるかつたのだ。ついはなしぎちやつたもんだから。』
『しかし今度こんど中幕なかまくりやいゝよ。左團次さだんじ鳴神上人なるかみしやうにんがいゝつてふからね。』
『まあさうとしてかう。』
 中幕なかまくの「鳴神なるかみ」には、左團次さだんじ鳴神上人なるかみしやうにん天晴あつぱれおこなひすまして甲斐かひもなく、松蔦しようてうのたえまひめはなしかけられて、だん/\こゝろがゆるんでき、一たん自省じせいしたものゝ、それもまた滅茶めつちや々々/\打壞うちこはされて、やがては自分じぶん草庵さうあんからノコ/\かけて、ひめ身體からだ接近せつきんしてしまふところえんじられた。芝居しばゐは一警視廳けいしちやうひかつて興行こうぎやう差止さしとめられたものであつたが、ふる歌舞伎かぶきかたあらためて、上人しやうにんひめとの嬌態けうたい骨拔ほねぬきにしたうへやうや許可きよかになつたもので、科白せりふ所作しよさ原作通げんさくどほりではなかつたけれども、修身しうしん講義かうぎ性教育せいけういくとの關係くわんけいろんじて、それがため折角せつかく芝居しばゐわすれて二人ふたりには、中々なか/\興味きようみのあるものなのであつた。
歌舞伎かぶき十八ばんの「鳴神なるかみ」が風俗壞亂ふうぞくくわいらんとして興行こうぎやう禁止きんしされたり、改作かいさく餘儀よぎなくされたりしたつてことは、おそらく前代未聞ぜんだいみもんだらうね。』
 小聲こごゑさゝややうに、佐藤さとうドクトルがふ。
『さうだらう。それも滑稽こつけいだが、おこなひすましてあめを一てき下界げかいらしてやらないとつて、龍神りうじんふうめた鳴神上人なるかみしやうにんが、たつた一目ひとめ美人びじんたばつかりに、たちまこゝろまよはしてぎやうやぶられ、大雨おほあめ沛然はいぜんらしてしまつたのも面白おもしろいね。修身しうしんかふで、操行さうかうかふで、優等いうとう學生がくせいが、しいかなせい知識ちしきたないために、普通ふつう學生がくせいならば相手あひてにもしないやうくだらない異性いせい接近せつきんするなり、早速さつそく堅固けんご道心だうしん粉碎ふんさいされて、失意しついさかひ急轉直下きふてんちよくかするのと、まつたどう一の經路けいろぢやないか。歌舞伎かぶき十八ばんなか性教育せいけういく必要ひつえう宣傳用せんでんようの一まくがあるのは愉快ゆくわいだね。これ大野校長おほのかうちやう是非ぜひせてやりたいとおもふがなあ。』
 これ野々村學士のゝむらがくしこたへであつた。
『さう大野おほの々々/\つてふのはよしたまへ。つともないから。なあにあれはね、くも絶間姫たえまひめ洛中らくちうだい一の美女びぢよだからのはなしで、きみならば鳴神上人なるかみしやうにんよりも、もつとはや降參かうさんしてしまふところだらうぜ。』
鳴神上人なるかみしやうにん辯護べんごはいゝが、ぼく引合ひきあひにして、くさすのはひどいね。』
『アハヽヽヽ。』
『アハヽヽヽ。』
 それで一たんはなし途切とぎれたが、しばらくしてからまたおなやう言葉ことばが、今度こんど野々村のゝむらはうから持出もちだされた。勿論もちろん小聲こごゑで。
矢張やはきみのいふとほり、鳴神上人なるかみしやうにん同情どうじやうすべきをとこだね。あゝいふ職業しよくげふ人間にんげんは、カストラチオン(去勢きよせい)をやらなければ、到底たうてい萬全まんぜんないわけだ。』
鳴神なるかみつみあらず、ホーデン(睾丸かうぐわん)のつみなりか? 相變あひかはらず奇拔きばつだ、まさ聖人有屁説せいじんいうひせつ匹敵ひつてきすべきものだね。』
舊教きうけううたうたひのをとこみたいに、オペラチオン(手術しゆじゆつ)をすれば、あんな苦痛くつう墮落だらくもないのだ。』
鳴神上人なるかみしやうにん手術室しゆじゆつしつの一まくくはへちや、芝居しばゐにならない。きみ奇拔きばつこと天才的てんさいてきだが、をしかな芝居しばゐらないね。』
馬鹿ばかへ。芝居しばゐ芝居しばゐ、それはそれさ。たゞればいゝものをらずにいて、一しやう餘計よけい努力どりよく苦痛くつうとをしてるのはおろかだといふだけのことさ。』
『しかし鳴神なるかみがオペラチオンをければ、墮落だらくしないかはりに、この芝居しばゐ成立なりたたないぜ。いや鳴神なるかみばかりぢやない、人生じんせい大半たいはんせい煩悶はんもん渦卷うづまきあやぎないのだから、さうカストラチオン/\でかたづけられてしまつたら、人生じんせい大半たいはんくなつてしまふわけだ。それぢやあつまらない。その煩悶はんもん苦痛くつうなかに、人生じんせい趣味しゆみ快樂くわいらくもあるので、さう簡單かんたんにはかたづかないよ。』
なにぼくだつて世間せけんのすべてにカストラチオンをやれとははないさ。あんな職業しよくげふもの、せめて宗教家しうけうか道學者だうがくしやだけにでもやらして、苦痛くつうしに實行じつかうを一さしたいといふ、一ぺん老婆心らうばしん發露はつろぎないんだ。』
うま工合ぐあひげたな。やうやく一ぱう血路けつろ見出みいだしたといふところだね。しかしいまはなしなら同感どうかんところがあるよ。去年きよねんくれに、百ゑんあまりの郵便貯金いうびんちよきん引出ひきだして、駒込神明町こまごめしんめいちやう待合まちあひ豪遊がういううへ、二ばんとまつたが、あさになつてさけゑひめると、財布さいふかるくつて商賣しやうばいのクリスマスの用意ようい出來兼できかねるところから、王子わうじ警察けいさつつて、まるつきりうそうつたへをした四十八さいになる宣教師せんけうしがあつたんだ。――えゝ「郵便局いうびんきよくかへりに飛鳥山あすかやました突然とつぜん二人ふたり怪漢くわいかんおそはれて、所持金しよぢきん強奪がうだつされたうへに、身體からだ毛布まうふつゝんで自動車じどうしや何處どこかへつれてかれ、二ばん監禁かんきんされた擧句あげく向島むかふじま言問ことゝひ土手どてうへげ出されました」つてね。それがバレてあぶらしぼられた牧師ぼくしかほは、想像さうざうしただけでも、うんざりするね。これでもかみさ。』
『フーン、ゆきやあれもひと樽拾たるひろひつてがあるが、クリスマスあれもかみはぢさらしではになるまい。』
るんだ。今年ことし正月しやうぐわつ令孃れいぢやう肘鐵砲ひぢでつぱうはされたはらいせに、その令孃れいぢやう途上とじやう脅迫けふはくしたばかりでなく、天命團長てんめいだんちやう柴金作しばきんさくほかたうといふで、きん三百ゑんを二十五にち、九までに、本願寺ほんぐわんじ鐘樓しようろうしためてけ、おうじなければ警察けいさつ交番かうばんとを全部ぜんぶ燒拂やきはらふぞといふ脅迫文けふはくぶんを、ひともあらうに警察署長けいさつしよちやうあてして、つかまつたをとこがあるんだが、それは一たいだれだとおもふね?』
『わからないが、今度こんど坊主ばうずか?』
『ちがふこれもヤソけうだ。門司市もじし救世軍きうせいぐん少尉殿せうゐどので、白木崎保育團長しらきさきほいくだんちやうといふものをしてる二十六さいかみさ。』
おどろいたね。そんなかみはカストラチオンにかぎるね。アハヽヽ。』
『アハヽヽヽ。』
 とき二人ふたりせきからちか疊敷たゝみしきの座席ざせきはうで、ときならぬ嬌聲けうせいひゞいて、附近ふきん觀客くわんかく視聽しちやうあつめたのであつた。
 二人ふたり同時どうじにそのはう視線しせんとうじると、その座席ざせきにはあかがほの五十恰好かつかう紳士しんしが、藝者げいしやとおしやくとをつれて、うれしさうにわらつてるのであつた。大分だいぶひがまはつてるのであらう。
 鳴神なるかみ場面ばめんうれしくなつて、おしやくしりつねつて甲高かんだか嬌聲けうせいはなたせたのであるから、本來ほんらいならばへないはずであるのに、多數たすう視線しせんを一しんあつめながら平然へいぜんとして、しわだらけのかほに、一そうわらひのしわくはへながら、熟柿臭じゆくしくさ呼氣いきをいやがるおしやくかほにふきかけて、相變あひかはらずうれしさうにわらつゞけてるのであつた。
『ありやあさつき食堂しよくだうかけたをとこぢやないか?』と野々村のゝむら
『ウン、ぼくもさうおもつたんだがね。まへにも何處どこかで見覺みおぼえがあるやうがするんだが――えゝと――あゝわかつた!』佐藤さとうドクトルはポンとひざたゝいた。『あれはね、矢張やはりあの科學世界くわがくせかい批判會ひはんくわい同席どうせきしたをとこだ! 夏本赤なつもとあからうつていふ○○醫科大學いくわだいがく學長がくちやうだよ。』
夏本なつもとつてのがあれかい? ぼく名前なまへだけはつてたが、かほるのは今日けふ[#「今日が」は底本では「今日か」]最初はじめてだ。』
 野々村のゝむらはさういひながらも、感心かんしんしたやうほもあなのあくほどむかふのかほつめてるのであつた。
左樣さうさ。あれが夏本博士なつもとはかせといふきみ大先輩だいせんぱいで、しかも強硬きやうかう廢娼論者はいしやうろんしやだよ。』
 しかしつた醫科大學長いくわだいがくちやうは、再度さいどつめこと滿足まんぞくおもふぞというやうかほつきで、相變あひかはらずうれしさうにわらつゞけてるのであつた。

