犬神博士

夢野久作




     一

 ハハア。吾輩の話を速記にして新聞にすと言うのか。物数奇ものずきな新聞もあればあるものだナ。第一吾輩は新聞に話を書かれるような名士じゃないよ。
 ナニ。吾輩の名前を知らない者はこの界隈にいないと言うのか。フーン。これは初耳だ。吾輩の本名を知っている人間はあまりいない筈だがナ。
 フウン。本名じゃない。綽名あだなで有名なのか。これはイヨイヨ聞き棄てにならんぞ。どんな綽名だ。言って見ろ。構う事はない、本人が許すんだ。殴りはしないから安心しろ。綽名を聞いて憤るような狭量な吾輩ではない。
 ズット昔では皆、綽名を本名にしていたものだ。恐れ多い話ではあるが、アメ・ノ・ミナカヌシを初め奉り、ウガヤ・フキアエズでも、タケミカズチでもヤマト・タケルでも皆御本名ではない。はたから奉った名だ。下っては長髄彦ながすねひこ雉啼女きじなきめ入鹿いるか蹴速けはや、鼻垂れ、耳垂れ、猿面冠者、狸親爺、モット下っては土方人足のポン州、ツン州に到るまで数え上げたら数限りもない。名は体を現わすというのはこの時代の通り言葉で、今の世の中には通用しないのだ。もっともこの頃みたいに人間の数が殖えて来ると、水溜りに湧いたオタマジャクシと同様、ドレモコレモが似たり寄ったりに見えて、一々綽名を付ける訳に行かなくなったから、めいめい勝手に自分で名前をつける様になった訳だが、それでも学生や何かは一人残らず先生を綽名で呼んでいる位だ。
 第一この綽名で人を呼ぶようにして置くと、名前を聞いただけでその人間の印象がパッっと来る。話が朗かで愉快になる上に一生涯その印象を忘れないから便利だ。呼ばれた本人も自分の綽名に対して謹む処がわかるから非常な修養になる。ところがこれに反して自分勝手な名前を名乗るとなると、所謂名が体を現わさない事になるから、間違いがヤタラに出来て困る。花野露子はなのつゆこがウンシャンだったり、石部金吉いしべきんきち好色漢すけべえだったりするから、名前を聞いただけで惚れ込んだら飛んでもない目に会うことになる。これは歎かわしい人文の堕落だと吾輩は考えている位だ。構わないから言って見ろ。吾輩の綽名を言って見ろ。参考になるから……。
 ナニ。キチガイ博士?
 こりゃあしからん。吾輩が何でキチガイだ。
 イヤおこっているんじゃない。人相の悪いのは生まれ付きだ。胴間声どうまごえも地声だ。サア言って見ろ。これ程の博学多才、多芸多能、人格高潔な人間は滅多にいる者ではない。その吾輩のどこがドウなっておればキチガイと言うのだ。その理由を言って見ろ。
 その理由はわからない。わからないけれども多分そうだろうと言うのか。ハハア。そうじゃない。ハハアそうらしいと言うのか。イヨイヨ怪しからんじゃないか。
 フーン。成る程。松原の中のきたない一軒屋に住んでいる、親兄弟妻子眷族けんぞくも何もない一人者で、犬や猫をゴチャゴチャ飼って、頭や髭を延び放題にして、夏冬ブッ通しの二重マントを着て、福岡市中をブラブラ歩きまわって、掃溜や塵箱を掻きまわしているような人間ならば、大抵キチガイにきまっていると言うモッパラの評判か。成る程ナア。
 それなら尋ねるが、戦争もないのにサアベルを吊るして、見せてくれとも言わないのに勲章を並べて、電車自動車がある世の中に馬に乗って、エライとも言わないのにりくり返って行くのは、ありゃあ何だ。誓文払いの広告か。それともオッチニの親方か。
 まだある。
 ぜにもないのに一等旅館に泊って、何事もないのにフロックコートを着て、配っていけないのに大きな名剌を配って、先祖代々下げなかったアタマを下げて、頼まれもしないのに演説会を開いて、万世一系金甌きんおう無欠の日本を亡びる亡びると怒鳴っている連中は、ありゃあ何だ。舶来の乞食か。それとも大本教の凝り固まりか。
 まだある。
 何百万の身代でありながら爪に火を灯して、算盤そろばんと首っ引きで風車を廻し、一生美味うまいものを食わず良い物を着ず、電車自動車にはむろん乗らず、慈善人助け善根功徳を嫌うこと疫病神の如く、乞食ルンペンを恐るる事悪魔の如く、義理人情と恥の掻きっ放しで、妻子眷族に怨まれながら、ホッっとする隙もないうちに、手前が銭を出して飼って置く妾の処へ、ドブ鼠みたようにコソコソと逃げ込む奴は、ありゃあ何だ。

     二

 吾輩の眼から見れば世間の奴等の方がよっぽどキチガイじみている、頼まれもしないのに無駄な苦労ばかりしている。世界中の人間はみんな無駄骨折がしたさに生きているようなもんだ。
 これに反して吾輩の生活状態を見ろ。みんな廃物利用の原則原理に叶った堂々たるものばかりだ。
 第一この家がそこいらに並んでいるような月賦住宅や借家とは違う。自分の家のような、他人の家のような中途半端な気持ちで住んでいるんじゃない。流木ながれぎやトタン板を丹念に拾い集めて、風通しと日当りを考えながら、自分で作った構成派風の新様式住宅だ。画家えかきや写真師なぞが、よく立ち止まってスケッチしているのを見受ける位だ。尤も四本柱と裏の動物小舎ごやの金網は銭を出して買ったがね……。
 地所かね。地所は箱崎八幡宮のものだが、八幡宮とはズット前から心安くしているからね。お礼心に石燈の倒れたのを起して遣っているから喜んでいるよ。
 その次は帽子だ。この山高は九大真野総長のお下りだが、この通り天井がマッチと煙草入れになっている。それからこの二重マントも真野君のお下りで、ジャンクの帆みたいに継ぎハギだらけだが、この通り胸から胸にかけてポケットが四つ付いていて野良猫や野良犬の仔を拾い込んで来るようになっている上に外から見たってチョットわからないから重宝だろう。それからこのバスケットは中に詰まっている空罐あきかんと同様拾い物で、犬猫の食料を集めて帰る用に供している。又この古蝙蝠こうもりも傘なら早速化けて出る位グロテスクな恰好だが、雨霜を凌ぐには充分だ。着物は別にない。寒い時に浴衣を一枚着るくらいのもんだ。寒い時には寒い、暑い時には暑いというのが吾輩の信念だ。信念は暑くも寒くもないのが当然だ。それから履物はきものは見付かれば穿く。なければ穿かない。
 ナニイ。ふんどし? そんなものを締めた経験は生まれてないよ。ブラ下がるべきものはブラ下げて置くのが衛生的じゃないか。煙草入れを風呂敷に包む奴はいないだろう。そんな苦労をする奴が早死をするんだ。
 ドウダ。吾輩の生活状態はこの通りピンからキリまで合理的になっている。利用厚生の道に叶っている。それを世間の奴等がキチガイ呼ばわりするんなら、世間の奴等はキチガイ以上のキチガイだろう。それとも無駄骨折りに発狂するのが正気の沙汰で、悠々と天道を楽しむのがキチガイだと言う定義がどこかに在るのか。又はキチガイが二十億いて、正気の人間がタッタ一人おれば、その一人の方がキチガイと言う事にきまっているのか。
 ウン。それならば勘弁して遣る。すべてキチガイと言うものは自分だけが本気で、ほかの奴はキットどこかがおかしいものと決めているものだからナ。ウスウス自分のおかしい処を気付いている奴は尚更のこと、正当防衛の意味で他人をキチガイ呼ばわりするものだからナ。
 ムウ。まだ綽名があるだろう。フーン。山高乞食。乞食をした事はないぞ畜生。アハ……君に言っているんじゃない。その次は何だ。何でも博士。予言者。ウ――ム。これは適評だ。吾輩は天下の事を見通しているからナ。閻魔えんま大王、鍾馗しょうき大臣。そんなに怖い顔をしているかナ。チット気を付けよう。こんな風にニタニタした処はどうだ。尚更気味が悪い。弱ったナ。大切な寒暑除けの頭やヒゲを剃る訳にも行かないし……。
 その次は何だ。エッ。犬神博士。
 どう言う意味だ、それは……。吾輩は大神二瓶おおかみにへいという立派な姓名があるのだ。その大神のアタマの大の字の横ビンタへ何で石ころをブッ付けた。誰にことわって犬にしてしまった。吾輩が犬を飼っているからと言うのか。
 フーム。そうじゃない。吾輩の言う事が犬神さまみたいに適中あたると言うのか。馬鹿にしている。吾輩の予言と犬神様の御託宣と一緒にする奴があるか。元来ここいらに犬神が流行はやるのか。ナニ。俺がいるから流行らない。馬鹿にするな。そんなら犬神の故事来歴を知っているのか。知らない。ソレ見ろ。知りもしないのにいた風な事を言うな。
 ナニ。犬神の話を聞かせろ。ウン。知らなきゃあ話してもいい。元来犬神というのは吾国に伝わる迷信のうちでも一番下等なものなんだが、それだけにトテモ愚劣な、モノスゴイ迷信なんだ。主として中国、山陰道方面に流行したものだがね……。

     三

 ます或る村で天変地異が引き続いて起る。又は神隠し、駈落ち、泥棒、人殺しなんどの類が頻々として、在来の神様に伺いを立てた位では間に合わなくなって来ると、村中の寄り合いで評議して一つ犬神様を祭ってみようかと言う動議が成立する。そこで村役、世話役、肝煎きもいり役なんどが立ち上って山の中の荒地を地均じならしして、犬神様の御宮を建てる一方に、熱心家が手を分けて一匹の牡犬を探し出して来る。毛色は何でも構わないが牝犬では駄目だそうだ。牝は神様になる前にヒステリーになってしまうからね。
 その牡犬を地均した御宮の前に生き埋めにして、首から上だけを出したまま一週間ったらかして置くと、腹が減ってキチガイのようになる。そこでその汐時を見計らって、その犬の眼の前に、肉だの、魚だの、冷水だのとタマラナイものばかりをベタ一面に並べて見せると犬は、モウキチガイ以上になって、眼も舌も釣り上った神々しい姿をあらわす。その最高潮に達した一刹那を狙って、背後から不意討ちにズバリと首をチョン斬って、かねて用意の素焼きの壺に入れて黒焼きにする。その壺を御神体にして大変なお祭り騒ぎを始める。
 ところでその犬神様に何でもいいから、お犬様のお好きになりそうなものを捧げて、お神籤みくじを上げると、ほかの神様にわからなかった事が何でもあたると言うから妙だ。天気予報から作の収穫みいり漁獲りょうのあるなしはむろんの事、神隠しが出て来る。駈落ちが捕まる。間男、泥棒、人殺しが皆わかると言うのだが、成る程考えたね。人間だってそんな眼に会わせたら大抵神様になるだろうが。
 尤も吾輩は別だ。そんな手数をかけなくとも現在が既に神様以上だ。お神酒みきを一本上げれば大抵の事は聞く。しかも善悪にかかわらないから便利だ。運気、縁談、待ち人、家相、人相、地相、相性を初めとして、人事、政事、商売、その他百般何でもわかる。但し、即座にわかる事もあれば、二、三日一週間ぐらいかかる事もあるが、これは止むを得ない。吾輩の御託宣はソンナ犬神様みたような非科学的なものじゃないからナ。
 ハハア? 何処どこでそんな神通力を得たと言うのか。それはナカナカ大きな質問だ。第一吾輩の身の上話を聞かないと解らん。ウーム。問われて名乗るも嗚滸おこがましいが、所望とあらば止むを得ない。ハッハットウトウ喋舌しゃべらせられる事になった。大抵煙に巻かれて逃げ出すだろうと思っていたが、逃げ出さない処が新聞記者だな。ナニナカナカ面白い。畜生。あべこべにオダテていやがる。
 俺の身の上話はしてもいいが、どこから始めていいか見当が付かないので困るのだ。とりあえず両親が俺を生んだ処から始めたいのだが、そこいらの記憶が甚だ茫漠としていて取り止めがない。世の中には記憶のいい奴があればあるもので、蜀山人という狂歌師が、文政六年の四月頃、七十五で大病にかかって寝ていると、近所に火事が始まったので、門弟どもが手取り足取り土蔵の中に避難させた。その時に門弟の中のあわてものが、先生ここで一句如何ですと言うと、蜀山人片息になりながら声に応じてんだ。
  生まるるもたしかここらと思いしが
         死にゆく時も又倉の中
 とね。ヒドイ辞世を詠ませたものだ。尤も七十いくつになって死にかかっていながら、これ位のエロ気があるんだから、大したオヤジだろう。生まれた時のことを記憶しているのも無理はないが、吾輩はソンナ記憶が全くない。ないばかりでなく、俺の記憶に残っている両親はドウヤラ本物の両親ではないらしいから困るんだよ。よくわからないが、どこかで棄子か何かになっている吾輩を拾い上げて育てたものらしい。事によると本当の両親に売られたのかも知れないね。手前てめえの身体には金が掛かっているとか、生みの恩より育ての恩とか何とか言ってはよく吾輩をったり叩いたりしたものだから……。生まれた時の事なんか尋ねたらブチ殺されたかも知れない。

     四

 仮りにも親と名の付いた者を悪く言っては相済まぬ訳だが、吾輩の所謂両親なるものは縦から見ても横から見ても親とは思えない。そうかと言って雇主とも思えないと言う、世にも変テコな男女であった。
 その男親と名乗る方は、普通の人間よりも眼立って小さい頭をイガ栗にした黒アバタで、アゴの干物見たいに瘠せこけた小男であった。冬はドテラ、夏は浴衣の上から青い角帯を締めて赤い木綿のパッチを穿いて、コール天の色足袋に朴歯ほうばの下駄、赤い手拭で覆面をして鳥追い笠を冠って、小鼓を一梃提げて、背中に茣蓙ござ二枚と傘を二本背負っていた。
 又女の方は男と正反対に豚みたいに赤肥りしたメッカチで、模範的な獅子鼻を顔のマン中に押しつけて、赤い縮れっ毛を櫛巻にして三味線を一梃抱えていた。そのほかは亭主だか……何だかわからない男と揃いであったが、冬になると黒襟のかかった縞の絆纏はんてんみたようなものを着るだけが違っていた。
 こう説明して来たら、その頃の吾輩の扮装いでたちも大抵想像が付くだろう。お合羽さんに振り袖、白足袋に太鼓帯、真白な厚化粧、頬と眉の下と唇と眼尻に紅を引いて、日傘と風呂敷包みを一個と言うのだから、何の事はない最新流行のモガが焼芋を買った恰好だ。おまけに親子三人とも皮膚の色から着物から下駄まで、雨風に晒された七ッ下りで、女親の持っている三味線の三の糸だけが黄色いのと、男親の小鼓の調紐しらべが半分以上細引で代用してあるのが、今でも気になって仕様がないほど見窄みすぼらしいものであった。
 吾輩はこの両親にあらゆる悪い事を仕込まれた。世間並の親だと自分たちは勝手な悪事を働いていながらも、子供にだけは善い事をさせようとする。継母が継ッ子をイジメるのでも、悪い事を取り立てて叱るもんだが、この両親はまるで正反対だった。吾輩が悪い事をすればする程機嫌がよくて、その上にもモットモット悪い事を仕込もうとするのだからかなわない。
 この両親が吾輩を引率して一つの村里に来かかると、たいてい村の入口の橋の処あたりから女親が片肌を脱いで、派手な襦袢じゅばんをヒラヒラさして三味線を弾きはじめる。オット忘れていた。その前にモウ一つ仕事があるのだ。ズット道をおくれている吾輩を女親が振返って三味線を縦に抱え直しながら、編笠の下の暗い処で小さな片眼をギョロリと光らす。同時に梅雨つゆ明けの七面鳥みたいな猛烈な金切声を出すのだ。ソイツが最初の間は何を言っているのかサッパリ判らなかったが、後になってヤット判った。吾輩の歩き方が遅いのを叱っているのだ。
「ニャーゴッしよんかア。コン外道げどうサレエ」
 これが村に入るたんびに繰り返されるのだから、吾輩もいつの間にか慣れっこになってしまって、後には三味線を弾き始めるキッカケ位にしか思われないようになった。
 ところで吾輩が何故道を遅れるかと言うと、身体不相応な風呂敷包を提げているからだ。この風呂敷の中には三人分の着換えと、女親の手鏡が一個入っているのだが、その手鏡の重さがヒシヒシと腕にこたえた。ことに冬はいいが暖かくなると冬着が三枚入る訳だからトテモ大きな重たい包みになる。おまけに今から考えてみると三月から十月一パイは親子三人共派手な浴衣でいるのだから、一年のうちで八ヵ月は重たい包みを担がせられていた訳だ。
 女親が担いだらよさそうなものだが、あんまり肥り過ぎていて冬でも股擦れがする。三味線一梃がヤットコサで、天気になるとすぐに下駄を吾輩の包みに突込んで草履を穿く位だったから、正直の処、荷物なんか持てないらしかった。男親は男親で傘二本と茣蓙二枚でヒイヒイ言う位の意気地なしだから、結局、吾輩以外に包みの持ち手がないと言う訳になる。
 その上に、田舎道の事だから春になると蝶々が飛ぶ。花が咲く。秋になるとトンボが流れる。柿が並ぶ。汽車が行く。シグナルが落ちると言った塩梅あんばいで、荷物を担いで行く子供に取っては、シンカラ地獄めぐりと同様の誘惑を感ずるのであった。ところが親たちは又吾輩と全然正反対の考えで、一刻も早く向うの村に着いて、一銭でも余計に稼ごうと言うのだから、双方の主張が一町二町の相違となって現われるのは当り前だ。吾輩の体力と健脚はその時分から養成されていたんだね。
 吾輩が所謂両親から仕込まれた善い事は、タッタこれ一つだったね。あとはみんな碌でもない事ばかりだった。

     五

 ところで吾輩が今から話すような事を新聞に載せると、うちの子供の教育にならぬと言って抗議を申込む親たちが現われるかも知れないが、その点は御心配御無用だ。吾輩の両親みたいな両親は絶対に外にいないし、吾輩みたいなも又滅多にいるものでない。但し五十歩百歩の程度のなら肉親の親子でも、ないとは限らないが、それならそれで又、参考になるだろう。論より証拠、吾輩が或る処でこの意味の演説をして聞かせたら「そりゃあそうかも知れませんね。しかし憚りながらポンポンながら私の子供は私が勝手に育てます。ハタから余計な差出口は止して下さい」と言う無反省な親が出て来た。この親なんかは吾輩の両親とソックリそのままだから面白いね。吾輩が打たれるのを見るに見かねて止めに来た人達に、吾輩の両親はソックリそのままの文句を言っていたから愉快じゃないか。
 尤も吾輩の両親も、村中で吾輩をいじめるような事は滅多にしなかった。
 一番恐ろしいのは山道か何かの人通りの絶えた処であった。そんな処でウッカリ道に後れようものなら、すぐに引っ捕えられて裸体はだかにされて、それこそ息も絶え絶えの眼に会わされるのであった。
 それも初めは母親が吾輩を膝に乗せて、処嫌わずブン殴るのだが、心臓が悪いか何かでジキに息が切れて来る。そうすると今度は男親に命じて打たせるのであるが、この男親と言うのが又阿呆みたいな人間で、吾輩を草の中か何かに押え付けて、いつまでもいつまでも呑気そうに、ピシャリピシャリとタタキ続けるのだからたまらない。イクラ泣くまいと強情を張っても、今に大きくなったら見ろ見ろと思い直しても、トウトウ屁古垂れて悲鳴を揚げずにはいられなくなる。
 そこで土の上に両手を突いて、(これは絶対に土の上でなくてはいけないのだ。代議士の戸別訪問がゼヒトモ畳の上に手を突かなくちゃいけないのと同格だ)私が悪う御座いました。これから決して遅れませんと謝罪あやまらせられて誓わせられる。時によると二度も三度も念を押されるから、こっちも仕方なしに観念して、二度でも三度でもあやまり、かつ誓う。ところが心の中では決して悪いとも、遅れまいとも思っていないのだ。当り前だ畜生。ドウするか今に見てろと子供心に思っているのだから大変な親子だ。まるで嘘をく猛練習をやらされているようなもんだ。
 しかし両親はこの嘘を吐かせた処で満足するらしい。むろん親らしい見識欲を満足させられるからでもあろうが、しかし吾輩が男親に打たれているうちに女親が何度も何度も片ッ方の見えない眼を引っくり返して、アクビをする事があるのを見ると、ソレ許りとは思えない。つまり一休みするついでに、道傍みちわきの蛙をいじめるような考えで、言わば退屈凌ぎにやっているのだから、一通り疲れが休まると、すぐに先を急ぐ気になるのが当然だ。そんな人情の機敏を四ツや五ツの吾輩が理解したと言うと嘘のように思うかも知れないが、実は絶体絶命の苦し紛れからソンナ頭が働くようになったものらしい。
 とにかくそこで吾輩は襟首を引っ立てられて、大急ぎで着物を着せられる。
「シブテエだ。サッサと帯を結ぼう。アレッ。その手で涙拭くとつらが汚れるでネエケエ。コッチ来う」
 と女親に引き寄せられて、お合羽さんを撫で付けられて、白粉や紅を直して貰う。そうなると又生まれ付き単純な吾輩は、何となく親らしいなつかし味を感じて、今までの怨み辛味を忘れながら、縋り付いて行きたいような気持ちになっている。そこをモウ一つ、
「サッサと歩こう」
 とがなり付けられて、荷物と一緒に突き離される。又口惜しい、残念だと思い直す。だから村が見えて来るとホットする訳だ。つまり村の近くになりさえすれば両親が吾輩をドウもし得ない事を見越しているから、平気でと言うよりも寧ろ讐討かたきうちの気味合いでブラリブラリと遅れ始めるのだ。この親にしてこの子ありと言う恰好だね。
 コンナ調子で村に着くと又、言語道断な騒ぎが始まるのだ。

     六

 村の入口に来ると前言った通りに、女親が一度吾輩を鵞鳴がなり付けて、持っている荷物を邪慳じゃけんに引ったくって男親に渡す。男親が不承不承に引き取って左の二の腕に引っかける。そこで女親はモウ一度三味線を抱え直してペコペコと弾き始める。それをキッカケに吾輩が、振袖をヒラヒラさせながら真ッ先に立つと、その後から男親がホイホイと掛け声をしながら鼓を打っていて来る。そのあとから女将軍が三味線を弾き弾き練り出して行くんだが、女の三味線は大した事はないけれども男の鼓が非常に軽妙だから、三味線の調子ばかりでなく、吾輩の足どりまでも浮き浮きして来る。何という囃子はやしだか知らないが、鰌すくいと木遣り音頭を一緒にしたようなものだと言えば、聞いた事のある人は大抵思い出すだろう。近来よく来る虫下し売りなぞも、似たようなものをチャンチキリンや太鼓入りでやっているようだ。
 そのうちに程よい空地か神社の境内、又は道幅の広い処に来ると、男親が荷物を卸して茣蓙を二枚道傍に向って拡げる。一枚が舞台で一枚が楽屋だ。その楽屋の上に両親が坐って、同時にイヤアホウという掛け声をかけると、囃子の調子がかわるのに連れて、吾輩が両袖を担いで三番叟さんばそうの真似を始める。この辺は仲々本格だが、実はこの三番叟の中で男がかける突飛な掛け声を聞いて人が集まる仕かけになっているので、そのうちに五、六人も大人が立ち止まると、又も囃子の調子が一変して、普通の手踊りの地を男が謡い出す。女も時々継ぎ穂を唄うには歌うが、ギンギンした騒々しい声でトテモ男には敵わない。男の声は俗に言う痘痕声ジャンコーごえと言う奴で永年野天で唄っているせいか朗かなうちにさびがある。
 唄い出すものはカッポレ、奴さん、雨ショボ、雪はチラチラなんぞのありふれた類で、ソイツに合わせて吾輩が踊る訳だが、吾輩は踊りの天才だったらしいね。今でも天才かも知れないが、その頃から既に大衆を惹き付ける技巧を持っていたと見えて、貰いがナカナカ多かった。今はないが二十銭銀貨を投げるお客が珍しくなかったんだから豪気なもんだろう。お祭りの村なぞにブツカルと夜通し方々で引っぱり凧になったもんだ。
 むろん吾輩の踊りばかりが上手な訳じゃなかった。吾輩に振りをつけてくれた男親の地唄が又トテモよかったもので、吾輩も女親の三味線なんかテンデ問題にしないで、男の鼓と歌に乗せられて踊っていたもんだが、ここに一つ困ったのは男の唄の文句だった。
 他所よそのお座敷でやる時なんかはさほどでもないが、往還傍おうかんばたや空地の野天でやる時は、トテモ思い切った猥雑な文句を、平気の平左でイヤアホーと放送する。その文句に合わせて、そんな身ぶりを習った通りに踊らなくちゃならないのだからトテモ難儀だ。むろん四つか五つの子供だから意味なんかテンデ解らないが、矢鱈にお尻を振ったり色眼を使ったりして、踊りの手を崩して行くのが子供心に辛かった。何だか芸術を侮辱しているようでネ。ハッハッ……。
 しかしそのお尻の振り工合が悪いと、アトで非道ひどい眼にブン殴られるのだから、イヤでも一所懸命にやる。そうなると見物がどっと笑う。情ないにも何もお話にならない。しかも見物は女の児の積りで猥雑な身ぶりを喜んでおるのに、踊っている本人の正体は泣きの涙の男の子なんだから、イヨイヨナンセンスこの上なしだ。
 イヤ。まったく冗談じゃないよ。コンナ話を教育上ためにならないなぞと軽蔑する連中は考えてみるがいい。吾輩の両親みたいな方角違いの児を育てている両親がそこいらにウジャウジャいはしないか。
 早い話が支那人チャンチャンは支那人の児を育てている。露助はロスキーの児を育てている。印度人は印度ッ子を育て、エスキモーはエスキモーッ子を教育しているさなかに、日本人ばかりが吾れも吾れもと西洋人みたいな児を育てたがるのはドウした事だ。大切な親様を生まれ立ちからパパ、ママと呼び棄てにさして、頭をこてで縮らして、腕を肩まで出させて、片仮名語を使わせて、裸体はだか人形を机の上に飾らせて、ピアノを小突こづかせて、靴拭いダンスを稽古させて、自由結婚や友愛結婚を奨励する本を読ませて、麦稈むぎわらで水を飲まして、ハンカチで尻を拭かせて平気でいる。吾児が毛唐らしく見えて来れば来るほど高等教育を施した積りで、高くもない鼻をヒク付かせているのは何と言うナンセンスだ。家鴨あひるを育てる鶏だってモウちっとは心配するもんだ。しかも、それが上流の知識階級になればなる程、盛んなんだからウンザリせざるを得ざるべけんやじゃないか。おまけにソンナ親たちは寄ると触ると、子供のために苦労するような事ばかり言っている。まるで外国のために苦労しているようなもんだ。そうかと思うと心ある連中は、日本を通り越して、ジャバかスマトラみたような子供を育てている。何の事だか訳がわからない。

     七

 この点になると吾輩の親たちは断然、最新式モダーン尖端トップを切っていた訳だね。毛唐の真似どころじゃない。男の児を無理やりに女の児にして育て上げて、生活の合理化を遣ると同時に、性教育まで施していたんだから斬新奇抜アラモードだろう。
 ただしこのアラモード教育は吾輩に何等の効果を及ぼさなかった。尤も及ぼしては大変だが、お蔭で吾輩は七、八ツ頃まで男と女の区別を知らなかった。男の風をしている女もあるし、女の風をしている男もいるのだと、自分に引き比べて想像していた。そうして頭が白髪しらがになるまで腕力で頑張った強い奴がじじいになって、口先ばかりの弱い奴がばゝあになるんだろう。オレの両親なんかは、おしまいに男と女とアベコベになるのかも知れない。オレも今の中は小ちゃくて弱いから女で我慢していて遣るが、そのうちにモット強くなったら、両親を二人とも女にして、茣蓙の上で踊らせて、自分だけが男になって歌を唄って鼓を叩いて遣ろう……くらいにしか考えていなかった。今でも時々ソンナ夢を見る事があるがね。その頃の吾輩が考えていた世の中は実に奇妙不可思議なものだったね。
 ところがこうした吾輩に対する尖端的アラモード性教育も、巡査の影を見ると一ペンに早変りをしたものだ。全然予告なしのダンマリで、恐ろしく古典的な、真面目腐ったものに変るのだから面喰らったね。
 吾輩の男親は、歌を唄ったり囃したりしながら、時々頭を低くして、ドブ鼠みたような眼をキョロキョロさせて、群集の股倉越しに往来の遠くの方を覗きまわる。そうして巡査の影をチラリと見るか、サアベルの遠音とおねでも聞いたが最後、澄ましかえって歌の文句を換える。「奥の四畳半」が「沖の暗いの」にかわり「いつも御寮ごりょうさん」が「いつも奴さん」に急変する。ところが踊っている吾輩の方では今言う通り性的観念が全くないのだから、文句がドンナに変化しても無感覚だ。ウッカリ真面目腐った文句のうちで色眼を使ったりSの字になったりしていると、男親がエヘンと言う。それでも気が付かないでやっていると、男親が鼓を止めて茣蓙を直す振りをしながらグイと引っぱる。あぶなく足を取られてノメリそうになるので、ヤット気が付いて普通の「活惚かっぽれ」や「奴さん」をやっていると、そのうちにいつの間にか巡査が遠くへ行ってしまって、文句が又猥雑なものに逆戻りしている。知らずにやっていると又茣蓙を引っぱられる。こんな風でアンマリ何度も手数をかけると、あとで恐ろしく小突かれるのだから、踊りながらも緊張していなければならない。
 ところが油断がならないのは単に巡査ばかりではない。こんな小さな一座でも相当な苦手がいて、いろいろな迫害を加える場合がナカナカ多いのだ。中には面白半分に弥次やじるのもあるらしいが、相当の収入があると睨んで恐喝同様の手段に訴える奴が又チョイチョイいるからたまらない。大道芸人や縁日商人は言うに及ばず、寄席芸人や浪花節語り、香具師やしや触れ売り商人など言う、チョット見にノンキ相な商売であればある程、こうした苦手がいろいろいるもので、彼等はそんな連中を一口にケダモノと言っているが、そんな連中の御蔭で人知れぬ苦労が多いことは、表面上立派に見える商売であればある程、裏面に見っともない半面があるのと同様だ。
 吾輩が半畳の舞台で盛んに馬力をかけて、小さなお尻を器用に振りまわす。見物がドット来る。今にも穴のあかないお金が降りそうな空模様になっている処へ、群衆を押し分けて、四十が五十位のオヤジが出て来る。ソイツが区長さんとか村長さんとか言う人間で、大道芸人に言わせると、やはりゲダモノの一種なのだ。
「コラッ。この村でコンゲな踊り踊らする事ならん。去年から盆踊り止めさせられたチュウ事知らんか。サッサとこの村出て行き腐れ。見る奴も見る奴じゃ。阿呆な面さげて、三つや四つの子供が尻打ち捨てるのが何が面白いか。ソンゲな隙に田甫たんぼのシイラでも引け。帰れ帰れ」
 こんなケダモノに出会ったら何もかもワヤだ。営業妨害もヘッタクレもあったものではない。※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)そうそうに茣蓙を巻いて逃げ出さねばならぬ。念入りなケダモノになると、ワザワザ村外れまで見送って来るのがある。そうかと思うとズッと離れた向うの部落で新規巻直しの興行をやっている処へ、最前とおんなじ風俗改良のケダモノが又吠え付いて来る。よく聞いてみると、今やっている部落は最前とおんなじ部落の別れでおんなじケダモノの支配下だったりする。惨憺たる光景だ。
 しかもそんな打撃のお尻は後でキット、八ツ当り式に吾輩にむくいて来るんだから遣り切れない。踊りがまずいから貰いがすくないとか何とか言って打たれるのだが、イクラ吾輩が舞踊の天才だって、風俗改良係を感心させる程巧妙にお尻は振れまいじゃないか。まだある。