       五

 夏本學長なつもとがくちやう中心ちうしんにして、そのひとが「科學世界くわがくせかいしや批判會ひはんくわい席上せきじやうで「我々われ/\主宰しゆさいする醫科大學いくわだいがくでは」と、さかん[#ルビの「さかん」は底本では「ゞかん」]高潔かうけつ清論せいろん吐露とろして、流石さすが官立くわんりつ醫科大學長いくわだいがくちやう感心かんしんなものであると、一人々ひと/″\尊敬そんけいさせた、その○○大學だいがく教授けうじゆが三にん待合まちあひはるの一しつに、盃盤はいばん狼藉らうぜききはめ、主客しゆかくいづれもゑひまはつて、玉山ぎよくざんまさくづれんとすといふときから、すで數時間すうじかん經過けいくわして、主人しゆじんこのみの「あめしよぼ」といふ如何いかゞはしい藝者げいしやをどりも、またひとへばかならずやる裸踊はだかをどりの一きよくこと/″\んで、これからだい次回じくわいにでもうつらうといふときであつた。
『おいおかみ、これから一寸ちよつとはなしがあるから、わか連中れんちうしばらくのあひだ遠慮ゑんりよさせてくれ。』
 と、藝者げいしやと一しよに、かほして女將おかみめいじて、あらた持込もちこまれた大火鉢おほひばちはうへ、夏本先生なつもとせんせいしづか御輿みこしうつしたのであつた。そめ八とわか藝者げいしやつて、一しよになつてさかんにお得意とくいの「やつこさん」ををどつて、をどりつかれたものか、假睡うたゝねゆめむすんで山内教授やまうちけうじゆも、無理むりおこされて○○大學だいがく左右さいうすべき中心人物ちうしんじんぶつは、そこに車座くるまざになつた。
折角せつかくきよういだのは、申譯まをしわけもありませんが、じつ今夕こんせき御集おあつまりをねがつたのは、大學だいがくはうではチト御話おはなしをしにく問題もんだいついて、こちらのはう都合つがふがいゝといふので、是非ぜひ有力いうりよく諸君しよくん御協議ごけふぎをしようとおもひまして、エー工藤君くどうくんからの御忠告ごちうこくもあつたものですから……』
 と、同席どうせき工藤民雄教授くどうたみをけうじゆかへりみながら、ひのため呼吸こきふくるしいのか、茶碗ちやわん取上とりあげて夏本博士なつもとはかせは、咽喉のどをうるほしながら學長がくちやうらしいちつきをせるやうに、一寸ちよつとばかりそりになつた。
 學長がくちやういまげられた工藤民雄くどうたみをといふ人物じんぶつは、非常ひじやう野心家やしんかであつて、ちか將來しやうらいにB大學だいがく學長がくちやうにならうといふはらは十二ぶんつてるけれども、大學だいがく昇格しようかくをしたばかりで、もと專門學校せんもんがくかう時代じだいとの複雜ふくざつ關係くわんけいうづいてなかしては、不得策ふとくさくであることを見越みこして、學内がくないもつと故參こさんで、しかももつとあやつやす性質せいしつ持主もちぬしである夏本赤なつもとあからうを、づそのにくまれやくになるにまつてる、最初さいしよ學長がくちやうまつげて、時期じきるまではたくみ背後はいごから黒幕くろまくになつて、あやつりのいとぐらうといふ魂膽こんたん智惠者ちゑしやであつた。夏本なつもともそれに全然ぜんぜんがつかないのではなかつたが、いまなつてかなければ、多年たねん我慢がまんして甲斐かひく、一しやううかあが時期じき見出みいだすことが出來できないであらうといふ懸念けねんと、本職ほんしよく學問がくもんよりも、きのみちであつた酒池肉林しゆちにくりん逍遙せうえうすごして、學位がくゐ中々なか/\まらふことが出來できず、同僚どうれうにはかろんぜられるし、工藤教授くどうけうじゆ尻押しりおしで學長候補がくちやうこうほだい人者にんしやとしての推薦すゐせんがあつたときにも文部省もんぶしやう學位がくゐくてはと二のあしまれたといふにが經驗けいけんもあるといふ始末しまつであつたから、内實ないじつかくも、○○大學々長だいがく/\ちやうといふ外形ぐわいけいそなへて、世間的せけんてき尊嚴そんげんたもつことが焦眉せうびきふであることをつたために、意味いみおいては、あやつられながらも報恩はうおん? の目的もくてきに、工藤教授くどうけうじゆ意見いけん尊重そんちようすべき必要ひつえうがあつたものである。工藤くどうはうでは、たくみ夏本なつもと急所きふしよとらへて、つぎ學長がくちやうになりたいといふてんで、こゝろざしを一つにする山内やまうち横橋よこばし兩教授りやうけうじゆと一だんとなり、三國同盟ごくどうめいあるひは三にんれば文珠もんじゆ智惠ちゑ故智こちならつたとともに、一ぱうにはまた責任轉嫁せきにんてんか意味いみで、いつもの「はる」の一しつ會合くわいがふしながら、「うてはまくら美人びじんひざめてはにぎる○○大學だいがくけん」といふ行動かうどう繰返くりかへして、いつとはしに「三人組にんぐみ」といふ尊稱そんしようをさへいたゞいてたのであつた。
 學内がくないには、これ不快ふくわい現象げんしやうかんがへてたものもあつたが、結束けつそく策略さくりやくと、學長がくちやうといふ支配者しはいしや位置ゐちにある役者やくしやとの、一だんたいしてはたない。それは自分じぶん本職ほんしよくなげうつて立働たちはたらくわけにもかず、また自分じぶん椅子いすかんがへねばならず、片手間仕事かたてましごとに、獨力どくりよくこれ制禦せいぎよするのは、到底たうてい不可能ふかのうことであつたからである。したがつて如何いか憤慨ふんがいする人々ひと/″\も、これ人物じんぶつには、何等なんら邪魔じやまにもならなかつたが、たつた一人ひとりはなは厄介やくかいへない人間にんげんがあつた。それは矢張やは教授けうじゆ一人ひとりで、「醫學評論いがくひやうろん」といふ醫事評論雜誌いじひやうろんざつし特別寄稿家とくべつきかうかとしてつね批評ひひやうふでつてをとこであつた。それは中原忠なかはらちう一とふもので、べつ黨派たうはがあるのでもないから、勿論もちろん齒牙しがにかける必要ひつえうのない代物しろものではあつたけれども、をとこすこしもふでげることをしないで、遠慮ゑんりよりのままを、おもとほりに深刻しんこく評論ひやうろんをする人間にんげんであつたから、うつかりこれ懷柔策くわいじうさくくはへたり、あるひこれ威壓ゐあつしたりすれば、かれたゞち懷柔くわいじう威壓ゐあつ事實じじつ列擧れつきよして、かへつて自分達じぶんたち不利ふりきたてんが、はなは厄介やくかいなのであつた。厄介物やくかいもの處分しよぶん如何いかにすべきかといふことが、すなは今夕こんせきはる會合くわいがふとなつて、此處ここあらはれて次第しだいなのであつた。
 夏本學長なつもとがくちやうは、言葉ことばつゞけた。
今夕こんせき御相談ごさうだんいたしたいのは、ほかでもないあの中原忠なかはらちう一にたいする處分しよぶん如何いかにすべきかといふ問題もんだいであります。御承知ごしようちとほりに、學内がくない事情じじやう不遠慮ぶゑんりよ公表こうへうされては、ひと我々われ/\どう迷惑めいわくするのみならず、ひてはが○○大學だいがく不名譽ふめいよきた次第しだいで、なんとか至急しきふにかたづけてしまふ必要ひつえうがあります。それにきまして、工藤教授くどうけうじゆ名案めいあんつてられるので、これからそれをうけたまはりたいとかんがへるのであります。』
 さういひをはつて、學長がくちやうふたゝ工藤くどうはうに、一べつあたへた。工藤民雄くどうたみをは、半分はんぶん禿はげかゝつたあたまげて、テラ/\とひかつたひらたいかほ得意とくいさうにかゞやかしながら、やをらうすくちびるうごかしはじめたのであつた。山内やまうち横橋よこばしとのはうむかつて――。
べつ名案めいあんといふほどでもないがね、調しらべてると中原なかはらが、留學期間りうがくきかんをはらないうちに、彼是かれこれほどはや歸途きときながら、文部省もんぶしやうへの歸朝屆きてうとゞけには正確せいかく期日きじつにロンドンから乘船じようせんしたやういてある。そこで十あまりの留學費りうがくひを、かれ胡麻化ごまくわしてわけだから、これ大學教授だいがくけうじゆとしてるまじき行爲かうゐで、そんなものがては、我々われ/\體面たいめんにかゝはるといふ理由りいうで、學長がくちやうから文部省もんぶしやう中原なかはら退職たいしよくせしめるやう上申じやうしんしてもらはうとおもふんだがね。如何んなもんだらう?』
『それはいゝが、先日せんじつ學長室がくちやうしつで、學長がくちやうからその理由りいう中原なかはら自決じけつせまつたときに……』
 横橋教授よこばしけうじゆ質問しつもんはじめた。『さう留學りうがく滿期まんき當日たうじつ出帆しゆつぱんする汽船きせんい、十ぐらゐ前後ぜんごむをない。それからそのあひだ留學費りうがくひも、たか些少させう金額きんがくであるし、十はや出帆しゆつぱんしたと公表こうへうすれば、學長がくちやうはじめ文部省もんぶしやうにまで手數てすうをかけるにぎないから、便宜上べんぎじやうしたことでたれでもの慣用手段くわんようしゆだんでもあり、官廳くわんちやうでは帳面上ちやうめんじやう矛盾むじゆんければ、なんでもいゝことになつてるといふ答辯たふべんで、學長がくちやうはうかへつてくちつぐんでしまつたといふぢやないか? そのてん大丈夫だいぢやうぶかね?』
 と、心配しんぱいさうである。
『そりや、あのをとこことだから、それくらゐことはいふさ。またあいつとしては實際じつさいわるいともやましいともかんがへてはまいし、逆襲ぎやくしふされゝば、それ以上いじやうことはいくらもある。しかしなんつたところで、あのをとこかられいの「醫界評論いかいひやうろん」をきりはなしてしまへば、安心あんしんなものさ。』
 工藤くどうは、發案者はつあんしやだけにおちついたものである。成算せいさんわれにありといふ心持こゝろもちで、
『「醫界評論いかいひやうろん」と中原なかはらとを絶縁ぜつえんさすことが出來できるかね?』横橋よこばしは、不安ふあんさうに質問しつもんつゞける。
絶縁ぜつえんして、中原なかはら執筆しつぴつをさせないのみならず、あれの主筆しゆひつはう夏本學長なつもとがくちやうからうまく持込もちこんで、「中原なかはらはうむれ」といふなが評論ひやうろんかすことにめたんだ。』と工藤くどう
『どうしてさううまつたんかい?』いままで沈默ちんもくしてた「やつこさん」の名人めいじん山内教授やまうちけうじゆ鎌首かまくびをあげた。
『それはね、あの主筆しゆひつといふをとこが、中原なかはら論文ろんぶん評判ひやうばんのいゝこと嫉視しつししてるのにじようじたのさ。それにかねをとこだからね。』工藤くどう黒幕くろまくらしい微笑びせううかべながらこたへてる。
『それにね。地方新聞ちはうしんぶんおもなものをこと/″\買收ばいしうして、一せい中原なかはら惡徳あくとくだいする記事きじを、毎日まいにちてさせることになつてる。それも敏腕びんわん夏本學長なつもとがくちやう御骨折おほねをりで、もうすつかりくすりまはつてるんだからね。』
流石さすがにうまいもんだね!』
だそこまではくまいとおもつてたのに、矢張やは上手じやうずだね。』
 山内やまうち横橋よこばしとはくちそろへて工藤くどう手腕しゆわん感嘆かんたん言葉ことばもらした。
 夏本學長なつもとがくちやうは、二人ふたり言葉ことばをはるのをつて、鷹揚おうやうふたゝ發言はつげんした。
『まあそんな次第しだいでね。その新聞しんぶん雜誌ざつしに、中原なかはら惡徳あくとく澤山たくさんかれたものをあつめて、これ參考資料さんかうしれうへることにし、べつまた○○大學だいがく公文書こうぶんしよとしては、留學費りうがくひ詐取さしゆした事實じじつげて、學内がくない教授けうじやどうかれ排斥はいせきしてるから、至急しきふかれ退職たいしよく餘儀よぎなくせしめてもらひたいといふ上申じやうしんをすることにしたいとおもふのであります。如何いかゞでせう、諸君しよくん御意見ごいけんは?』
賛成さんせい!』
賛成さんせい!』
異議いぎし!』
『ではさうすることにめました。』とつて、ハタ/\とをたゝいた學長がくちやうは、閾越しきゐごしにをついた女中ぢよちうかへりみて、
『もうはなしんだから、すぐに藝者達げいしやたちをよこしてくれ。それからおかみにもかほして、おほいなほしだとつてくれ!』
 とめいじたのであつた。
人情にんじやうとしては、如何いかにもどくおもふけれども、B大學だいがくためにはむをんさ!』
『つまりあのをとこ馬鹿ばかなんだよ。我々われ/\と一しよになつて、おほいんでおほいうたへばいゝものを、あの中原なかはらたら、まつた酒色しゆしよくともにしないんだからね!』
愉快ゆくわいともにしないばつといふものだ!』
 そんな批評ひひやうが、またひとしきりみなくちかららされてあひだに、藝者達げいしやたちがゾロ/\とはひつてた。
『オイおしやくだ/\。まないとくびになるんだぞ!』山内やまうちは、さうさけびながら、さつき一しよをどりぬいたおりのわかそめ八の手首てくびをギユツとにぎつた。

       六

 それ以來いらい毎日まいにち土地とち新聞しんぶんには、一せい中原忠なかはらちう一を非難ひなんする記事きじ出初ではじめて土地とち人々ひと/″\おどろかした。
大學教授だいがくけうじゆ公金詐取こうきんさしゆ
『○○大學だいがく中原教授なかはらけうじゆは、國賊こくぞくなり』
 といふしき標題みだしで、「學界がくかい廓清くわくせいために、惡漢あくかんはうむれ」とか、「夏本學長なつもとがくちやうなにゆゑ蹶起けつきして、醜漢しうかんくびらざるか」とかいふ、いづれも似通にかよつた内容ないようのものゝみならず、ゴシツプのらんにまでも、「醜教授しうけうじゆ家庭かてい」とか、「中原氏なかはらし日常にちじやう」といふやうにして、るにへないやう人身攻撃じんしんこうげき、それも大半たいはん捏造ねつざうぞくするものであつたから、こゝろあるひとには、地方新聞ちはうしんぶん慣用手段くわんようしゆだんで、いづまた何者なにものかのためにする記事きじであらうとおもはれたけれども、めくらにんなかで、むよりはまれるものゝはうおほいのに、まして大學教授だいがくけうじゆといふものを、事實じじつ以上いじやう高級かうきふ人物じんぶつ天下第てんかだいりうものかんがへて土地とち人々ひと/″\あひだには、これために一だいセンセーシヨンをおこして、
じつ不都合ふつがふをとこ中原忠なかはらちう一である。』といふかんがへで、狹苦せまくるしい市中しちう充滿じうまんさせたことは、確實かくじつであつた。
 その新聞しんぶんをつきつけて、再度さいど自決じけつせまられたけれども、中原教授なかはらけうじゆみづか引責いんせき必要ひつえうみとめないとつて、辭職屆じしよくとゞけせといふ要求えうきう應諾おうだくしなかつた。して夏本學長なつもとがくちやうから、
留學費りうがくひ胡麻化ごまくわしても、きみわるいとはおもはないのか!』
 とめられても、
『それは解釋かいしやく故意こいわるくすればさうもなりませう。しかしまへにも御答おこたへしたとほりに、出發しゆつぱつの日に――つまり留學りうがく滿期まんき當日たうじつ丁度ちやうど汽船きせん出帆日しゆつぱんび相當さうたうすることはまれです。してし一にちでも出發しゆつぱつおくれる場合ばあひには、それこそ留學りうがく延期願えんきねがひなにかで非常ひじやう手數てすうえうしますから、それをたれでも便宜上べんぎじやうにやることは、わたしよりもむしなが經驗けいけんのあるあなた――學長がくちやう――のはうが、より以上いじやうくはしいはずです。故意こいにそんなことてゝ、自分じぶん學内がくないから所謂いはゆる詐欺漢さぎかんすことはけつして學長がくちやうとしてのあなたの名譽めいよともおもひませんが、何故なぜにわざ/\こと荒立あらだてる必要ひつえうがあるのですか!
 しもわたしのその行爲かうゐが、公金こうきん詐取さしゆだとはなければならないとすれば、毎年まいねん年度末ねんどまつ剩餘金じようよきん旅行りよかうをしたり、差當さしあた入用にふようでもないものまで購入こうにふしたりするのも、矢張やは公金こうきん胡麻化ごまくわすのではないでせうか。陸軍りくぐんなどでは、年度末ねんどまつになると、あまつた彈丸だんぐわんをポン/\と爆發ばくはつさせてしまふつてひますね。それはふまでもく、それを剩餘じようよとか、過剩くわじようとかして返納へんなふすれば、それだけの金額きんがく翌年度よくねんど豫算よさんから差引さしひかれたり、手數てすう非常ひじやうにかゝつたりするからのことで、わるいとへばむしろさうするはう便利べんりになつて制度せいどつみかもれませんね。
 わたしにはひて學長がくちやう抗辯かうべんをするかんがへもありません。しかしこれため大學だいがく體面たいめんけがしたとか、同僚どうれう教授けうじゆのつらよごしだとかはれたり、殊更ことさら詐欺さぎばはりをされるおぼえは、わたし不肖ふせうながら毛頭まうとういのであります。したがつて辭職願じしよくねがひ意志いしはありません。わたし在職ざいしよくがいけないといふのならば、學長がくちやうはうからなんとでもしてもらひませう!』と主張しゆちやうして、ぐわんとして所謂いはゆる學内がくない教授けうじゆどうからといふ要求えうきう峻拒しゆんきよしてしまつた。それからまた
學内がくない教授けうじゆどう要求えうきうといはれましたが、はたして教授けうじゆどうがさういふか如何どうか、一諸君しよくん面接めんせつしてせき御尋おたづねをしてたいとおもひます。』といふことをも要求えうきうした。しかし、
『いや、教授けうじゆ諸君しよくんは、きみやう人物じんぶつ同僚どうれうどう體面たいめんけがしたもの面會めんくわいをするのをこゝろよしとしないとつてるから、その要求えうきうれること出來できない!』と學長がくちやう謹嚴きんげんそのものゝやうこたへて、たくみ工藤くどうにん以外いぐわい人々ひと/″\が、うつかりくちすべらしたりしないやうに、めてしまつたのであつた。
 わか中原教授なかはらけうじゆは、口惜くやしいといふこゝろから滿面まんめんしゆをそゝいだやうになつて、激昂げきかうはしてたものゝかく相手あひてから憎々にく/\しい野郎やらうだとおもはれるほどよく頑張ぐわんばとほしたのであつた。かれ同情どうじやうやうとはかんがへなかつた。孤立無援こりつむゑんで、敵軍重圍てきぐんぢうゐなかつた中原なかはらは、むをみづか文部省もんぶしやう出頭しゆつとうして、專門學務局長せんもんがくむきよくちやう事情じじやうべたが、それは官廳くわんちやうでは通用つうようしないことであつた。
事情じじやうはさうだらうとおもふ。しかし、あらゆる情報じやうはうこと/″\くあなたに不利ふりになつてて、誰一人たれひとりあなたを辯護べんごするものもい。それに一教授けうじゆとして、支配しはいくべき學長がくちやうたいしてたてつくといふ事實じじつそれのみでもすで官吏くわんりとしてなすべからざる行爲かうゐではないですか! もう一よくかんがへてはうが、かへつてあなたのためでせう!』
 といふのが、局長きよくちやうこたへであつた。
 してそれから數日すうじつのちに、
『○○醫科大學いくわだいがく教授けうじゆ中原忠なかはらちう
 文官分限令ぶんくわんぶんげんれいだいでうだいがう休職きうしよくめいズ』
といふ辭令じれいと、「留學費りうがくひとして支給しきふしたるものゝうちきん○○ゑん即時そくじ御返納ごへんなふ有之度これありたく……」といふ會計課長くわいけいくわちやうからの親展書しんてんしよとが、相前後あひぜんごして中原なかはら手許てもととゞけられたのであつた。
 その日のることを、ねてから豫想よさうして中原なかはらは、その辭令じれいにしながら、わたしにこんな虚僞きよぎ滿ちた生活せいくわつは、自分じぶんには不適任ふてきにんだといふことを自覺じかくし、またふたゝびもうこんな職務しよくむ從事じうじしないぞといふ決心けつしんをした。決心けつしん出來できれば、かへつてノンキでいままでの惡鬪あくとう馬鹿ばからしくさへかれにはおもはれてたのであつた。
ぼくわるかつたんだよ。あの夏本なつもとんだくれと一しよ藝者買げいしやかひをして、馬鹿騷ばかさわぎをやりさへすりや、いくらでも出世しゆつせ出來できるんだがなあ! 藝者げいしやざるもの悲哀ひあい! 痛飮つういん泥醉でいすゐざるものゝなげき?』
 そんなことをブツ/\獨語ひとりごとしながら、浪人らうにんとなつた中原忠なかはらちう一は、さびしい微苦笑びくせうもらした。手腕しゆわんあざやかな理想的りさうてき能吏のうり夏本學長なつもとがくちやうしたに、こんな不都合ふつがふ心掛こゝろがけもの存在そんざいが、ゆるされなかつたのは、むし當然たうぜんぎる事實じじつはなければならない。