     八

 その頃は日清戦争前後だったが、今よりも景気がよかったのだろう。いろいろなお節句や、お祭り、宮座、お籠りなぞ言う年中行事も今より盛んだったらしく、酔っ払いがナカナカ多かった。地酒の頭にあがったのや、真夏の炎天に焼酎を飲んで飛び出した奴なんかが、鼓や三味線の音をきき付けて野次りに来る。タチのいいのはフラフラしながら割込んで来て「日清談判」を踊れの「高砂やア」を唄えなぞと無理な注文を出す位のものだが、タチの悪いのになると吾輩と一緒に茣蓙の上に上って踊り散らして、折角の興行をワヤにしてしまう。中には折角投げて貰った茣蓙の上のお宝を、汚ない足の裏へクッ付けて行く奴さえある。こんなのも大道商人に取ってはケダモノに違いない。
 しかし一番恐ろしいケダモノは何と言っても無頼漢ゴロツキと、親分だ。
 無頼漢と言っても、吾々をイジメに来るのは一番下等な連中に違いないが、いずれ賭博の資本もとでか、飲みしろにする積りだろう。ペコペコ三味線の音を聞き付けるとスゴイ眼を光らせて遣って来て、イキナリ茣蓙を引んめくって、踊っている吾輩を引っくり返す。乱暴な奴になると茣蓙と吾輩を引っ抱えてどこかへ連れて行こうとする。それからペチャクチャと何か言い出す女将軍の横ッ面を一つ千切れる程ブン殴って大見得を切る。
「この村の何兵衛を知らんか」
 とか何とかわめく。もとより知っている筈はないから、女将軍が歪んだ顔を抱えながら、平あやまりに謝罪あやまって、いくらかお金を握らせる。その手を開いて見て足りないと思うと、モウ一度タンカを切るか、拳固に息を吐きかけるかする。そこで又いくらか足して遣ると、大抵満足して大威張りで帰って行く。イヤ。笑ってはいけない。乞食から銭を貰って威張る商売はまだほかにイクラもあるんだぜ。
 ところで吾輩は、その間じゅうどうしているかと言うと、どうもしない。ゴロツキに抱えられた儘か、又は地びたに尻餅を突いたまま、泣きも笑いもしないで眺めている。そうして一体ドッチが悪いのだろうと子供心に考えていたものだが、これは解りようがなかった。近頃になって社会科学とか何とか言うものが流行はやり出して、矢鱈に文明社会の解剖が行なわれるようになってからヤット合点が行った位だ。すなわち吾々見たような大道乞食を高尚にしたものが、資本階級の幇間たいこもちとも言うべきオベッカ芸術団である。又ゴロツキを大きくしたものが所謂暗黒政治家と言う奴で、いずれもブルジョア文明の傍系的寄生虫である……と言うような七八釜しい理屈がヤット解って来た。だから結局ドッチがドウなってもオンナジ事で、正邪曲直の判断なんかは最初から下しようがなかった訳だが、吾輩も小さい時から頭がよかったと見えて、ソンナ感じがしていたんだね。ドッチがドウだか解らないまま「このゴロツキの小父さんが連れて行ってくれないかナア。そうすりゃあ毎日お尻を振らなくて済むかも知れないけどナア」とか何とか考えながら、ボンヤリ指をくわえて見ると、イキナリ女親が吾輩の頸を押え付けて、鼻のアタマを地面ぢびたにコスリ付けながら、
「コオレ……お礼申上げろチュウタラ」
 と厳命する。そこで吾輩がお座敷でやる通りの声を張り上げて、
尾張おわりう御座います」
 とハッキリ言う。これは男親が極秘密ごくないしょで教えてくれた洒落で、九州から行くと大阪よりも名古屋の方が遠いのだそうだ。ところがこの洒落がナカナカ有効な洒落で、何も知らないお客が聞くと「ウム。感心だ。貴様も一銭遣るぞ」と投げてくれる。ゴロツキだと大抵の処で負けて帰るのだからドウしても尾張が遠い訳だ。横浜の俥屋が毛唐から余分に俥賃を貰うと、頭を一つ下げて「有り難う御座います。タヌキタヌキ(tan kyou tan kyou)」と言って喜ばせるのと同じ格だろう。
 その次が親分だが、これはおのおの土地土地に乞食、芸人、縁日商人の親分がいて、それぞれ縄張りを持っている。お祭の時なんかはこの親分の許可を受けて、指定された場所で興行しないと非道い眼に会わされるのであるが、この事実は知っている人が多いようだし、おんなじような話ばかり続くから、ここいらで切り上げて、今度は木賃宿の話をしよう。その木賃宿で、吾輩が天才的神通力を現わして、両親を初めとして、大勢の荒くれ男を取っちめた一条だ。

     九

 コンナ風にミジメな稼ぎをして一円かそこら貰い溜めると、女親がいい加減な処で見切りを付けてあまり立派でもない三味線を、大切そうに木綿縞の袋に入れる。それをキッカケに男親が、着物の包みを吾輩に渡す。そうして村外れの木蔭とか、橋の下とか、お寺の山門とか言う人気のない処で貰い溜めの勘定をする。すべてこう言う連中は十中八、九、人前で銭勘定をしないのが通則で、身体じゅうのどこに銭を隠しているかすら人に知らせないのが普通になっている。これは宿に着いてから寝ている間に盗まれない用心の意味も無論含まれているが、第一金を持っている風に見られないのが主要な目的なのだ。コンな仲間で金をチャラチャラさせて見せるのは大抵、街道流れの小賭博打ちと思っていれば間違いはない。
 ところで吾輩の両親は、一通り貰い高の勘定が済むと、今度は二人でわけを始める。七分三分だか四分六分だかわからないが、女親が余計に取っていたのは事実だ。そうして最後に鐚銭びたせんが五文か七文残ると、それまでも平等に分けて、最後の一厘は有無を言わさず女親が占領する。一厘半の文久銭だと四捨五入して、やはり女親が取るのだから厳重なものだ。
 それから途中の村々をサッサと飛ばして、木賃宿の在る村へと急ぐ。時にはまだ日が高いこともあるが、女親が歩き疲れて頭痛を起したりすると、まだ正午ひる下りで、イクラも稼ぎがないうちでも、巡業中止を宣告する事がある。しかもソンナ時にはキット吾輩の御難が来るので、大きな包みを抱えて赤い鼻緒の下駄を引きずり引きずり後れて来る吾輩を、女親が休み休み振り返って、胴突きまわすのが吉例になっている。つまり頭痛がするのと稼ぎ高が少ないのとをゴチャゴチャにしたムシャクシャの腹癒はらいせを吾輩にオシ冠せる訳だが、何も吾輩が知った事じゃないと憤慨してみた処が始まらない。憤慨して黙っていればいるほど猛烈に来るので、トドのつまり悪くもないのに地びたに手を突いてあやまらせられる処までタタキ付けられるのが落ちだ。今でも正午下りのピカピカ光る太陽を仰ぐとその時分の恐ろしさを思い出させられると同時に、女親のガミ付ける声がどこからか聞こえるように思って、ビクッと首を縮める事がある位だ。そのうちに下駄が切れる。てのひらを擦り剥く。足の裏が焼けてヒリヒリする。カンカン照り付ける道を汗ダクダクで先に立って歩くと、木賃宿の遠い事遠い事。
 ところで、よく「社会の裏面を研究するには木賃宿に泊って見るべし」とか何とか物の本に書いてあるようだが、あれは嘘だね。要するに真実ほんとうのドン底生活をやった事のない半可通のブルジョアが言う事だ。人間性の醜い裏面を知りたければ金を儲けて、華族や富豪の裏面生活を探るべしだ。第一ソンナ人間性の裏表なんかを使い分けるような余裕のある人間は木賃宿には絶対に泊らない。みんな人間性の丸出しで、善も悪も裏も表もないトテモ朗かな愉快な連中ばかりだ。
 今はどうだか知らないが、その頃の木賃宿では、足を洗って上っても宿帳なんか付けに来なかった。つけようたって無宿のガン八や、ヤブニラミのおチイでは仕様がない。自分の名前が書けない処か、本名を知らない連中が多いのだ。吾輩なんぞはお蔭で今日まで両親の名前を知らないばかりか、自分の名前でさえも本当の事は知らないで通して来たが、しかし人間は元来名前なんか在ろうが無かろうが問題じゃないね。お互いの商売さえわかれば、泥棒だろうが掏摸すりだろうが心置きなく話が出来るものだ。況んや木賃宿に泊る連中だったらタッタ一眼で商売は勿論、生まれ故郷までわかることが多い。中国生まれの鳥追い、長崎生まれの大道手品、上方訛かみがたなまりのアヤツリ使い、丹後の昆布売り、干鰈ほしかれい売り、上等の処で越後の蚊帳売り、越中の薬売り、サヌキの千金丹売りの類で、あとは巡礼、山伏、坊主、お札売りなぞと、大体客筋がきまっている。何処の者ともわからないのは吾々親子三人位のものであった。
 しかも何処の木賃宿に着いても一番贅沢を極めるのは吾輩の両親だったから奇妙であった。もっとも贅沢と言っても米が一升五、六銭から十銭が最極上の時代だから高が知れている。屋根代が三銭に木賃が二、三銭、飯を誂えれば一人前三銭で、ほかに一銭出せばおつゆと煮たものがお椀やお皿に山盛つく。湯銭は二文か三文取る処もあれば取らない処もある。今から考えると熊本の白川だったと思うが、橋銭を一銭ずつ取られると言うので、橋番のばばと吾輩の女親が大喧嘩をした。つまり吾輩の橋銭だけ負けろと言って盛んに悪態をき合った揚句一里ばかり遠まわりをした時代だからね。
 そこで女親が湯に入って来ると急に元気付いて晩酌を始める。そのうちに吾輩と一緒に湯に入った男親も、さし向いに坐って晩酌のお流れを頂戴する。朝鮮土産ではないが吾輩の両親はコンナ処まで天下女将軍、地下男将軍だった。

     十

 ところで晩酌と言うと大層立派に聞こえるが、お燗をして盃でチビリチビリやるような、アンナ小面倒な気まずいものじゃない。本当の酒の味は冷酒にあるので、しかもコップ酒に限ったものだ。むろん吾輩の両親たちの晩酌もこの式の神髄をきわめたものであったが、そのコップ一パイが三銭か四銭くらい。木賃の亭主が手造りのドブロクだと二銭位の時もあった。その頃は勝手に酒を造ってよかった時代だからね。
 そんな風に酒は非常に安かったものだが、その代りにコップが高価たかかった。と言ってもコップその物が高価いのではない。コップの底が恐ろしく上っていてギリギリ一パイにしてもイクラも入らないから、結局高価い酒につく訳だ。ちょうど横から見ると小人島の手水鉢ちょうずばちか何ぞのように見える硝子製の奴を膳の横に据えると、その前に小山のようなアグラを掻いた天下女将軍が、まず口からお迎いに出てチューと音を立てる。そうしてフウウーウッと団栗眼どんぐりまなこを引っくり返しながら、コップをヌッと眼の前に差し出す。そいつを座り直してかしこまった地下男将軍が恭しく受け取って、恐る恐る一口嘗めると、如何にも酸っぱそうに眼をしかめて、ヒョットコ見たように唇を突んがらす。それからチョット押し戴く真似をして、又も恭しく女将軍のお膳に据える。あとは向い同士で互い違いにドングリ眼を引っくり返したり、口を突んがらしたりするのであるが、その間じゅう腹を減らしたまま見物させられている吾輩に取っては、コレ位御丁寧な、自烈度じれったいものはなかった。
 そのうちにヤットの事で一杯がオシマイになるが、これで御飯になるのかと思うとナカナカどうして、そんな運びに立ち到らない。女将軍がアグラの上に両肱を張ってニタリと笑いながら「モウ一パイいかんチエ」と言う。男将軍が「どうぞ」と言わんばかりに恭しく揉み手をする。そこで女将軍が懐中から毛糸の巾着を出して、モウ二銭か四銭ばかりジャラリと膳の横に置いて、ヘッツイの前あたりをウロウロしている木賃の亭主に空のコップを高々と差し上げて見せる。ザット和製の自由女神の像! とでも評したい勇壮偉大な見得だ。
「ま一ちょくれんけえ」
 とやると、そのコップを見上げながら男将軍がペロペロと舌なめずりをしたり顔を撫でまわしたりする。近頃の新しい夫婦なんかは愧死きしすべきダラシのない情景だ。
 しかしその頃の吾輩は、そのコップを見上げても何等の有難味を感じなかった。それどころか、あべこべに心から涙ぐましくなったものであった。まだ飯にならないのかなナアとタメ息をさせられたものであった。明治元年を待ち焦れた高山彦九郎だってこれ程の思いはしなかったろうと思われるほど極度に純真な気持ちになっていたものだが、時勢の推移と言うものはナカナカ思い通りに行くものでなかった。
 そのうちにランプが点いて、二人の顔がとてもグロテスクなものに見えて来る。女親の顔が真赤に光り出して獅子鼻をヒクヒクさせ始める処は、金東瓜の真ン中に平家蟹がカジリ付いたようだ。同時に男親の黒痘痕くろあばたが、いよいよ黒ずんで来て、欠けた小鼻の一部分が血がニジンだように生々しく充血した下から、黒い長い鼻毛が一束ブラ下っている光景はナカナカ奇観だった。耶馬渓に夕日が照りかかったのを十里先から眺めているような感じであった。
 吾輩は、その両親の顔を見上げたり見比べたりしながら、酒というものをタッタ一度でもいいから飲んでみたいナ……と子供心に咽喉のどをクビクビ鳴らしていたね。元来酒好きに生まれ付いていたのだからね。今日に到ってヤット本望を遂げている訳だが、その頃の身分家柄ではトテも酒どころではなかった。第一飯が最初から二人前しか取ってないのだ。
 吾輩は、その両親の傍で、女親の汁椀が空くのを待って、女親の御飯を山盛り一パイ貰うのがおきまりだった。無論一パイ切りであったが、今言う通り飯は二人前しか取ってないのだから、お茶碗が足りないのだ。もっとも茶碗を一買ってくれた事があるにはあったが、間もなく熱いお茶を飲まされて取り落した拍子に、ブチ壊してしまって以来、二度と買って貰えなくなった。大方懲罰の積りだったのだろう。

     十一

 当世流に言うと吾輩の両親は、コンナ風になにかにつけて資本家根性丸出しであった。一厘一銭でも吾輩を搾取しないと、自分達の生活が脅かされるかのように考えているらしかったが、それでも男親の方はイクラカ温情主義の処がないでもなかった。
 吾輩が、懐中ふところに仕舞って置いた短い箸を出して、ボロボロの唐米飯とうまいめしをモソモソやっていると、その途中で、女親の眼をぬすみながら蒲鉾だの、焼きざかなの一切をポイと椀の中へ投げ込んでくれる事がチョイチョイあったが、これは今になってよく考えて見ると、単純な温情主義ばかりではなかったように思う。男親も吾輩と同様に、女親から絞られている組だから所謂同病相憐れむと言ったような気味合いがあったと同時に、吾輩の踊りに対して非常な同情を持っていたせいであったと思われる。つまり男親は、吾輩に踊りの手振りを仕込んでくれた師匠だけに、吾輩の天才に対しては深い理解を持っていたので、稼ぎ高の多し些なしにかかわらず、吾輩の踊りがピッタリと地唄や鼓に合った時には、吾輩自身は勿論のこと男親も嬉しくて嬉しくてたまらなかったらしい。その御褒美の意味でコンナ事をしたらしいので、吾輩も、その蒲鉾や干魚の一片を貰った翌る日は、前の日に倍して一所懸命に踊ったものであった。しかも女親から分けて貰った御本尊の飯の方はチットモ有り難くなくて、男親が投げてくれた蒲鉾の喰いさしの方がピーンとこたえるなんて、随分勝手な話だが、人間というものは元来ソンナ風なカラクリに出来ているものらしい。特に吾輩はソンナ種類の電気に感じ易く生まれ付いているのだから仕方がなかろう。
 そんな事で、とにも角にも汁椀に山盛りの唐米飯を片付けていると、そのうちにモウたまらない程睡くなって来る。ウッカリすると箸や汁椀を取り落して女親に叱られる位だ。
 そこでお先に床を取って貰って寝る訳だが、どうかすると飯を喰ってしまってもチットモ睡くない事がある。そうするとエライ事が見られるのだ。
 それは大抵、興業の途中で山門や拝殿に転がって午睡ひるねをした時か何かであったに違いないが、夕飯を喰ってしまっても睡くならないままに、寝床の中でモゴモゴやっていると、お膳を片付けた両親は、そのまま直ぐに差し向いでバクチを始めるのだ。
 そのバクチの戦場は普通の場合一枚の古座布団で、それをさし挟んで、真赤な、妖怪じみた大女と小男が、煤けたランプの光を浴びながら、花札を引いたり骨子さいころを転がしたりする。調子に乗って来ると男の方はイヨイヨ固くなって襟元を繕ったり、膝をかき合わせたりして気取り始めるのに反して、女の方は片肌脱ぎから双肌脱ぎになって、しまいには太股までマクリ出すから痛快だ。しかもその結果はと言うと、これが又一年三百六十五日、一度も間違いはないオキマリなので、十遍のうち七、八遍まで男親の方が負けるにきまっているから不思議である。そうして折角ひるまのうちに一厘半厘を争ってけて貰ったお金をキレイに捲き上げられるばかりか、毎晩チョットずつ借りが出来るのが、積りつもってかなりの額に達しているらしい。
 そこで男親はいよいよ一所懸命になって、その借銭を返すべく、飯が済むのを待ちかねて、サア来いとばかり座布団を借り出して来る。座布団がない時には、古毛布でも褞袍どてらでも、何でも構わず四角に畳んで女の前に店を出す。それを見ると女はニヤリと笑って、
「又負けに来るのけえ……今夜頭痛がヒデエからイヤだよ」
 とか何とか口では言いながら、実はチャント期待している恰好で、ユタユタと男の方に向き直る。実はソンナ事を言ってらすのが女の一つの手なのであるが、男はむろん気付く筈はない。最初からカンカンになって、坐った時から眼の玉を釣り上げているのだから勝てないのは当り前であろう。
 のみならず、相手の女が百戦百勝する理由はモット深い処に在るのだからたまらない。

     十二

 吾輩は元来勝負事が大嫌いである。一方が勝てば一方が負ける事が最初から解り切っているのだから、これ位つまらない物はない。両方勝てば五分五分だからイヨイヨ詰まらない事になるのだ。
 ところがこの理屈は百人が百人とも骨の髄まで心得ていないから一度コイツに引っかかると止められなくなるのは、その百人が百人とも自分の運命に対する自惚れを持っているからだと博奕ばくち哲学の本に書いてあるが、成る程そう言われると一言もない。吾輩だって人生五十、七十は古来稀なりと言う事実は飽きるくらい見たり聞いたりしている筈であるが、目下の処ではいつまで生きるかわからない思惑買いで、ノウノウと山勘をかけて酒を飲んでいる。つまる処人間万事はバクチ心理から出来上っているので商売をするのも、学問に凝るのも、天下を取るのも同じ事、成功を夢みて働く以上、バクチ心理を伴わない仕事は一つもない。その中で運よく当った奴が歴史に載っているので、世界歴史は要するに賭博の当った奴の歴史と言う事になる。但しここにタッタ一つ例外があるのは源平屋島の戦いで、能登守教経のとのかみのりつねが、源氏の大将義経を狙って平家随一の強弓を引き絞った時に、スワ主人の一大事とばかり大手を拡げて、矢面に立ち塞がった佐藤嗣信つぎのぶだそうだ。つまり十が九つまで当らぬ積りだったと言うが、そこまで研究すると賭博哲学も当てにならなくなる。
 しかし万人が万人そうした意味の賭博心理を持っているのは否定出来ない事実であると同時に、その賭博心理をスポーツ化したバクチという奴が、いろいろな形式であらわれて来るのは、すべてのものの遊戯化を文化の向上と心得ている人間世界の事とて止むを得ない現象であろう。しかもそのスポーツには労力の報酬として受け渡しするお金を賭けるのだから悪い事にはきまっている。さもなくとも電車や自動車が足りないと言うくらい働き疲れている人間世界のただ中で、運動にも修養にもならない不生産的な時間をブッ潰すのだから、誠に相済まないスポーツに相違ないのであるが、しかもその相済まない気持ちが又、よくて堪まらないと言う奴が多いのだから遣り切れない。
 しかも、そうして又、その相済まない気持ちを楽しむ心理がモウ一ツたかぶって来ると、今度は相済まない序に是非とも百戦百勝したい。
 どんなインチキ手段でもいいから、相手の金を全部巻き上げたいと言う絶対に相済みようのない気持ちを楽しむ心理にまで殺到して来るから手が付けられない。つまりバクチ中毒の第三期という奴で、この手の人間に比較すると、金を賭けるだけでインチキを知らない人間は第二期、金を賭けない奴は第一期という事になるだろう。
 吾輩の両親のうちでも、女房はこの第三期のパリパリで、男親の方は第二期のホヤホヤだったらしいが、第三期と第二期とではイクラ何だって勝負にならないのは当り前である。何の事はない、男親は女親にバクチの相手をして貰いたいばっかりに一生無代償で御奉公をしているようなもので、女親も又、その積りで夫婦になっているのだからコレ位馬鹿げた夫婦はなかろう。おまけにそうした馬鹿げた夫婦であることを二人ともチットも自覚しないで、毎晩夢中になって「めくったア」「振ったア」をやっているのだから馬鹿を通り越しているだろう。
 吾輩は子供だからそんな理屈はむろん解らなかったが、それでもそれ位の馬鹿馬鹿しさはたしかに感じながら、両親のバクチを眺めていた。すると又不思議なものでそんな冷評的なアタマで眺めているうちに、女親がやっているインチキ手段が一つ残らず判然わかって来たのには、子供心ながら驚いたね。
 今から考えると吾輩はインチキ賭博の方でも天才だったらしいね。生まれながらの第三期という奴だ。これでバクチが好きだったら今頃は臭い飯と上白米をチャンポンに喰っている訳だが、しかし嫌いだったからなおの事インチキがよく解ったのかも知れないだろう。
 女親のやっているインチキ手段は、博奕打仲間で「サシミツ」とか「テハチ」とか言う奴だったらしい。手の中に一枚か二枚都合のいい札を隠して置いて配る時に素早く差し換えたり、札を切る時に自分の記憶おぼえている札を自分の番に来るように突き合わせたりするので、ナカナカ熟練したものであったが、それでも煎餅布団の中から覗いていると、手付きが丸で違うからスグにわかった。どうして是がわからないのだろうとヒヤヒヤするのだった。
 しかし自分でやって見たいと思う気持ちには全然なれなかった。第一その頃の吾輩には金の有難味がわからなかったし、物心付いてからイジメられ通しで、正義観念が人一倍強くなっていたからね。
 ところが或る晩のこと、その吾輩が子供ながら憤然として起ち上らなければならぬ大事件が起った。小学校にも行かない年頃でバクチを打たなければならぬ言語道断な破目に陥った。
 その成り行きをこれから話すが、まあゆっくり聞き給え。

     十三

 それは忘れもしない吾輩が七歳の時の夏で、大牟田の近くの長洲ながすという処で長雨を喰った時だった。
 その頃の長洲と言ったら実にミジメな寒村であった。熊本へ行く街道の片側に藁屋根や瓦葺かわらぶきが五つ六つ並んでいるばかり。その北端の木賃の二階から眺めると、小雨の中を涯てしもなく広がった青田が海岸線で一直線に打ち切られている向うに、雲仙嶽がニューと屹立している。それが灰色の雲の中で幽霊みたように消えたり顕われたりするのを眺めているうちに、吾輩の背後うしろでは両親がコソコソ汚い座布団を持ち出して、パチリパチリと六百ケンを始めているのであった。
 吾輩はその音を聞きながら、ボンヤリと来し方行く末の事を考えまわしていたが、その時に吾輩が幼稚なアタマで考えていた事は今でもハッキリと印象されていて、現在の吾輩の生活に深刻な反映を見せているくらいで、実に堂々たる社会観であった。
 今までの話でも判然わかる通り、吾輩の育った家庭は、極度に尖鋭化された資本主義一点張りの家庭であった。何処のとんびからすかわからぬ男女が夫婦になって、何処を当てともなく流れまわりながら、女が三味線を弾き出すと、男が唄をうたって鼓を打ち始める。それに合わせて、ヤハリ何処の雀かわからない吾輩が、尻を振り振りエロ踊りをおどる。その収入は一文残らず女親の懐中ふところに流れ込むように仕かけてあるので、その中でも一番過激な労力を提供する吾輩は、文句なしの搾取されっ放しであるが、いくらか理屈のわかる男親は、花札とサイコロのインチキ手段で絞り上げられる。そこに親子夫婦の関係が成立して、太平無事な月日が流れて行くので、根を洗って見れば三人が三人とも、縁もゆかりもない赤の他人同士というのがこの家庭の真相であった。
 だから今の赤い主義みたいに物質本位の根性玉で考えて行くと、この三人は血をすすり、肉をくらい合っても飽き足らぬ讐敵かたき同士でなければならなかった。一口でも権利義務を言い出したら忽ち大喧嘩になる筈であった。
 ところが妙なもので、人間という動物は犬猫みたように虚無的な、極端に合理的な世界には生きていられないらしい。そこに人情という奴が加味されて行くので、物事が何処までもトンチンカンになって行くのであった。話がスッカリ馬鹿げて来て、筋道の見当が付かなくなって、善悪の道理がウラハラのチャンポンになって、七ツや八ツの子供には考え切れなくなって行くのであった。その辻褄の合わない世の中の悲哀を、七ツや八ツの吾輩が何と言う事なしに感じていたんだからステキだろう。
 むろん吾輩はズット前から、今言ったような家庭の事情を察しるには察していたが、それがだんだんハッキリとわかって来るに連れて、何よりも先にそうした両親の生活が阿呆らしくて、焦燥じれったくて堪まらなくなって来た。他人から金を絞るのならばともかく、両親が内輪同士でコンナに無駄な骨を折って、金の遣り取りに夢中になっているのが苦になって苦になって仕様がなくなった。殊に女親のインチキ手段を発見して以来というものは、一層この不愉快がヒドくなって、毎晩寝がけになると、両親のバクチを止めさせる手段ばかり考えるくらい神経質になってしまった。
 しかし何を言うにも子供の事だから、適当な方法がナカナカ見付かる筈がない。つまる処モットお金が出来たらバクチを止めるのじゃないか知らん。それならばモットモット上手にお尻を振ればいい訳になるがと、その翌る日から茣蓙の外にハミ出すくらい跳ねまわったり「オワリガトウゴザイマス」を今までよりもズット悲しそうな声を張り上げて言って見たりしたが、無論何の効果もなかった。却って収入が殖えれば殖えるほど両親とも一所懸命になってバクチを打つ傾向が見えるばかりでなく、男親の借銭が目に立って増大して行くのが毎晩の二人の口喧嘩くちいさかいでもハッキリとわかって来るのであった。
 吾輩は悲観せざるを得なかった。同時に自業自得とは言え女親から引っかけられ通しでいる男親が可哀想で可哀想で仕様がなくなって来たので、何とかして男親をこのインチキ地獄から救い出す手段はないものか知らんとその時も、走馬燈まわりどうろのように明滅する雲仙嶽を眺めながらいろいろ苦心惨憺していたのであったが、そのうちに何だかそこいらが妙に静かになったので気が付いて振り返ってみると、両親はいつの間にかバクチを打ちくたびれたらしく、花札を枕元に放り出したままグーグーと八の字形じなり午睡ひるねをしているのであった。それを見ると吾輩はフイッとステキな手段を考え付いたので思わず胸をドキドキさせたね。
 吾輩が花札を手にしたのは、無論、その時が初めてだった。しかも、コイツでインチキ手段を上手になって、女親をピシャンコにして遣ろうと言うので、早速練習に取りかかったものであった。
 まず女親の真似をして、一枚の札を手の中に振り込んで、残りの四十七枚の札を全部切って、最後の手札を配りがけに握り込んだ一枚を自分の処へ置く真似をしてみたが、最初は掌が小さいのでチョット巧く行きかねたけれども、慣れて来るうちに三枚ぐらいまでは何でもなくなった。それから今度は札の裏を記憶する方法を研究してみたが、これは札を切るのよりもズットやさしい。封を切ったばかりの札ならともかく、二、三度使ったものだから一枚毎に眼印のない札はない。猪鹿蝶の三枚なぞは女親がした事らしく片隅に小さい爪痕が付いている有様だった。
 そこで正直の処を告白すると吾輩も少々面白くなって来たね。賭博ばくちというものってこんな容易やさしいものならば勝つぐらいの事は何でもないと思い思い、かねてから見覚えている役札を自分の方へ配る練習を幾度となくやっているうちに、又も大変な大発見をした。それは吾輩の指先の感覚がダンダン鋭敏になって来る事であった。

     十四

 眼をつむったまま指の先でチョット触っただけで、そこに現われている色模様が何でも判ると言ったら、世間の常識屋はトテモ本当にしないであろう。しかし生物の特殊感覚というものを研究した科学者は皆知っている筈である。七六つかしい理屈は抜きにしても、盲人めくらほかの着物を撫でまわしながら、
「まあ結構な柄で……ほんとによくお似合いで……」
 なぞ挨拶をするのを見たら、成る程とうなずけるであろう。あんなのは盲人特有の知ったか振りか負け惜しみ位に思っている人があるかも知れないが、それは大変な間違いである。カンのいい盲人に取っては着物の縞柄や、散らしの模様を探り当てるのは大した困難な仕事ではないので、自分の娘に手探りで紅化粧をして遣って、お客に連れて行く瞽女ごぜさえあるくらいである。つまり普通の人間は、その眼の感覚があんまりハッキリし過ぎているので、色を指先で探る必要がないために、そんな感じが鈍ってしまっているので、吾輩みたような指先のするどい人間ならば、すこし練習をしているうちには、くら暗に慣れて物の形が見えて来るのと同様に、いろいろな色合いが指先に感じられて来ること請合いである。
 しかも今言うような実感は皆、一度も見た事のない色模様を指先だけで探り当るのであるが、吾輩のはソンナのに比べると何でもない。幾度も幾度も見飽きるほど記憶したキマリ切った毒々しい絵模様を触ってみるのだから気楽なものだ。チョット撫でるか押えるかしただけで、青丹なら青丹、坊主なら坊主とわかるように絵模様そのものがなっているのだから訳はない。おまけに裏の黒地や赤地のデコボコが一枚として同じ物はないのだから、二、三度札を切りまわしているうちには眼をつぶっていても札の順序がわかって来るのだ。
 しかもタッタそれだけの練習と記憶力の動かし方で、別段インチキを使わなくとも、相手の持ち札と、この次に出て来るメクリ札がわかるのだから、世の中に花札ぐらい馬鹿馬鹿しいものはないだろう。
 吾輩がそこまで練習をして結局文字通りに馬鹿馬鹿しくなって花札を投げ出してしまったのは、それから一週間ばかり後の事であった。しかもいつでも両親が眠っている間を狙って練習をしたので、チットモ気付かれないままで済んだ。そうしてそのうちにお天気がよくなったので、三人は又も、雨上りのカンカン照る日の下を、村々の鶏の声を聞きながら、久し振りの巡業に出かけなければならなかった。
 ところで夏になると吾々三人は日盛りの間三時間ばかり、キット何処かで午睡ひるねをするのであった。しかもなるべく田圃の仕事の忙しくない都会の夕方を狙って興業をするので、夜になっても吾輩は睡くない事が多かったから、両親のバクチをまぜ返す機会は充分にあった訳である。ところが又生憎あいにくな時には生憎な事が起るもので、この夏は三人がこの福岡に着くと間もなく、女親が何だかエタイの判らないブラブラ病気にかかって、大水で流れて来たような恰好をして木賃に寝込んでしまったので、バクチなんか打つ元気はトテもないらしかった。
 そこで吾輩は男親と二人切りで毎日稼ぎに出なければならなくなった訳であるが、これが吾輩に取って願ってもない幸福であったことは言う迄もない。第一寝がけに大嫌いなバクチを見なくて済む上に、男親がすこしずつ小遣を溜め込んでチョイチョイ吾輩に菓子を買ってくれる。その上に女親の三味線でウンザリさせられる事なしに踊り抜けると言うのだから、踊り好きの吾輩たるもの有頂天にならざるを得ない。花札の事なんかキレイに忘れてしまって、喜び勇んで稼ぎに出かけたものであった。恐らく吾輩の子供の時分で一番幸福な時季と言ったらこの福岡へ来てから一週間ばかりの間であったろう。
 ところがその幸福があんまり高潮し過ぎたために大変な事件が持上る事になった。二人の興業があんまり成功し過ぎて警察へ引っぱられる事になったのだ。
 吾輩の一行が泊っている木賃宿は、今の出来町の東の町外れで、大きな楠の木の在る近くであったが、その頃はまだ博多駅が出来立てのホヤホヤで、出来町の東口はまだ太宰府往還の出入口の面影を残していた。その店屋だらけの往来へ男親と一緒に初めて繰出した時に、男親は肥料車こやしぐるまの間で吾輩の耳に口を寄せてコンナ事を囁いた。
「福岡の町は警察が八釜しいよってに、あんまり尻振るとあかんで……」
 吾輩は大ニコニコで首肯うなずきながら男親を見上げた。きょうこそは本当に一心籠めて踊って遣ろうと子供心に思いながら……。