       七

 初夏しよか新緑しんりよく會員くわいゐん寄附金きふきん出來上できあがつた、宏壯かうさう閑靜かんせい洋館やうくわん圍繞ゐねうして庭園ていゑんこんもりおほうて、るからに奧床おくゆかしさうなのは淑風會しゆくふうくわい事務所じむしよと、會長くわいちやう内海葉子女史うつみえふこぢよしとの邸宅ていたくとをねた一くわくである。
 輕々かる/″\しい洋裝やうさう斷髮だんぱつのみならず、一先覺者せんかくしやとして、甲斐々々かひ/″\しくも淑風會しゆくふうくわい會務くわいむつくして、青春せいしゆん他所よそ雄々をゝしく、ざましい活躍くわつやくつゞけられるのをなぐさめんがめに、全國ぜんこく幾萬いくまん會員くわいゐんからの寄附きふつのつて、東京市とうきやうしやま建築けんちくされたのが、すなはの一くわくで、内海會長うつみくわいちやうしたつて、學僕がくぼくといふやうかたち邸宅内ていたくない起臥きぐわして、掃除さうぢ炊事すゐじその萬端ばんたん家政かせいつてわか婦人ふじんも、數人すうにん以上いじやうのぼつてるのである。
 省線電車しやうせんでんしや去來きよらいや、大小だいせう邸宅ていたく眼下がんか見下みおろ高臺たかだいうへにあつてよるながめのひとしほうつくしいのを窓越まどごしにほしいまゝにする應接室おうせつしつで、なに帳簿ちやうぼ内海女史うつみぢよしは、しばらひたひしわをよせて、一寸ちよつと不愉快ふゆくわいらしいかほをしたかとおもうちに、きふせはしさうな呼鈴よびりんをけたゝましくらすのであつた。
先生せんせい! なに御用ごよう御座ございますか?』
 二十さいあまりのおとなしさうなむすめが、しづかにドアーをノツクしてはひつて、丁寧ていねいあたまげた。それが淑風會しゆくふうくわい會員くわいゐんで、くわいためつくすとともに、會長くわいちやうたる内海女史うつみぢよし淑徳しゆくとくしたふあまり、日夕につせきそのひと咫尺しせきして、すこしでも餘計よけいにあやかりたいとおもこゝろから、事務所じむしよ學僕がくぼくそのまゝの生活せいくわつをしてひとであることはいふまでもないのである。
『あゝ御苦勞ごくらうですがね。』會長くわいちやうは、わか女性ぢよせいかへりみながら、命令めいれいした。『急用きふようがあるから、古富ふるとみさんにぐにてくれとつてください。大急おほいそぎでね!』
『はい! かしこまりました。』
 わか女性ぢよせいつてからく、またノツクのおときこえて、はひつてたのは○○醫科大學いくわだいがく制服せいふくをつけた、だ二十四、五のわか學生がくせいであつた。
なにきふ御用ごようきましたが……』
『どうしたの、いやにあらたまつてさ。古富ふるとみさん。』内海女史うつみぢよし非常ひじやう馴々なれ/\しい調子てうしで――『さあ急用きふようだから、此處ここへおかけなさい。』さういひながら自分じぶん今迄いままでこしおろして椅子いす青年せいねんあたへて、自分じぶん横手よこてのソフアーに、會長くわいちやうらしくないくだけたすわかたをした。
急用きふようつていふのはね。じつは……一寸ちよつとひにくいんだけれども……』
『一たいなんですか? 會長くわいちやう!』
會長くわいちやうなんていふのおよしなさいよ。餘計よけいはなし切出きりだしにくゝなるから!』
『……』
『あのね、ぢやあつちまふけど、……じつはね。』またじつはをかさねてつて、一寸ちよつと言葉ことば杜切とぎれたがすぐに元氣げんきよく、『此間中このあひだぢうからなんだかをかしい/\とおもつてはたんですがね、ぢきになほるだらうとはふつていたけど駄目だめで、だん/\氣持きもちわるくなるばかりで、どうもたゞれてゞもるのか、いたくつて仕方しかたがないの。一たい何病なにびやうなんでせう。』
 女史ぢよし流石さすがすこかほあかくしてゐた。
『はあ、それはこまりましたなあ!』
『はあぢやありませんよ、じれつたい! あなたがこんなにしたんぢやない?』わらひをふくみながら、にら眞似まねをして、『お醫者いしやにならうつていふひとにも似合にあはない、病氣びやうきなほさずに、かへつてひと病氣びやうきにするなんて。あんまりぢやない?』
『けれどもぼくら……』
 女史ぢよしは、熱心ねつしん辯明べんめいしようとしながら、言葉ことばないのにくるしんで古富青年ふるとみせいねんかほを、うれしさうに目尻めじり小皺こじわをよせて凝視ぎようししながら、
『いゝえ、さうぢやないの。一たい病名びやうめいなにかつてことがりたいのよ。――頼母たのもしいわね、その純眞じゆんしんところが……』
 と、語尾ごびむしひとごとちかくらゐひゞくのであつた。
『……疼痛とうつうがあつて、知覺過敏ちかくくわびんなんですね。分泌ぶんぴたかまつてはりませんか? おそらく淋疾りんしつだらうとかんがへますが、あとでノートをてからあらためて御返事ごへんじします。本統ほんとうへば、診察しんさつしなければ確實かくじつなことはへないんですけれど……』
『このひと本統ほんとううぶなのね。それでて、一たい何處どこから淋疾りんしつなんかを背負しよんでたの?』
 内海女史うつみぢよし言葉ことばは、もう淑風會長しゆくふうくわいちやうらしくない、くだけたやうな、下品げひんやうな、粗野そややうなものになつて、平生へいぜい會長くわいちやうとしての女史ぢよしひとには、みづからのうたがはなければならないほど奇觀きくわんていしてるが、これると人間にんげんといふものは、會長くわいちやうとして數知かずしれぬほど會員くわいゐん尊敬そんけいけるだけでは滿足まんぞく出來できないで、かへつて唯々たゞ一人ひとり異性いせいと、四角張かくばらない態度たいどつてはうが、より以上いじやうのぞましいものらしくおもはれる。
『エヽ、それは……』
 古富青年ふるとみせいねんが、モジ/\するばかりで、こたへにくるしんでるのを、けてしまふかとおもはれるばかりの目付めつきで、かずながめて女史ぢよしは、
『そんなにひにくいのなら、はなくてもいゝわ。』と、一たん言葉ことばつて、『なけりやわからないつたつて、貴方あなた診察しんさつなんかたのめないぢやないの! きまりがわるくつて! たれ適當てきたうひといでせうか?』
『では、僕等ぼくら大學だいがく先生せんせいは?』
駄目だめ々々/\! ○○大學だいがくなんかへけば、すぐにわたしれてしまふ、わたしにいけないばかりでなしに貴方あなただつてこまるのに!』單純たんじゆん青年せいねんかんがへたちまちに一しうされてしまつた。
大學だいがくがいけなければ……』
『……』
 親密しんみつ二人ふたりあひだに、しばら沈默ちんもくつゞいたときに、しつのドアーをノツクするおときこえた。それは丁度ちやうど都合つがふよく言葉ことばときに、ノツクされたものか、それとも、まへからノツクしてたのであるが、會話くわいわ熱心ねつしんのあまり、みゝはひらなかつたものであつて、寂莫せきばくになつてからはじめてきこえたものか。どつちかわからない! すくなくとも、後者こうしやではないかといふ懸念けねんが、サツと一まつ暗影あんえい女史ぢよし腦裡なうりげて、いままでたのしさうであつた晴々はれ/″\しいかほに、濃厚のうこう不快ふくわいいろたゞよはしたのであつた。
 女史ぢよしは、『チヨツ!』とひく舌打したうちをしながら、ソフアーからつて椅子いすうへに、莊重さうちよう態度たいどすわつてから、命令めいれいするやうに、
『おはひり!』
 とさけんだのである。
 ドアーから姿すがたせたのは、矢張やは當番たうばん會員くわいゐんであつたが、まへ女性ぢよせいではなかつた。
『あの――只今たゞいま内務省ないむしやう尾本登をもとのぼるさんがおでになりまして、先生せんせいにおにかゝりたいとおひで御座ございますが……』
『さう。ひますから、二がう應接室おうせつしつへおとほしゝていてください! 失禮しつれいやうに、よくをつけてね。』
『ハイ! かしこまりました。』
 わか女性ぢよせい丁寧ていねい辭儀じぎをしてるのをちかねたかのやうに、内海女史うつみぢよしまたソフアーのうへよこたはつて
『あゝやりれない/\。邪魔じやまばつかりはひつて、本當ほんたうにしんみりしたはなしひと出來できないんだもの! 古富ふるとみさん! もつと同情どうじやうして頂戴ちやうだいよ――さあ。そんなにかしこまつてないで、こつちへいらつしやい! もつと/\。』
 ソフアーの半分はんぶんのあいたところしたは、青年せいねんめいのまゝになるまでかないのであつた。
『あのね、わたしつぱり、開業かいげふして婦人科ふじんくわ醫者いしやところきませう、そのはうひとにわからなくつていゝから――××まち野々村醫院のゝむらいゐんつてのらない? あれでも醫學士いがくしいてあるから、これぐらゐ病氣びやうきならいゝでせうとおもふの――。ぢやあよろしい。さうとまつたら、わたしむかふでまたはなしをしてるけれど、一寸ちよつと挨拶あいさつをしませうね。おわかれの――』
 女史ぢよししろうでびるよとに、『チユツ。』といふおとは、たか青年せいねん古富豐彦ふるとみとよひこほゝのあたりにひゞくのであつた。