     十五

 その頃の福岡市の話をしたら若い人は本当にしないかも知れぬ。東中洲がほとんど中島の町一通りだけあったので、あとは南瓜かぼちゃ畑のズット向うに知事の官舎と測候所が並んでいて、その屋根の上に風見車がキリキリまわっているのが中島橋の上から見えたの、箱崎と博多の間は長い長い松原で、時々追剥ぎが出ていたの、因幡町の土手の町の裏は一面の堀で、赤坂門や薬院門の切れ途を通ると蓮の花の香がせ返るほどして、月夜にはかわうそがまごまごしていたの、西中洲の公会堂のあたりが一面の萱原かやはらであったの、西公園に住む狐狸が人を化かしていたのと言ったら、三百年も昔の事と思われるかも知れない。第一、そんな風では何処に町が在ったのかと尋ねる人が出て来るかも知れない。しかしそれでも、九州では熊本と長崎にぐ大都会だったので、田舎ばかりまわっていた吾輩は、かなりキョロキョロさせられたものであった。
 吾輩はこの福岡市中を、父親の鼓に合わせて、心ゆくまで踊りまわって、心ゆくまで稼いだものであった。ところがさすがに福岡は昔からドンタクの本場だけあって芸ごとのわかる人が多かったらしい。男親の鼓調子にタタキ出される吾輩の踊りは、最初の約束通り全然エロ気分抜きの、頗る古典的なものであったが、却ってその方が見物を感心させたらしく、二十銭銀貨を一つや二つ貰わない日はなかったので、吾輩はトテモ得意になったものであった。生まれて初めて稼ぐ面白さを感じたように思った。
 その或る日の午後であった。男親と吾輩とは福岡部の薬院方面から柳原へかけて一巡すると東中洲へ入り込んで、町裏の共進館という大きな建築の柵内へ入り込んで、那珂川縁に並んでいる栴檀せんだんの樹の間の白い砂の上に茣蓙を敷いて午睡ひるねをした。これはこの頃夕方になると中洲券番のあたりへ人出が多い事がわかったので、夕方になってからそこを当て込んで一興業する準備の午寝ひるねであったが、やや暫く眠っているうちに、あんまり蟻が喰い付くので眼を醒ましてみると川一面に眩しい西日の反射がアカアカとセンダンの樹の間を流れてワシワシ殿の声が空一パイに大浪を打っていた。男親を振りかえって見ると、腐ったあさりのような口をいてガーガーとイビキを掻いている。
 その時であった。何処からか、
「チョットチョット」
 という優しい女の声がしたのでムックリ起き上って、キョロキョロとそこいらを見まわしてみると、木柵の向うから派手な浴衣を着たアネサンが、吾輩の顔を見てニコニコ笑いながら手招きしているのであった。
 吾輩はチョット面喰らった。コンナ美しいアネサンに知り合いはなかったから……。しかし元来見知りをした事のない吾輩は、すぐに茣蓙の上から立ち上って、チョコチョコ走りに柵の処へ来て見ると、そのアネサンの連れらしい肥った旦那が、そこにあった石屋の石燈籠の蔭に立って、やはりニコニコしているのが眼についた。
 アネサンは近づいて行く吾輩を見るとイヨイヨ眼を細くした。
「アンタクサナー。チョット妾達わたしたちと一緒に来なざらんナ。ととさんも連れて……ナ……」
 と言い言い吾輩におひねりを一つ渡した。それを柵の間から猿みたいに手を出して受け取りがけに触ってみると、十銭銀貨が三枚入っている。吾輩は何故そんな事をするのか意味はわからなかったが、しかし、そんな意味を問い返す必要は毛頭ない金額であった。
 吾輩は眼を丸くしながら男親の処へ飛んで行ってゆり起した。そうして三十銭のおひねりを見せると、これも何だかわからないままねぼけ眼をこすりまわして、鼓と茣蓙を荷ぎ上げて、頬ペタのよだれを拭い拭い大慌てに慌てて吾輩のあとからいて来た。
 立派な旦那とアネサンは、共進館前のカボチャ畠の間から町裏の狭い横露地に曲り込んで十間ばかり行ってから又一つ左に曲がると券番の横の大きな待合の前に出た。そこは十坪ばかりの空地になっていたが田舎の麦打場のように平かで、周囲の家にはまだ明るいのにランプがギラギラ点いていた。その中を夕方の散歩らしい浴衣がけの男女がぞろぞろしていたが、遠くの方の横町には大勢の子供が、
「燈籠燈籠ぼしやあれ灯ぼしやあれや。消えたな爺さん婆さん復旧まあどいやあれ復旧いやあれやア」
 と唄う声が流れていた。
 その声に聞き惚れてボンヤリ突立っていると吾輩の振袖を男親が急に引っ張ったので、ビックリして振り返ってみると、その空地のまん中に今まで見た事もない四枚続きの青々とした花茣蓙が敷いてある。男親はその一角にかしこまって鼓を構えている。その真正面に今の旦那とアネサンがバンコ(腰かけ)を据えて団扇を使っていたが、アネサンは赤い酸漿ほおずきを赤い口から吐き出しながら旦那を振り返った。
「見よって見なざっせえ。上手だすばい」
 旦那は二つ三つ鷹揚にうなずいた。見れば見る程脂切った堂々たる旦那で、はだけた胸の左右から真黒な刺青いれずみの雲が覗いているのが一層体格を立派に見せた。コンナ旦那は気に入るといくらでも金をくれるものである……と吾輩はすぐに思った。
 男親がその時に特別誂えの頓狂な声を立て、
「イヤア……ホウ――ッ」
 と鼓を打ち出した。吾輩は赤い鼻緒の下駄を脱いで、青い茣蓙の上に飛び上ると、すぐに両袖を担いで三番叟さんばを踏み出した。
 旦那とアネサンが顔を見交して黙頭うなずき合った。

     十六

 茣蓙の周囲にはモウ黒山ではない白山のように浴衣がけの人だかりが出来ていた。その中でチラチラと動く団扇や扇が、そこいらの二階のランプを反射して眩しかった。そのまん中で大得意になった吾輩は、赤い鼻緒の痕の付いた小さな白足袋を茣蓙一パイに踏みはだかって、色の褪めた振袖に夕風をはらませながら舞いまわった。
「三番叟」が済んで一足飛びに「奴さん」に移ると見物の中で「ウーン」と感心する者が出来て来た。竹のバンコの上のアネサンも団扇の手を止めて旦那としきりに耳打ちしていたが、しまいにはそれさえしなくなって、二人ともバンコからズリ落ちるほど身を乗り出したまま動かなくなった。
 そのうちに銀貨や銅貨や、その頃出来たての白銅の生々しい光の雨がバラバラと降り出した。それを見ると吾輩が踊りながらの相の手に、調子よく身体を曲げながら、「オワリガトウ……ゴザイマス」を遣ったら見物が一斉にどよめいた。
 それはよかったが、その見物の中から頓狂な声が飛び出して、
「……ウーム……真実ほんな事言いよる。名古屋の方が大阪よりか遠か……」
 と言うより早く皆ドッと笑い出したのにはギョッとさせられた。成る程博多は油断のならない処だ。田舎とは違うというような感じをハッキリ受けたので、今一度ヒヤリとさせられた。
 けれども、そんな連中も男親の唄が「雪はチラチラ」に移ると又も「ウーム」と唸り出した。「おぼえとるおぼえとる」と言う者もあった。それから「棚の達磨さん」が済んで「活惚れ」が済んで「寝忘れた」「宮さん宮さん」「金毘羅フネフネ」とゴチャゴチャに続いて「踏破る千山万岳のーウ、書生さんに惚れエてエー」と来た時には、さすがの吾輩も踊り疲れて汗ビッショリになった。そうするとバンコの姉さんが吾輩を招き寄せて、懐中から取り出した小さな兎の足で、吾輩の化粧崩れを直してくれたが、そのうちに、
「ああ臭さ臭さ。あんた何日風呂い入らんとナ」
 と言ったので見物が又もやドッと笑い崩れた。
「ホンニなあ。可哀想に……」
 と言う者もあった。
 それを聞くと吾輩は心の底で大いに憤慨した。今まで踊って来た元気が急に抜けてしまったような気持ちでスゴスゴと茣蓙の上に戻ると、何を感ずったのか竹バンコ上の刺青の大旦那が、吾輩の足下に大きな一円銀貨をペタリと投げ出して、太いドラ声でわめいた。
「マット面白かとば遣れエ」
 吾輩は呆れた。一円銀貨なるものは見た事はあるが、それを貰おうなぞとは夢にも思わなかったので、その銀貨と旦那の顔を見比べながらボンヤリ突っ立っていたが、そのうちに、ゴソゴソと茣蓙の端から匐い出して来た男親が、その一円銀貨を恭しく押し頂いた上に額をコスリ付けてひれ伏した。黒痘痕くろじゃんこだから表情はよくわからなかったが、感激の余りガタガタ震えていたようで、そのミジメな恰好と言ったらなかった。
 けれどもその態度があんまり真剣なので、見物が皆シンとさせられていたようであった。何処か隅の方で……一円……三斗俵一俵……とつぶやく声が聞こえていたようにも思う。
 そのうちに茣蓙の隅に退却した男親が、細引からげの鼓を取り上げながら、何を唄い出すかと思うと誰でも知っている「アネサン待ち待ち」であった。見物は皆アンマリ詰まらない物を出したので失望したらしく、ザワザワと動き出して帰る者も四、五人あったが、しかし吾輩は、その唄い出しを聞くと同時にハッとした。
 何故かと言うとこの「アネサンマチマチ」は巡査が絶対に来ない村でしか遣らない一曲であった。つまりこのアネサンマチマチの一曲までは頗る平凡な振り付けに過ぎないので、普通の女の身ぶりで文句の通りのアテ振りをして、おしまいに蚊を追いながら、お尻をピシャリとたたく処で成る程とうなずかせるというシンキ臭い段取りになっていたのであるが、しかし是はその次に来る「アナタを待ち待ち蚊帳の外」の一曲のエロ気分を最高潮に引っ立てる前提としてのシンキ臭さに外ならなかったのだ。だから、お次の「アナタ待ち待ち」の文句に入ったら最後、ドウニモこうにも胡麻化しの絶対に利かない言語道断のアテ振りを次から次に遣らねばならない。そうしてそのドン詰めの「サチャエエ。コチャエエ」の処でドット笑わせて興業を終る趣向になっているので大方男親の手製の名振付だろうと思うが、タッタこの一句だけの要心のために吾輩が、いつも俥屋の穿くような小さな猿股を穿かされているのを見てもその内容を推して知るべしであろう。恐らく吾輩が好かない踊りの中でも、これ位不愉快を感ずる一曲はなかったのである。
 しかし吾輩が如何に芸術的良心を高潮させてみた処が、一円銀貨の権威ばかりはドウする事も出来なかった。今更に最初の約束が違うと言っても追付く沙汰ではなくなっていたので、泣く泣く男親の歌に合わせて「アネサンマチマチ」を踊ってしまって、ビクビクもので茣蓙の上にペッタリと横坐りしながら「アナタを待ち待ち」に取りかかっていると、まだ蚊に喰われないうちに、果せる哉、群集のうしろで、
「コラッ」
 といういかめしい声が聞こえた。同時にガチャガチャと言うサアベルの音が聞こえたので、吾輩はすぐに踊りを止めて立ち上った。群集と一緒に声のする方向を振り返った。

     十七

 その頃の巡査は眉庇ひさしの馬鹿に大きい、黄色い筋のまわった、提灯の底みたいな制帽を冠っていた。サアベルも今の佩剣はいけんの五倍ぐらいある、物々しいダンビラ式で、奉職するものは士族の成り下りが多いと聞いていたが、タッタ今、吾輩の踊りを大喝したのは、その士族の倅ぐらいの若い巡査であった。しかもわざと帽子を脱いで、佩剣の茄子環を押えて群集のうしろから覗いていたものらしく、そのままの姿勢で満面に朱を注ぎながら靴のままツカツカと茣蓙の上に上って来たが、帽子を冠るとイキナリ、吾輩の襟首と男親の襟首を、両手で無手むずと引っ掴んだ。
「怪しからん奴じゃ。内務省の御布告を知らんか。……拘留してくれるぞ」
 と言うより引っ立てた。
 男親はモウ鼓をダラリとブラ下げたまま土気色になって、死人のように横筋かいに伸びながらズルズルと引っ立てられた。吾輩も悪い事をしたと思ったので、悪びれもせずにうなだれたまま突立っていた。
 巡査はそこでいよいよ得意になったらしい。そこらをグルリと睨みまわしながら茣蓙の外に二人を引き出して、
「下駄を穿けッ」
 と怒鳴り付けて引っ立てようとしたが、その時にバンコの上の旦那がヤット立ち上って、巡査の前にノッソリと立ち塞がった。
「エエ……旦那……」
 と気取った声で言ったが、団扇を片手にニヤニヤ笑っている処を見ると巡査を物とも思っていないらしい。巡査はその態度に威圧されたように一足後に退りかけるとサアベルが足の間に引っかかったので、あぶなく尻餅をきそうになった。それを吾輩の肩で支え止めながら慌てて、
「何じゃ貴様はッ」
 と怒鳴りかけたが、その拍子に立て直しかけた両足が、又もや自分のサアベルに引っからまって、今度は前の方へノメリそうになったので、群集が思わずゲラゲラと笑い出した。そこで巡査はイヨイヨ真赤になって、モウ一度怒鳴り立てた。
「何ジャッ。貴様は本官の職務の執行を妨害するのかッ」
 旦那はそうした巡査の昂奮を見ると、正反対に落ち着いた態度を執った。団扇を使い使い眼を細くした。
「イヤ。そげな訳じゃあがアせん。あっしゃア直方の大友と申すもので……」
 といかにも心安そうに反りくり返った。ところが又生憎な事にこの巡査は他県の人間か何かで大友親分の名前を知らないらしかった。ビクともしない大友親分の顔の前に自分の顔を付き付けて歯を剥き出した。
「それが何じゃッ。大友じゃろうがコドモじゃろうが、官憲の職務執行を妨害するチュウ法があるかッ」
 大友親分はこの巡査の頑固一点張りに驚いたらしい。団扇使いをやめて眼をパチクリさせた。そうして今度は態度を改めて、団扇をブラ下げると無恰好な不動の姿勢を取った。胸の刺青を取り繕いながら恭しく巡査に向って一礼した。
「そう仰言おっしゃると一言もがアせん。しかし高が町流れの乞食でがアすから……キット後来を戒めますから……」
「ナニ。何を言っちょる。後来は後来じゃ。本官は後来を咎めよるのじゃないぞッ。今の踊りを咎めよるんじゃぞッ」
「イヤ。そう仰言ると……」
「言う必要はなかじゃないか。後来を戒めるのは官憲の仕事じゃ。アーン貴様に法律の執行権でもあるチュウのか」
「イヤ。その……」
「黙れッ。第一貴様はタッタ今までこやつどもの踊りを喜んで見とったじゃないか」
「ハイ……」
 さすがの大友親分もピシャンコになって頭を垂れた。理の当然に行き詰まったらしい。そこで却って親分らしく見えて来た。吾輩も子供心にこの巡査の六法全書式論法が、訳はわからないまま痛快に感じられたので、大きくなったら巡査になろうか知らんと思い思い傾聴していた。
「来い……」
 と突然に巡査は言いながら男親の襟首を右手に移して小突き立てた。同時に襟首を放された吾輩はこれからどうなるかと言う事が急に心配になり始めたので、男親の袂にシッカリと縋り付いてチョコチョコ走りして行った。
「フ――ン。慣れとると見えてナア。泣きもせんばいナアあの子供は……」
 という声がその時に群集の中から聞こえた。しかし吾輩は何だかタマラなく恥かしくなったので振り返って見る勇気も出なかった。
 中島の橋のマン中あたりまで来ると巡査が男親の襟首を離したので、吾輩は何かしらホッとした。そうしてヤットうしろを振り返ってみると櫛田の大銀杏の向うの青い青い山の蔭からマン丸いお月様がノッと出て、橋の上の吾輩と向き合っていた。その光を見ると吾輩は妙に悲しくなった。
「モウ少し早くあのお月様が出てくれたらよかったのになあ。こんな事にならないで済んだかも知れないのにナア」
 というような理屈に合わない事を考えまわしながら、木橋の上をゴトンゴトンと小走りして父親の袂に縋り付いて行った。

     十八

 その頃の福岡警察署は今の物産陳列所の処に在った。自動車小舎を大きくした位の青ペンキ塗りの瓦葺きで、玄関の正面に直径一尺位の金ピカの警察星がはめ込んであったが、その当時では福岡市内唯一のハイカラ建築で、田舎者が何人も何人も立ち止まって見上げているくらいであった。
 男親と吾輩は、その玄関前の石段を追い上げられると、右手の留置所の前の訊問室の片隅に在る木製のバンコ(腰掛け)に並んで腰かけさせられた。そうして立派な建築に似合わない見窄みすぼらしい三分心のランプの下で、宿直の黒い髯を顔一パイに生やした巡査が立会いの下に、若い巡査から訊問される事になったが、男親は頭が膝の間に落ち込む程恐縮した恰好をしながら、蚊の鳴くような小さな声で巡査の言葉が終らないうちにオドオドと返事をして行った。吾輩は又吾輩で、窓越しに見える東中洲の芸者街の灯が、月を含んで青々となった那珂川の水にゆらめき流れるのを、夢のような気持ちで眺めながら、二人の問答を聞くともなく聞いていた。
「このはお前の本当の子か」
「ヒエ――。ワテエの女房が生みましたのや」
「つまりお前の子じゃな」
「さいや。ことし七つになります」
「チョットも似とらんじゃないか」
「ヒエ――。もとはよう似とりましたのんやけど、ワテエの顔がコナイになりましてからと言うものアンジョ……」
「フ――ン。とにかく誘拐したものではないじゃろな」
「ヒエ――。よう知りまへんけど七年前に夫婦になりますとアンジョ出来ましたのんや」
「ウーム。それはわかっとる。それはわかっとるが名は何というか」
「ヒエー。チイチイと申します」
「ナニ。チイチイ……」
「ヒエー。チイと申します」
「フム。一つだけなら一つだけ言え。二つ言う必要はない」
 と巡査は睨み付けながら、指の先に唾液つばをつけて帳面の上をこすった。
「ヒエー。どうぞ御勘弁を……」
「……そこでと……そこでお前の原籍は……」
「ヒエー。ワテ知りまへんのえ」
「フム。知らん。それならば山窩か、それとも……」
「ヒエー。サンカたら存じまへんがな」
「山の中に寝る乞食かと言うのだ」
「ヒエー。そないとこへ寝たことおまへんのえ」
「木賃宿に泊っとるのか」
「ヒエー。踏みたおいた事一度もおまへんノエ」
「馬鹿、誰が踏みたおいたと言うたか、聞きもせん事言うな」
「そやから山に寝た事おまへんノエ。どうぞ御勘弁を……」
「わからん奴だな。本官のいた事だけ返事せよと言うとるじゃないか。お前の名前は……」
「ヒエー、市川鯉次郎と申します」
「立派そうな名前だな。年は……」
「ヒエー。ワテよう知りまへんノエ」
「馬鹿。自分の年を知らんチュウのか」
「さいや……よう知りまへんけど若いうちに天然痘ほうそうしましてエライ難儀な目見ましてナ。とうとコナイな商売になりましたがナ。その時が十七やたら十八やたら言いましたけど、ワテにはようわかりまへんね」
「ははあ。白痴じゃったのかお前は……」
「ヒエー。バクチじゃおまへんね。ホーソだんがナ」
「イヨイヨわからん奴だな。お前の両親は……」
「ヒエー。ワテの両親は何処ジロアンジョしとるかも知れへんけど、ワテをり棄ててアンジョにげよりました」
「フーン。生まれながらの孤児じゃナ」
「いえ。腹からの乞食じゃおまへん。ホーソするまでは役者しておりました」
「ナニ役者。その面でか」
「さいや。ええ男だしたがな立女形たておやまで……」
「プッ。イヨイヨ白痴だな。……そこで前科はないか」
「ヒエー、そないなものおまへん。情婦おなごは仰山いよりましたけんど、実のあるのは今の女房だけでやす。今患ろとりまして、吉塚の木賃に寝とりまんがな。わてヤ可哀想で可哀想で敵いまへんがナヘッヘッ……」
「馬鹿。泣いとるのか貴様は……」
「どうぞ御勘弁なさって下はりませや。女房子が……かつえて……死によりますよって……ヘッヘッ……ダ……旦那様ア……ア……」
 と言ううちに男親は手離しでオイオイ泣き出した。吾輩も何かしら堪まらなく馬鹿馬鹿しいような涙ぐましいように気持ちになって、汗の乾いた身体をモゴモゴとさせながら水洟をすすり上げた。
 すると最前から欠伸をしいしい横から様子を聞いていた髯巡査が、上役らしく膝を抱え直しながら笑い出した。
「アハアハアハ。こりゃあイカンイカン。オイ横寺巡査。手帳につけるのは止めた方がええ」
 若い巡査は不平らしく帳面と鉛筆を下した。
「全体君は何でコンナ者を引っぱり込んで来たんか。アーン」
「ハイ。その子供が風俗壊乱の踊りを踊っておりましたので……」
「その女の児がか……」
「ハイ……」

     十九

「フーム」
 と、髯巡査は大きな欠伸を噛み殺しながら、改めて吾輩の振袖姿を見上げ見下した。そうしていい退屈凌ぎという風に、黒いアゴ髯を撫で上げて、帽子をツルリと阿弥陀にすると、モウ一度片膝をグッと抱え上げた。
「ウーム。風俗壊乱も程度によりけりじゃが、子供じゃから高が知れとるじゃろう。ドゲナ踊りをおどったんかこの児が……」
 と髯の先で吾輩をした。若い巡査は自分が訊問されるかのように固くなって、髯巡査の方に向き直った。
「ハイ。そのアネサンマチマチとか言うのをこの男親が唄い出しますので……」
「ハッハッ。そりゃあ普通の流行歌じゃなッか。本官もヨウ知っとる……蚊が喰うて痒いと言うだけの事じゃ。チョットも差支えない」
「ハイ。ところがその……ソノ……踊りが怪しからぬ踊りで……」
 と若い巡査は又も激昂の気味で帳面と鉛筆を握り締めた。男親はイヨイヨ小さくなった。
「フーン。それはドゲナ踊りかな」
「ハイ。私には踊れません」
 と言い言い若い巡査は、腰から大きな西洋手拭を出して汗をふいた。
「アハハ。君に踊れチュウのじゃない。言葉で説明して見たまえと言うのじゃ」
「ハイ。それがその……実に言語道断な踊りで……トテモ私には説明が……」
「アハハ。成る程君は芸の方は不得手じゃったナ。ハッハッ。それならば論より証拠じゃ、オイ非人。貴様その娘の児をそこで踊らせてみい」
「ヒエー」
 と男親はバンコに両手を突いて尻ゴミした。
「遠慮する事はない。叱りもドウモせん。歌の文句だけでもええから唄うて見よ」
「ヒエー。どうぞ御勘弁を……」
 と男親はモウ一度尻ゴミをしたが、その拍子にアブナクうしろへ引っくり返りそうになった。それを見ると吾輩は、可笑しいよりも何よりも、男親の意気地のなさ加減が自烈度くなって来た。同時に一文もぜにを投げないまま無理な注文を出して威張り腐っている二人の巡査が妙に癪に障って来た。警察でも何でも糞を啖えと言う気持ちになったのは吾ながら不思議であった。
 しかしソンナ事を知らない髯巡査はイヨイヨ調子に乗ったらしく、眼尻を垂らしてニタニタ笑い出した。
「ウム。勘弁して遣るから踊らせてみい。その風俗壊乱踊りチュウのをやらせて見い。……オイ娘の児、オジサンの前で一つ踊って見よ。ハハハ……踊ったら褒美を遣るぞ」
「いやヤ……」
 と吾輩は待ち構えていたように勢よくお合羽さんを振った。
「フ――ン」
 と髯巡査が面白そうに眼を光らした。
「踊らんと監獄へ遣るぞ」
「ワテ監獄に行きたい」
「……ナニ……」
「ワテ監獄に行きたい」
「フ――ン。何で監獄に行きたいんか。怖い処じゃぞ監獄は……」
「そんでも監獄へ行ったらアネサンマチマチ踊らんでもええから」
「アハハ。こりゃあナカナカ面白い児じゃぞ。お前はそんなにアネサンマチマチが嫌いか」
「アイ。銭投げて貰うて踊る舞踊おどりみな嫌いや」
「フーウ。ナカナカ見識が高いナ、貴様は……銭貰うて礼言うのが嫌か」
「礼は言わんがな。洒落言うだけや」
「ナニ洒落を言う?」
 男親が吾輩の振袖を引っぱった。しかし二人の巡査に睨まれて手を引っこめた。
「あい。オワリガトウゴザイマスと言うのや。ここから行くと名古屋の方が大阪より遠いと言う心や。最前一円くれた人には言うのん忘れたけど……」
 と言いさして吾輩は正面にいる若い巡査の顔を睨み上げた。
「ワッハッハッハッハッハッ」
 と髯巡査が天井を向いて反りくり返った。若い巡査も顔を真赤にしてうつむいた。
「アッハッハッハッ。ワッハッハッハッ。こりゃ愉快な奴じゃ。銭くれた奴こそエエ面の皮じゃ。アッハッハッハッ。愉快じゃ愉快じゃ、オイ横寺。君はええものを引っぱり込んで来たぞ」
 横寺巡査はいよいよ赤面して汗をふいた。すると髯巡査もすこし真面目に返りながら、吾輩の前に髯を突き出した。
「ウーム。しかしそれは子供にはチット出来過ぎた洒落じゃが、一体誰に習うたんか」
ととさんに習いました」
「この父さんにか」
「アイ。踊りも習いました。この父さんワテ好きや」
「ハハアかかさんは嫌いか」
「よその人より好きやけど……」
 と吾輩はSの字形に身体を曲げた。すこし涙ぐましくなりながら……。髯巡査はイヨイヨ顔を近付けた。吾輩の答弁ぶりに何か曰くがありそうなのに気付いたのであろう。

     二十

「フフム。何故に父さんが好きで母さんが嫌いか。他所よその子と反対じゃないか」
「あい。そんでも毎晩母さんが、父さんに勝ちよりますよって」
「コレ……」
 と男親がたまりかねて吾輩を引き寄せようとした。それを髯巡査が一睨みして引き分けると、男親は真青になって震え出した。しかし吾輩は別に両親から口止めをされた記憶おぼえがないので、男親がコンナにふるえ上る理由わけがわからなかった。その様子を見て髯巡査はイヨイヨ眼を光らした。
「フーム。そんなに毎晩、夫婦喧嘩をするんか」
「アイ。イーエ。喧嘩やないけどバクチを打つのや」
「コレッ」
 と男親が又もタマリかねて近寄って来るのを髯巡査が、
「引っ込んどれッ」
 と大喝して押し退けた。若い巡査はスワコソ一大事という風に、男親と吾輩との間に割り込んで腰をかけた。その横から髯巡査はイヨイヨ眼を光らして吾輩の顔を覗き込んだ。
「ハハア。バクチを打って父親てておやが負けるのか」
「サイヤ。毎晩父さんが負けて銭取られるよってワテが母さんを負かいて皆取り戻いて遣ろと思ったけんど、この間から母さんが病気しよったけんで、可哀想になって止めたんや」
「アハハ。こりゃあイヨイヨ出でてイヨイヨ奇抜じゃ。お前はその強い母さんに勝つ見込があるのか」
「アイ。何でもアラヘンがな」
「フーム。これは物騒じゃよ。それじゃあお前もバクチを余程打った事があるな」
「イイエ。バクチは嫌いやから打った事ないけど、勝つくらい何でもアラヘん。札の裏から一枚一枚手役が見えるよって……」
 と言ううちに吾輩はだんだん勢い込んで来た。髯巡査は面喰らったらしく顔を撫でまわした。
「ウウー。こらあイカン。この児は何か取りいとるぞ。ノウ横寺巡査……」
 と言い言い眼をマン丸にした顔を吾輩にさし寄せた。
「ハイ」
 と横寺巡査も顔を撫でまわしながら、気味悪そうに吾輩を振り返ったが、吾輩はしかし臆面もなく言い張った。
「何も憑いとらヘンがな。札持って来て見なはれ。皆当てて見せるがな」
 三人が三人ともシインとなって、吾輩の顔を見守り始めた。吾輩も何で三人がソンナに驚くのか判らないままマジマジと三人の顔を見まわした。
 その時に表の玄関の方向で突然に甲走かんばしった女の声がした。と同時に下駄と靴の音がガタガタと石段を上って来たと思うと、最前の美しいアネサンと大きな風呂敷包みを抱えた小使らしい男が板張りの上へ案内なしに上り込んで来て大きな音を立てた。
「アラッ。どこい行たもんじゃろかい。あッ。此室ここいおんなざった。小使さん小使さん、チョトその風呂敷包みを此室に持って来ちゃんなざい。ああ暑つ暑つ。それからその署長さんの手紙は荒巻部長さんにイ上げちゃんなざい。……まあ……荒巻さんならチョウドよかった。御免なざっせえ。ああ暑つ暑つ」
 とアネサンは独りでペチャクチャ饒舌しゃべり立てながら、遠慮会釈なく吾輩が腰をかけているバンコの端にペタリと腰をかけた。鼻紙で汗を抑え抑え小さな扇を使った。
 荒巻部長というのは髯巡査の事であったが、小使が持って来た茶色の封筒を受取るとチョッと押し戴いた。帽子を冠り直して、威厳を正しながら読み終ったが、その眼を美しいアネサンの顔に移すと急にニタニタした笑い顔になった。
「フーン。直方の大友親分チュウのは、お主の旦那じゃったんか」
 アネサンはイキナリ扇を振り上げて髯巡査をタタク真似をした。そうして髯巡査が首を縮めた拍子にお尻を持ち上げて、横寺巡査の椅子に乗りかえた。
「まあ。嫌らっさなあ荒巻さんチュウタラ。アタシャそげなこと調べられエ来たとじゃ御座っせん」
「ホホオ。そんなら何しに来た」
「そこに書いてありましょうが。わたしゃ読みきりまっせんばって……」
「ウム。その児は評判の孝行者にて、親を養わんがために犯したる微罪に相違なき旨、県会議員大友氏より内訴あり。穏便の処置を頼むと書いてある」
「そりゃあ微役に遣るなチュウ事だっしょ」
「ウム。その通りじゃ。よう知っとる」
「それで妾ゃあ。その児ば貰いイ来ましたとたい。あなた立ち会うてやんなサッセエヤ」

     二十一

 美しいアネサンの黄色い声で、場面がスッカリ急転してしまった。折角吾輩が花札の神技を見せて遣ろうと思っていた二人の警官と、吾輩の男親の視線は一斉に、吾輩を連れて行くという美しいアネサンの、ツンとした鼻の頭に集中した。そのアネサンの白いヒラキをかけた水々しい銀杏返しが何かしら物々しいものに見えた。
「ウーム。そうするとお前はこの児を引き取って育てようと言うんか」
 と髯巡査はモウ一度髯を逆撫でにして乗り出した。
 アネサンは無造作にうなずいた。その鼻の頭の処で、青い絹扇を使いながら、いよいよツンと反りかえった。
「まあ聞いちゃってんなざい。こげな仔細わけだすたい。この頃この子供の踊りが貴方ア、博多中の大評判だっしょうが」
「フーム。そうかなあ。俺あ知らざったぞ」
「イヤラッサナア。知んなざれんと。中券なかけん芸妓げいしゃでもアレだけ踊り切る者なあなかちゅうて、言いよりますっちゃが」
「ハハア。成る程。そこでお前が憤慨したちゅう訳か」
「フンガイか何か知りまっせんばって、妾も中券のトンボだす。道ばたの非人と……アラ御免なざっせなあ……こげな子供とり合おうたあ思いまっせんじゃったけんなあ……ハハハハ……、加減くらい聞いとりましたところが貴方、チョウド一昨日の仏様迎えの晩だすたい。相券あいけんの蝶々さんとお座敷で会いましたりや、その話の出とりますったい。蝶々さんが貴方、アノ大きな眼んクリ玉ばマン丸うないて、まあ一遍あの子供の踊りば見てんなざい。妾や大浜のお恵比寿様えびすさまのお鳥居の下で踊りよるとば見て気色の悪うなった。トテモ大人おせにゃあ出来んと思うて感心しとったりゃあ、荷の腐るともかんまんな立ち止まって見とった魚市場いちば兄哥あんちゃんから『ドウナあねたん。アンタ達よか上手ばい』て言われて、返事の出来んなりい赤恥かいて逃げて来た。それからあの子供ばあん儘い棄てとくたあ惜しかちゅうて、車引きさんに頼んで昨日一日探させたばってん何処さい行たかわからじゃった。アンタも一ペン見てんなざい。地唄も上方仕込みで口切れのよかばってん。踊リイ合うちゃ勝ち切らん。福岡博多であが程おどり切るもんなあチョットおるめえやチュウ話だっしょうが」
「フーン。そんなに踊りが上手なんかお前は……」
 髯巡査は眼を丸くして振り返った。吾輩も臆面もなくうなずいた。皆唖然となった。
「そげな風だっしょうが、気色のよかの何のって……。生まれ付き爪外れの揃うとるとだすやなあ」
「そりゃあその筈じゃ。役者の子じゃから……」
「アラ。それがくさ……それが違うとりますっちゃが」
 とトンボ姐さんは髯面を扇であおぎ退けた。
「この子供は貴方ア、拾い児で、何処のもんやら解らんとだすが」
「ふうん。その通りか。コラッ」
 と髯巡査は男親を睨み付けた。男親は一縮みになってしまった。その男親の頭と、髯巡査の顔の間にトンボ姐さんは扇を突き込んで話を引き取った。
「チョット待っとっちゃんなざい荒巻さん。この子の親元があんまり詳しゅう解ると妾が困りまっしょうが。察しの悪かなあ貴方ア……」
「フーン、成る程成る程」
 と髯巡査は急に思い出したように苦笑しいしい頭を掻いた。若い巡査と吾輩の男親は不思議な顔をして眼をパチパチさせた。しかしトンボ姐さんは構わずに話を進行させた。
「まあ聞いて遣ってんなざい。こげな訳だすたい」
「ウンウン」
 と髯巡査はテレ隠しらしく顔を撫でまわして身体からだを乗り出した。
「あたしゃ蝶々姐さんからその話ば聞いて、あんまり不思議だすけん、昨日から心探ししよりましたとたい。幇間の淀八さんば大将にして、男衆やら、俥引きさんやら三、四人頼うでそこここ探させて見ましたったい」
「ふうむ。何でソンナに熱心に探したんか」
「そりゃあ……その……何だすたい」
 と今度はトンボ姐さんがチョット鼻白はなじらんだ。
「それがチョット言われん訳のありますったい」

     二十二

「言われんチュウても俺ならよかろうもん」
 と荒巻部長は大人物らしく反りかえって髯をしごいた。その顔をマジリマジリと見ていたトンボ姐さんは、やがていかにも真剣らしく顔をさし寄せて声を落した。
「人い言いなざんなや」
「うん言わん」
「言うたにゃ大事件おおごとになりますばい」
「ウン言わん言わん」
「こげんだすたい」
 とトンボ姐さんは又一段声を落した。
「……これだけ評判になっとる子供ばチョット相券に取られて見なざっせえ。中券の恥いなりまっしょうが貴方。蝶々さんにゃ済まんばってんが」
「フーン。成る程なあ。この頃中券はなにかに付けて相券と競争しよるからナ。ウンウン」
「その子供をばドウしても相券より先い見付けて、上方いのぼせて一かどのお師匠さん株いしょ、中券に置いとかにゃならんチュウて、意地いなっとりますったい」
「ふうん。まあだこの児の踊りをば、お前が見もせぬうちにか……」
「そりゃあ貴方。相券の蝶々さんが魂消たまがったて言いなさりゃあ、折紙の付いたようなもんだすけんなあ」
「ううむ。えらいもんじゃなあ。そこでその後ろ立てに大友が付いたチュウ訳か」
「それがだすたい。まあ聞いて遣ってんなざい」
 中券のトンボ姐さんが、これから手よう眼ようをして話し出した事実は、何だか妙に理屈っぽくて子供の耳には入りかねたが、何しろ自分の一大事と思って一所懸命で聞き分けた処によると、このトンボ姐さんと言うのはかなり勝気の気短もので、昨日から吾輩を探し出すべく、かなりヤキモキと慌てまわったものらしい。何でもカンでも相券の先を越して置きさえすればいいと言うので、昨日の朝から八方へ人を出して雲を掴むような人探しをさせながら、一方の金の工面を考え考え待ち構えている処に、探しに遣った連中の中の二、三人がいい事を聞き出して来た。何でもその踊りの上手な子供は出来町の方から毎日出て来るらしいという噂をきょうの正午ひる前に飯喰いかたがた報告して来たのであった。
 そこで今度はこの出来町の木賃宿を一軒一軒調べさせると果して、その子供の女親というのが、出来町名物の楠の木の木賃宿に寝ていることがわかったので、そんな談判に慣れた遊び人の何とか言う男を遣って、その児の引き取り方を掛け合わせると、その女親はナカナカ強硬で、容易に承知しなかったが、その何とか言う男は前以て、その児が現在の両親の子でないらしい噂を聞き込んでいた。しかも何処かで誘拐したものらしく、毎日ヒドイ目に会わしていることがチャントわかっていたので、そこを突込んでおどかして行くと女親も身体の不自由な折柄とて閉口したらしく結局八十円で話がついた。今のところでは柳町で最極上の花魁おいらんの相場が五百円で行き止まりの世の中だから、八十円という相場はかなり張った相場であったが、急ぐ話だったからそこで見切りを付けて、手付をいくらか遣って木賃宿の亭主を保証に立たして来た。
 しかしまたカンジンの玉と男親が、どこをウロ付いているか見当が付かなかったので、明日の朝早く引取りに来る約束をして来たのであったが、とにかくそれでまず一安心をしたトンボ姐さんが、大友親分と連れ立って新築劇場の敷地を見に行った序に、共進館の前を通ると、運よく目的の親子の乞食が川縁の栴檀の根方に昼寝しているのを見付けたので、早速券番の前に連れて来て踊らせて感心しながら見ていると横寺巡査が飛び出して来て、風俗壊乱のかどでここへ引っぱって来た。そこで大友親分が署長さんの処へ二人引きで駈け付けて談判をする。一方にトンボ姐さんは取りあえず着物の算段をして、あとから署長さんの処へ押しかけたので、署長さんも気持ちようこの手紙を書いてくれた。
そこでその手紙を持って署長さんの家の男衆とトンボ姐さんとが待たせて在った二台の人力車くるまに乗って汗ダクダクでここへ来た訳であるが、何しろこの児のためではあるし、この児を拾ったのは女親で、男親ととさんは後から一緒になんなざったチュウ事じゃけん、可愛かろうがどうぞ承知して貰いたい。あなたには別に、女親かかさんに内密ないしょで手切金を二十円上げる。女親さんの手付の受取証文はここに在る。話がきまれば、すぐ女親の方へ人を遣って話をつけさせる。この児は裏の川縁で小使さんの盥ば借りて行水させて持って来た着物ば着せて、今夜から妾が抱いて寝て遣る。貴方だち夫婦もどこか別府あたりで小間物店でも出いて暮らしゃあ、その方が気楽でよかろう。大友親分の言う事をば聞いときゃあ悪い事あなか。済みまっせんばってん承知して遣んなざい。荒巻部長さんも署長さんの代りい立ち会うて遣んなざい……と言ったような訳で、トンボ姐さんは一息にまくし立てると、又も暑い暑いと言って扇づかいを始めるのであった。

     二十三

 荒巻巡査部長は腕を組みながらトンボ姐さんの雄弁を傾聴していた。しまいにはシッカリと眼を閉じて、気味の悪いほど恐ろしい顔をしいしい、時々思い出したように髯をしごいて思案をしているらしかったが、トンボ姐さんの話が終ると、やっと思案がきまったらしく、おもむろにうなずいた。そうしてしずかに眼を開くと、今までとは打って変った威厳のある態度で両手をチャンと両膝の上に置いてトンボ姐さんを見下した。
「……ウーム。いかにも。お前の言う事はよう判った」
「ありがとう御座います」
 とトンボ姐さんは慌てて頭を下げた。荒巻巡査はそれを押し止めた。
「まあ待て。礼を言うのはまだ早い。まだ俺の合点の行かん事がタッタ一つある」
「ヘエ」
 とトンボ姐さんは急に暗い顔になって髯巡査を見上げた。髯巡査はその顔を半眼に見下して咳払いを一つした。
「ほかでもないのじゃ。お前がこの児を引き取るのはまあええとして、もしこの後にこの児の本当の親が出て来た時には、文句なしにこの児を引き渡すかどうか」
 トンボ姐さんの顔が又急に明るくなった。髯巡査の前に逆立ちする程頭を下げた。
「ヘエー。そりゃあ渡しまっせにゃあこて。大友さんも人い知られた顔だす。妾も中券のトンボだす」
「俺が転任しても、その言葉に間違いはあるまいな」
 トンボ姐さんの顔が又サット緊張した。見る見る真青になって、眼をキリキリと釣り上げながら、髯巡査を睨み返した様子の恐ろしかったこと……めじりに涙がニジンでいるようにも見えた。そうして唇をブルブルと震わしながら言った。
「ヘエエ……あたしゃドウデが芸者だす。お客ばだますとが商売だす。……ばってんが……バッテンガ巡査さんば欺さにゃならんようなお粗末な事をばした事あー一ペンも御座いまっせん」
 と言い切って唇をキリキリと噛んだ。
 荒巻巡査は、しかし返事をしなかった。依然として緊張した表情を、そのまま男親の方に向けると重々しい口調で命令した。
「お前はこの児を女に渡せ。直方の大友親分が引き取るのじゃ。文句はなかろう」
「ヒエ――」
 と男親は一縮みになった。その拍子にズルズルと腰掛バンコの端からズリ落ちてベタリと坐り込むと、塵埃ごみだらけの板張りに両手を突いてヘタバッタ。しかし髯巡査は、眼じろぎもせずに言葉を続けた。
「お前達夫婦は元来野合なれあいの夫婦じゃろう。のみならずこの児は、何処からか誘拐して来たのじゃから、正式にとがめ立てすれば誘拐罪が成立して、お前達は懲役に行かんけりゃあならんのじゃぞ。ええかわかったか。……のみならず、お前達は旅から旅へ流れ歩く者じゃから、お前達にこの児を渡して置くと、いつ本当の両親に会えるかわからん。そんな機会はまずないと言うてもええのじゃ。しかるにこの女に渡してさえ置けば、この児はキット名が高うなる。そうすればいつかは両親にめぐり会う機会が出来るというものじゃ。ええかお前達もこげな小さい子供ば残酷むごい目に会わせて、ワイセツな尻振り踊りをおどらせて、道ばたで非人がするような苦労をせずとも、何か小さい商売を始めて、気楽な身体からだになった方がええではないか。な……そこを考えて俺が立ち会うて遣るのじゃ。どうじゃ理解わかったかええ……コラ。わかったかと言うのじゃ。返事をせんか」
「ホンニイ済みまっせんばって……」
 とトンボ姐さんも半分ばかり顔色をやわらげながら言葉を添えた。

     二十四

 吾輩は少々癪に障って来た。お金の力と警察の力で無理矢理に吾輩を今の両親から奪い取ろうとしている髯巡査とトンボ姐さんの目論見もくろみが子供心にもハッキリと判明わかったように思ったので、どうしてくれようかと思いながら、キッカケがないので黙って見ていると、男親の方はモウ髯巡査の説論にスッカリ叩き付けられてしまったらしく顔を上げる力もなくなったかして泥だらけの板張りの上にヘバリ付いてしまって、メソメソ泣いては水洟をすすりあげ、すすりあげては涙をこすり付けていたが、あんまりいつまでも返事をしないので、トンボ姐さんが自烈度くなったと見えて、髯巡査にチカット眼くばせをすると、帯の間から用意して来たものらしい紙包みを取り出して、ひれ伏している男親の手の甲に載せた。
「それならドウゾ。承知してやんなさいなあ」
 と念を押すように言い言い元の椅子に返った。
 すると男親はドウヤラ泣き止んだらしく、女のように袖口で両眼をコスリコスリ金の包みを取り上げて額に当て押し戴こうとしたが、かの時遅くこの時早く我慢し切れなくなった吾輩は横寺巡査の前をチョロチョロと走ってその金の包みを男親の掌から取り上げるとすぐに、トンボ姐さんの膝の上に投げ返した。
 二人の巡査と姐さんは勿論のこと、男親も口をあんぐりと開いて、包みを押し戴いた恰好のまま吾輩の額を見上げた。
 その中で吾輩はピッタリと男親に寄り添うて肩に両手を廻した。
「ワテエ。アネサンの処へ行くのは嫌や。ととさんと一緒にいるがええ」
 四人の大人はイヨイヨ唖然となった。髯巡査はモウ一度物々しく腕を組み直した。
 トンボ姐さんの眼に涙が一パイ溜った。それを鼻紙で押えるとイキナリ吾輩の傍へ走り寄って背中を撫でた。
「ホンになあ。こげな親孝行な児ばなあ」
 とトンボ姐さんは水洟をすすり上げたが、又もや髯巡査と顔を合わせると二つ三つうなずいて、つばきをグッと嚥み込みながら鼻の詰まった声で吾輩に言い聞かせた。
「あのなあ。ようとききなざいや。あんたのととさんとかかさんな、外の処いおんなざるとばい。あんたの帰って来なざるとば待ちこがれとんなざるとばい。そのホンナ父さんと母さんの処へ妾が連れて行て上げるとじゃけんな……あたしが言う事ば聞きなざいや」
「ワテエ。父さんも母さんもモウ要らん。この父さんと母さんと、ふただけでモウ結構や……」
 トンボ姐さんの眼に泪が又も一パイになった。
「ふうん。なあ。どうしたまあ親思いの……」
 と言いさしたが、その泪を拭い拭い髯巡査の顔を見上げると、絶体絶命の恰好で吾輩の前に顔をさし寄せた。
「あのなあ。この姐さんナア、ホンな事言いよりますとばい。あんたがなあ。妾の処へ来なざれあナア。毎日たたかれも蹴られもせん……」
「蹴られてもえ。踊りおどるのが好きや」
「踊りゃイクラでも踊られるけん……」
「この父さんの歌でのうて踊るのは嫌や」
「……まあ……どうした解らん人じゃろうかいなあ。この父さんは、これから毎日あんたの処へ来なざるとばい」
「嘘や。父さんと母さんは、お金を貰うたら、ワテエを棄てて何処かへんでしまうのや」
「まあ。どうしたまあ物の解った……わからん人じゃろうカイナア……それならチョット見てんなざい。こげな美しい着物ば毎日着せて上げるとばい」
 と言いながらトンボ姐さんは、手早く傍の風呂敷包みを解いた。その中の折り畳んだ新聞紙の下から、今まで見た事もないような美しい振袖と、端の方に金筋の入った赤いシゴキ帯と、鈴の入ったカッポレ(表付塗下駄)を出して吾輩の鼻の先にブラ下げて見せながら、最前大友親分にして見せたような笑い顔をニッコリとして見せた。
 吾輩はイヨイヨ腹が立って来た。今まで担がせられた荷物でさえ重たくて堪まらないのに、この上に着物が殖えてたまるものか。大人というものはどうしてコンナに聞き分けのないものだろう……どうぞ来て下さいと手を下げて頼めば、何もくれなくとも踊りに行って遣るのに……と思いながら返事もせずに男親の肩に縋り付いていると、今度は髯巡査が、大きな目をいて吾輩を睨み付けた。
「コラ。言う事を聴かんと懲役に遣るぞ」
 しかし吾輩はチットも怖くなかった。子供ながらこっちの方が正しいと思っていたから平気の平左であった。
「懲役に行ってもええ。父さんと母さんと一緒ならどこへでも行く。これワテエの父さんや」
 と男親の背中越しに首ッ玉へカジリ付いた。
 ところが吾輩がこう言うと間もなく室中に不思議な現象が起った。
 髯巡査の目から涙がポロポロ流れ出した。ちょうど棕梠しゅろ箒に小便をりかけたように……。トンボ姐さんの目が真赤になった。首を切り落される魚のように……。男親が四ツン這いになったまま、身体をゆすり上げゆすり上げして、エヘッエヘッと区切りを付けて泣き出した。この頃毎日見る機関車の止まりがけのように……。その中央まんなかに坐った横寺巡査が両方の二の腕で涙を薙ぎ払い薙ぎ払いし始めた。
 吾輩は可笑おかしいのを我慢しながらニコニコと見まわしていた。

     二十五

 吾輩は四人の大人が代る代るシャクリ上げては涙を拭き拭きしているのを面白そうに見まわしていたが、あんまりいつまでも泣き止まないので自烈度くなって来た。その上にお臍のまわりから背骨の処へかけてグルグルと言う物音が廻転し始めて、急にお腹がいて来たので男親の耳へソット口を寄せて、
「帰らんけえ」
 と囁いた。
 吾輩がそう言うと男親はピッタリと泣き止んだが、ジット考え込んだままナカナカ起ち上ろうとしなかった。これは多分、木賃宿に寝ている女親の事を思い出したので、あんまり遅くなったからと言って叱られはしまいかと心配しているらしかったが、これは吾輩も同感であった。都合によってはこのまま男親と一緒にどこかへ逃げて行ってもいいと考えながら、男親の首すじへアゴを載せていると、そのうちにやっと、トンボ姐さんが泣き止んで口をき出した。
「アーア。泣かせられた。こげな親孝行な子供あなか。一夜添うても妻は妻ばいなあ」
「馬鹿」
 と髯巡査が姐さんを睨み付けた。
「それとコレとは訳が違うぞ」
 トンボ姐さんの顔が泣き笑いに変った。
「おんなじ事だすたい貴方ア、一晩抱かれても親は親だっしょうもん。お蔭で妾ア自分の親不孝まで思い出させられた。両親の言う事をば聴かんナ芸者になったりして……あアあア。芸者ば止めとうなった妾ゃア」
「勝手に止めて帰るがえ」
 髯巡査はイヨイヨ不機嫌な顔になった。
「その両親がモウ死んどりますったい。アハハハハハハ」
「……コ……この馬鹿奴ばかめえ……親が死んだチュテ笑う奴があるか。よくよく親不孝な奴じゃなあ貴様ア……ええコレ……」
 と髯巡査が掴みかからんばかりに身体からだを乗り出した。その剣幕を見るとトンボ姐さんはビックリして身を退きながら、急に笑い顔を呑み込もうとして眼を白黒さした。
「あたしが悪う御座んした。親孝行には勝たれません」
「勝たれんのが当り前じゃア、親不孝作りが商売じゃもの……」
 と言い言い髯巡査はヤット自分の椅子に落ち着いた。その顔をジロリと横目で見い見いトンボ姐さんは、ヤケに襟を突越した。唾液つばをグッと嚥み込みながらキッパリとうなずいた。
「何でもよございます。こうなりゃ妾も中券のトンボだす。意地でもこの児ば両親込みに引き受けてかくまいます。二度と非人ナアさせまっせん。大友さんにゃ妾から承知させます」
「ウムッ。よしっ……」
 と髯巡査が突然に大きな声を出したので、皆ビックリしてその顔を見た。その中で髯巡査は皆にわかるように幾度も幾度も首肯いて見せながら眼を光らして一同を見まわした。
「ヨシッ。それで話の筋が通るようになった。俺も立ち会うて大友君を説き伏せて遣る」
「ありがとう御座います。ホンニ済みまっせん」
 髯巡査は又もうなずきうなずき威儀を正して男親を振り返った。
「わかったか」
「ヒエー。わかり……ました」
「ウム。よしよし、それならば、モウ用はない。この事を帰って女親によう話せよ。そうしてこちらから誰か行くまで何処へも出ずに待っておれ。違背すると承知せんぞ」
「ヒエー。わかり……ました」
「これというのもこの児の親孝心のお蔭じゃ。これから決してこの児を粗末にする事はならんぞ」
「ヒエー」
「女親にもヨク言うて聞かせよ」
「……か……かしこまり……ました。ヒエ――ヒエ――……」
「よし。わかったならモウおそいから帰れ」
「チョット待っちゃんなざい」
 とトンボ姐さんが白い手をあげて制し止めた。そうして御飯でも喰わせるのかと思ったらコンナ事を言い出した。
「チョット待っちゃんなざいや。着物の寸法ば合わせてみるけん」

     二十六

 気の早いトンボ姐さんは、吾輩をモウ自分の抱えにしたかのように思い込んでしまったらしい。躾のかかった振袖と帯を取り上げて左腕に引っかけながら、チョコチョコと吾輩の傍へ寄って来た。そうして男親の背中にもたれている吾輩をれなれしく引き起して、赤い振袖に両手を通させて、これ見よがしにタメツすがめつし始めた。
「まあ。ちょうど良かたい。立派な別嬪しょうもんさんばい。なあ荒巻さん」
「うむ。行く末が案じられる」
「要らん事ば言いなざんな。この児は何事なんでもわかるとじゃが」
「ハハハハハ。この姐さんが如なりさいせにゃ良か」
「なりまっせん……。あたしゃ親孝行もんだすけん、トンボ姐さんた違いますッて言いなざい……ばってんがチョット身幅の狭かごとある。チョット帯ば解いてんなざい」
「おい横寺君。ソッチから帯を解いて遣り給え」
「イイエ。よう御座す。妾が……アラ済みません」
 と言ううちに二人がかりで吾輩を丸裸体にしてしまった。
「アラ。此人あ出臍でべそばい。嫌らっさなあ」
「アハハ。これ位なら治るもんじゃよ」
「そうだっしょうか……そうしてアナタア猿股ば何ごと穿いとんなざるとナ。こげなきたなか猿股をば……」
 とトンボ姐さんは不審そうに吾輩に問うた。ところが吾輩も実は猿股を穿かせられている理由をこの時までは知らなかったので、至極単純にお合羽頭を振った。
「ワテエ知らん」
 トンボ姐さんはチョット妙な顔をして吾輩を見上げた。そうして手早く爪の先で猿股の紐を引いてスッポリと下に落したが、
「アラッ」
 と言ったなりにヒンガラ眼をして真青になってしまった。ちょうど吾輩の出臍の処に喰い付きそうな顔で気味が悪くなった位であった。それと同時に吾輩の足下に坐っていた男親がゴソゴソと縮まって、頸を抱え込みながらブルブルと震え出したので吾輩はイヨイヨ不思議な気持ちになった。
「何じゃ何じゃ、どうしたんか」
 と髯巡査がトンボ姐さんの銀杏髷越しに覗き込んだ。それに釣り込まれて横寺巡査も、吾輩のうしろからさし覗いたが、二人とも同時に腰かけの上にドタンと尻餅を突いて引っくり返らんばかりに噴飯ふきだした。
「ワッハッハッハッハッハッ」
「ウワアッハッハッハッハッ」
 それは文字通りに笑いの大爆発であった。二人とも靴で床板をガタンガタンと踏み鳴らして笑いコケた。制服の手前も何も忘れて、胸を叩いて、横腹を押えまわって、涙と汗を拭いもあえず右に左に身体を捻じりまわったが、しまいには眼がくらみそうになったらしく、横寺巡査は慌てて立ち上って、室の隅のテーブルに逃げて行こうとした拍子に、又も自分の佩剣に引っかかって、物の見事にモンドリ打って、髯巡査の前に引っくり返った。そのまま机に匐い付いて、尻を押え押え笑いこけた。それが可笑おかしかったので吾輩もついゲラゲラと笑い出した。ビックリして顔を上げた男親も思わずプーと吹き出してしまったので、トウトウ室中がクンクンゲラゲラアハハハハという笑い声だらけになってしまった。
 しかしその中でトンボ姐さんはタッタ一人笑わなかった。振袖を床の上に取り落したまま白い眼をギョロギョロさして、吾輩の顔と股倉とを何度も何度も見上げ見下していたが、やがて幽霊にでも出会ったかのように血の気のない唇をワナワナと動かした。そうして独り言のように気の抜けた声で問うた。
「あなたア男だすな? モシ……」
「ワテエ知らん」
 と吾輩は笑い止めて答えた。あんまりトンボあねさんの態度が真剣ったので……。
 しかし吾輩の返事を聞くと荒巻髯巡査もトウトウ我慢が出来なくなったらしく、帽子を落っことして、禿頭を丸出しにしながら、テーブルの処へ逃げて行った。横寺巡査と差し向いに板の平面に匐い縋って、テーブルの奪い合いを始めた。
 それをジッと睨みまわしたトンボあねさんは、これも泥だらけの床の上に匐い付いて笑っている男親の背中にチョット眼を配ると、又も吾輩の顔を見つめた。額のまん中に青すじを立てて唇をギリギリと噛んだ。
 吾輩も指を啣えたまま、その顔をジッと見上げていた。

     二十七

 そのうちに丸裸体のまま吾輩は少々寒くなった。元来みんなが何故こんなに笑いころげるのか、そうしてトンボねえさんが何故こんな怖い顔をするのか、チットモ見当が付かなかったので、キョロキョロと室の中を見まわしながら、早く着物を着せ換えてくれるといいと思っていると、そのうちにトンボ姐さんがヤットおびえたような声を出した。
「あなたあホンナ事い、自分で、男か女か知んなざれんと?」
 吾輩はモウ一度無造作にうなずいた。
「知らん。そやけどドッチでもええ」
 トンボ姐さんはいよいよ我慢し切れなくなったと言う見得で、だしぬけに金切声を立てて吾輩にシガミ付いた。
「どっちでもええチュウがありますかいな。歯掻はがいタラシなかこの人ア。大概知れたもんたい。セッカク人が足掻あが手掻たがきして福岡一番の芸妓い成いて遣ろうとしよるとい……」
「芸妓さんは嫌いや。非人がええ」
「太平楽ば言いなざんな。芸者いどうしてなられますな。こげなもんば持っとって……こりゃあ何な……」
「チンコじゃがな」
「こげなもんをば何ごと持っとんなざるな。馬鹿らしげなか」
「モトから持っとるがナ」
「そりゃあ解っとります。後から拾い出いたもんなあおりまっせん。バッテンが持っとるなら持っとるごとナシ早よう出しんしゃらんな。フウタラヌルカ……」
「アホラシイ姐さんや。早よう出せて、ここで小便されるかいな」
「小便も小便。大小便じゃないな。見てんなざい。何もかんもワヤいなってしもうて……」
「まだ小便しとらヘン。これから小便するのや。最前から辛抱しとったんや……」
「……知らんッ……」
 とトンボ姐さんは吾輩を突き離した。床の上に落ちた美しい振袖と帯を拾ってツンケンしいしい椅子に帰ったが、まだ腹が立っているらしく吾輩を睨んでいる。
「……モ……モウ……堪えてくれい。カンニンしてくれい」
「ああ。死に死ぬ。アハ……アハ……モウいかん……」
 と言う二人の巡査の声が同時にテーブルの上から聞こえた。トンボ姐さんはうらめしそうに唇を噛んでその方を振り返ったが、
「喧嘩過ぎての棒千切りてこのこったい。ホンナ事オ……」
 と吾輩を睨み付けながら言った。しかし吾輩は別段睨まれるオボエがなかったから、指をくわえたまま睨み返して遣った。その吾輩の足もとへトンボ姐さんはチリメンの着物を包みごと投げ付けた。
「持って行きなんせえ」
「いらん」
 と吾輩は下駄で蹴かえした。包みの中でカッポレの鈴がチロチロと鳴った。
「まあまあそう腹立はらかくな」
 と髯巡査が言い言い席に帰って来た。横寺巡査の西洋手拭いで顔を撫でまわして、無理に真面目な顔を作りながら……。
「男の児なら男の児で話のしようがあるじゃないか。これ程の孝行者じゃから、大友君に話したら何とかしてくれるじゃろう……アハ……アハ……」
「あなた話いて遣んなざっせえ」
 とトンボ姐さんは投げ返すように言った。
「コゲエナ恥掻いた事あなか。両親も両親たい。往還バタで拾うた男の児ば知らん振りして芸者い売ろうとして……詐欺さぎだっしょうもん、こらあ」
「ヨシヨシ。俺が知っとる。コラ非人。貴様達はモウ帰れ。そうしてこちらから通知するまで木賃で待っとれ」
「ヒエッ。かしこまり……ました」
 と言ううちに男親は、トンボ姐さんが投げ棄てた包みを慌てて拾って、結び目を締め直したが、その素早かったこと……。その隙に吾輩は丸裸のまま警察の裏手へ駆け出して、石垣の上から立小便をし始めたが、二人の巡査は叱りもドウもしなかった。

     二十八

 吾輩が警察の中で立小便をしたのはこの時が皮切りであった。
 ところがその小便が、最前から我慢していたせいかいつまでもいつまでも出る。そのうちに夜の河風に吹かれてだんだん寒くなりながらも、河向うにさして来る汐が最前よりも倍も倍も高くなって、東中洲の灯がイヨイヨ美しく行列を立てて、吾輩がり出す小便の下まで流れ漂よって来る……その美しさ。吾輩は身ぶるいしいしいそれを眺めながら、自分の身の行く末がドウなって行くのか考えてみた。そうして何が何だか解らないまま「明日は何処にいるだろう、面白いなあ」と思い思いいい心持ちになって、もう一つ二つ身ぶるいをしていると、そのうちに男親がダシヌケに慌てた声で、
「チイよチイよ」
 と呼んだので、何事かと思って走って帰ってみると何だか室の中の様子が変テコである。
 第一みんなが笑い止めて、真面目腐った顔になっている上に髯巡査が大急ぎでぼたんをかけ直して、床に落ちた制帽の泥を払い払い坐り直している。
 トンボ姐さんが粉白粉を首のまわりから、額から、頬ペタにコスリ付けて平手でタタキまわした上から兎の手で撫でまわしている。
 吾輩の男親が、膝や掌のゴミを払い落しているのを、うしろから横寺巡査が西洋手拭片手に手伝ってやっている。
 そこへ丸裸体の吾輩が飛び込んで行くと、有無を言わさずトンボ姐さんと男親に引っ捉えられて、古い方の着物を着せられた。新しい方の着物は男親が包みごとしっかりと抱えこんだ。ちょうど親の死目か火事場へでも駆けつけるような形勢である。そのさなかで、
「ワテエもう一度小便がしとうなった」
 と言う吾輩を三人が、
「警察で小便する事アならん」
 と叱り叱り手とり足とりしかねない恰好で警察の門前に来ると、そこに来ている四台の人力車のうち一番先頭の車に乗せられた。そうして、
「タッタ今裏でしたやないか」
 と言う吾輩一流の口返答をする間もなく、その次の車に男親、その次の車にトンボ姐さん、ドン尻に荒巻髯巡査という順序で乗り込んで一斉に梶棒を上げると、
「……ハイッ……ハイッ……」
 と言う素晴らしい勢いで行列を立てて馳け出した。
 吾輩は背後うしろを振り返る間もなく夢のような気持ちになった。生まれ付き恐ろしい事を知らない吾輩もこの時ばかりは少々気味が悪くなった。ちょうど田舎者が飛行機に乗せられたような塩梅あんばいで、何処へ連れて行かれるのかマルッキリ見当が付かない。おまけに身体が小さいものだから俥の上ではね上ることはね上ること……。
 そのうちに中島の橋を一気に渡って、両側の町の灯が一しきり行列を立ててうしろへうしろへと辷ったと思うと、どこをどう曲ったのか解らないうちに、最前吾輩と男親がフン捕まった券番の前の広場に来た……と思ううちに、その横の大きな待合の入口に四台の車が威勢よく馳け込んだ。
 すると、まず先に梶棒を下した吾輩の車屋が、立派な玄関に向って大きな声で、
「お着きイ――」
 と怒鳴った。
 吾輩は又ビックリしてしまった。何しろ今日が今日までどこへ行っても「サッサト歩みおろう」式でお着きになった事なぞは一度もなかったので、どうしていいか解らないまま、シッカリと人力車の左右の幌に掴まっていると、あとから来た三台の車から降りた荒巻部長とトンボ姐さんがドンドン玄関から上り込んで行ったから、吾輩も俥から飛び降りて、あとから来た男親と一緒に玄関から上ろうとするとそこへドヤドヤと五、六人出て来た女達の中でも、一番年をとった意地の悪そうな奴が片手を上げて、
「アラ。あんた達あ。こっちイ来なざい」
 と言い言い庭下駄を穿いて玄関から降りて来た。