       八

 尾本登をもとのぼる内海女史うつみぢよしうたのは、矯娼會けうしやうくわいから二、三の代議士だいぎしつて衆議院しうぎゐん廢娼問題はいしやうもんだい結婚法案けつこんはふあんなどくわんする議案ぎあん提出ていしゆつすることについて、内海女史うつみぢよし淑風會しゆくふうくわいおいても、協力けふりよくしてもらひたいといふ依頼いらいためであつた。内務省ないむしやう役人やくにんである尾本氏をもとしが、こんなことかけてるのは、をかしいやうえるけれどもそれは矯娼會けうしやうくわい樞要すうえう位置ゐちめてるからであつて、かれがその位置ゐちゑられた理由りいう内務省ないむしやう役人やくにんれてけば、萬事ばんじおいくわい仕事しごと都合つがふよくはこつは世間的せけんてきおしためだといふ理由りいうけば、一けんをかしかつた現象げんしやうも、をかしいところか、むし當然たうぜんぎるほど當然たうぜんなことが、よくわかつてるのである。
先日せんじつ大體だいたい御賛同ごさんどうました廢娼問題はいしやうもんだいのことは、もうまを必要ひつえうもないのですが、今度こんどまたひと結婚法案けつこんはふあんはうついても、御賛同ごさんどうたいとおもひまして……』一通ひととほりの挨拶あいさつんでから、尾本氏をもとし今日けふ來意らいいべるのであつた。『前回ぜんくわい問題もんだい同樣どうやうではりまするが、今回こんくわい問題もんだいついては、こと淑風會しゆくふうくわいわづらはさなければなりません。と次第しだいは、問題もんだい性質上せいしつじやう、どうしても婦人側ふじんがはから提出ていしゆつされるはずのもので、御婦人ごふじん會長くわいちやうとする淑風會しゆくふうくわいが、中心ちうしんになつていたゞかないと、だい不自然ふしぜんひゞくのみならず、いろ/\工合ぐあひわるてんおこります。ところ私達わたしたち矯娼會けうしやうくわいは、その資格しかくけてりますので、又々また/\御邪魔おじやまました次第しだいで――何卒どうぞ草案さうあん御覽ごらんねがひたいとおもひます。』
『はア。』
 といさゝかやう返事へんじをしながら、女史ぢよしにしてした紙片しへんには、つぎやう文字もじかれてあつた。
    結婚法案けつこんはふあん理由書りいうしよ
 現今げんこん我國わがくにける社會問題しやくわいもんだいは、性的生活せいてきせいくわつ不調和ふてうわ基因きいんする事實じじつもつとおほく、これため離婚問題りこんもんだい續出ぞくしゆつすること、世界せかいにそのざるがごと多數たすうおよべるは、じつに一にち閑却かんきやくすべからざるところしかしてその由來ゆらいするところは、結婚けつこんかろんずる弊風へいふう……
    結婚法案けつこんはふあん
だいでう 本法ほんぱふおい結婚當事者けつこんたうじしやしようするは、……
だいでう 結婚當事者けつこんたうじしやは、げん黴毒ばいどく其他そのた花柳病くわりうびやうかゝらず、またこれ感染かんせんせしむるおそれなきことを醫師いし診斷書しんだんしよもつ證明しようめいすべし。
 結婚當事者けつこんたうじしやは、結婚けつこん前日ぜんじつまでに前項ぜんかう診斷書しんだんしよを、市町村長しちやうそんちやう提出ていしゆつすべし。
だいでう げん花柳病くわりうびやう感染かんせんせるにかゝはらず、ひて結婚けつこんせんとするものは、男女双方だんぢよさうはうおい疾病感染しつぺいかんせんおそれあることを認知にんちし、醫師いしより豫防方法よばうはうはふいて、一てい注意ちういくることをえうす。醫師いし前項ぜんかう注意ちういしたるときは、診斷書しんだんしよたゞち市町村長しちやうそんちやう提出ていしゆつすべし。
だいでう 醫師いし結婚當事者けつこんたうじしやいづれかにおいて、げん花柳病くわりうびやう感染かんせんせるにかゝはらず、これ隱蔽いんぺいせるうたがひあるときは、遲滯ちたいなく市町村長しちやうそんちやう告知こくちすべし、場合ばあひおいては、醫師いし業務上げふむじやう默秘義務もくひぎむにより拘束こうそくせらるゝことし。
だいでう 結婚當事者けつこんたうじしやは、結婚後けつこんごおい花柳病くわりうびやう隱蔽いんぺいせられたる事實じじつ發見はつけんしたるときまた結婚生活けつこんせいくわつへざる虚弱きよじやく體質たいしつなることを發見はつけんしたるときは、その結婚けつこん取消とりけすことを
 たゞ前項ぜんかう取消とりけしは、これを二くわい以上いじやうすことをず。
だいでう 結婚當事者けつこんたうじしやは、虚僞きよぎ證明書しようめいしよもつ結婚けつこんしたることを發見はつけんしたるときは、離婚請求りこんせいきう提起ていきすることを
 たゞ前項ぜんかう請求せいきうは、これを二くわい以上いじやうすことをず。
だいでう 醫師いし結婚當事者けつこんたうじしや診斷書しんだんしよ故意こいに、虚僞きよぎ事實じじつ記載きさいしたるときは、開業かいげふ許可きよか取消とりけさるべし。
だいでう 醫師いしは、本法ほんぱふ診察しんさつおよ診斷書しんだんしよ交付かうふ義務ぎむいうするものとす。
だいでう 本法ほんぱふ規定きてい違反ゐはんしたるものにいては、……でう罰則ばつそく準用じゆんようす。
だいでう ……

 順次じゆんじとほしてうちに、一寸ちよつと女史ぢよし顏色かほいろ潮紅てうこうしたり、紙片しへん手先てさきかるうごやうえたりしたときがあつた。しかしそれは、おそらく尾本登をもとのぼるにはがつかなかつたくらゐの、きはめて輕微けいびなもので、たん女史ぢよし自身じしんこゝろなかに、あは動搖どうえうおこしたにぎなかつた。それよりもだいでうの一せつで、『また結婚けつこんへざる虚弱きよじやくなる體質たいしつなることを發見はつけんしたるときは、その結婚けつこん取消とりけすことを。』といふところを、非常ひじやう興味きようみおぼえたかのごとく、二、三見返みかへして、双頬さうけふうへ微笑びせうさへたゝへられたことのはうが、かへつて尾本氏をもとしについたはずである。
非常ひじやう結構けつこう御主旨ごしゆしです。妾達わたしたち淑風會しゆくふうくわい會員精神くわいゐんせいしんと、丁度ちやうどするやうかんがへますから、よろこんで今度こんど御運動ごうんどうにも、賛同さんどうすることゝいたしませう。』をはつてから、内海女史うちみぢよし尾本氏をもとしこたへた。『年齡としにはなつてりますが、結婚生活けつこんせいくわつらないわたしには、花柳病くわりうびやうくるしみがはたしてどんなものかを、想像さうざうすることも出來できませんが、しか淑風會しゆくふうくわい會員くわいゐんなどに、こんな苦痛くつうをさせたくないとおもへば、おぼろげながらものろはしい病氣びやうきくるしみがわかるやういたします。』
早速さつそく御快諾ごくわいだくくださいまして、感謝かんしやへません。嬌娼會けうしやうくわいのもの一どうさだめてよろこぶこととしんじます。』
 尾本氏をもとしかほは、本當ほんたうよろこばしさうにかゞやいてえた。
『では協力方法けふりよくはうはふ具體案ぐたいあんは、つてうけたまはることにいたしますが、何卒どうぞ交換條件かうくわんでうけんまをすのもなんですけれども、是非ぜひ淑風會しゆくふうくわい入會者にふくわいしや一人ひとりおほ御周旋ごしうせんくださるやうに、御依頼ごいらいいたしてきます。機會きくわい利用りようしまして……』
 流石さすが會長くわいちやうとして、活躍くわつやくするだけの女史ぢよし機敏きびんで、あたまがよかつた。
『ハイ承知しようちいたしました。ちかつて……』
 尾本氏をもとしもさうよりほかこたへる言葉ことばを、見出みいだなかつたであらう。こたへもそこ/\に、たゞちせきつて辭意じいべるのであつた。
失禮しつれいいたしました。ではまたあらためて近日中きんじつちう御伺おうかゞいたします。』
『おもてなしもいたしませんで、失禮しつれいしました。次回じくわい御出おいでをこゝろから御待おままをしてります。』
 尾本氏をもとし自動車じどうしや――それは役所やくしよ自動車じどうしやであるらしかつた――が門内もんない植込うゑこみぐるりまはつて、往來わうらいてしまつたあとに、見送みおくつて玄關げんくわん石段いしだんつて、のこされたガソリンの臭氣しうきをもわすれて淑風會長しゆくふうくわいちやう内海葉子女史うちみえふこぢよし腦裡なうりには、抑々そも/\どんなかんがへうかんでたであらうか。女史ぢよしかたはらはべつて淑風會員しゆくふうくわいゐんわか女性達ぢよせいたちは、それを結婚法案けつこんはふあん通過つうくわせしめて、會員くわいゐん福祉ふくし増進ぞうしんしてくれることにちがひないとおもつたであらうが、意外いぐわいにもそれが、わかつばめ青年せいねん古富豐彦ふるとみとよひこうへから、人事ひとごとではない花柳病くわりうびやう苦痛くつうんでたことを、一たいだれつてたであらう。
 偉大ゐだいなる女史ぢよし胸中きようちうは、到底たうていわか乙女達をとめたち洞察どうさつほど淺薄せんぱくなものではなかつた。『燕雀えんじやくなん鴻鵠こうこくこゝろざしらんや。』とつた熟語じゆくごは、流石さすが吾人ごじんあざむかなかつたのである。

       九

 大野高等女學校おほのかうとうぢよがくかう校醫かうい囑託しよくたくされた、醫學士いがくし野々村一雄のゝむらかずをは、自宅じたくでは婦人病ふじんびやう專門せんもん開業かいげふをしてたが、診察しんさつ最中さいちう受付うけつけかれまへに一えふ名刺めいしして、來客らいきやくむねつたへた。その名刺めいしには『科學世界くわがくせかい主幹しゆかん秋山あきやますけ』としるされてあつた。
 名刺めいしを一べつしながら、野々村のゝむらは、
いまかけてるから、一寸ちよつとつてもらやうつてくれたまへ。があき次第しだいすぐふからつて――』
 と取次とりつぎこたへて、看護婦かんごふ手傳てつだはせながら、やすめずに、診察中しんさつちうであつた四十かつかう婦人患者ふじんくわんじやに、引續ひきつゞいて洗滌せんできしたり、藥品やくひん塗布とふしたり、注射ちうしやをしたりするのであつたが、その患者くわんじやはうが一段落だんらくになると、休憩きうけいねて面會めんくわいをするために、あと患者くわんじやたせていて、別室べつしつはうへとうつした。
 婦人患者ふじんくわんじや入違いれちがひにはひつて秋山あきやますけ用件ようけんは、かれ主幹しゆかんをして雜誌ざつし増刊そうかんとして、今度こんど性的煩悶解決號せいてきはんもんかいけつがう』といふのをすについて、野々村のゝむらにもなにひと擔當たんたうしてもらひたいといふことであつた。
如何いかゞでせう。どなたにも確定かくていしてませんから、どのだいでもかまひませんが、一つどれかを御引おひきうけください。』
 さうひながら、秋山主幹あきやましゆかんしたノートには、つぎやう毒々どく/\しい題目だいもくが、いやといふほど澤山たくさんならべられてあつた。その二、三をげれば、
 職業婦人しよくげふふじん母性ぼせいとは矛盾むじゆんするか。
 老孃生活オールドミスライフ何故なぜわるいか。
 姙娠中にんしんちう夫婦愛ふうふあい破綻はたんおこるのは何故なぜか。
 自涜じどく害毒がいどくとその對策たいさく
 あるべきいのは不具ふぐか。
 容色ようしよく衰頽すゐたい防止法ばうしはふ
 嫉妬しつと猜疑さいぎ利用法りようはふ
 夫婦生活ふうふせいくわつ倦怠けんたい不滿ふまん療法れうはふ
 良人をつと放蕩はうたう性的技巧せいてきぎかう關係くわんけい
 不感症ふかんしやう如何どうすればなほるか。
 花柳病くわりうびやう配偶者はいぐうしや心得こゝろえ
 もつと有效いうかう避姙法ひにんはふ姙娠にんしんする方法はうはふ
 つみにならぬ避姙ひにん墮胎だたい
            とうとうとう
よわりましたなあ。あんまりあくどいだいばかりで、一寸ちよつと引受ひきうけるになりませんが――』
 野々村のゝむら微苦笑びくせうをしながら、題目だいもく秋山あきやまかほとを等分とうぶん見較みくらべてる。
『それは私達わたしたちはうでもつてります。しかし昨今さくこんはこれくらゐだいならべないと、ひと注目ちうもくかないほどに、世間せけん人々ひと/″\強烈きやうれつ刺戟しげきもとめてるのです。同業どうげふ諸雜誌しよざつしが、みなきそつてしきにやつてきますから、どうもジヤーナリズムからへば、仕方しかたいのです。』
 秋山あきやまかほにも微苦笑びくせううかぶ。
ほど、さうけば御尤ごもつとものやうですね。昨今さくこん雜誌ざつし共産主義きようさんしゆぎ性的問題せいてきもんだいかのいづれかを看板かんばんにしてなければ、れないやうくわんがありますね。』
まつたくさうです。したがつて多數たすう名士めいしが、みな執筆しつぴつしますから、御承諾ごしようだくくだすつても、けつして貴方あなた體面たいめんけがやうなことのいのを保證ほしようします。』
 秋山あきやまは、相手あひてすこ自分じぶんはうかたむきかけてたのをて、突込つゝこむのはいまだとばかりに舌鋒ぜつぽうするどくした。
『かもれませんが、あまり有難ありがたくもないやうですね。是非ぜひひきうけろとはれるなら、一つあらたに(性病せいびやう素人診斷しろうとしんだん自宅治療じたくちれうくらゐところにしてもらひたいですな。如何いかゞでせう。』
結構けつかうです。貴方あなた中々なか/\すみけませんね。おだやかなだいで、猛烈まうれつなもの以上いじやう讀者どくしやこゝろきつける題目だいもくですね。』
『おだてちやいけない。そんなことをいふと、一たん讓歩じやうほをしたのをまた撤回てつくわいしますぜ。』
『いや、是非ぜひどうか御願おねがいたします。では撤回てつくわいされないうちに、失禮しつれいしませう。患者くわんじやさんも御待おまちのやうですから――』
『まあいゝでせう、患者くわんじやもさうりませんから――』
『いや、またうかゞひます。』秋山あきやまはさういひながらせきつたが、なにおもしたのか、かへりかけたきびすめぐらして、あらたまつてひくこゑあたらしい質問しつもんはつした。
さつきからかう/\とおもひながら、おはなしにまぎれてわすれてました。いま患者くわんじやさんのはなしたのでふとおもしたのですが、淑風會しゆくふうくわい會長くわいちやう内海葉子女史うちみえふこぢよしはどういふ用件ようけんでおたくたのですか。貴方あなたにも會員くわいゐんになつてくれといふのですか?』
『え? 淑風會しゆくふうくわい會長くわいちやうですつて?』野々村のゝむら意外いぐわいさうにかへした。『そんなひとりませんよ。なにかの間違まちがひぢやありませんか?』
『いゝえ、たしかです。わたししつみちびかれたとき入違いれちがひにかへつた婦人ふじんは、たしか内海葉子女史うちみえふこぢよしです。』
『をかしいなあ。あれは最近さいきん患者くわんじやで、山本やまもとつてふのですが――』
なに! 患者くわんじやですつて! これおどろいた。つぱり性病せいびやうでせうな?』
病名びやうめいことは、業務上げふむじやう秘密ひみつへませんが、ぼく專門せんもん範圍はんゐであることだけは、こたへてもよろしい。しかし山本やまもとといふひとですから、内海うつみといふ會長くわいちやうではありますまい。』
『いゝえ、たしか内海女史うつみぢよしです。あのひとわたししや座談會ざだんくわいときに、あなのあくほどますから、けつして間違まちがひはしません。山本やまもとといふのは變名へんみやうでせう、淑風會長しゆくふうくわいちやう内海某うつみぼうで、その病氣びやうき治療ちれうをするのは、工合ぐあひわるいからでせう。』秋山あきやまかほには、確信かくしんいろみなぎつてた。『道理だうりで、なんだかそつぽいて挨拶あいさつもしなかつたが、先方せんぱうではぼくといふことはつてたんですね、本來ほんらい利口りこうをんななんだから!』
『さうかなあ。まつたおどろいてしまふね。』今度こんどおどろくのが、野々村のゝむらはう傳染でんせんした。『ぼくやうに一本調子ぽうでうしものには、なになんだかわからなくなつちまふ。』
 秋山あきやま職業意識しよくげふいしきは、野々村のゝむら最後さいごの一に、微妙びめう反應はんのうおこしたものとえて、その嫋々でう/\たる餘韻よゐんために、ふたゝこしおろしてしまつた。
なにみゝよりなはなしでもありますか。』
『いや、みゝよりといふほどでもありませんがね。昨今さくこんぼくにとつては意外いぐわい發見はつけんばかりおこるので、少々せう/\おどろいてところなんです。』
 それから野々村のゝむらかれるまゝに○○醫科大學長いくわだいがくちやう夏本赤なつもとあからうの、歌舞伎座かぶきざける醜態しうたいや、大野高等女學校おほのかうとうぢよがくかうの、『性教育せいけういく』の活劇くわつげきなどをべ、秋山あきやままたそれ人々ひと/″\座談會ざだんくわいける高潔かうけつ態度たいどかたつて一そう野々村のゝむらおどろきをふかくしたのであつた。

       十

 嬌娼會けうしやうくわい事務所じむしよで、幹部かんぶ二人ふたりはなしをしてる。二人ふたりとは大野高等女學校長おほのかうとうぢよがくかうちやう大野源作おほのげんさくと、内務省ないむしやう尾本登をもとのぼる兩氏りやうしであつて、肝心かんじんはなしんで、餘談よだんふけつてるものらしい。
尾本君をもとくん、いつか僕等ぼくらがやつた性問題せいもんだい座談會ざだんくわい記事きじをまとめて、科學世界社くわがくせかいしやからしたほん發賣禁止はつばいきんしめいじたつてふが本統ほんとうかい?』
本當ほんたうだ。無論むろんきみせつ結構けつこうだが、佐藤さとうといふ醫者いしやや、只木たゞきといふ辯護士べんごし議論ぎろん不隱ふをんだからいけないとみとめた。隱健をんけんであるべき安井やすゐさんまでが、産兒制限さんじせいげん皷吹こすゐをするのだから禁止きんし當然たうぜんだらうとかんがへた。』
『しかし禁止きんしこまるねえ。』大野校長おほのかうちやう不平ふへいさうにえる。
きみせつ不可ふかとしないのだから、いだらう。きみ性教育せいけういく講演かうえんゆるしながら、月經げつけいはなし以外いぐわいには一ごん論及ろんきふさせないのとおなことぢやないか。』
『さうつてはこまる。ぼくのは無垢むく女學生ぢよがくせい惡影響あくえいきやうおよぼすのをふせためむをんさ。』
ぼく立場たちばではまた世間せけんぱん惡影響あくえいきやうおよぼさせまいといふので、つまりおなことだらう。』
『それでは水掛論みづかけろんになつてしまふ。なんとかして禁止きんしいて、もらへまいか。ぼくのあのくわいける立場たちばあきらかにするためには、あのほんが一ばん必要ひつえうなんで、それには反對はんたい連中れんちう言説げんせつはうがいゝんだがね。』
『さうきみ都合つがふばかりにもかないね、だい一、一たん禁止きんししたのを取消とりけしては、取扱者とりあつかひしや權威けんゐにもかゝはるし……』
『けれども君自身きみじしんが、中々なか/\熱心ねつしん艶本えんぽん性慾物せいよくもの蒐集家しうしふかぢやないか。きみや○○ちやうの××くんは、官權くわんけん濫用らんようして艶本えんぽん押收あふしうするとまで一うはさをしてくらゐだぜ。』
これ手嚴てきびしい。』尾本氏をもとし苦笑くせうをした。『しかし發賣禁止はつばいきんしのものを、參考さんかうため手許てもと保存ほぞんするのは、むし職務しよくむ忠實ちうじつだとめてもらひたいくらゐだ。なにもほしいほん發賣禁止はつばいきんしにするわけでもいんだから!』
手許てもとといつても官廳くわんちやうならばいゝが、私宅したくあつめる必要ひつえうはあるまい。こと他人たにん自宅じたく所藏しよざうして艶本えんぽんを、つてもとめて刑事けいじをやつてしてもらひつぱなしにするのが常套手段じやうたうしゆだんだといふのは、亂暴らんばうぢやないか。いくらつても返却へんきやくしないつていふ不平ふへい方々はう/″\みゝにしてるぜ。』
『××くんたしかにやるだらうが、ぼくらない。艶本えんぽん自宅所藏じたくしよざうくないかもれないが、なにぼくばかりのことぢやい。艶本えんぽんるゐ押收あふしうしたものは燒棄やきすてる規則きそくにはなつてるが、てるまでにんであるのが、暫時ざんじになくなつてしまふので、あれは刑事けいじなにか、警察けいさつ關係者くわんけいしや自宅じたくつてくとよりおもへないね。さ其處そこだ、低級ていきふで、無理解むりかいものわたすよりは、ぼくやう檢閲けんえつするだけの識見しきけんのあるものをさめてはうが、弊害へいがいすくないとおもふが如何どうだらう。』
 尾本君をもとくんは、しきりに自分じぶん立場たちば辯解べんかいして、かへつて内幕うちまく曝露ばくろしたかたちになつた。
『そんなこといてはたが、その辯解べんかいむし詭辯きべんちかいね。不都合ふつがふはなしといへば、刑事けいじなかには、その發賣禁止はつばいきんし艶本えんぽんを、たか値段ねだん[#「値段で」は底本では「傾段で」]知人ちじんかいして、秘密ひみつ販賣はんばいしてるものさへるぜ。なんことい、發賣はつばい禁止きんしすべき立場たちばものが、商賣人しやうばいにん本屋ほんやらせないで、自分等じぶんらのみで、專賣せんばいするといふ奇怪きくわい現象げんしやうていしてるのぢやないか!』
 大野校長おほのかうちやう此處ここぞとばかりに、相手あひて弱點じやくてん肉薄にくはくしてく。
きみがそんなことまでつてるなら、けつしてそれを否定ひていはしないさ。その事實じじつすなはち、低級ていきふ無理解むりかいものわたすよりも、ぼくをさめてくのがいゝといふ言葉ことばが、眞理しんりであることを立證りつしようして、けつして詭辯きべんでもなく、またぺん辯解べんかいでもない證據しようこになるとはおもはないかね。』
おもはないね。そんなことをへば、きみうち艶本えんぽん倉庫さうこになつてしまふ次第しだいで、到底たうてい不可能ふかのうはなしだ。さうおもふならば、規則通きそくどほりに押收品あふしうひん燒却せうきやくしてしまへばいゝのだ。』
『しかしぼくは一々全國ぜんこく各府縣かくふけん警察けいさつまはつて、押收品あふしうひんいてあるいてまはわけにもかない……』
『そんなことをしたまへとははない。つまり自分じぶんみづか艶本えんぽん蒐集しうしふして、愛讀あいどくするだけのこゝろがある以上いじやう――いや、なんつて辯解べんかいをしても、事實じじつはそのとほりにちがひない――さうやかましく書物しよもつ發賣はつばい禁止きんししなでもいゝだらうといふのだ。自分じぶんだけはみたいが、一ぱん人々ひと/″\にはまさせないといふのはおほきな矛盾むじゆん不都合ふつがふだとことを……。』
『それが矛盾むじゆんならば、性教育せいけういくほどこすといひながら、月經げつけいはなし以外いぐわいにはなにはないといふきみのやりかたも、同樣どうやう矛盾むじゆん得手勝手えてかつてぢやないか! しかしさうつてると、はなしまた後戻あともどりをするばかりで、いくらつても際限さいげんいからさう。――つまり、きみ意見いけんとしては、ぼく矛盾むじゆん攻撃こうげきするのが[#「攻撃するのが」は底本では「攻擧するのが」]しゆではなくて、攻撃こうげききみ性的問題せいてきもんだいたいする立派りつぱ態度たいどを、世間せけん人々ひと/\らすのに便利べんりほんだから、あのほん禁止きんしけといふところ主眼しゆがんがあるのだらう。』
左樣さうさ、さうわかれば問題もんだいい。おたがひ公職こうしよくにあるものとして、矛盾むじゆんりつゝも體裁ていさいつくるのはあたりまへで、きみ行爲かうゐめるこゝろすこしもい。唯々たゞなんとかしてあれをさすやうほねつてくれゝばいゝのだ。』
 大野校長おほのかうちやうはじめて、本音ほんねいた。
『さうなると官廳くわんちやう體面たいめんがあつて、一たん禁止きんししたものを、そのまゝゆるわけにはかないが、――よろしい、そんならかうしよう。』
 尾本君をもとくん一寸ちよつとかんがへてから、
きみからはなしをして、早速さつそく發行所はつかうじよ科學世界社くわがくせかいしやから、なんとか辯解べんかい書面しよめんさしたまへ、警保局長けいほきよくちやうあてにね。そこでぼく只木辯護士たゞきべんごしや、佐藤さとうドクトルたち言葉ことばに、澤山たくさんの○○をれさせたり、安井やすゐさんのはなしページ切取きりとらしたりして、分割還附ぶんかつくわんぷといふ形式けいしきにしたらいゝだらう。』
『ぢやあ、そのつもりでもらはう。科學世界社くわがくせかいしやへは、すぐにその手配てはいをさせるから! 有難ありがたう!』
 にがかほをして大野校長おほのかうちやうが、はじめて笑顏ゑがほせたのを、尾本君をもとくん見逃みのがさなかつた。
大野君おほのくん! あのほんまた生徒せいと父兄ふけいはして、學校がくかう廣告くわうこくにしようつていふんぢやないかね。きみ中々なか/\敏腕びんわんだからね! 散々さん/″\ひと攻撃こうげきしながら、一人ひとりうれしさうなかほをしてるのはしからんぜ!』
『わかつたよ。これ以上いじやう同志打どうしうちは無用むようだ。明日あす新橋しんばしをおごるから、もうなんにもはずにたまへ、おぼえてゐるだらう、いつか一しよつたうちさ。あそこならば大丈夫だいぢやうぶ矯娼會けうしやうくわいきずのつくやう心配しんぱいいから!』
承知しようちした、明日あすだね!』
左樣さうだ。』
『では今日けふこれ失禮しつれいしよう。』
『ではまた明晩みやうばん!』
 二人ふたり敏腕びんわん官吏くわんり女流教育家ぢよりうけういくかとは、激論げきろんなんかしたおぼえはいといふやう顏付かほつきで、うれしさうに、したしげに矯娼會けうしやうくわい事務所じむしよたのであつた。
 初夏しよか午後ごごちか日光につくわうは、會館くわいくわんつらな公園こうゑん松並木まつなみきぎつて、科學世界社くわがくせかいしやはういそ大野校長おほのかうちやう直射ちよくしやして、その細長ほそなが痩驅そうくかげを、一そうほそながく、まつかげ並行へいかうして、地上ちじやうあきらかゑがしてたのであつた。