     二十九

 今から考えると、その人相の悪い奴は、この待合の女中頭か何かであったろう。揃いの浴衣に揃いの前垂かけた女中たちの中でタッタ一人眉をって、オハグロをつけて、小さな丸髷に結って、黒っぽい涼しそうな着物を着ていたようであるが、そいつが髯巡査に二言三言愛想を言うと、庭下駄をカタカタ鳴らしながら、吾輩親子の先に立って、玄関の横の茂みの蔭に突っ立っている巨大な瀬戸物の狸の背後から築山のうしろへ案内して行った。
 吾輩はその時にもスッカリ腹ペコになっていた。おまけに俥の上でサンザンゆすぶられて来たのでそこへ坐り込みたい位に弱り切っていたのであったが、その瀬戸物の狸があんまり意外な処に突立っていたのに驚かされたせいか、又、ちょっと元気を回復したようであった。そうしてその狸の巨大おおき睾丸ふぐりの横顔を振り返り振り返り男親に手を引かれて行くと、やがてガチャガチャと音のする台所の前を通り抜けて行ったが、その時に、出来かかっている御馳走のたまらない匂いを嗅がされたので、又もやハッキリし過ぎる程、空腹を思い出させられて、目が眩みそうになったのには弱らされた。お腹のいたのならば、今日まで鍛われ続けて来たお蔭で、かなりの抵抗力を持っている積りであった吾輩もこの時ばかりは少々屁古垂れかけた。男親はドウしてコンナにいつまでも飯を喰わないで我慢出来るのか知らんと今更に不思議なような恨めしいような気持ちにさえなった。
 そのうちに先に立ったばばあは台所の横を一まわりして、暗い壁に取り付けてある小さな潜り戸をコトンと押し明けると、
「ここから入んなざい」
 と吾輩親子を追い込んであとから自分も、
「ドッコイショ」
 と入って来た。
 見ると内部なかは狭い湯殿になっていて、濛々と立ち籠むる湯気の中に小さな二分芯ぐらいのランプが一個ポツネンとブラ下っている。
「さあ。ここで行水ばして、充分よう汚垢あかば落しなざい。あとでお化粧ばして、美しか衣服きもんと着がえさせて遣るけんな」
 とばばはヒシャゲた声で、命令的に言うのであった。
 ところが吾輩にはその命令が少々癪に障って来た。むろん腹が減り過ぎた棄て鉢のヤケ気味も交っていたようであるが、とにもかくにも初めて会った人間の癖に、他人ひとの気持ちも構わないで、イヤに押し付けがましい口を利く婆だと思ったから、とりあえず吾輩の帯を解きかけた婆の手をスリ抜けながら断然反抗して遣った。
「ワテエ。お湯に入らんでもええ。着物も要らん」
何故なしな」
 と婆は吾輩を取り逃がした恰好のまま、かがみ込んで眼を丸くした。そのうしろから男親が、
「コオレ……チイよ……」
 と眼顔でたしなめたが、しかし吾輩はひるまなかった。
「何故言うたて、お腹が空いてたまらんやないか」
 と思い切って唇をとんがらしたが、また後の文句を言わないうちに、たまらなく胸にコミ上げて来た。どうしてコンナ眼に会わされるのだろうと思ったので……。
 ところが、その吾輩の顔を見ると婆がだしぬけに笑い出した。
「エヘヘヘヘヘ……」
 と薄紅を塗った唇の内側を引っくり返して、狒々ひひみたいな顔になったが、その拍子にウッスリと塗ったお化粧が、顔中に白い浅ましい皺の群を描きあらわした。腹の減った子供に取っては一番コタエるであろう実に冷酷無情を極めた笑い顔であった。そうしてその声が薄暗い湯殿の中に反響して消えうせると、何だか鬼婆にでも見込まれたような情ない不愉快だけが、シインとして残った。吾輩が所謂ばばなるものの大部分を好かなくなったのはこの時の印象が残っているせいかも知れない。
 しかし、それでも婆は吾輩を親切にアヤナシている積りらしく、
「エヘヘヘヘ。千松さん千松さん」
 と言いながらモウ一度手をさし伸ばして吾輩の帯を解きかけた。その手を吾輩は慌てて振り解いて逃げ出しながら睨み付けた。
センマツて何や……」
「フウンなあ」
 と婆がまだニタニタしながらうなずいた。
「あんたあ芝居ば見なされんけん知んなさるめえ。おなかが空いてもヒモジュウないて言う忠義な子たい」
「それ芝居やから、そないに言うのや。お腹が空いたらヒモジイのが本当ほんまや」

     三十

「まあ……この人ア……ドウシタ口の利いた……」
 と婆は眼を丸くした。そこを吾輩はすかかさず追撃した。
「ワテエ。口が利いとらせん。芝居の千松やたら御飯たべとるからヒモジュウない言うのや。ワテエ御飯喰べとらんからヒモジイ言うのや、当り前やないか」
 婆は吾輩に言い込められて真赤になった。しかし、それでも乞食の子供にやられたのが口惜しいらしく、衣紋を突っ越して詰め寄った。
「それでもアンタア……千松は忠義者じゃろうが」
「忠義て何や」
 と吾輩は男親に裸体にされながら反問した。事実吾輩が忠義という言葉を聞いたのはこの時が初めてだったのだからね。
「まあ。この人あ。どうしたまあ、日本人に生まれて忠義ば知んなざれと?」
「知らんがな。知らんけんど日本人やがな」
「まあこの人あ……」
 と婆はイヨイヨ呆れ返ったらしい。裸体のまま流し板の上に突立っている吾輩を、白い眼で見上げ見下ろした。
「忠義ちゅうたあなあ。目上の人の言わっしゃる事をば何でも聞くとが忠義たい」
「目上の人の言う事なら何でもよう聞きよるがな。尻振れ言うたら振りよるがな。どないな悪い事でも……」
 と言ううちに男親が、頭からザブリと熱い湯を引っかぶせたので眼を口もかなくなった。
 婆は慌てて飛び退いたらしい。
「それそれ、それたいそれたい。何でも目上の人の言わっしゃる事を聞いとりゃあヨカトたい。どげな事でもカンマン。……その上なあ。今夜のお客は又特別のお方じゃけんなあ。充分ようと気ばつけて要らん事をば子供に言わせなさんなや。よかな? わかったな若い衆さん」
 男親は吾輩の顔から背中へ石鹸を塗りながらペコペコ頭を下げて首肯うなずいたらしい。しかし吾輩の方はまだ忠義の意味を呑み込み得ないうちに婆は、
「エヘヘヘヘヘヘヘ……」
 と嘲るような笑い声をして出て行った。
 そのうちに男親の手でスッカリ洗い上げられた吾輩は、迎えに来た女中の手に引き取られると、綿のような柔かい感じのする大きな手拭いみたようなもので、身体中のしずくを拭い上げられた。その序によく見ると、その柔かい布というのは、この頃往来でハイカラな書生さんが襟巻にしているソレで、身体を拭くものとは夢にも知らなかったタオルの大きいのであった。しかし何にしてもステキにいい心持ちだったので、腹の減ったのも忘れて、される通りになっていた。ヤッパリこれも忠義の一つか知らん……忠義というものはコンナにいい心持ちのものか知らん……なぞと子供心に思いながら……。
 ところがそのうちにスッカリ拭い上げられて、あとから出て来た背の高い丸髷の叔母さんに引き渡されて、大きな鏡台が五ツと、ステキに明るい丸芯のランプが二つギラギラと輝き並んだ部屋に連れ込まれると、又もや大変な事が始まった。
 女中と二人がかかりで吾輩のお化粧をし始めたのだ。それも平生いつものように安白粉やすおしろいを顔に塗りこくった程度の簡単なものではない。まず頭は生え際を剃って、首すじの処で一直線に切り揃えて、スキ腹にコタエる程いい匂いのする油を塗り込んで、その上から櫛目をキチンと入れた。それから、その次には足の爪先から指の股まで、全身残る隈なく真白に塗り上げたものだ。それからモウ一度、腮から首すじへかけて白壁のように固ねりを塗り付けて、眉の下と、めじりと、頬へ薄紅をさして、唇を玉虫色に光らせると、眉とマツ毛をすみで黒々と上げたので、自分でも誰だかわからない、妙テケレンな人形じみた顔になった。それから新しい白足袋を穿いて、肌に泌み入るような赤いゆもじと、桃色の薄い肌着と、最前の美しい着物を着せられて、金糸ずくめの板のような帯をギューギューと巻きつけられると、腹の皮が背中にくっ付きそうになった。腹が減ったのか、それとも満腹しているのか、自分の身体からだだか他人ひとの身体だか解らないような変テコな気持ちになってしまった。
 しかし吾輩の扮装よりも男親の扮装それの方がモット物騒で大変であった。

     三十一

 吾輩がアヤツリ人形式の振袖姿に変装させられながら、生まれて初めて聞いた忠義という言葉の意味について、いろいろと考えさせられている一方に、男親は生まれが役者だけあって、芸妓に惚れられようとでも思ったものであろう。長いことかかって一所懸命でコスりあげたらしく、吾輩が羽子板結びの帯の上から赤い扱帯しごきを結び下げて貰っている時分に、ヤット、新しい越中ふんどし一つで上って来た。
 ところでそこまではよかったがアトがいけない。モトは役者とは言え、久しく白粉気を離れていた上にヒドイ黒アバタと来ているので、白粉のノリがとても悪いらしく、何べんも何べんも洗い落しては塗りコクリ、塗りこくっては湯殿に走り込んだ。しかし何遍洗い直してもうまく行かないらしく、
「モウあかん。顔じゅうがヒリヒリしよって……」
 と越中褌一貫でベソを掻き掻き鏡の前をマゴマゴしているので、吾輩の帯の間に赤い扇を挿込んで、顔を直しかけていた、着付け屋さんらしい丸髷の女と、手伝っている女中の二人は、可笑おかしいのをヤット我慢しているようであった。そうしてトウトウおしまいがけに見るに見かねたらしい二人の女から教わって、赤黒いの粉をベタベタと顔一面に塗たくってその上からモウ一度白粉を塗り付けて、見る見るうちに人間とも化物ともつかぬ、コンニャクの白和しろあえみたような呆れ返った顔を作り上げてしまった。そうしてそのまんま派手な浴衣を着て、茶色の角帯を締めて、襟元をグイと突っ越しながら、
「オホン。どんなもんや……」
 と言わんばかりにキョロリと吾輩の方を振り向いたのには、二人の女も仰天させられたらしい。殆んど同時に吾輩を付き離して、タッタ二人で押し合いヘシ合いながら立ち上ってバタバタと廊下へ逃げ出して行った。そうして長い長い畳廊下の向うの端まで行き着かないうちに、二人が折り重なってブッ倒れると抱き合ったり縋り合ったりして笑いころげている気はいが、吾輩のいる化粧部屋まで聞こえて来た。
 しかし吾輩は笑わなかった。何だか知らないが、これからイヨイヨ腹の減ったのも我慢して「忠義」というものを習いに行かなければならないと言うような大切な場合らしく感ぜられたので、妙に緊張した気持ちになったまま突っ立って、マジマジと男親の顔を見ていた。吾輩がコンナ大きな帯を背負わされたのも、男親がコンナ不手際な顔になったのも、やっぱりその忠義とやら言うもののためじゃないか知らんと考え付くと、何だか訳のわからない物悲しい淋しさをさえ感じていた位であった。そうして吾々親子に、こうした忠義を要求している当の相手はソモソモ何処の何者だろう。又銭を投げないで威張るような役人面じゃないか知らん。それとも最前、宵の口に、大友親分が投げてくれた一円銀貨の効能の残りを、ここでモウ一度発揮させられるのか知らん。一体全体吾輩親子の忠義の買い主はドンナ風態の奴か知らん。早く顔が見たいな。そうして出来るだけ早く忠義の取引を済まして夕飯を喰べさして貰いたいな……なぞと子供心に考えまわしているうちに、何処から来たのか最前の婆がペタペタと内股で入って来た。そうして、
「こっちい来なさい」
 と言い棄てたまま、いかにも冷淡なヨソヨソしい態度で先に立って行くのであった。その後から、チョコチョコ走りの吾輩と、乙に取り済ました男親とが付いて行くのであったが、そのうちに吾輩はこの家の中が、外から見て考えたよりもずっと広いことがわかって来たので、チョット不思議な気持ちになった。長い畳廊下から玄関へ出てかけいのかかった泉水の横を通って、月あかりのさした便所の前を通って、モウ一度竹藪みたようなお庭の前に出て、それから築山の蔭の外廊下をグルリとまわって行く間じゅう、猫の子一匹出くわさない。どの室もどの室もヒッソリ閑としているので、何だか化物屋敷にでも迷い込んで来たような気がした。
 尤もこれは今から考えてみると無理もなかった。第一先に立っている婆なるものが尋常の姿ではない。五十位の皺苦茶顔に薄化粧を塗って、薄紅をつけて、銀杏髷に結うて澄ましているのだから、普通の人間から見れば、たしかに変態の半化け婆である。
 化物屋敷の先触れには似合い相当の処であったろう。又、あとから来る男親と来たら、これは文句なしに金箔付きの化物であった。博多名物のドンタクにも出て来そうにない白黒塗り分けのノッペラボーが、派手な安浴衣の衣紋を抜きながら、両手を束ねた、伏し目勝ちの柳腰か何かでヘナヘナと踉縋ついいて来るのに気が付いたら、知らない人はヒックリ返るであろう。
 但し、その中に立ってチョコチョコ走りをして行く吾輩が又、前後の二人に輪をかけたバケモノの特選であることが吾輩自身にチットモ自覚されなかったのは是非もない事とは言え遺憾千万であった。しかしそれにしてもこの三人がお目見えに出かけたら、気の弱い妖怪は退散するにきまっていたので、そんな異様な気持ちが、何も知らない幼稚な吾輩のアタマに反映した結果、こんな感じがしたものであろう。
 そのうちにやっと外廊が尽きて、ここらしいと思われる中二階の階子段をトントンと五つばかり上ると、立派なすだれを下げた板張りの前に来た。その向うの襖の中で、大きな男の声とキイキイ笑う女づれの声が聞こえたが、何人ぐらいいるのか、よくわからなかった。

     三十二

 その襖の前の玄関みたような板張りの上で立ち止まった半化けの婆は、白眼をジロジロさせながら吾々親子を振り返った。そうしてサモサモ勿体らしく声を落して注意を与えた。
「……よかな……この襖ば開けて入るとなあ……正面に御座るとがなあ……」
 といううちにモウ一度声を落して眼を白黒さした。それこそ妖怪の巣窟にでも案内するような恰好である。
「よかな。正面に御座るとが知事さんだすばい。それから右に御座るとが署長さんばい。よかな……要らん事ば言わんとばい。そうして入るとすぐ父さんとなろうで、坐ってお辞儀しなざいや。そうしてお礼言いなざいや」
 そう言ううちに半化け婆は今までと打って変った謹んだ態度で、襖の蔭にヘエツクった。そうして襖をソーッと開くと、眼顔で中へ入れと指図した。それと同時に室の中の笑い声が急にシイーンとなった。
 吾輩はその中へ、おめず臆せず先に立って入って行ったが、入口に近い畳のまん中に立ち止まったまま室の中を一渡り見まわすと、思ったよりも明るくて広い座敷であった。
 奇妙な木目の板を張った天井のまん中から、これがランプかと思われるほど大きい硝子ずくめの盆燈籠みたようなものがギラギラ光りながらブラ下がっている。その上に、床の間の前から室のまん中あたりへかけて押し並んだ御馳走のあいま合い間に、雪洞ぼんぼり型の置ランプが四ツ五ツ配置してあるので、昼間よりもズットまぶしい位である。その真正面の床の間のまん前に、大きな紫色の座布団を二枚重ねて脇息にもたれている禿頭のじいが、知事さんと呼ばれる人間であろう。蚊蜻蛉みたいに瘠せこけた小柄な色の黒い梅干爺で、白髪髯をムシャクシャと鼻の下に生やしている。そこいらの辻占売りの爺よりもモット見すぼらしい恰好であったが、ただ眼の玉ばかりは鷹のように鋭く吾輩の顔を直視していた。ずっと後になって聞いた処に依るとこの爺が有名な錦鶏きんけい間祗侯ましこうの筑波子爵であったが、有名なカンシャク持ちだったので宮中からも中央の政界からも敬遠されて、県知事に左遷されたものだそうで、福岡県庁支配下の役人どもは元よりの事、県下に充満している玄洋社式の豪傑ども初めとして、その時分から盛んになりかけていた筑豊三池にかけた炭坑界の生命いのち知らずの親分までも、頭ゴナシに大喝してピリピリさせているという豪傑だったそうであるが、むろん子供の吾輩にはソンナ事が解ろう筈がない。ただの禿茶瓶はげちゃびんにしか見えなかったのは返す返すも気の毒であった。
 それからその右に坐っている天神髯のノッペリした大男が署長さんであろう。ちょっと見たところこの男の方が華族様らしい上品な風付きであったが、それでも眼付きだけはやはり底意地の悪そうな光を帯びていた。それから、その又右手の座布団の上に窮屈そうに正坐しているのは最前の荒巻巡査部長であったが、胸と手足の毛ムクジャラが、まるで熊かアイヌの兄弟分のように見えた。
 又、知事の禿茶瓶の向って左手には、すこし離れて大友親分が坐っていたが、美事な竜の刺青ほりものをムキ出しにしているせいか、一番堂々とした、満場を圧する態度を構えていた。
 そんな男たちは全部揃いの浴衣で、打ちくつろいで一杯呑んだものらしく、天神髯の署長さんを除いたほかは皆真赤になっていた。そのあい間あい間から左手の縁側へかけて盛装をした十四、五人の芸妓や舞妓がズラリと並んで、手に手に団扇うちわを動かして男たちを扇いでいたが、吾輩が振袖姿で乗り込んで行くと、皆申し合わせたようにピタリと手を止めて吾輩の方を見た。知事の禿茶瓶の前で一パイ頂戴していた平常着ふだんぎ姿のトンボ姐さんも、盃片手に振り返った。そのほかの男たちも一斉に吾輩の方を見守ったが、吾輩は指をくわえて突っ立たまま、そんな連中の顔を一渡り見返すと、最後に正面にいる知事の禿茶瓶にピタリと視線を合わせた。
 このじじいが吾々親子に忠義を要求するのかと思って……。
 すると知事の禿茶瓶は一層眼の光を鋭くしてギューと吾輩を睨み付けた。そこで吾輩も、指を啣えたままジイッと睨み返した。そのまんま二人の視線が期せずして睨み合いにまで緊張して行った。

     三十三

 この時の睨み合いは、その頃の福岡の新聞に出たそうである。「乞食の子、雷霆かみなり子爵を睨み返す」という標題で大評判になったそうであるが、何しろ天下に聞こえた癇癪かんしゃく貴族の一睨みを受け返したものは、福岡県下に吾輩タッタ一人だったというのだから豪気なもんだろう。むろん列席していた連中も、眼の前に意外な情景が展開し始めたので、どうなる事かと手に汗を握ったそうであるが、しかし当の本人の吾輩に取っては左程の問題ではなかった。ただ……この知事とか何とか言う禿茶瓶は、よく往来で吾輩親子の興行を妨害しに来る無頼漢けだもの式のスゴイ眼付きをしているが、もしやそんなケダモノ仲間の親方みたいな人間じゃないか知らん。それが、おんなじケダモノ仲間の巡査の親分と棒組んで、吾々親子を取っちめようと企んでいるのじゃないか知らん……と疑いながら、ジイッと睨み付けていたのだから、子供ながらも一所懸命の眼付きをしていたに違いないと思う。
 ところで、カンシャク知事の禿茶瓶と、踊り子姿の吾輩とがコンナ風にして無言のまま、睨み合いを緊張させて行くと、シインとなった座敷の中で、芸者や舞妓の連中が一人一人に居ずまいを正して行った。トンボ姐さんも片手をいて振り返ったまま、呆れたような顔をして吾輩を見上げ始めた。大安座おおあぐらを掻いていた大友親分も、急に坐り直しながら、両腕を肩までまくり上げて半身を乗り出しつつ知事と吾輩の顔を互い違いに見比べはじめた。署長が天神髯を掴んだまま固くなった。髯巡査が腕を組んだまま微かなタメ息を一つした。
 一座が又もシイ――ンとなった。
 それでも知事の禿茶瓶は、横すじかいに脇息に凭れたまま吾輩を睨み付けていた。そこで吾輩も指を啣えて突立ったまま負けないように睨み返していたが、そのうち相手の禿茶瓶が、吾輩を睨み付けたまま豹みたような声を出して、
「ウ――ムムム」
 と唸り出したのでさすがの吾輩も気味が悪くなった。そのままあとしざりをして逃げ出そうか知らんと思った位モノスゴイ唸り声であったが、間もなくその禿茶瓶が二、三度ショボショボと瞬きをしてモウ一度、
「フ――ム」
 とため息をしたので、吾輩はヤット睨み合いに勝った事を意識してホッとさせられた。
「ウーム。これは面白い児じゃノウ大友……」
「ハイ。礼儀をわきまえませんで……甚だ……」
 と大友親分は如何にも恐縮した恰好になって頭を掻いた。しかし禿茶瓶はまじめ腐った顔付きで頭を左右に振った。
「イヤイヤ礼儀なぞは知らんでもええ。忠孝が第一じゃ。のみならずナカナカ意気の盛んな奴らしい。余の前に出てひるまぬ処が頼もしいぞ。ハハハ……」
 と顎を天井に付き上げてうそぶき笑いをした。自分の前に出て来る人間は一人残らず縮み上ることにきめているような笑い方である。
「ハハイ。イヤ恐れ入ります。ハハハ……」
 と大友親分が又頭を掻いた。
「オイオイ。そこな子供。こちらへ来い。爺の処へ来いよ。許す許す」
 と禿茶瓶が上機嫌になったらしく、眼を細くして吾輩をさし招いた。同時に皆がホッとしたらしく、四、五の団扇が一斉に動き出した。
 しかし吾輩は動かなかった。依然として突立ったまま反問した。
「何や。何かくれるのけエ」
「アハハハハハハハ……」
 と禿茶瓶がイヨイヨ上機嫌になったらしく大口を開いて笑いこけた。すると、それに共鳴するかのように満座の連中がアハアハ、イヒイヒ、オホオホと止め度もなく笑い崩れはじめたので、吾輩はイヨイヨ腹が立って睨みまわした。
「アハハハハ。氏より育ちじゃノウ署長……」
「御意に御座います」
 と署長は笑いもせずに頭を下げた。一方に吾輩は、何だか侮辱されているような気がしたので、青々と月のさしたお庭の樹を見上げながら鼻汁をススリ上げた。
「アハアハアハ。これは一段と変った座興じゃ。アハアハ……イヤナニ子供……そちはナカナカ親孝行者じゃそうじゃのう」
「そないな事ワテ知らんがな」
「イヤ。知らん方がええ。『知らざるは是れ知れるなり』じゃ。その親孝行にでて余が盃を取らする。近う参れ。許すぞ……」

     三十四

「まああんたくさ。坐らにゃこて……そうしてこっち来て御前様のお盃ば頂かにゃこて……許すてお言葉のかかりよろうが」
 トンボ姐さんが、たまりかねたものか立ち上って来て、吾輩を押しやろうとした。しかし「許す」という言葉の有難味がピッタリ来なかった吾輩は依然として動こうともしなかった。
 その吾輩の背中をばモウ一度向うへ押し遣ろうとした。
「行きなざれんか。お許しの出とろうが」
「許されんでもええ」
「まあ何事なんことを言いよんなざるとな」
 とトンボ姐さんが、吾輩の顔を上から覗き込んで、大きな大きな眼をいて見せた。それを吾輩は上目づかいに見上げた。
「許されんでもええ言いよるやないか。行こうと思うたら何処へでも行くがな」
「まあこの人あ……」
 とトンボ姐さんは二の句が継げなくなった。
「ハッハッハッ。これはイヨイヨ愉快じゃ。この児は生まれながらにして自由民権の思想があるわい。ノウ大友……」
「お言葉の通りで……」
「ウーム。生まれながらにして忠孝の志操こころざしと自由民権の思想があれば、日本国民として満足じゃ。国権党でも自由党でも木ッ葉微塵じゃア。ワハハハ……」
 とエラそうな事を言いながら禿茶瓶は反り返って笑った。大友親分もアグラを掻き直しながら腹を抱えた。
「アハアハアハ。イヤ愉快じゃ愉快じゃ。コレ子供。余が悪かった。こっちへ来て余に盃を指してくれい。ナ……そちの親孝行にあやからせてくれい……この通りじゃ……」
 と言ううちに禿茶瓶はかしこまって、盃を高々とさし上げながら、吾輩の方へ頭を下げた。それを見遣りながら吾輩は、お合羽さんを強硬に左右へ振り立てた。
「ワテエ。盃、要らん」
「……………」
 一座が急にシンと白らけ渡った。その中で吾輩はモトの通りに指をくわえたまま言い放った。
「御飯喰べたいのや」
「何。飯を喰うておらんのか」
 と禿茶瓶が急に機嫌の悪い顔になって、盃を下に置いた。
「アイ。最前からヒモジイてペコペコや。誰も喰べさしてくれんよってに……」
「フーム」
 と禿茶瓶が、前と違ったスゴイ唸り声を出しながら、室の中の顔を一つ一つに睨みまわした。そうするとその顔が一つ一つに青い顔になって行った。
「ムムム――。自分で飯を喰うひまはなかったのか」
「あらへんがナ。ワテエと父さんと道ばたで寝とったんを、その旦那さんとこのあねさんが手招きして、この家の前に連れて来て、アネサンマチマチ踊らしたんや。そうしたら若い巡査のケダモノサンが、その踊りアカン言うて、警察へ連れて行きよったんや」
「フーム。ちょっと待て。アネサン待ち待ちと言う踊りを踊ったと言うかどで、警察へ拘引されたと言うのじゃな」
「サイヤ」
「フーム。それはドンナ踊りじゃ」
「ハハハ。とっさんも見たいのけえ」
「ウム。見たい。見せてくれい」
「ハハハハ。馬鹿やなあ」
「……まあ……あんたクサ……」
 と背後うしろからトンボ姐さんが吾輩の肩を小突いた。
「そげな事ば……御無礼な……」
 吾輩は振り返って唇をツキ出した。
「……阿呆なあねさんやなあ。最前ワテエに踊れ言うて銭投げたやないか」
「……ま……要らん事ばっかり……」
 とトンボ姐さんは泣き笑いみたような顔をしながら吾輩の頭の上で袖を振り上げた。吾輩は一尺ばかり逃げ退いた。それを見ると禿茶瓶の機嫌が又直ったらしい。
「アハハ……構うな構うな……その踊りをこの爺に見せてくれい」
「嫌や。ワテエの大嫌いの踊りやからモウ踊らん。ホントは父さんと母さんが一番喜ぶ踊りやけど……」
「フフム。何で喜ぶのか」
「みんなが銭投げてくれるよって……」
「それならば余も何か投げてつかわすから一つ踊って見い」
「イヤヤ。あないな踊り見たい言うて銭投げるお客シンカラ好かん」

     三十五

 吾輩から一本遣られた禿茶瓶は眼の玉をへこませながら杯をグット干した。フーッと息を吹いて眼をえた。
「フーム。ナカナカ一筋縄では行かぬ奴じゃな。成る程。しかし親孝行のために踊るのならば構わぬではないか。……ノウさようではないか」
「アネサンマチマチ踊るのが何で親孝行になるのヤ」
「余の言う事を聞いておれば、この上もない親孝行になるのじゃぞ。余は福岡の県知事じゃぞ。眼上の者の言う事は聞くものじゃ」
「それが忠義というものかいナ」
「ウーム。イヤ。ナカナカ明敏な児じゃノウ貴様は……その通りじゃ、その通りじゃ……」
「嘘や嘘や。アネサンマチマチ踊っても、親孝行にも忠義にもならヘン」
「フーム。それは又、なぜか」
 禿茶瓶は盃を置いて乗り出した。一座の連中も顔を見合わせた。
「何故言うたかて、親孝行やたら忠義やたら言う事は、人に賞められるえ事やろが」
「ウムム。それはさようじゃ。良え事どころではない。せねばならんと言うて、天子様がおすすめになっている位じゃ。この世の中で一番よい事じゃ」
「そんならアネサンマチマチ踊るのは良え事かいな……わるい事かいな」
「ウムム。これは六箇むつかしい事を言う児じゃぞ。まるで板垣か犬養の口吻こうふんじゃ。……余はその踊りを見んからわからん」
「そんならアノ踊り知らんのけえ」
「……知らん……知らんから見たいのじゃ」
「知らんけえ。知らんなら言うて聞かそか。あの踊りはフウゾク・カイラン言うて巡査に叱られる踊りやがな」
「ウッフッフッフッ。これは呆れた奴じゃ。どうしてそのような事を知っているのか」
「知らいでかとっさん。タッタ今、警察で聞いたばっかりじゃがな」
「ハッハッハッ。成る程ノウ……」
「あの踊り見たがるノンは田舎の二本棒ばっかりやがな」
「フーム。二本棒とは何の事じゃ」
「アネサンマチマチ見たがる鼻垂オヤジの事や」
「コレッ……」
 と髯巡査が末席から眼の色をかえて乗り出して来そうにした。しかし禿茶瓶の顔色を見た天神髯の署長に押えられて、不承不承に坐り直した。そのうちに禿茶瓶が又一杯酌をさせた。
「ウーム。それならば余も二本棒のうちじゃな」
「サイヤ。巡査さんやたら、知事さんやたら、親分さんやたら、みんなフウゾクカイラン見たがる馬鹿たれや」
「……………」
「往来で踊ることならん言うといて、ナイショで自分たちだけ見たがる阿呆タレヤ」
「……………」
「男はミンナ二本棒や。おおイヤラシ。ハハハハハ……」
 こう言い放した吾輩は、一人残らず顔色を喪っている一座の連中を見まわして、小気味よく笑いつづけた。何だか知らないが今日まで押え付けられ通して来た欝憤と、現在タッタ今、腹が減っても飯に有り付けない目に合わせられているヤケクソ気分を一ペンに吐き出したような気がして、涙ぐましいくらい清々すがすがした気持ちになってしまった。そうしてこの上にも禿茶瓶が命令がましい事を言うようだったら、サッサと着物を着かえて、男親と一緒に帰ってしまおう。そうして何処かで甘たれて饂飩うどんか何か喰わせて貰おう。その方がヨッポド早道だ……と一人で胸算用をしていた。
 ところが生憎当の相手の禿茶瓶がチットモおこり出す様子を見せなかった。それどころか、吾輩と問答をしているうちに、いつの間にか酒の酔いも醒めてしまったらしく、青い顔になって、盃を下に置いて、両肱をキチンと膝の上に張って、何か御祈祷でもするかのように眼を閉じて、頭をうなだれていた。その禿茶瓶の滑々つるつるしたマン中に、猫のひげみたいな白髪が十五、六本バラバラと生えているのをサモ大切そうに七、八本ずつ左右に分けて並べているのを発見した吾輩は、大人なんてドウしてコンナ詰まらないお洒落をするものだろうと思うと、腹の立ったのも忘れてしまって、可笑しいのを我慢しいしい見惚みとれていた。
 その時に禿茶瓶はやっと顔を上げて吾輩の顔を見た。その眼は今までのスゴイ光をスッカリ失ってしまって、何だか吾輩を見るのが恐ろしくてたまらないような……妖怪ばけものにでも出会ったような怯えた眼付きに変っていた。そうして間もなく気味の悪いふくろうみたいな声を出した。
「……ウムム……これは天の声じゃ……」