       十一

 科學世界くわがくせかい主筆しゆひつ秋山あきやますけは、自分じぶん主催者しゆさいしやとしてほねつた座談會ざだんくわい關係くわんけいした人々ひと/″\行動かうどうつい人以上ひといじやう興味きようみおぼえたので、野々村醫院のゝむらいゐんで、變名へんみやうして性病せいびやう診療しんれうけて淑風會長しゆくふうくわいちやう内海葉子うつみえふこしづか日誌につしにそのことをきつけるのであつた。萬年筆まんねんひつはしらせてうちに、座談會ざだんくわい席上せきじやうみな言葉ことばや、職務上しよくむじやう發賣禁止はつばいきんししようあたつて尾本氏をもとしことや、野々村醫學士のゝむらいがくしつうじて、間接かんせつ夏本赤なつもとあからう大野源作おほのげんさく教育家けういくか日常にちじやうなどが、まぐるしく走馬燈そうまとうやうかれ腦裡なうり去來きよらいして、一けん別人べつじんやう態度たいどが、どう一のひとつておこなはれることに、むしあきれるばかりであつた。
 秋山主筆あきやましゆひつ終日しうじつつかれもわすれ、時間じかんぎるのまでもわすてゝ、日記帳につきちやうとしてあるノートのうへいくページも/\つゞく、ながい/\その感想かんさうを、かひこくちからされる絹絲きぬいとやうに、縷々るゝとしてつゞるのであつた。