     三十六

 みんなは黙っていた。禿茶瓶の知事さんが言った「天の声」の意味がわからなかったらしい。無論吾輩も「テンの声」だのイタチのだの言うものは聞いた事がなかったので、少々面喰らいながら指を啣えていると、その吾輩に向って禿茶瓶は、如何にも恭しく頭を一つ下げた。
「……天の声じゃ……神様の声じゃ。この児は神様のおつかわしめじゃ。皆わかったか」
 と言いながら今度は又スゴイ眼つきをして一同を見まわした。しかし誰にもわからなかったしく、ポカンとした顔になって禿茶瓶の顔を見守っていた。
「天の声じゃ。天の声じゃ。ええか。皆よく聞けよ。今この児が余に向って言うた言葉は、政治に裏表があってはならぬと言う神様のおさとしじゃ。余は福岡県下の役人に一人残らずこの児の言葉を記念させたいと思う。人民がしてならぬ不正な事で、役人だけがしてよいと言う事はただの一つもない事を骨の髄まで知らせて置きたいと思う。この一言さえ徹底すれば日本帝国の前途は万々歳じゃ。……ええか……わかったか……」
 一同は禿頭に向って低頭平身した。吾輩の方には見向きもしなかった。
「……えーか……この児は余の先生じゃ。同時に万人の模範として仰ぐべき忠臣孝子の典型じゃ。マンロクな両親を持って死ぬ程可愛がられて、腹一つ学問をさせて貰っても、その学問を屁理屈に応用して、自分の得手勝手ばかり働く青年男女が多い中に、このような境遇の中からかような純忠純誠の………」
 ここまで禿茶瓶が喋舌って来ると、吾輩は何が何だかわからなくなって来た。魚が死にかかったように欠伸が出て来た。けれども、ほかの連中は皆禿茶瓶の言うことがわかるらしく、揃って畏まり奉って傾聴していたが、その中でタッタ一人一番背後の縁側の近い処にいる、一番可愛らしい美しい女の子がソッと欠伸を噛み殺しながら吾輩の方を見てにっこりと笑った。ソレを見ると吾輩はスッカリ共鳴してしまって、思わずニッコリしながら今一ツ取っときの新しい、大きな欠伸をして見せてやった。モウ少し年を取っていたらすぐに恋に落ちてしまったかも知れないくらい嬉しかった。
 すると、そのうちに禿茶瓶のお説諭せっきょうがすんだらしく皆一斉に頭をさげたが、そのうちでも大友親分は両手を畳にかえたまま、切り口上で挨拶をした。
「……まことに御訓誡の程恐れ入りました。何にせい私共は無学な者で御座いますから、御趣意の通りに出来るかどうか存じまっせんが、この子の将来はきっと私が受持ちましてエライ人間に……」
 と言いながら又頭を下げた。それをエラそうに見下しながら禿茶瓶は、学校の先生のように片手を上げた。
「……イヤ……この子供はその方達には渡さぬ。他人と言わず余が自身に引き取って教育をして遣るからその積りに心得ていよ。この児に昔風の漢学教育を施したならば、キット今の天岡鉄斎のような偉人になる事と思う。現在滔々として流入しつつある西洋崇拝熱に拮抗して………」
 又わからなくなって来た。第一吾輩の身の振り方が、次から次へと変化して来たあげく、禿茶瓶のお蔭で又一転換したらしいので、どれが本当なのか見当が付かなくなった。そればかりでなく、その有難い勿体ない神様のお使わしめを放ったらかしたまま、見向きもしないで勝手な講釈を始めたり、それを拝み上げたり始めるので自烈度い事夥しい。とうとう我慢し切れなくなった吾輩は思い切って禿茶瓶の方へ一歩進み出た。
とっさま、御飯の話ドウしたけエ」
「ウム。さようさよう。さようじゃったノウ」
 と禿茶瓶は慌てて返事をしながら、坐り直して左右をかえり見た。
「そうしてモウ何時かノウ」
 署長と、大友親分と、髯巡査が同時に時計を出してみた。
「ちょうど十時で御座います」
 と真先に署長が返事をした。
「ちょうどその頃で御座います……」
 とその次に大友親分が言った。
「小官のは十分過ぎておりまする」
 とあとから髯巡査が付け加えた。どこまで手数てかずのかかるおやじかわからない。

     三十七

「ウーム」
 と禿茶瓶が又唸り出した。ちょうど十時という時間に驚いたような恰好であったが、心持ち青い顔になりながらジロリと吾輩を見た。
「ウーム。そこでどこまで話を聞いておったかノウ、最前の話は……」
「アイ。警察に引っぱられた処までや」
「ウムそうそう。それからどうしたのじゃ」
「それから警察に来てその髯巡査さんに叱られよったら、この姐さんが来て、ワテエを芸者にすると言うてこの美しい着物くれたんや。そうしてここへ来て、お使うたり、お化粧したりしてこのお座敷へ来たんや。そうしたら又、とっさまが何じゃら解らん六箇むつかしい事ばっかり言うて、チョットモ御飯たべさしてくれんのエ。そやから御飯喰べる隙がなかったのや。もう腹ペコで死にそうや」
「ウーム」
 と禿茶瓶が又唸り出した。ちょうど自分が腹を減らしたかのようにイヨイヨ青い顔になって眼の球を凹ましたが、最前から吾輩にサンザン遣り込められた上に、話の腰を折られたりしたので、多少御機嫌に触って来たらしい。芸者どもをジロリと見渡しながら、
「早く飯を喰わせんか」
 と顎で吾輩の方を指して頬を膨らました。
 芸者どもはこの言葉を聞くと同時にハッとしたらしく、三、四人一斉に中腰になりながらトンボ姐さんの顔を見ると、トンボ姐さんも中腰になったまま当惑した恰好になった。
「用意してないとだっしょ」
「……………」
 一人の芸者が黙ってうなずいた。同時に禿茶瓶の方をチラリと見たが、その意味が吾等にはよくわかった。お説教がはじまったので御飯の用意する隙がなかったという、不平の意味に違いなかった。
「誰かあちらへ用意して来てやんなさいや」
「台所でよござっしょ」
「サアー」
 とトンボ姐さんが又躊躇しながら大友親分の顔を見た。
「次の間いしまっしょか」
「サア……」
 と女共が三、四人中腰のままでポツポツ言い合った。その時であった。
「馬鹿ッ……何をしよるのかッ」
 と突然大砲のような声を出して、禿茶瓶が大喝したのは……しかもその顔の恐ろしかったこと。お祭りの見せ物にでも出したらキット人がビックリするに違いないと思われるくらい急激な大変化をあらわして見せたのであった。肩が逆立って、眼が皿のように光って、口が耳まで裂けたかと思われるくらいであった。
 それを見ると中腰になって向い合っていた女たちは、そのままペタリと坐り込んでしまった。大友親分も面喰らったまま座布団から辷り降りた。そのまん中で禿茶瓶は血相をかえたまま威丈高になった。
「馬鹿共がッ……貴様どもはみんな自分の事ばかり考えとるからコンナ残酷な事をするのじゃ。何の罪があればこの子供に夜の十時まで飯を喰わせんのか。第一警察で人を拘留したら、その晩は飯を喰わせん規則になっとるのか……」
 今まで座布団の上に頑張っていた二人の警官はこの一言を聞くと慌てて畳の上に辷り落ちて両手を突いた。
 吾輩は知事という役人の勢力の素晴らしいのに驚いた。まさかこれ程とは思わなかった。
「又女子どもも女子どもじゃ。非人の子を連れて来たら何より先に、飯を喰うとるか喰うとらんか聞いて見る位の気が何故つかんのか。腹を干し上げた子供を、御馳走の前で踊らせて余が喜ぶとばし思うているかッ……不注意も甚だしいッ。この馬鹿共がッ……」
 禿茶瓶の怒鳴る声は身体からだに似合わず益々大きくなって来た。永年のカンシャクで鍛え上げたものらしく、家の中は勿論の事、遠い処の屋根の上までワンワンと反響するくらい素晴らしいものがあった。ことにその言葉の切れ目切れ目にギラギラと光り出す、その眼の色の物すごい事……家の中の連中は一人として顔を上げるものがないくらいであったが、しかし、そのカンシャクの圏外に立たされた吾輩から言わせると、この禿茶瓶のカンシャクは全然なっていなかった。吾輩に腹を干させた責任は当然自分も負わなければならないのに、そんな事は気が付かないまま巡査や芸者たちを怒鳴り付けるなんて随分得手勝手な禿茶瓶と言わなければならなかった。大方これは吾輩に凹まされつづけて来た埋合わせにコンナ出鱈目なカンシャクを爆発させているのだろうと思うと、子供ながら可笑おかしくもあり可哀想にもなった。

     三十八

 しかし当の本人の禿茶瓶はとてもカンカンの白真剣であった。震え上がって平伏している一同を見まわしながら、額にみみず見たいな青すじを一本ウネウネとオッ立てて、コメカミをヒクヒク動かしていたが、又も突然に、
「……たわけがッ……その上余に恥を掻かせおって……エエッ……」
 と言うなり、手に持っていた盃を膳の上にタタキ付けた。お皿か何かが盃と一緒にガチャンと割れる音がした。それはスバラシイ勢いであった。とにも角にもこの世の中ではカンシャクの一番強い奴が一番エラクなるのじゃないかと、吾輩自身の女親に引き比べて思い当ったくらい大した威光であった。ところがその時に、
「ええ。恐れ入ります。皆私が不行届き……」
 と大友親分がヤット口を利き出した。すると、その真似をするかのようにトンボ姐さんが頭を畳にコスリ付けた。
「イエイエ。わたくしが最前から気付きませずに……」
「黙れ黙れッ」
 と禿茶瓶は二人の言う事を半分聞かずに怒鳴り立てたが、その拍子に額の青筋が二本になった。
「黙れ黙れ。そんな不注意なことで、どうしてこの児を引き取って……一人前に育てる事が出来るのかッ。まだ引き取らぬうちから虐待しよるじゃないかッ」
「ハイ……何とも……」
「……何とも申し訳が……」
 署長もトンボ姐さんのあとから両肱を張ってヘエ突く張った。
「イヤ。私が不注意で……」
「イヤ。本来を申せばこの私が……」
 と髯巡査も署長のお尻に向って三拝九拝した。
 指をくわえながらソンナ光景を見ていた吾輩は、モウたまらない位馬鹿馬鹿しくなって来た。吾輩は元来、毎晩木賃宿で夕食に有り付く際に、両親の晩酌が済むまで待たせられる習慣が付いていたのでコンナ眼に合わせられてもさほど驚きはしなかったが、それにしてもこれほど手数のかかる晩飯を喰った事は生まれて一度もなかった。政府の農民救済だってモウすこしは手ッ取り早いだろう。カンジンの飯を喰わせることは後まわしにして、怒鳴りクラとあやまりクラの共進会を開いているようなもんだ。しかも本来ならば吾輩が飯に有り付けなかったのは、あやまっている連中の不注意に違いないのだから、その方を怨まなければならない筋合いであったが、そんな気がチットモしなかったのは吾れながら不思議であった。それよりも何よりも、取りあえず、まん中でカンシャクを破裂させている禿茶瓶の馬鹿さ加減が、腹が立って腹が立ってたまらなくなった。一切合財が一つ残さず禿茶瓶の責任のような気がして来たので、思い切ってトンボ姐さんの背後うしろから口を突んがらして遣った。
「……爺さま。そないにおこったてアカンがな。それより早う喰べさしてんか。難儀な爺さんやなあ……」
 吾輩がこう言うと禿茶瓶は威丈高になったまま、白眼と黒眼をクルクルと回転さした。ヤット自分の不注意に気が付いたらしい。そうして突然にパンクしたように腰を落して、白茶気た顔になりながら脇息にグッタリと凭れかかった。スッカリ気の抜けた力のない声でトンボ姐さんに指図をした。
「早う喰わせい」
「かしこまりました」
 と言ううちに又も芸者が四、五人立ちかけた。禿茶瓶がパンクすると同時に室の中が急に景気付いたようなアンバイである。
「そこに一つ余った膳があるではないか」
「……はい……いえ……あのお次の間で……」
「ここで喰わせて苦しゅうない。喰わせるのが目下の急務じゃ。その膳をそのまま遣わせ」
 トンボ姐さんは慌てて立ち上って向うの端に置いてある膳を抱えて、吾輩の前に持って来た。そのあとから最前吾輩に笑って見せた美しい舞妓が二の膳を持って来て吾輩の足もとに置いた。
「さあ……おあがんなさいまっせえ」
 とトンボ姐さんが吾輩に向ってお膳の向うから三つ指を突いた。

     三十九

 吾輩の前にお膳が据えられたので皆ホッとしたらしかった。めいめいに顔を上げて眼を見交すと、皆申し合わせたように吾輩の顔を注視した。
 しかし吾輩は坐らなかった。指を啣えて突っ立ったまま、足下に並んでいる一の膳と二の膳を見まわした。それからマジリマジリとトンボ姐さんの顔を見つめながら言った。
「ワテエのととさんもまだ喰べとらんがな」
「おお、そうそう……」
 とトンボ姐さんは真赤になって片膝を立てた。
「ホンニイ、済みまっせんじゃったなあ。……ばってんが……父さんなあ……あっちの室で喰べさせるけん……」
「嫌や。父さんと一緒に喰べるのや」
「フーン。なあ……」
 とトンボ姐さんは一つ大きくうなずいたが、そのうちにモウ眼を真赤にしてしまった。この女は吾輩が父親の事を言いさえすれば泣く事にきめているらしく、警察で泣いた時と同様にあたり構わず鼻紙を出して眼がしらを拭いた。ところが、それと一緒にそこいらに坐っていた十四、五人の芸者どもがトンボ姐さんの真似をするかのように手に手にハンケチや鼻紙を取り出し始めたのには呆れた。最前吾輩に笑って見せた可愛い舞妓までもが、大粒の涙をポタポタと落しているので、吾輩は妙な気持ちになってしまった。
「やっぱなあ……親孝行もんなあ違うばい」
 という囁き声が聞こえた。
「苦しゅうない。男親もここで喰べさせえ。膳をモウ一つ用意せえ。早うせんか」
 と禿茶瓶が又もカンシャクを起しそうな声を出した。その声に応じて向うの縁側の端から、今まで見なかった女中が二人出て来て、膳を作り始めた。
「父さん。酒好きやから、一本貰うてや……」
 と吾輩はすこし調子に乗って甘えてみた。
 しかし誰も笑わなかった。たった一人禿茶瓶が鼻紙を顔一パイに押し当てたまま、うるみ声で言った。
「……飲めるだけ飲まして遣れえ。……ああ……感心な奴じゃ……オホンオホン……」
 お膳が出来上るとトンボ姐さんは、最前から開いたまんまになっている入口の襖の向うをさし覗いて、その蔭に小さくなっているらしい男親をさしのぞいた。
「……そんなら……アノ……どげん言やあよかかいな。…アンタクサ……あの……父さんクサ……こっちい入って……御膳をば……」
 と言いかけたが、その途端にドタンバタンと組み打ちみたような音がし始めたので、皆ビックリして中腰になった。吾輩も男親がどうかされているのじゃないか知らんと心配しいしい、駈け付けて見ると、男親は最前の半化けのばばと何かしら掴み合いみたようなことをしている。そうして隙があったら逃げ出そう逃げ出そうとしているのを半化け婆がシッカリと袖を捉えて、逃がすまい逃がすまいとしている。それを又男親が無言のまま突き離して、俥にかれた犬みたいに腰を引きずり引きずり這い出して行こうとする。大方腰が抜けていたのであろう。そこへトンボ姐さんが馳け付けて、加勢をして押え付けたので、男親はトウトウ悲鳴をあげてしまった。
「助けてえ……助けてえ……チイヨ……助けてエ……」
 吾輩は助けて遣ろうと思って傍へ寄りかけたが、芸者に押え付けられて縮み上がっている男親の恰好があんまり可笑しかったので、ついゲラゲラと笑い出してしまった。
「何事かいな。こりゃあ……」
 とその時にトンボ姐さんが男親の両手を掴まえて、尻餅を突いたままの半化け婆をかえりみた。
「……あなたあ……」
 と半化け婆は、珍妙なシカメッ面をしいしい、芝居がかりの大仰な恰好で起き上った。
「あなたあ……今御前様のお声のしましつろうが。そうしたら貴方あ……この人がガタガタ震い出して逃げて行こうとしてだっしょうが。それで貴女あ……あたしゃあ一所懸命で押え付けとりましたとたい」
堪忍かにしとくれやす……堪忍しとくれやす……」
 と男親は芋虫のように自分の膝へ頭を突込みながら蚊の泣くような声を出した。
「何じゃ何じゃ、何をしよるのじゃそこで……」
 と又も禿茶瓶がカンシャクじみた声を出した。
「ととさんナ、ここで御膳たべんて言いおるがな。アンタがあんまり憤るよってに……」
「ウーム」
 と禿茶瓶が又眼を白黒して頬を膨らましたが、そのまま横を向いて宣言した。
「それならば仕方がない。どこか次の間で喰わせえ。しかしそのまま帰すことはならんぞ」
 大友親分と一緒に芸者一同が頭を下げた。そのうしろから女中が三、四人出て来てお膳を持って廊下へ出て来た。

     四十

 こんな風にして、前代未聞の手数の掛った晩飯が、やっとの事で我々親子に提供されたのであった。
 提供された場所は最前来た長い廊下を半分以上逆戻りした、玄関の横の狭い、みすぼらしい部屋であったが、それでも欄間や床の間がくっついていたから木賃宿より立派であったろう。その真中に据えられた四つの御膳に差向いに坐って、半化け婆に御給仕をして貰いながら今迄見た事もない御馳走の箸を取ったわけであるが、吾輩がまだ飯を一杯喰い終らないうちに男親は前に伏せてあった盃を取り上げて立て続けて五、六杯がぶがぶと呑んだ。その顔を半化け婆はあきれかえったように眼を丸くして見ていたが、やがて顔中を飯粒だらけにしている吾輩を振返るとニヤリと笑った。
「アナタも一杯どうだすな」
 吾輩は左手に茶碗をかかえたまま、箸を持った方の手で盃を取り上げて無言のままばばの方へつき出した。ちょうど何かしら液体が欲しくなっていたところだったので……。
 吾輩がその盃をがぶりと一口に呑み干すと婆が又目を丸くしてニヤリと笑った。
「ドウしたまあ……。こりゃあ感心……ま一杯どうだすな」
 吾輩は遠慮しなかった。それから二、三杯たて続けに飲んだが、しまいには口の中がエガラッポクなったので冷めたい御清汁おすましをぐっと呑んで残った飯をガツガツとかき込んだ。
 ところがそれから先、何杯御飯を食ったか……、生まれて初めて有りついた御馳走がどんなに美味しかったか、まるで記憶に残っていないのは残念であった。何の気なしに飲んだ二、三杯の酒が之以て生まれて初めての事であったばかりでなく、すき腹であったので、素敵にきいたらしく、振袖にオカッパさん姿のままベロベロに酔っぱらってしまった。そうしていい心持にふらりふらりしながら男親の方を見ると、これも空き腹に熱燗がきいたらしく、つい今先きの屁古垂れ加減はどこへやら、両腕を肩迄まくり上げて大気焔を上げていた。
「知事が何じゃい、署長が何じゃい、文句言うならここへ失せおろう。ハハハハハ。どんなもんじゃい、この鼻様を知らんかい」
 そう言ってペロリと舌なめずりをしながら盃を差出す男親の妖怪じみたトノコ面を見ると、吾輩も滅多無性に嬉しくなった。
「ああチイよ、知事やたら禿頭やたら、テントあかんなあ」
 と言い言い一杯干した男親が盃をさした。
「サイヤ、気のきかんヘゲタレ唐人や」
 と言い言い吾輩は受取った。
「アンタまあーだ飲みなさると、いやらしさなあ」
 と叱りながら半化け婆がにらみつけた。
「アホやなあ、呑まれるだけ呑ませれて禿茶瓶が言うたやないか」
「黙ってヘッコンデけつかれ、この糞たれ婆あ。市川鯉次郎はんを知らんかい」
 婆は面を膨らせながら酌をした。
「あんまれ、あの人達の事をば悪う言いよんなさると、あとで私が届けますばい」
「ハハ……。届けてもよかたい。なあ父さん。一寸もこわい事あらへん。可愛らしい禿茶瓶や」
「ワテやかて恐い事あらへん。あの禿茶瓶、親切者や。ああええ心持になった。チイよ一つ踊って見んかい」
 と言ううちに男親はヒョコヒョコと立上った。
「アイ、何でもええから唄うてや」
 と言い言い吾輩も立上りかけたが、酔っていたのであろう、ベタンと尻餅をついた。
 半化け婆は親子ばりの醜態にあきれ返ったらしく、慌てて御膳を引き始めたが、そのうちに男親は障子や襖に行き当りながら、両手をたたいて首を振り振り何やら唄い出した。我輩もその歌につれて立上りながら、ひょろひょろと踊り出した。
 それからどこをどう歩いたか、吾輩親子は手を引き合いながら長い廊下を伝って、最前の中二階の梯子段のところへ来ていた。その梯子段を男親がはい上っては滑り落ち、滑り落ちてははい登りしている内に、吾輩は半分開いたままの入口の襖のところに行って室内を覗いて見ると、あんまり様子が変っていたので、酔も何も醒めてしまう程ビックリしてしまった。

     四十一

 吾輩が襖の間から顔を指し出すと殆んど同時に眼の前を火のような真赤なものが横切ったので、ビックリした。慌てて首を引っこめながら、よくよく見ると、それは緋縮緬の長襦袢の前褄を高々と取った髯巡査で、これを青い長襦袢を引きずったトンボ姐さんと手に手を取って達磨の道行きみたいなものを踊っている処であった。
 その横手で手拭を姉さん冠りにした署長さんがペコンペコンと三味線を弾いているが、ドウモうまく行かないらしく、水ッぱなをコスリ上げては天神鬚をシゴイているが、何べんシゴイてもうまく弾けないらしい。
 それと向い合った縁側のまん中には大友親分が、昇り竜降り竜の黒雲と火焔を丸出しにした双肌脱ぎの向う鉢巻で、署長さんの三味線に構わず両手をたたいて大きな声で歌を唄っている。
「達磨さんえい、達磨さんえい。赤いおべべは誰がくれたア。どこのドンショの誰がくれたア」
「ヨイヨイ」
 と芸者が一斉に手をたたきながら共鳴した。署長の三味線も何も何処かへフッ飛んでしまうくらいスバラシイ景気である。そのさなかで髯巡査が胴間声を張り上げながらドタンドタンと踊り上った。
「これは天竺。色町横町の。オイラン菩薩の赤ゆもじ」
「ヨイヨイ」
 吾輩は髯巡査の踊りの要領を得ているのに感心してしまった。赤い長襦袢から、毛ムクジャラの手足を、煙花はなび線香みたいに突き出して跳ねまわるのだから、チョット見には非常に乱暴な、武骨な踊りのようであるが、その中に言い知れぬ風雅な趣きと愛嬌がある。それがその据わりのいい腰付きに原因していることを発見したので子供ながらモウ一度感心しながら見れていた。
「達磨さんエイ、達磨さんエイ。チョットこちらを向かしゃんせ。味な話があるわいな」
「ヨイヨイ」
「味な話と。聞いてうしろを。チョイと見たれば。梅や桜の花ざかり」
「ヨイヨイ」
「達磨さんエイ、達磨さんエイ。チョイとここらで。座禅休みに。お茶を一パイ飲ましゃんせ」
「ヨイヨイ」
「そげに言うなら。一つくれいと。グイと一杯。飲んでみれば酒じゃった」
「ワハハハハハ」
「オホホホホホ」
「イヒヒヒヒヒ」
 と言う笑い声のうちに髯巡査は盃洗に一パイ注いだ酒をグーッと飲み干すと、赤い長襦袢を引きずったまま自分の席に逃げ帰った。
「イヨ――オオ……」
 と大友親分が手を打って喝采した。それに連れてほかの芸者が一斉に手を打って黄色い声をあげた。署長も渋々三味線を置いて手をたたいたが、その時に最前からコクリコクリと居眠りをしていた禿茶瓶が、凭れていた脇息から膝を外してビックリしながら眼をさました。同時に鼻からプーッと丸い提灯を吹き出したので、吾輩は思わずゲラゲラと笑い出した。
 皆は一斉にこちらを見た。その中にもトンボ姐さんはいち早く吾輩を見付けて青い襦袢を引きずったまま走り寄って来た。
「まあ……よう来なざったなア。ばってんがどうかいなア。顔中ば御飯粒だらけえして……」
 と言い言い、傍にいた若い芸妓の懐中を借りて吾輩の顔を直してくれた。
 吾輩はトンボ姐さんに抱きついて顔を直して貰いながらヘラヘラと笑った。
「こんどはワテエが踊って見せて遣ろかい。アネサンマチマチでも何でも……」
「ウワア。賛成……」
 と髯巡査が双手をあげて踊り上った。禿茶瓶も酔眼モーローとして手をたたいた。
「この帯解いてや。あんまり食べて苦しいよって……」
「この帯解かんな踊らにゃこて……お行儀のわるか……」
 とトンボ姐さんが白い眼をして見せた。
「構わん構わん。アネサン待ち待ちなら帯のない方がええぞ。ハハ……」
 と大友親分が吾輩に声援をしたお蔭で吾輩は羽子板の帯から解放されたが、同時に酒の酔いが一時に上って来たらしい。何んだか眼がクラクラして来た。
 そこへ最前から階段の処で寝ていたらしい男親が、酒を運んで来た女中に起こされると同時に鵞鳥みたいな声をあげて、
「祝うたア、祝うたア」
 と座敷のまん中に転り込んで来た。
 その風体を見ると女連中は皆引っくり返って笑った。一方に男連中は、
「イヨー。色男色男」
 とときの声をあげて拍手喝采したので、座敷中が一時にドヨメキ渡った。
 それまではハッキリ記憶しているようであるが、それから先の記憶がハッキリしていない。そうしてホントウに気が付いた時には、どこかわからない広々とした大川のまん中を、白い帆をかけた船に乗って走っていた。

     四十二

 吾輩はあんまり様子の変りようが甚だしいので、夢ではないかと思いながら、又ジット眼を閉じた。
 しかし眼を閉じて考えてみるとドウモ夢ではないらしい。吾輩は現在たしかに固い板張りの上に、大きな風呂敷包みを枕にして寝ているようである。傍には男親と女親が坐ってヒソヒソ話し合っている声がきこえる。
「アンジョ助かった」
「まだわからヘン。この船、木屋こやの瀬から下り船に乗りかえて若松にで、そこから尾の道に渡らんとこっちのもんにならへん」
 とか何とか……。その話の切れ目切れ目に頭の上の高い処からハタリハタリと帆柱の鳴る音がきこえる。枕の下からはパタリパタリ、ピチャリピチャリという水の音が入れ交って伝わって来る。決して夢ではない。
「おかしいな」
 と吾輩はモウ一度子供心に不思議がりながら昨夜ゆうべ?の事を思い出して見た。そうすると、いろいろなアラレもない光景が、夢ともなく、うつつともない絵巻物のように、眼の前に展開されて来た。
 吾輩は、あれから白木綿の襦袢と赤い腰巻一つになって、知事公や、署長や、大友親分や、芸者たちの前でアネサンマチマチ以下の妙技を御披露に及んで大喝采を博したようである。実にアカメン・エンド・アセガンの到りで、吾輩が酒のために失敗したのはこの時を以て嚆矢こうしとする次第であるが、しかしその時にはたしかに大得意だったようである。況んや、それに感激して飛び出して来た髯巡査が、赤い長襦袢の尻をまくって吾輩の横に横坐りをして、吾輩の妙技を真似しながら芸者連中を引っくり返らせて、座敷中を這いまわらせた時の愉快だった事……。
 ところが又そのうちに誰かが「ドンタクドンタク」と怒鳴り立てると聞くより早く皆総立ちになって、茶碗やお皿をたたいて、座敷をグルグルまわり始めた。それを見ると吾輩もメチャクチャに愉快になったので、大いに大人と張り合う気で、お縁側に置きっ放しになっていたおひつの中から杓字を二本抜き出して、御飯粒をスッカリめ剥がして、ビシャリビシャリと叩き合わせながら、その行列に参加した……するとその杓字の音が非常に効果的だったらしく、台所から新しい杓字が十数本徴発されて来たのを、男連中が奪い合うようにして、吾れも吾れもとタタキ始めた……そのまま吾輩を先頭にして男連中が先に立って、そのうしろから芸者が三味線を弾き弾きいて来る。その一番うしろから男親が、鼓をタタキタタキ奇妙なかけ声を連発して来ると言ったような訳で、都合二十人近い同勢が中二階を練り出して、広い料理屋中を、ぐるぐるとドンタクリ始めた。
 ……それから暫くの間は、何が何やらメチャクチャになっていたが、そのうちにいつの間にか同勢から取り残された吾輩が、お庭の切石の上に突立って、泉水の底に光っている満月に小便をりかけていると、これも同勢からハグレたらしい男親が見付出して、大急ぎで吾輩を湯殿に引っぱり込んだ。そうして自分の口を押えて見せて、
「物言うたらアカンデ」
 と言い言い二階へ舞い上っているドンタク騒ぎを指してみせた。
 吾輩は、そう言う男親の意味がわからないので少々面喰らった。そうして男親の言うなりになりながら眠くなりかけた眼をコスリまわしていたようであるが、しかし男親の方は何かしら吾輩以上に面喰らっているらしかった。キョロキョロと前後を見まわしながら、泳ぐような恰好で湯殿のクグリ戸をあけて脱け出すと、台所の前の横門を音のしないように開けて、見覚えのある中島の町筋に出て、折よく通りかかった人力車に二人で乗った。……まではどうやら記憶に残っているようであるが、そのあとがパッタリと中絶しているようである。多分そのまま人力車の上で眠ったのであろう。
 その次に眼が醒めた時は汽車の中で、吾輩は女親と差向いになって男親の膝にもたれながら寝ていた。その時に二人は誰もいない車室の暗いランプの下で、今まで見た事もない立派な金具の付いた蟇口や、折り畳になった紙入を三つ四つ出して、腰かけの上に並べて、中から一円銀貨や、大黒様や猪の絵の付いた札をザラザラかき出して勘定していた。しかし半分夢心地でいた吾輩は多分御褒美に貰ったものだろうぐらいに考えて格別不思議がりもしないまま薄目で見ていたが、そのうちに又も睡ってしまったらしい。
 それから又、何処かわからない処で揺り起されて大急ぎで汽車を降りた。そうして長い長い石の段々を降りつくすと、そこらでウドンを一杯喰ったようであったが、しかしこの時も半分眠りながら喰ったので美味かったか不味かったか記憶していない。……それから一足飛びに現在になっているようである。
 言う迄もなくこのような記憶は、今からその当時の事を追憶した大人の吾輩の記憶である。だからよく考えて見ると前後の連絡がチャント付いているようで、決して夢ではなかったと思われる。つまり男親は酔っていたために大胆になったものか、今までにない出来心を起したものらしい。ドンタクの騒ぎに紛れてどこかの部屋に置いてあった知事や、警察署長や、大友親分なぞいう飛んでもない連中の持ち物を失敬するとそのまま逃げ出して、木賃宿に寝ている女親を誘い出して、博多駅から夜行列車に乗って折尾に出て、そこから飯塚通いか何かの石炭舟に便乗したらしい事情がアラカタ推測されるのであるが、しかし、その当時七ツか八ツぐらいであった吾輩にはむろん何が何やらわかりようがなかった。況んやどうしてコンナ風に形勢が急転直下したか、何のためにコンナ処まで逃げて来たのか……と言う理由なんぞは、テンデ解らなかったのであった。

     四十三

 ところがそんな事を考えているうち板子の上に寝ている吾輩の襟首の処から冷たい風が吹き込んで来たので、大きなクシャミを一つ二つした。その拍子にムックリ起き上った吾輩は、大きな声で、
「ここは何処けえ」
 と眼の前に坐っている両親に問いかけると、その拍子に又もクシンクシンと二つばかりクシャミが出た。
 ちょうど船のへさきの処に坐っていた両親は、吾輩の声を聞くとハッとしたらしく振り返った。そうして大慌てに慌てながら二人がかりで吾輩をモトの板張りの上に押し付けると、頭の上からホコリ臭い茣蓙をガサガサと引っかぶせた。そのあとから女親が、
「寝ておれチタラ。外道され……動くと水の中へ落つるぞ……」
 と威嚇したが、その時に吾輩は女親が冠っていた手拭が、昨日警察署長が冠っていた仁輪加にわか面の付いた手拭と同じものであることに気が付いた。同時に男親が中折帽を眉深く冠って、その下に青眼鏡をかけて、風付きをまるで変えてしまっているのに驚いたが、それでも又、何処かでドンタクでも始まるのか知らんと思うと、別段不思議がりもせずに横向きになってウトウトし始めた。
 吾々の一行三人が、直方の近くの木屋の瀬という大きな村に着いたのはそれから間もなくの事であった。追風おいてに乗って来た船から引き起されて河岸かしに上ると、急に風が強くなったのに驚いたが、女親はまだ足がフラフラすると言うし、吾輩は寝足りなかったし、男親は又昨夜の酔いが残っているらしく、三人共吹き飛ばされそうな恰好で河堤を這い上ると、すぐに村外れの木賃宿に入った。そうして、ほかに相客がないのを幸いに、飯を喰ってしまうと枕を借りて、三人ともグーグー寝てしまったのであった。
 ところでこの木屋の瀬という処は、今はどうだか知らないが、その当時まではかなり大きな村であったように思う。そうして現在もこの界隈は、賭博の本場で、大抵の木賃には花札と骰子さいころぐらい転がっている。直方の町に行くと乾電池仕掛けの本式のインチキ骰子まで売っているという話であるが、吾輩は無論そんな事は知らなかったらしい。夕方になって眼を醒ましてみると、両親はモウ湯に入って、飯を済ましたらしく、二人とも一パイ祝杯をあげたらしい上機嫌で、木賃宿に似合わない赤い、大きなツギハギだらけの座布団を借りて来て、吾輩の枕元に置いてパチリパチリと花を引いていた。ところが、そのうちに男親は最早もう当座のお小遣いを綺麗にハタカせられてしまった上に若干いくらかの借りまで出来たらしく、スッカリ元気をなくしてしまった。そうして如何にも詰まらなそうにモウ二、三回くり返していたが、そのうちに、
「モウアカン」
 と札を投げ出して止めにかかった。今までは負ければ負ける程カンカンになる男親だったのにコンナ事は全く珍しかった。
 しかし女親は、まだ男親が昨夜の稼ぎでタンマリ金を残しているのを睨んでいるらしくナカナカ素直に手を引かなかった。
「モウ止めるのけエ。まだ宵の口でねえけえ。せめて今日の借り貫だけでも返して退かんけえ」
 とニヤニヤ笑いながらボツボツ札を切り出した。
 ところがこの時の男親は多少いつもと違っていた。それとも昨日の出来事で心気一転させられたものか、女親の言った事がドウヤラ虫に障ったらしく、後手を突いて反り返りながら、イクラか投げ遣り気味で皮肉らしい事を言った。
「イヤ。もうアカン。あんたと花はモウ引かん」
「何でや」
 と女親も多少聞き棄てにならんという気味合いで坐り直した。
「何でやちゅうて訳はあらへんけど、花ではトテモ敵わんよって……」
「どうして適わんチ事わかるけえ」
 といよいよ聞き棄てにならんと言う恰好で威丈高になった。そう言う男の表情が、黒アバタで見当が付かないために、自分のインチキを疑われたのじゃないかと疑ったものらしい。
 起き上るとすぐに横の窓から遠賀川おんががわの流れを眺めていた吾輩も、いつの間にか振り返って耳を澄ましていた。

     四十四

 しかし女親が気色ばんで来るに連れて、男親は正反対に冷静になって行った。うしろ手を支いたまま白い歯を見せてアハアハアハと笑い出した。男親がコンナ風に男らしい笑い声を立てたのは吾輩も初めて聞いたのであった。
「何で笑うのケエ。わてから負けるのが何で可笑おかしいケエ」
 と女親はイヨイヨ気色ばんで赤い座布団を引き退けた。
「アハアハアハ」
 と男親はやはり恐れ気もなく笑い続けた。
「モウ八年も負け続けとるやないか。どないな人間でも大概飽きるがな」
 そういう男親の眼には薄い涙が滲んで見えた。吾輩にはそうした男親の気持ちがよくわかったように思えた。
 しかし芸術家肌でない、我利我利一点張りの女親には、そう言う相手の気持ちがサッパリわからないらしかった。いささか面喰らった形で小さな金壺眼をパチパチさせたが、それでも自分のインチキ手段がバレたのではない事がわかったのでいくらか安心したらしく、小さなタメ息を一つした。そうして逆襲的な冷笑をニヤリと浮かべて見せた。
「フーン。そんならもうワテエと花引かん言うのけえ」
 と言い言い又も名残り惜しそうに花札をチョキチョキ切り始めた。
 男親は相手の顔を見ないように眼を閉じて言った。悄然ぼんやりとした口調で……。
「……アイサ、ワテエはこれからワテエ独りで稼ぐがな」
「ナニイ」
 と女親は又も気色ばんだ。切りかけた花札を左手にシッカリと握り込みながら片膝を立てた。
「何を吐かし腐るのケエ。芸ショウモない癖に……」
 いつもならこうした女親の態度を見る迄もなく、男親は一ペンに縮み上るのであったが、きょうは不思議に縮み上らなかった。スッカリ諦め付けているらしく、依然としてうしろ手を支いたまま眼を閉じていた。
「あんたは花の方が上手やから毎日花で稼ぎなはれ。ワテエは毎日自分で稼ぐがな。あの児と一緒に……、そんでえやろが……」
 そう言ううちに男親はチョット眼をあけて吾輩の方を見た。吾輩も飛び上る程うれし喜んで、承諾の意味をうなずいて見せようとしたが間に合わなかった。
 スパーン……
 という大きな音がしてビックリする間もなく、男親が畳の上に引っくり返るのを見た。女親が腕まくりをして、横たおしになったままの男親の目面へ、花札をタタキ付けるのを見た。花札がバラバラになって、そこいら中に散らかるのを見た。こんな活劇を見るのも吾輩初めてであった。
「……コ……コン外道サレエ。恩知らず。義理知らずの、黒ジャンコ……ええッ……」
 と言いさして女親は言いなじった。あんまり逆上して口が叶わなくなったらしい。
「……エエッ……ココ……コンけだもの。片輪ヅラ……ダ誰のお蔭でその着物着た。誰のお蔭で飯喰うて来た……ソ……そんでもウチを邪魔んすんのケエ。三味線要らんチュウのけえ。エエッ……ココこの……」
 そのあとの言葉を何と続けていいか考える間もなく女親は、男親の横ッ面へポコーンと一つ拳固を喰らわせた。男親は両手で顔を抱えた。その指の間から涙がポロポロと流れ落ちた。それを見ると女親はイヨイヨたけり立った。
「出て行くなら出て行き腐れ。ゴク潰しの餓鬼サレも連れて退け。ケンドその前に今までの借り貫払うて行きクサレ。二百七十二円ときょうの三円十五銭片付けてウセクサレ。……ダ……黙っとるチュウたら付け上り腐る。コン外道、外道、外道、外道、外道」

     四十五

 女親のヒステリー弁が非常な勢いで速力化スピードアップし始めた。同時に男親の頭の左右から雨霰あめあられと握り拳が乱下し始めたのを、男親は両手で防ぎ止めようとしたが、拳固の当った処をあとから押えて行くので何の役にも立たなかった。
 吾輩は見るに見かねて、止めに入りかけた。むろん張り飛ばされる覚悟で、せめて女親の向う脛に喰い付くか何かしたら、驚いて止めるだろう。あとはどうなっても構わないと言うような吾輩一流の無鉄砲な考えで窓から離れて、犬も喰わないマン中へ走り込みかけたが、この時遅くかの時早く、大急ぎで二階段を駈け上って来て、二人の間に割り込んだ者があった。
 それはこの木賃宿の亭主で、恐ろしく背の高い、馬鹿みたいな顔をした大入道であった。
「……ま……ま……待ちなさっせえ。そんな非道い事さっしゃったて話はわからん。ま……まあ待ちなっせちゅうたら……」
 木賃宿の亭主はピカピカ光る坊主頭を振り立て振り立て両親の喧嘩を止めた。その亭主の頭のマン中に一升徳利の栓ぐらいの円いこぶがあるのが吾輩の眼に付いたが、これはやはり何処かで喧嘩を止めた際に出来たものに違いないと、咄嗟の間に吾輩は考えた。
 ヒステリーを起した女親は、止められるとなおの事、猛り立って阿修羅のように男親をタタキ付けようとしたが、忽ちのうちに息が切れて、口が利けなくなって来た。やはり心臓が弱いせいであったろう。腕力も男親よりは確かに強かったに違いないが、しかし六尺豊かの大男には敵う筈がなかった。間もなく両腕を掴まれて、花札の上に尻餅を突かせられると、今度は袂を顔に当て、メソメソと泣き出したので、やっとの事で女らしい恰好になった。
 その女親と、うつ伏せにヘタバッテ伸ばされてしまっている男親との間にかしこまったツンツルテンの浴衣がけの亭主は、ツルツル頭の瘤のまわりを撫で撫で顔を長くした。
「いったい是はどうした訳で御座すかいナ。南風はえになりましたけんであの窓をばこうと思うて上りかけた処へこのような……」
 と言いかけて後は言い得ずにモウ一度瘤のまわりを撫でまわした。
 女親は袖を顔に当てたまま何事か弁じ出した。しかし非常な早口で、いつもとまるで違った、泣くような、訴えるようなヒステリー声を続け遣りにまくし立てるので、女親の言葉癖を聞き慣れていた吾輩も、よく聞き取れなかった。
 けれどもツルツルの頭の亭主は頭のマン中に瘤があるだけに女親のヒステリー語がよく解ったらしく、聞いているうちに長い顔を一層長くしたのは奇観であった。
「……ハハアー……。それはまあ御尤も千万な事で、折角今日まで仲よく暮して御座ったのに、お気の毒な事で御座います。……しかし何で御座います。モトはと申しまっすると、やっぱり貴方がたお二人のお手慰みからで御座いましょう。エヘッ。さようで御座いましょうがな……」
 女親は泣き声をやめてうなずいた。男親も伸びたまま耳を傾けているらしい。吾輩も子供心にこの爺さんがどんなロジックを持ち出して裁判をするだろうかと耳を澄ました。禿頭のまん中で瘤がピカピカと光った。
「それでどうで御座いましょうか。今度はこのおやじも仲間に入れて貰うて、オン仲直りに機嫌よう一年引こうでは御座いませんか。幸いきょうは雨風もようで巡査は廻って来ん事が、チャントわかっておりまするし、ほかに相客も御座いませんけんで、私も所在ないところで……アッハハ……ヘヘヘ……」
 このロジックは子供の吾輩にはわからなかったが、賭博好きの両親にはわかったらしい。殊にこのおやじが一端の利いた兄哥あにいならともかく、どうやら人の良い愛嬌ものらしいので、大した相手ではないとタカをくくったのであろう。女親がシャクリ上げシャクリ上げ散らばった札を拾い集めて切り直すと、男親も直ぐに起直って頭を撫で撫で座布団の位置を直した。バクチにかけると両親ともコンナ風に実に子供じみた朗らかな現金さを見せるのであった。
 この様子を見た瘤のおやじは、何やら思い出したようにニヤリと笑うと、チャントその積りで上って来たものらしく、懐中から新しい金色の帯封のかかった赤裏の札を二組出して座布団のまん中に置いた。
「ちょうど新しいのが二アツ御座いましたけんで、これでお願いしまっしょう。初めで御座いますけんで……エヘヘ……」

     四十六

 新しい二組の花札を見ると女親は不承不承に黒い札を引っこめた。そうしてその帯封のまわりをクルリと見まわしながら、指の腹でブツリと切って、バラバラにして掻きまわしながら、瘤おやじと役の打ち合わせを始めた。
 それから始まったスポーツは後で考えるとハチハチと言う奴であったが、女親の札さばきが今までにも増して勇壮活発なのに反して、おやじの手付きは世にも無器用を極めたものであった。銭の代りに勘定するコマを間違えたり、最切に打ち合わせた花札の役を途中で忘れて問い直したり、一度一度に取り落しそうな恰好で札を出したりしているうちに、一勝敗毎に大きく負けて行った。
 この様子を見ると、女親はイヨイヨ調子に乗って来たらしい。獅子鼻の頭に汗を掻き掻き、櫛巻の頭に向う鉢巻をして、エンヤッとばかり片肌脱ぎになった。男親は又男親で、心持ち青い顔になって瘠せ枯れた両腕を肩までマクリ上げて、オズオズと札を投げ出してゆくのであったが、これは無理もない話である。男親は今までになく勝ち続けていて、半年(六回)くり返すか返さないうちに、ほかの二人のコマの半分以上を取り上げているのであった。
 しかし是はハタから見ている吾輩に取っては、不思議でも何でもなかった。女親が腕にりをかけて、インチキ手段のあらん限りを使いまわしながら男親が勝つよう勝つようにと仕向けているのだから、そうなるのは当り前であった。殊に一枚一枚めくられて行く場札のウラの特徴をチラチラする窓明りに透かしながら、一枚残らず記憶おぼえて遣ろうと思って一所懸命になっている吾輩の眼で見ると、三人が手札を起さない前から、札のウラをチラリと見まわしただけで、三人の手役があらかた解ってしまっていた。今度の場がどうなるかと言う事が、最初から見当が付いていたのだから、詰まらない事夥しかった。間もなく退屈してしまったので、小さな欠伸をしながらポツリポツリと降り込んで来る南側の窓を閉めるべく立ち上って行った。それを見ると、又も負けている瘤おやじが瘤のまわりをツルリと撫でながら、
「コレハどうも……済みません……お悧口りこうさんお悧口さん。あとでお菓子を上げますよ……アッハハ……」
 と愛想笑いをした。バクチを打つ人間はみんな向う鉢巻で血相をかえているものだと思っていた吾輩は、いささか変な気がしたので、そう言うおやじの顔を振り返り振り返り小さな雨戸を閉めた。
 そのうちに日がトップリと暮れてしまうとおやじはバクチを中止してランプをけに降りて行った、両親も立ち上って二階の雨戸を閉めまわったが、そのついでに二人が顔を見合わせてペロリと舌を出し合っているのが、外の夕明りで影人形のように見えた。
 瘤の親仁おやじは又瘤親仁で、下の戸締りをゴトゴトやって、吊りランプを点けて上って来ると、吾輩を見て又お愛想を言った。
「サア嬢ちゃん、下に御飯の支度がしてあるけに喰べて来なさい。ぬるいお茶もかかっとる。お菓子もチットばかりお膳の横に置いといたげにな」
 吾輩は案外に親切な親仁の言葉に面喰らいながら両親の顔を見たが、勝ち続けている女親は無論上機嫌で、畳の上に手を突いてペコペコと顔を下げた。
「ホンニなあ。済んまっせん。……コオレ。お礼言わんかチタラ」
 吾輩は依然として面喰らいながら畳の上に両手を突いた。お合羽さんを畳の上に擦り付けながら、
「オワリがトウ、ゴザイマス」
 といつもの伝でやっつけると、瘤おやじが又も瘤のまわりを撫で撫で感心した。
「ウ――ム。感心なあ。まあ、あんた方の平素のお仕込みがええけんで……行儀のええ事なあ……アッハハ……」
 と笑った。それが可笑しかったと見えて男親が、女親のお尻の処に顔を持って行って忍んで笑うのを、女親がお尻でグイと押し除けて「笑ってはいけない」と警告したが、それと一緒に二人とも噴飯ふきだしてしまったので折角の警告が何もならなくなった。
 その笑い声を聞きながら吾輩は大急ぎに階段を駈け降りて行った。

     四十七

 階段を降りてみると、鼠の音一つ聞こえないくらやみのまん中に、小さなカンテラの光が赤黒くチラチラと揺れて、粗末なお膳と飯櫃めしびつを照し出していた。
 吾輩の記憶に残っている木賃宿の亭主というものは大抵男に限っていた。しかも独身の老人が割り合いに多かったように思うが、ここの主人もそうらしかった。吾輩は、その亭主の手料理らしい茄子なすの味噌汁と、カマボコと、葱の煮付けを、タッタ一人でガツガツ喰い始めたが、そのうちに、だんだん嵐が非道くなって来て、家中がメキメキ鳴り出したのには驚いた。二階の両親が花札に勝っているらしいので、この上もない幸福感に浸りながら唐米飯とうまいめしを顔中にブチマケていた吾輩も、時々箸を止めてそこいらを見はったくらい大きな音響が、家のまわりを取り巻き始めた。棚の空鑵が転がり落ちたり、入口の突かい棒が外れ落ちたりし始めたのであったが、しかし吾輩はそのたんびに、直ぐ眼の前に黒光りしている、巨大な大黒柱を見い見い、安心して尻を据え直したものであった。
 吾輩はこうして、いつもよりも何層倍か時間をかけて飯を仕舞って、大黒柱のつけ根に在る火鉢の上の、生温なまぬるい渋茶をガブガブと飲んだ。それから膳の横に置いてあった小さな菓子の包みを取って立ち上ろうとすると、ちょうどその時に床の下から吹き込んで来た一カタマリの風のためにカンテラの火がフット消えたので、仕方なしに手探りで菓子の包みを取り上げたが、中に包んであった鉄砲玉が、雨風模様のお天気でスッカリ湿気ていたらしく、握り締めて立ち上る拍子に紙が破れて、中味がスッカリ脱け落ちてしまった。
 吾輩は、その鉄砲玉が真暗闇の畳の上を遠くの方へ逃げて行く音を聞きながら、ドウしようかと思った。とりあえず人生の無常を感じさせられた訳であったが、すぐに又気を取り直して、真暗な畳の上を這いまわって、逃げた鉄砲玉を探りはじめた。
 ところで経験のある人間は知っているであろうが、真暗闇の中で鉄砲玉を探していると、かなり情ない心理状態になるものである。闇夜に鉄砲というのはこの事じゃないか知らんと思われる位で、チョイト指が触っただけで折角探り当てた鉄砲玉が何処へ消えたか解らなくなるのだから焦燥いらだたしい事おびただしい。況んやその探す相手の鉄砲玉が、吾輩の大好物の黒砂糖製で、闇の中に漂う甘ったるい匂いだけでも、夢のような陶酔を感ずるに於ておやである。
 だから吾輩は一所懸命になって顔から滴り落つる汗を嘗め嘗めくらやみの中を這いずりまわった。そしてヤットの事で五個ほど探し出したが、あとにまだ一つ二つ残っているような気がしたので、モウ一度広い範囲に亙って大捜査をこころみるべく決心しながら、とりあえず五個だけを手探りで膳の上に置いて、その膳のまわりを中心にしてだんだん遠くの方へ這い出して行きかけると、遠いと思った大黒柱が案外近くに在ってゴツンとおでこっ付けた。それをジット我慢しながら、その大黒柱と火鉢の間に手を入れて掻きまわしているうちに、大黒柱の付け根の処をチョット押えたように思うとパチリと妙な音がしたのでビックリした。同時に何だろうと思って手を出して探ってみると、柱の付け根のかまちと境目の処にバネ仕掛の蓋が付いていて、そいつが押えられた拍子にいたものらしかった。
 そこまで探り出すと吾輩はモウ二階のバクチも鉄砲玉の事も忘れる位、好奇心に満たされてしまった。とりあえず傍の火鉢のまわりを撫でまわして、タッタ一つ付いていた抽出の中から付け木(薄い木の端に硫黄を塗ったもの)を一枚探り出して、火鉢に残っていた螢のような火をカンテラに移してみると、そのバネ仕掛の蓋の内側は小さな四角い穴になっていて、中には白い滑らかな、ピカピカ光る骰子さいころが二個入っていた。
 吾輩の好奇心はイヨイヨ高まった。

     四十八

 大黒柱の付け根の隠し蓋の中に骰子が二個入っている……と言えばその家の主人公がドンナ人物であるかは大抵想像が付くであろう。
 ところが子供の悲しさには、そんな事を吾輩はミジンも気付かなかった。ただ言い知れぬ好奇心にとらわれながら、その骰子を取り上げて、見様見真似で畳の上をゴロゴロ転がしているうちに、生得敏感な吾輩の指先は次第次第にその二個の象牙の中に隠されている秘密を感じ始めた。指の間をコロコロと転がして振り出す準備をしているうちに、二個の骰子が互い違いに重くなったり軽くなったりするのをハッキリと感じて来た。
 吾輩の好奇心はイヨイヨ高まるばかりであった。鉄砲玉の甘味でベタベタする両手と骰子を、框に掛けてあった濡れ雑巾で念入りに拭い上げて、着物の端で揉み乾かしてから、モウ一度一心籠めて振り直して見ると間もなく真相が判って来た。
 その骰子は二つとも一と五と三の間のんがった処に、何かしら重みが仕込んであった。そうして振り出す時の持ち方と、指の曲げ加減一つで、思う通りの目が出て来るのであった。
 これは最も熟練した賭博ばくち打ちの使用するもので、三の目の端の一粒から穴を開けて黄金きんか鉛の小粒を入れる。それから同じ三の目のまん中を利用して骰子の中心を空虚うつろにしたものであるが、表面から見た処では象牙の目がキレイに揃っているのだから、ナカナカ細工がわからないものだと『袁彦えんげん道夜話』に書いてあるのを後に発見して、成る程と感心したが、その時は無論、そんな秘密を知っている筈がなかった。これ以て生まれて初めての事だったものだから、骰子と言うものはみんなコンナ物かと思い込んでしまった。そうして成る程これなら花札よりも骰子の方が勝負が早い。こんな風にサイコロの一つ一つの癖を発見すればドンナ目でも自由自在に出るのだから、丁でも半でも百発百中するにきまっている……としきりに感心しながら、熱心にコロコロやっているうちに二階で……アッハッハ……と禿頭のおやじの笑い声がしたので、吾輩はハッとした。大急ぎで骰子を元の穴に入れた。そうして慌てて蓋を閉めてしまうと、やっと鉄砲玉の事を思い出したので、膳の上の五ツを左手に掴んで、あとから見付けた一個を口の中に入れながら、カンテラを吹き消すと、一層烈しくなった嵐の音を聞き聞き、梯子段を二階にのぼって来た。
 見ると二階には、そんなにも蚊もいないのに大きな蚊帳が室一パイに釣ってあって、その片隅に吾輩の床が取ってある。その反対側の蚊帳の外に釣るしてあるすすけたランプの前に三人が座布団を取り囲んで、最前の通りに八八を続けているのであったが、蚊帳をまくって中に入って見るとすぐに、最前とは形勢がスッカリ一変しているのに気が付いた。
 肩肌脱ぎで鼻の頭に汗をかいていた女親はいつの間にかスッポリと肌を入れている上に、眼の球ばかり釣り上げた血の気のない顔一面に髪をバラバラと垂らしかけている。無論唇をキリキリと噛んでいるので口を利く余裕なぞはないらしい。その向いに坐って男親は女みたいに抜き衣紋をして正坐しているがいかにも力なさそうに、痩せ枯れた手で手札をいじりまわしている。バクチを打つ幽霊のうしろ姿を見るようだ。
 その中にタッタ一人異彩を放っているのは瘤頭のおやじであった。ただでさえ大きな身体を威丈高に安座あぐらを掻いて、瘤を中心にした禿頭に古ぼけた茶色の手拭を向う鉢巻にしていたが、ランプを真正面にした赤光りする顔を、いよいよ上機嫌らしく長くして、色々な文句を言い言い場札をさらい上げていた。
 その文句は初め何の事だか解らなかったが、あんまり何度も何度も繰返して言うのでツイ記憶おぼえ込ませられてしまった。
「アッハハ……青タンかけが残念か……」
「……坊主……」
 と男親が気抜けしたように札を投げた。
「……アッハハ……松桐坊主が寺持だすと御座るかな…」
「メクッタッ……」
 と女親が突然に一枚タタキ付けながら、カスレたような声を立てたが、勢よく次の札をめくると、又もキリキリと眉を釣り上げて唇を噛んだ。
「アッハハ……坊主取られた六角堂……と……頂戴仕って置いて……と……ソーラ。キリトリ御免の、四ぞろパッサリと御座った。雨は待たん方が利口でガンショウ。そなたの方に降りそうじゃから。アッハハ……」
 女親はオヤジがこんな文句を言うたんびに、イヨイヨ眼を釣り上げて唇を噛んだ。
 男親もそのたんびに坐り直しては固くなり、固くなっては坐り直した。

     四十九

 吾輩はコンナ風にして花札に負けかけている両親を横目に見ながら、サッサと寝床の中にモグリ込んで行った。
 言う迄もなく吾輩は、吾輩の女親がヒトカドの瞞着屋インチキヤである事を知り過ぎるくらい知っている。だからその女親と男親を束にしてタタキ付けて行く瘤親爺が生やさしい腕前の持ち主であり得ないであろう事は、子供心にもチャント察していた訳であるが、しかしそれだからと言って、さほど大した腕前とは勿論、最初から思っていなかった。又、やっているバクチも今迄、両親が水入らずでやって来た小さなもので、タカダカ五円か三円ぐらいの取引で済むものと思っていたので、却って腕自慢の女親がタタキ付けられているのが面白いな……ぐらいに考えて、見向きもせずに寝床に潜った訳であった。
 ところが平常いつもの吾輩ならば、既に十二分に満腹している上に、大好物の鉄砲玉にまで有り付いているのだから枕に頭をクッ付けると間もなく、無上の満足と安心のうちにグーグーと眠り込む筈であったが、今夜はナカナカそう行かなかった。昨夜博多から遠賀川の川舟の中までズーッと睡り通して来たせいか、それとも吾輩の子供らしい、純な第六感が、この時既に大変な事が起りかけていたのを感じていたものか、何遍も寝返りを打っても眼が冴えて来て仕様がなかった。
 そこで吾輩は今一つ新しい黒砂糖の鉄砲玉を口の中にほうり込みながら、クルリと寝返りを打った。そうして腹ばいになったまま両親と瘤おやじの花の打ち方をベースボールでも眺めるような気持ちで見物していると、果せる哉そのうちに大変な事を発見した。瘤親爺のインチキ手段がいかに幻怪グロテスクなスバラシイものであるかを発見して、吾を忘れて見惚れさせられたのであった。
 その時に吾輩が発見した瘤親爺のインチキ手段は、あまり詳しい事を話すと悪い奴に利用される恐れがあるから大略して話そうと思うくらい素敵なものであるが、しかし、その発見のいとぐちは極めて些細な事からであった。
 ……と言うのは外でもない。
 最初この木賃宿の亭主の瘤おやじが、吾輩の両親と三人で赤い座布団を囲んで車座になった時に、自分の方から新しい赤裏の札を二組提供して、吾輩の両親が使い古した黒札を引っこめさした事は、前に話した通りである。これは今から考えると、亭主の瘤おやじがいつの間にか両親の花札の打ち方を透き見して、女親が一かどのインチキ師である事を看破していたので、その女親のインチキ手段を封ずるために、目印だらけの古札を引っ込めさしたものに相違なかった。そうしてその代り新しい赤札を投げ出した訳であるが、これはホントウに新しい二組で、最初から目印も何も付いていない物と思って吾輩は見物していたのであった。
 ところがチョウド、吾輩の寝ている処は、蚊帳越しのランプを背景にした、女親の真正面に当っていて、その右手に男親が小さくなって坐っているし、左手には瘤親爺が、魏々きき堂々と高座あぐらを掻いている。だから女親の左の肩越しに来るランプの光は、座布団の上に散らばった花札を横すじかいに照らしている訳で、花札の裏の凸凹やザラザラが、一々極端にハッキリと照らし出されている。それを見ているうちに、手札や場札の配合がザラリと判ってしまうのはむろんの事であった。
 ところで、それはまあいとして、ここに一つ不思議な事には、そんな風にして吾輩が、目印のない札の裏面うらの特徴を発見して、表面おもての絵模様を見物しているうちに、最初から人間の手の痕跡あとがチットモ付いていなかった筈の新しい札の赤裏の一隅に、チョット蟹が挟んだ位の一点の凹みが付いているのが幾つも幾つも出て来るのを吾輩は見のがす事が出来なかった。しかもその小さな凹みは青タンだの、五光だの言う重要な役札に限って二ツも三ツも付いているようで、点のない所謂ガラ札には付いていないのが多い。のみならずその目印を、誰が、いつどうして、何のために付けたものなのかサッパリわからないのであった。
 そこで吾輩はチョット変に思いながら、なおも垢臭い夜着の中から眼を光らして覗いていると、そのうちに勝敗がだんだんと重なって、両親がイヨイヨ負けて来るに連れて、その片隅の小さな疵が、今まで付いていなかった札にもチョイチョイと現われて来る。しかも誰が、どうして付けて行くのかと言う事は、依然として判明しないのだから、サア吾輩は不思議でたまらなくなった。

     五十

 吾輩は半分ぐらいになりかけた黒砂糖の鉄砲玉をグッと丸呑みにして、あとに残った甘い甘い汁を飲み飲み、一心不乱に瘤親爺の札の動きを凝視し始めた。瘤おやじのインチキ手段らしい花札の裏の疵痕の曰く因縁を探偵し始めた。
 するとそのうちに又も新しい事実を一つ発見したのであった。……と言うのは、ほかでもない。
 瘤おやじが投げ出す札の一枚一枚をランプの逆光線に透かして見ていると、そのうちに時々息を吐きかけたように曇っているのが出て来る。しかもその曇りは、横から透かして見ているうちにスーッと消えてしまうので、真正面から見たって到底わかりっこない。まして況んや負け通しでカンカンになっている吾輩の両親の眼には絶対に止まる気づかいがないであろうホンの一時的の現象に過ぎなかった。……のみならず、その曇った札が瘤おやじの手から放出されるたんびによく気を付けてみると、その札の片隅には必ず小さな凹んだ疵痕が一つ殖えているのであった。
 この事実を発見した吾輩は、全身が眼の球になる程緊張させられた。一層深く夜着の中にモグリ込む恰好をしながら、息を凝らして瘤親爺の一挙一動を見上げ見下しているとは知るや知らずや、瘤親爺は最前から引続いて大ニコニコで、いろいろな文句を喋りながら、目星い札を片ッ端から浚っている。その口元を何気なく凝視しているうちにヤット判然わかった。このオヤジの驚くべきインチキ手段が次から次へと電光石火のように吾輩の眼に閃き込んで来て、戦慄的な讃嘆の眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはらせたのであった。こんな手にかかっちゃ誰だってかないっこないと、子供ながらに舌を巻かせられたのであった。
 その瘤親爺のインチキ手段というのはこうであった。
 瘤親爺は何しろ六尺豊かの大男で、顔が馬みたいに長いのだから、口の幅もそれに相応して偉大なものがある。握り拳の二ツ位、束にして入りそうに見える。ところでその口元をジット見ていると瘤おやじは、時々指に唾液つばを付けるような真似をしながら、眼にも止まらぬ早業で、札を一枚口の中に投げ込んで糸切歯の処あたりでチョット啣えるのであった。しかも便利な事には、親爺の口の中が又並外れて大きいらしく、チットモ唾液がクッ付かないのみならず、その札を啣え込んだまま、唇をすこし動かすだけで、いろんな憎まれ口を含んだ洒落文句を言ったり、アッハハと咽喉の奥で笑ったりする事が自由自在に出来るのであった。
 吾輩は後になって、西洋に腹話術というものが在る事を聞き及んで、自身に研究して見た事がある。と言うのは口をチットも動かさないまんまに、呼吸と口腔の使い方でいろいろな声色を出すので、かなり六箇むつかしい要領のものである事を知ったが、瘤おやじのインチキ手段は正にこの腹話術を応用したものに相違なかった。つまり札を口に啣えていることを相手にさとらせないように、わざと刺激的に憎まれ口をいて、相手の神経を見当違いにんがらせるのが、このインチキ手段の山であることがこの頃になってヤットうなずかれたのであったが、その時には、そんな細かい処までは気が付かなかったにしても、その遣り方の巧妙さと、手際の鮮やかさには驚目駭心せずにはいられなかったのであった。
 おやじはこうして、別の帯の間に挟んでいるインチキ用の役札を口に啣えてはスリかえて行く。又は自分の手札がどうにも細工の利かない程悪い時には、その中の一枚を素早く口の中に隠して、一枚配り足りないと言って、撒き直しを遣らせたりするのだから堪まらない。吾輩の女親が向う鉢巻をし直して、肌を脱ぎ直して、腕にりをかけ直しても追っ付かないのは当り前の事であった。
 しかし吾輩は、こうして瘤親爺のインチキ手段をドン底まで看破してしまうと、急に睡くなって来た。それは恐らく何もかも解ったので安心したせいであったろう。そこでモウ一つの鉄砲玉を口に入れて仰向けに引っくり返ると、モゴリモゴリと口を動かしながら眼を閉じた。そうして瘤おやじが饒舌り立てる皮肉まじりの洒落文句をネンネコ歌みたいに聞きながらいつの間にか睡ってしまったらしい。
「梅は咲いたが桜はまだか……とお出でなすったナ……」
「一杯呑んで言う事を菊……と行きますかな……」
「果報寝て待て猪鹿蝶……」
「飛んで逃げたかホトトギス……か……アハハ……」
「雨ッ……メクッタッ……」
「ドッコイ………梅に鶯サカサマ事……とはドウジャイ……アハハハハ……青が腐りましつろう……アハハハハ……」