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 日本にほんといふくには、紳士しんし淑女しゆくぢよとされる人々ひと/″\ほど言行げんかうの一しないくにである。たとへば『二重生活ぢうせいくわつ不經濟ふけいざいであるから、服裝ふくさう住宅ぢうたくなど和洋わやういづれかに一ていしなければいけない。』とさけびながら、自分じぶん和服わふく洋服やうふくとをつくつて、洋館やうくわん日本建築にほんけんちくとの兩樣りやうやういへんでたり、『迷信めいしん打破だはせよ。丙午ひのえうまなどにして自暴自棄じばうじきおちいるのはおろかきはみである。』といふ意見いけん發表はつぺうして御當人ごたうにんが、息子むすこよめえら場合ばあひに、『氣立きだてにも容姿ようしにも申分まをしぶんいが、どうも丙午ひのえうまになるから、ほかひとにしよう。』とつたりするたぐゐは、いくらるかわからないほどであるが、言行げんかうは、性慾せいよくくわんする問題もんだいになると、一そうそのはなはだしくなつて、僞善ぎぜん程度ていどにまでたつしてしまふ。それはつまり紳士しんしであり、淑女しゆくぢよであるといふ體面たいめんたもたんがために、みにくいものとかんがへて性慾せいよくを、故意こい隱蔽いんぺいしようとするのにともな必然ひつぜん結果けつくわなのであらう。だからしも、あらゆる紳士しんし淑女しゆくぢよを、こと/″\去勢きよせいしたならば、僞善ぎぜんどころにそのあとつにいたるにちがひない。ひとまへときに、高潔かうけつらしい態度たいどしめして、性慾せいよく蛇蝎だかつごとくけなすひとほどこと僞善ぎぜん程度ていど強烈きやうれつになるのは、どんな外形ぐわいけいるにしても、それは外見ぐわいけんすなは見えだけのメツキであつて、内容ないようとしての性慾せいよく程度ていどは、各人かくじんだれでも平等びやうどうだからでなければならない。かり各人かくじん性慾せいよく分量ぶんりやうを十として、體裁ていさいをかまはずに、十だけ性慾せいよくつてるといふ、りのまゝの言動げんどうあへてする紳士しんし淑女しゆくぢよ階級かいきふおいては、がう僞善ぎぜん必要ひつえうとしない。それからおな紳士しんし淑女しゆくぢよにしても、その十の性慾せいよくを五か六位ぐらゐせてれば、僞善ぎぜん程度ていどきはめてすくなくてむけれども、一か二よりつてないといふ態度たいどつたり、そんなものはらないといふやうふうよそほはなければならないひとは、どうしても絶大ぜつだい僞善ぎぜんあへてしなければをさまらないことになるにまつてる。あの座談會ざだんくわい人々ひと/″\だけでも、その關係くわんけいはつきりわかつてるではないか!
 官立くわんりつ○○醫科大學長いくわだいがくちやう夏本赤なつもとあか郎氏らうしが、廢娼論はいしやうろん賛成さんせいして、高潔かうけつそのものゝやうかほ[#ルビの「かほ」は底本では「かう」]をするのは、自己じこ性慾せいよく旺盛わうせいなものゝてれかくしにぎない。まじめな人間にんげん酒池肉林しゆちにくりん逍遙せうえうともにしない人間にんげんきらつて、なんとか難癖なんくせをつけて放逐はうちくするのは、勿論もちろん自分じぶん表裏へうり關係くわんけいが、れるのをおそれるからの小細工こざいくである。それもれもみな性的嗜好品せいてきしかうひんであり、性的玩弄物せいてきぐわんろうぶつたる藝者げいしやとふざけてたいといふかれ本能ほんのう支配しはいされるがための、外見上ぐわいけんじやう矛盾むじゆんである。
 をんなはなしかけることさへあへてしなかつたニイチエが、をんな糞味噌くそみそにこきろしたことや、性慾せいよく旺盛わうせいなのに苦慮くりよいたとはれるシヨーペンハウエルが、禁慾きんよく哲學てつがくしたことは、かたこそそれ/″\ちがつてるけれども、こゝろなかそととにあらはれる、性慾せいよく中心ちうしんにした矛盾むじゆんといふてんおいては、すなはいづれも一つであらう。はう矛盾むじゆんしたか、わるはう矛盾むじゆんしたかの相違さうゐこそあれ、夏本博士なつもとはかせもシヨーペンハウエルやニーチエなんかと、を一にしたところえらいものである。
 ドクトルの佐藤平次郎氏さとうへいじらうし公娼必要論こうしやうひつえうろんや、辯護士べんごし只木花吉氏たゞきはなきちし墮胎無罪論だたいむざいろんとうには、多少たせう脱線だつせんもあつたし、幾多いくた非難ひなんがあつて、家庭かていでは餘程よほど放縱はうじうひとやうにも推測すゐそくされたのであつたが、事實じじつかへつてこれ裏切うらぎつて、これ人々ひと/″\たいする醜聲しうせいは、だ一みゝにしたことがない。ひたいだけのことを、平氣へいきでヅケ/\つてのければ、それ以上いじやうもうなに必要ひつえういのでもあらうか? 紀元前きげんぜん二百すうねんむかし、ギリシヤに快樂説くわいらくせつとなへたエピクロスといふひとて、その反對はんたい學説がくせつとなへる禁慾きんよくたふとぶツエノの門弟達もんていたちから、惡魔あくまごとおもはれてはたが、つてると、意外いぐわい眞面目まじめなのに度膽どぎもかれたといふはなしを、わたしいま人々ひと/″\おいて、まのあたり心地こゝちがしてならない!
 淑風會しゆくふうくわい會長くわいちやうとして令名れいめいたかく、廢娼運動はいしやううんどう婦人參政權問題ふじんさんせいけんもんだい[#ルビの「ふじんさんせいけんもんだい」は底本では「ふじんせんせいけんもんだい」]りないくらゐ活動くわつどうつゞけて、天晴あつぱ巾幗婦人きんかくふじん模範もはんとされ、女神めがみ化身けしんとまであふがれて内海葉子女史うつみえふこぢよしに、わかつばめ飼養しやうされてるかとおもへば、十ねんじつごと産兒制限さんじせいげん力説りきせつしたり、平氣へいきでもつて、『遊廓いうくわく便所べんじよおなやうなものです。便所べんじよくては、いたところ立小便たちせうべんのたれながしがおこなはれて、不潔ふけつちまたくわすることをおもへば、遊廓いうくわく存在そんざい文明國ぶんめいこく體面たいめんそんするものとははれません。公娼こうしやうくには、畢竟ひつきやう性慾せいよくいたところにたれながしにするくにであります。』と公言こうげんして社會改良運動家しやくわいかいりやううんどうか安井濱藏氏やすゐはまざうしが、家庭かていおいては模範的もはんてき紳士しんしであつて、多數たすう子女しぢよとの團欒だんらんに、うらやましいほど和氣靄々わきあい/\りをせてなど、一つとして外見ぐわいけんのみでその眞相しんさうつかないことのみがおほい。所詮しよせんよわ臆病おくびやういぬひとればワン/\とえつくのに、つよいぬ沈默ちんもくして午睡ごすゐゆめふけつてるのにるゐしてるとへよう。
 大野高等女學校長おほのかうとうぢよがくかうちやう大野源作氏おほのげんさくしの『性教育せいけういく』にたいする態度たいどは、じつ滑稽こつけいばんである。矯娼會けうしやうくわい幹事かんじとして活躍くわつやくして立場たちばから、どうしても性慾せいよく不潔ふけつなものとして、きはめてあつさりとお上品じやうひん取扱とりあつかはなければならないし、また女史教育者ぢよしけういくしやとしての新人しんじんであるのをせるためには、『性教育せいけういく』を天下てんか率先そつせんしてやつてところせる必要ひつえうがある。厄介やくかいな十字路じろたされた交通巡査かうつうじゆんさとして、『月經げつけいくわんする注意ちうい』だけをして、それに性教育せいけういく看板かんばんをぶらげるのが、もつと安全あんぜん賢明けんめいであるとかんがへるのに無理むりいが、しかし『こんな事情じじやうだから、そのつもりでやつてもらひたい。』とざつくばらん校醫かうい野々村一雄學士のゝむらかずをがくし依頼いらいすることは、あのひと性格せいかくでは到底たうてい出來できない相談さうだんである。野々村氏のゝむらしとしてはまた醫者いしやとして月經げつけいはなしより、一そとられない性教育せいけういくはなしでは、きはめてをかしい羊頭狗肉的やうとうくにくてきのものだとかんがへるにまつてる。そこがあの馬鹿ばかさわぎを惹起ひきおこしたのであつて、てらひとてらはないひととのあひだには、始終しじうちのゴタ/\である。
 内務省ないむしやう尾本登氏をもとのぼるしが、圖書としよ[#ルビの「としよ」は底本では「としと」]檢閲者けんえつしやとしてひとばいきいろ方面はうめん――性慾せいよくもの――にやかましく、嚴重げんぢうにピシ/\と發賣禁止はつばいきんし命令めいれいしながら、克明こくめいにその禁止本きんしぼん役所やくしよ參考品さんかうひんとしてのみまらず、自宅じたく書架しよかにまで珍藏ちんざうしてらず、すゝんで繪畫くわいぐわや、人形にんぎやうそのいろ/\の風俗ふうぞくくわんする押收品あふしうひんから、カツトされた映畫えいぐわのラヴ・シーンのフヰルムにいたるまでもひろげて、○○ちやう連絡れんらくをとつてコレクシヨンを實行じつかうすること多年たねんいま自宅じたくに一だい特殊とくしゆ博物館はくぶつくわんいうしてかたちなのは、ふまでもなくおほきな矛盾むじゆん相違さうゐない。
 しかしながら、それは尾本氏をもとしゆるばかりの、性慾せいよくたいする熱烈ねつれつなる興味きようみもとづく蒐集しうしふ作業さげふであつて、それくらゐひとであるからこそ、檢閲係けんえつがかり以上いじやうに、こまかいてんにまでもがつき、とゞ結果けつくわいきほひ、所謂いはゆる性慾物せいよくものたいする發賣禁止はつばいきんし嚴重げんじうになるのであらう。ひらたくへば『じやみちへび』なのである。性慾せいよくなんたるかをらない子供達こどもたちに、性慾せいよく描寫べうしやせたところで、一かうなんのことかわからない、玄人くろうとあがりの婦人ふじん家庭かていはひつて、往々わう/\にして素人しろうと以上いじやう嫉妬深しつとぶかくなることがある。えうするに、性慾せいよく方面はうめんひとばい理解りかいがあつて、よくがつくか、ポカンとしてがつかずにるかの差別さべつであるとれば、くそやかましい檢閲官けんえつくわんとしての尾本氏をもとしが、同時どうじ醜猥しうわい博物館はくぶつくわん經營者けいえいしやけん創立者さうりつしや兼務けんむしてることに、すこしばかりの矛盾むじゆんく、不思議ふしぎなにいとかんがへることが出來できるであらう。
 夏本學長なつもとがくちやう中原忠なかはらたゞ教授けうじゆを、ことまうけてしたはなしいたときには、ひどいひとだとはらつた。しかしすべては性慾せいよくを一人前にんまへ所持しよぢしてるのを、無理むりかくさんがため魂膽こんたんである、性慾せいよくとがである。
 やぶれた洋服やうふくになつて、かくさんがため伊達だてのマントを羽織はおりたい。やぶれたまゝで平氣へいきられゝば問題もんだいでないけれども、無理むりにもマントをれようとするときに、不自然ふしぜんおこり、無理むり出來できる。わるひとえるけれども、わるひとではない。やぶれた洋服やうふくではまちあるないひとである。ばうである! 僞善者ぎぜんしやである! めたはなしではいけれども、むしよわ人間にんげんとして、あはれんでやるべき代物しろものである!
 夏本氏なつもとしのみではない、内海女史うつみぢよしも、尾本氏をもとしも、大野氏おほのしも、みなそのあはれまるべき存在そんざいである。こんなのが世間せけんにいくらあるかれないとおもふ。
 さうだ! それこと/″\く、白粉おしろいをコテ/\につて醜婦しうふひとしい! 馬鹿ばか子供こどもには、あるひ美人びじんえるかもれないが、相當さうたうのあいたひとからは、醜婦しうふ[#ルビの「しうふ」は底本では「しにふ」]であることがすぐにわかる。
 むしろあんなにらないはうが、みにくいながらに可愛かはいらしく、また奧床おくゆかしくもえるであらうにと、その心根こゝろねどくところがある。
 わたしをよくあいて、ひとなければいけない。おほきなかほをして、カラ威張ゐばりをするやう人間にんげん接觸せつしよくする場合ばあひには、そのカラ威張ゐばりのかげから、平重盛たひらのしげもり對座中たいざちうの、平清盛たひらのきよもり法衣ほふいした具足ぐそくやうにチヨイ/\と仄見ほのみえる、彼等かれら性慾せいよく生活せいくわつ洞察どうさつしてかゝる必要ひつえうがある。それを洞察どうさつしてしまへば、彼等かれら威張ゐばれば威張ゐばほど氣取きどれば氣取きどほど愈々いよ/\益々ます/\滑稽こつけいえて、その鍍金めつきひかり眩惑げんわくされることい。
 職業上しよくげふじやう、いろ/\のひとまへわたしには、心掛こゝろがけ非常ひじやう必要ひつえうなことゝおもふ。前日ぜんじつ座談會ざだんくわいは、科學世界社くわがくせかいしやとし利益りえきであり、『科學世界くわがくせかい』といふ雜誌ざつしとしても成功せいこうをさめたのであつたが、一雜誌記者ざつしきしやとしてのわたしつては、また個人こじんとしての秋山あきやますけつては、おそらくそれ以上いじやうおほきな利益りえきた。より以上いじやうところがあつたのを、なによりの幸福かうふくかんがへるものである。いはんや、それが豫期よきしなかつたところの、偶然ぐうぜん獲物えものであつたのをおもへば、一そうその幸福かうふく感謝かんしやしなければならないとおもふ。
 わたし雜誌記者ざつしきしやとして、めぐまれたる成功せいこう大道だいだううへに、確實かくじつあゆみをはこぶことになつたやう痛感つうかんするのである。

       ×       ×       ×
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 きようじようじて、得意とくいのペンをはしらしてた『科學世界くわがくせかい』の主筆しゆひつ秋山あきやますけは、をはつてホツとしたのもつかで、時計とけいおどろいた。それはいつのにかときうつつて、もう午前ごぜんちかくなつてたからである。
これおどろいた! はやよう。うれしい心持こゝろもちこはさないやうに、出來できるならばつゞきのもつとうれしいゆめやうに、たのしい安息あんそくとこかう!
 して明日あす豫定よてい仕事しごとに、元氣げんきよく突進とつしんしてかう!
 めぐまれたるわたしよ!』
 さうおもひながら、日記用につきようのノート・ブツクをしづかぢた。
 郊外かうぐわい文化住宅ぶんくわぢうたくは、しづかに/\けて、萬籟ばんらいこゑく、希望きばう滿ちた上弦じやうげんつきのみが、美人びじん横顏よこがほあざむ半圓はんゑんをほがらかに、まどガラスのうへからのぞかせてるのみであつた。(完)





底本:「現代ユウモア全集 第十一卷 高田義一郎集 らく我記」現代ユウモア全集刊行會
   1928(昭和3)年11月20日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「内海うつみ」と「内海うちみ」、「忠一ちういち」と「忠一たゞいち」、「嬌娼會」と「矯娼會」の混在は、底本通りです。
入力:宮城高志
校正:
YYYY年MM月DD日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について