     五十一

 それから何時間眠ったかわからないが、フト眼が醒めたままウトウトしていると、枕元で何か言い争っているらしい大きな声が耳に入って来た。そのお蔭でホントウに眼が醒めてしまったので、何事か知らんと思って夜着の中から顔を出してみると、吾輩の両親と瘤おやじが、折角仲よくやっていた賭博ばくちを中止して睨み合いながら、何かしら一所懸命に言い争っている。しかもその一所懸命になっているのは女親の方で、瘤おやじの方は真白な歯を出しながらニタリニタリと、女親を嘲弄するような調子で相手になっている。その向い側に男親が一縮みになって畏まっているようである。それをチラリと見遣りながら瘤おやじは咳払いをした。
「……オホン、オホン……私の言う理屈はモウわかっとりまっしょうがな……。あんた方は今まで負け続けて、借り貫ばっかりで来とんなさる。それが引っくるめて百三十一円と五十五銭になっとります。それをば今更になって払われんと言わっしゃっても……」
「それが最前から言いよるやないか。ワテ等の身上で百円という金持っとるかどうか考えて見なはれ。そんな金持っとりゃあ非人しはせん。借り貫は勝負の目当につけたのんやから、払わんでもええものと思うて……」
「アッハハ……そげな無理な事言うたとて通りまっせんが。第一ドコからドコまでがホンマの借り貫で、どこから先がウソの借り貫と言う事がハッキリせんのに……」
「ハッキリしとるやないか。最初からしまいまでタダの借り貫やがな」
 吾輩は女親の押しの太いのに驚いた。むろん子供の吾輩には百円の金のねうちがどれ位のものかと言う事はテンデわからなかったが、それにしても金を賭けていればこそ女親は、向う鉢巻で眼の色を変えているものと最初から思っていたのに、今更それが嘘だったと言い張る女親の皮の厚さには、子供ながらアキレ返らざるを得なかった。けれども又、今から考えると、ソンナ無茶な事を高が一介の女乞食に言いかけられながら、おこりもドウもしなかった瘤おやじもただの曲者でなかった事がわかるだろう。
「アッハハ。そげな理屈はヨソではどうか知りまっせんけんど、ここいらでは通りまっせんばい」
「通らんチュウたて理屈は理屈やないか」
「アッハハ。まあ聞かっしゃれ。……ここいらは知って御座るか知らんがバクチ打ちの本場でな、私もイクラか人に知られたオヤジで御座いますけんで、アンタのようなおなごさんを相手に喧嘩しても詰まらんと思うて穏かに言いよりますが……」
「女やかて、男やかて博奕の法は変らへんがな。金賭けるのやったら金賭けると、何で最初から断わらんかいな。ワテエ嘘はヨウ言わんよって……」
「アッハハ。嘘はよう言わんはヨウ出ましたな。アッハッハッハ……」
「ワテエがいつ嘘言うたかいな」
 と女親は血相をかえて詰め寄った。しかし瘤おやじは物ともせずに高笑いした。
「アッハハハハハハ。あんたはタッタ今、百円チュウ金は持たんと言わっしゃったが、あれは私の聞き違いで御座いましつろうか」
「……………」
 女親はチョットひるんだらしい恰好で口籠もった。男親が県知事や警察署長や大友親分の蟇口から掻っ浚って来た大金を持っている事を感付かれたかと思って、すくなからずギョットしたらしく、片目をまん丸にして瘤おやじの顔を凝視した。しかし間もなく絶対にソンナ事が解る筈はないと考えたかして、思い切って強く言い放った。
「……そんな金持っとらへん。持っとらへん。持っとる筈がないやないか」
「アハハハハ。これは可笑おかしい。アハハハハハ……」
「何がソナイに可笑しいのや」
「持って御座るか御座らんか、チョッと貴女の背後うしろの風呂敷包みをば開けて見なされ」
「エッ……」
「すぐにわかる事じゃがな」
「……………」
「アッハハハハハ。あんた方は人を盲目めくらとばし思うて御座るかな……」

     五十二

 この瘤おやじの一言には、さすがの女親もギャフンと参ったらしい。否、女親ばかりでない。よもや人は知るまいと思って隠して来た大金の在り家を図星に指されたので、二人とも仰天の余り中腰になりかけたまま、瘤おやじの指した方向を振り返った。
 するとその眼を丸くして口をポカンと開いた二人の顔を、瘤おやじはサモサモ愉快そうに見比べながら、ドッカリと坐り直した。白い馬見たいな歯を一パイにき出してニヤリニヤリと笑いながら、ツルリと撫でまわした顔を二人の前にさし付けた。
「エヘヘヘ……文句を言いなさんなよ。他人の懐中ふところを見るのは私どもの商売じゃ。宿屋にしても博奕打ちにしてもそれが本職じゃ。アッハッハ。この人が、手の切れるような札を二、三十枚持っとるチュウ位のことは、一眼でわかりまっする。そればっかりか、その金が、こげな木賃宿に入り込む筈のない不思議な金チュウ事も。あんた方が昼寝をして御座る間に、チャント見て取っておりまっするぞ」
「……………」
「けんどなア。わしゃ、そげな金をただ貰おうとは言いまっせんわい。事を分けて穏かに分けて貰われはせんかと思うたけんで、今までお相手しておりました訳じゃ。アッハハ」
「……………」
「どうしたもんで御座っしょうかいな。アッハハ……」
「……………」
「それでもないと言わっしゃるなら言わっしゃるで、ええがな。払わんと言わっしゃるなら言わっしゃるでもええ。そう言われんようにするここいらの風がありますがな」
 こうした瘤親爺の冗談まじりの威嚇は百二十パーセントに効を奏したらしい。吾輩の両親はもう真青になってヘタバリ坐ったまま顔を見合わせるばかりであった。その前に瘤おやじはモウ一膝進めながら、眼を細くして咳払いをした。
「エッヘッヘッヘッヘッ。どげなもんで御座いましょうかいな。……勝負は時の運と言いまっする位じゃけんな。あんた方お二アが負けさっしゃったのは気の毒じゃけんど、よう考えて見さっしゃれ。そうじゃない事がわかりまっしょうが。あんた方二ア人がこの宿に泊まらっしゃったのはホンニイ運がよかったのじゃ。悪い宿に泊って見なさっせえ。その金をば寝て御座る間に盗まれても、あんた方は警察に届ける事が出来まっせんじゃろーが。アッハハ。勝負事で取られたものなら、楽しうだだけでも得だっしょうが。アッハハ」
「……………」
「それともその金が是非ともうしてはならぬ大切な金で、私に払う事が出来んとなら、んとか外に方法を立てさっしゃるか……」
「ほかに……」
 と女親は妙な顔をして顔を上げた。男親もあとから怪訝けげんな眼付きで瘤おやじの顔を見上げた。
「ほかに方法言うなら……証文でも入れたらええかいな」
 瘤おやじはモウ一度ツルリと顔を撫でた。
「アッハッハッハッ。証文が何になりまっしょうぞ。あんた方のような旅の人から借銭の証文貰うたとていつ払うて貰われるやら分かりまっせんがな」
「……そりゃワテエかて、払う言うたら違わんと……」
「アハハハハハ。あんたのその口は信用しまっしょう。口は信用しまっしょうが、金の方が信用出来まっせんでなあ。人間とおんなじように金が信用出来たら、世の中に間違いはありまっせん」
「……………」
「それじゃから私は長し短しは言いまっせん。何かお金の抵当になるものを置いて行きなされと言うのじゃがナ」
 吾輩の両親は又も顔を見合わせた。
「……お金の抵当言うたら……」
「アハハハ。わかりまっせんかな。ハハハ。何でもない事じゃ。金を払うのがイヤなら、そこに寝て御座る娘御さんを置いて行かっしゃれと言うのじゃ。ハハハ。わかりましたかな……」

     五十三

 吾輩の両親はモウ一度眼を丸くして顔を見合わせた。バクチの抵当に娘を置いて行けと言うのだから面喰らったに違いないが、夜着の中で聞いていた本人の吾輩も眼を丸くせざるを得なかった。どうしてミンナこんな風に吾輩を欲しがるのだろうと思うと、不思議で不思議で仕様がなかったが、しかしその次の瞬間には、たまらない程可笑おかしくなって、どうも我慢が出来なくなったので、我れ知らず蒲団の中にアト退しざりをしつつモグリ込んだのであった。この瘤おやじもやっぱり吾輩を女の児と間違えて、芸者か何かに売る積りらしい事がわかったので……。
 尤も今から考えると瘤おやじのこうした思い付きはナカナカ考えたものであったろうと思う。第一脛に疵持つ両親に取っては、吾輩は目下の処、逃走の足手まといになるばかりでなく、警官たちの捜索上について、何よりの眼じるしになる事は請合いであった。だからこの際両親は、金よりも吾輩の方がズッと諦めよかったに違いないので、そこを瘤おやじは付け込んだものらしい。そうして取り上げて置いて、その次に現金を巻き上げる算段に相違なかったことが後でわかった。
 しかし、まだ子供の吾輩には、そんな処までは見透せなかった。それよりも瘤おやじが又しても吾輩を女の児と間違えているのが、可笑しくて可笑しくてたまらなかったので、早く両親が承知をするといいがなあ。瘤おやじに高価い金で売り付けてくれると面白いなあ。……そうしてそのあとで瘤おやじに、吾輩が男であることを解らせてビックリさせたら、どんなにか愉快だろう。万一まかり間違ったって芸者になる迄のことだ。世の中に芸者になるくらいタヤスイ事はないのだから……なぞと思い思い又も夜着の中からソッと片眼を出してみると、吾輩の両親も、吾輩を借銭かりの抵当にしろという瘤おやじの提議には大賛成らしく、揉み手をしいしい、下に筆墨を取りに行った瘤おやじを待ちかねている体であった。尤も男親の方はイクラか吾輩の事が気になるらしく、セムシ見たいに背中を丸くして俯伏うつむいて考え込んでいるのを女親がいろいろと説き伏せている。それを聞きながら男親もウンウンとうなずいていたが、そのうちにこれで虎口を逃れる事が出来るというような嬉しさで一パイになっている態度がアリアリと見えて来た。
 すると間もなく瘤おやじが階下したから大きな掛硯と半紙を一枚持って上って来た。そうして吾輩の両親は無筆というので、自分で証文の文句を書いて読んで聞かせた。
     証 文

一、わたくし二人の養女チイ当年とって七歳ことお前様の子供として引きわたし申候上は後日いかなるわけありとも文句申すまじくそのため証文如件しょうもんくだんのごとし

「これでよろしいな。そんならアンタ方の名前を書いて爪印捺して下され」
 両親は無言のままうなずいた。
 吾輩はそうした光景を面白半分に夜着の中から見物していた。そうしてコミ上げて来るおかしさを一所懸命に我慢していたのであったが、そのうちに両親が爪印を捺すべく、半紙に書いた証文を引き寄せて覗き込む処まで来ると、今度は急に心配になって来た。
 と言うのは外でもない。その証文を覗き込んでいる両親の頭を、上から見下ろしている瘤おやじの顔が、見る見る悪魔のような気味の悪い顔に変って来たからであった。それは瘤おやじが誰も見ていないと思って本性をあらわしたものであったろう。何だか知らないが両親に対して非常な悪巧わるだくみを持っているに違いないことが一眼でわかる顔付きになった。今までの柔和な、お人好らしい人相に引き換えて、血も涙もない青鬼みたいな冷たい、意地の悪い表情に変ると、両親を取って喰うかのような眼を光らしてニタニタと笑った。その形相があんまり恐ろしかったので、これはこの証文に爪印を捺すと同時に両親はともかく吾輩が退っ引きならぬ破目に陥るのじゃないかと言うような気がし始めたので、吾輩は思わず夜着の中から叫び出した。
「ワテエ。嫌や……」
 そう叫ぶと同時に夜着の中から飛び出して、座布団の前に膝小僧を出して坐り込むと、そこに置いて在る爪印の済んだばかりの証文を、両手で引っ掴んで引き破ろうとした。

     五十四

 吾輩のこうした不意打ちには三人も驚いたらしい。瘤おやじの悪魔づらも、両親の安心顔も一ペンに消え失せてしまった。同時に六本の手が一時に吾輩の両手を引っ掴むと声を揃えシガミ付けた。
「何しなさるのじゃ」
「見とったのけえ」
「起きとったんけえ」
 吾輩も三人の慌て方の大袈裟なのに驚きながら証文を放した。そうしてまだ両腕を掴まれながら瘤おやじの顔を見上げて笑った。
「おかしなオヤジやな。ワテエを芸者に売ろう言うのけえ」
「コレッ」
 と女親が力を籠めて吾輩の腕をゆすぶった。まるで血相が変っている上に、死に物狂いの力を入れているので、吾輩は腕が折れるかと思った。
「痛い痛い痛い痛い痛い」
 吾輩がこう言って金切声をあげると三人が一時に手をゆるめた。とたんにスポリと両腕が抜けた拍子に吾輩は引っくり返りそうになった。
 しかし吾輩はそのおかげでスッカリ調子付いてしまった。畜生、どうするか見ろと子供心に思ったので、その手を撫ですりながら座布団の上に散らばった花札を整理しいしい瘤おやじの方に向き直った。
「オジイ。ワテエが一番行こう。二アでも四人でもええ」
 三人の大人は唖然となって顔を見合わせた。その顔を見まわしながら吾輩は勢込んで札を切りはじめた。
「サア行こう。負けただけミンナ取り返すのや」
 三人は唖然を通り越して茫然となったらしい。申し合わせたように吾輩の顔を穴のあく程凝視していたが、そのうちに瘤おやじが突然に笑い出した。
「アハハハ。これは面白い。アハハハ……」
 しかし吾輩はそんな事にお構いなしで、危なっかしい手付きをしながら札を切って、四人の前に配り始めた。
「アッハッハッハッ……」
 と瘤おやじはイヨイヨ引っくり返らんばかりに笑い出した。一方に女親は眼を丸くして吾輩の腕を掴んだ。
「コレッ……おチイ……われホン気ケエ……」
 吾輩は自分の手札を持ったまま事もなげにうなずいた。
「ホン気やがな」
「花引いた事あるのけえ」
 と女親はタタミかけて問うた。
「イイエ。一度もあらへん。そやけどこのオジイに勝つくらい何でもあらへん」
「アッハッハッハッハッハッ……」
 と瘤おやじは片手をうしろに突きながら、片手で証文を懐中に仕舞い込んだ。そうして嘲弄からかうように吾輩を見おろした。
「アハハハ。このオジイに勝つくらい何でもないと言わっしゃるか」
「サイヤ。花札でもサイコロでも何でもええ」
「アハハハ。これは面白い嬢ちゃんばい。そんで何を賭けさっしゃるかな」
「オジイは今の証文賭けなされ。それからととさんとかかさんは銭かけなされ」
「コレ。オチイ。そない事がヨウ出来るか。百円もの金ドウして賭けられるケエ」
「ワテエ違わんと勝つのんやからえやないか」
「アハハハハ。それはまあええがな。証文は後で一度書かっしゃれば済むことじゃがな。何も慰みやから気の済むだけ賭けさっしゃれ。私も永年手遊びはしておりまっするが、七ツになる児に負けたとなれば話の種になりまっする。アンタ方さえよければ一つ行きまっしょうかい。アッハハ。どうだすな」
 瘤おやじは無論勝負を問題にしていなかったらしい。それとも両親の金を根こそぎ巻き上げるのに持って来いのキッカケと思ったものかも知れない。こう言って両親の顔を等分に見比べると、何も知らない女親はさすがに躊躇したらしく、青い顔をして男親をかえりみた。するとその男親はやはり何も言わずにジット考えていたが、やがて返事の代りにふところから横腹の破れた蟇口を出して、五円札を一枚座布団のまん中に投げ出した。そうして又ジットうつむいてしまった。

     五十五

 頭のトンチンカンな男親は、吾輩が昨日福岡の警察署で言い張った言葉を、ちょうどここで思い出したものらしい。そうして一も二もなく吾輩が花札の名手である事を信じ切ってしまったらしい。事によると吾輩の男親はこの時既に吾輩の万能に達した神通力を、その半片輪式なアタマで直覚していたのかも知れないが、いずれにしても、こうして虎の子のようにして隠していた臍繰の中から、驚くなかれ五円札の一枚を投げ出したということは、その頃のお金のねうちから言っても、又は男親の性分から言っても実に破天荒の冒険であった。仮りに吾輩のバク才を百二十パーセントに信じていたにしても、たしかに福岡の俗諺ぞくげんで言う「宝満山から後飛び」式の無鉄砲には相違ないのであった。
 果せる哉その手の切れるような五円札を見ると、女親と瘤おやじの眼が異常に光った。中にも瘤おやじの眼は、容易ならぬ驚きと疑いの光を帯びて、吾輩と男親の顔を何度も何度も見比べていたが、やがて何事か一つうなずいたと思うと、吾輩の方に向って居ずまいを正しつつニッコリと笑った。
「フーム。そこでアンタは何を賭けさっしゃるのじゃ」
「アイ」
 と吾輩は返事をした……が、そのままハタと行き詰まった。自分だけが何も賭けていないばかりでなく、何一つ賭ける物を持たない事に気がついたからであった。吾輩はそこで一瞬間、小さなお合羽アタマをかしげて考えたが、結局どうにも仕様がない事がわかったので、思い切ってこう言って遣った。
「アイ。ワテエだけ何も賭けんでもええやないか。勝ちさえすればええのやろが」
 三人の大人は又も唖然となってしまった。吾輩の大胆さと図々しさとに呆れ返ったらしかったが、そのうちに吾輩はフト思い出して両手をタタキ合わせた。
「アッ。ソヤソヤ。父さん。その風呂敷包みの中に入れたるワテエの着物出してんか。それワテエの着物や。ワテエ負けやったら、あの着物着て、アネサン待ち待ち踊って見せるがな。父さん歌うとうてや。ソンデええやろが」
 吾輩のこうした提議が、如何にも子供らしいナンセンスを極めたものであった事は言うまでもなかった。しかし三人の大人は不思議にも笑い顔一つ見せなかった。……と言うのは、そんな事を言っているうちに三人が三人とも別々の意味で、吾輩がドンナ風に花を引くかと言う事に対して焦付くような好奇心を感じ始めたものらしい。
 その証拠に吾輩の提議を聞いた瘤おやじは、無言のまま、承諾の意味でうなずいた。すると女親がやはり黙って吾輩の顔を見い見い五円札を一枚座布団の上に置いた。そのあとから瘤おやじも証文を取り出して、二枚の札と一緒に座布団の下に入れると、席もかえないまま吾輩の配った札を取り上げたのであった。
 ところが取り上げると間もなく瘤おやじは、吾輩の配った手札が気に入らなかったらしく、その中の一枚を素早く口の中に啣え込むと、残った手札を表向きにしてバラリと座布団の上に投げ出した。
「アハハハ。一枚足りまっせん。今度は私が配りまっしょうかな」
 吾輩は折角順序を記憶しいしい配った札がゴチャゴチャになって行くので少々残念であった。殊に瘤オヤジのインチキ手段に引っかかって胡麻化されるのが些かならず癪に障ったが、しかしイクラ配り直しても勝ちさえすればいいのだ。いくら胡麻化したって結局同じことだと思い直したから、黙ってする通りにさせて置いた。
 ところが又、そう思って、一所懸命で見ていたせいであったろう。場札が引っくり返るまでに、皆の手札がアラカタ見当が付いてしまったので吾輩はスッカリ愉快になってしまった。何しろ片隅に疵の余計に付いている奴がいい役にきまっている上に、その疵の付き工合を一々見おぼえているのだから訳はない。
 ところが今度は札の配り工合を見るとさすがはインチキの大家が配っただけに、吾輩の手のミジメさと言ったらなかった。札らしい札は雨だけで、あとはバラバラのガラ札だから遣り繰りの付けようがない。今度の勝負は諦めようかな……と吾輩は思い思い手札を束にして手の中に握り込んでしまった。

     五十六

 ところがこれに反して吾輩の後から悠々と手札を起した瘤おやじは大きな掌の中を一わたり見まわすと如何にも得意らしくニヤリと笑った。尤もこれは笑う筈で、自分の手の中に青丹が三枚と、雨の二十と、坊主と、盃が一つというステキな手を配り込んだ積りが、その通りになっていたのだから喜ぶのが当り前であろう。しかも場札の順が又、親爺のイタズラかどうか知らないが、しまいの方になってバタバタといい札ばかりが出て来て、そいつが又片ッ端から瘤おやじの手に入るように出来ているのだから、今度の場は全然おやじの独り賭博ばくちになる訳であった。
 このことがわかると吾輩はイヨイヨ諦めてしまった。万一負けたら仕方がないから、瘤おやじの手に渡って芸者になって遣ろう。トンボ姐さんは男の子は芸者になれないと言ったけれども、お化粧をつけて三味線を弾くくらいの事は何でもないのだから、吾輩だって芸者になれない事はないだろう。しかし、それにしても、せめて男親の手にだけはいい札が入るようにと思って、男親の手と次の場札を見い見い役札を片っ端から投げ出して行くと、そのうちにだんだんと札順がよくなって来て、男親の手に短冊がゾロゾロ集まりかけて来た。これは瘤おやじが吾々をあんまり甘く見過ぎたせいで、自分の手にいい札をまわすべくマングリし過ぎたために出来た札順の弱点に外ならなかった。
 ところでこの形勢を見ると今度は瘤おやじの方が少々あわて出して来た。何しろ子供子供と侮っていた吾輩が、案外鋭く形勢を看破して、惜し気もなく犠牲打式の高等戦術を発揮し始めたので、それこそホントウに驚いたらしい。お得意の洒落文句も言えないままに思い切って雨の二十から打って来ると同時に、場札をめくるふりをして、下の方の札を二、三枚電光石花の早業で引っこ抜いて上の方へ置き換えたが、その鮮かだった事。札の順を記憶している吾輩でさえも、いつの間に入れ換えたか解らない位であった。そうして二まわりばかりするうちに瘤おやじは自分の青丹を二枚と盃を一枚取り込んでしまった。
 又もオヤジのインチキ手段に文句を入れる機会を失った吾輩はイヨイヨ今度の勝負を諦めなければならなかった。そうして今度オヤジが又何か手品でも使ったら、すぐに抗議を申し込んで、この場を無効にしてくれようと、そればっかりを考えながら一所懸命になってガラ札ばかり集めて行くうちに、やがて半分以上済んだと思うと、最前から真青になってやっていた女親が突然に真赤になって、眼の色をかえながら叫び出した。
「……ちょっと待って……コレ、チイよ。お前の役はソレ何けえ」
「何でもあらへんがな」
「……あらへんけんど……それ十六でねえけえ」
「さいや……」
 と返事はしたが、そんなステキな役がある事を忘れていた吾輩はビックリしながら持っている札を取り落した。夢のような気持ちで自分の膝の前を見まわした。
 両親も知らない間に出来たステキな大役に呆れ返ったらしく、眼を白くして吾輩の顔と瘤おやじの顔を見比べた。
 瘤おやじは真青になってしまった。
「ウーム」
 と唸りながら眼を白黒さしたが、いつの間にか札を一枚口の中に入れていたので、そのまま文句も言えずに固くなってしまった。その眼の前で急に調子付いた吾輩は、場札を一枚一枚めくりながら喜び踊った。
「……ワテエ負けたんかと思うたよ。……ホレ……この次がアヤメや。それから猪や。それからやっぱり萩や。それから次の次の……この次がホレ……かかさんに行く桐に鳳凰ほうおうやけんど、これはトトサマの桐で取られるよってにワテエ今度の場は負けたんかと思うとった……おお嬉し嬉し……勝った勝った……」
 瘤おやじはその間に慌てて左手で顔を撫でまわすふりをして、口の中の札を取り出すと、そのまま何も言わずに手札を投げて座布団の上でゴチャゴチャに掻きまわしてしまった。
 これは言うまでもなく、かぶとを脱いだ証拠で、同時に自分のインチキが馬脚をあらわしかけた処を、生命いのちからがら切り抜けるために、コンナ見っともない降参の仕方をしたものに相違なかったが、何にしても、さぞかし残念であったろう。それかあらぬか眼の色を変えてしまった瘤おやじは、そのまま物も言わずにズイと立ち上ると、ヤケに蚊帳を撥ね上げて、トントントンと梯子段を降りて行った。
 吾輩の両親は色青褪めたままそのあとを見送った。
 その間に吾輩は瘤おやじが賭けた証文と両親が出した二枚の五円札とを取り上げて、ふところの中へ押し込んだ。

     五十七

 瘤おやじの後姿が階段の下に見えなくなると、吾輩の両親は、やはり無言のまま申し合わせたように吾輩の顔を振りかえったが、そのおびえ切った顔と言ったらなかった。瘤おやじが今の賭博の仕返しのために、出刃庖丁でも取りに行ったかのように、外の嵐の音を聞きながら、互いに白い眼を見交していたが、そのうちに瘤おやじの足音が、又も、ミシリミシリと階段を上って来て、蚊帳の中にニュッと顔を突込むと、いつの間にか又、もとのニコニコ顔に返っていたのでホッと安心したらしかった。
 実際コブ親爺はチョットの間にスッカリ機嫌を回復していた。顔色も何もかも最初の通りにテカテカとした、ノンキそうな、愛嬌タップリの態度に返って、眼を糸のように細くしながら座布団の上の札を手早く片付けると、そのまん中の凹みの上にコロリと二つの骰子を投げ出した。
「サア。嬢ちゃん。今度は二人切りじゃ。さし向いで運定めをしよう。あんたは今の証文を賭けなされ。わたくしはここに持って来た十円札を賭けますよって……」
 吾輩はそう言う瘤おやじの計略を、すぐに見透かす事が出来た。……このオヤジ、花札では到底敵わんと見て取ったものだから骰子で凹まそうと思っているな……と直ぐに感付いてしまったが、しかもその二人切りの真剣勝負こそこっちの本懐とする処だったので、吾輩は大喜びで首肯うなずいた。
「……アイ……骰子でも何でもエエ。トッサマに勝つくらい何でもあらへん」
「アッハハハ。又その口癖つれを言わっしゃるか。ばってんが骰子は花札と違いまっするでな……」
 ……インチキが出来まっせん……と言う積りで、ハッと気付いたらしく、慌てて口を噤んだので吾輩はイヨイヨ可笑しくなった。
「サイヤ。そやけどドウして勝ち負けをめるのんかいな」
「三番勝負にしまっしょう。一度ずつ振り合うて、三度のうち二ン度勝った方が勝ちにしまっしょう」
「そんなら黒いポツンポツンの多い方が勝ちかいな」
「さようさよう。骰子が一番正直な運だめしじゃ。サテ振って見なされ」
「チョット待ってや。わてえ振って見るけに……」
「さあさあ、何ぼでも試して見なされ」
 吾輩は最前畳の上では練習したが、こんな風に柔かいスベスベした、平らな座布団の上では転がり工合が変って来るに違いないと思ったから、よく手の中で振りもうて見い見い、モウ一度二つの骰子の重さのかたより工合をたしかめた。それから手加減を見い見い最初に一、二と振ってみた。それから三、四と振ってみた。そうして最後には五、六と振ってみて、イヨイヨ思い通りに振れることがわかると、これなら大丈夫と一まず安心をした。
 こうした吾輩の腕だめしは、子供らしいとは言うものの随分思い切った露骨なものであった。誰でも一二三四五六と順序を逐うて出て来る骰子目を見たら、決して偶然でない事が直ぐに感付かれる筈であったが、幸か不幸か瘤おやじは、骰子ならば天下無敵と自信していたらしく、吾輩の手付きを見向きもしないで、大風のためにメキメキと鳴り出す家の中を見まわしていたので、全く気付かないらしかった。そうして吾輩が、念入りに掌を嘗めまわして、着物の膝で拭い上げるのを見ると、ニッコリとして坐り直した。
「サテ来なされ。その証文出しなされ」
「これケエ」
「さようさよう。それじゃそれじゃ。わたしもここに十円出す。一緒に座布団の下に入れときまっしょう。サア。アンタから振んなされ」
「トッサマ先に振んなされ」
「まあええ。あんた子供じゃから……」
「そんならジャンケンにしよう」
「それならそれでもええ。そらジャンケンポイ……」
「ソラ……ワレエが勝った。トッサマが先や……」
「アッハハ。仕様がないな。それならば行きまっするぞ」
 瘤おやじは座布団の平面を平手で撫でて、一層平らかに広々とした。

     五十八

 座布団の平面をツルリと撫でまわした瘤おやじは……これが、お前の一生涯の運命のわかれ目になる真剣勝負だぞ……とモウ一度念を押すかのように、吾輩の顔を見込んでニヤリと笑った。
 だから吾輩も……芸者になってもええ……という風に、ニッコリと笑い返して遣った。
 すると急に真面目な顔になった瘤おやじは、大きな掌を合わせた中に二ツの骰子を入れて、ゴチャゴチャと振りまわすと、両手の腹の間から一粒ずつ、ポロリポロリと揉み落すような振り方をしたが、その掌の感触の鋭敏さには、さすがの吾輩もシンカラ感心させられた。その大きな掌のぬくもりを受けた、象牙細工のインチキ骰子は、さながらに親爺の生命いのちの一部分でも貰ったかのように、座布団の平面に触れると同時に軽い回転を起して、二、三度位置を換えたかと思うと左右に走りわかれながらチョコナンと坐った。
「アッ……四と二が出た」
「死人がシロモク六文銭という……ええとこじゃ」
 と親爺は例によって洒落文句を言い言い、鼻高々と腕を組んだ。
「ちょうどマン中が出たがドンナモンじゃえ」
「そんならワテエもええ処振ろう」
 と言うなり吾輩は引っ掴んで投げ出した。その骰子さいの目の一つがすぐに三を上にして居据わった横に、いささか手許の狂った残りの一つがクルクルと回転している上から、両親と瘤おやじの額がブッ付かり合うほどオッ冠さって来た。
「ワテエも六ツや。三と三やから……」
「ウーム。これはえらい。サザナミ和歌の浦と御座ったか。それなら今度は……ソレ……三と四じゃ。死産七文土器かわらけとはどうじゃい」
「そんならワテエも……ホーレ……五と二の七つじゃ。これは何と言うのけえ」
具雑煮ぐぞうに、七草汁……ウーム……」
 瘤おやじは又しても吾輩の腕前に驚かされたらしく、吾輩の顔を凝視しいしい唸り出した。そうして見る見るうちに、最前の兇悪な青ざめた顔に帰って行ったが、それはさながらに吾輩を喰ってしまいそうな恰好に見えた。
 同じように最前から息を凝らして見物していた両親も、ちょうど親爺が振り出した数だけ振り出されて行く骰子の目を見ると、奇蹟のように感じたらしく、薄気味の悪そうな四ツの眼を吾輩に移しながら、殆んど同時に長い、ふるえた溜息をついた。まるで吾輩が見世物の片輪者か怪獣か何かに見えるらしい態度ようすなので、吾輩はクスグラれるような可笑しさを感じながらアトを催促した。
「サア。トッサマ。アトを振ってや」
「ウーム」
 と瘤おやじは額から流れる生汗を拭き拭き唸ったが、そのソボソボした眼を一つこすると、いつの間にか座布団の上で六六の目に変っているさいの目を指した。
「今振ったトコじゃがな。畳六、地獄の底という目じゃ。サア。アンタも振って見なされ」
 と白い眼を据えて吾輩を睨んだ。
 吾輩は瘤おやじの狡猾ずるいのに呆れてしまった。この骰子の目の重量おもみの偏り加減では、一と六の目が一番出にくいのを親爺はチャント知っているのだ。だからひとが見ていない隙に、指の先でチョット突ッついて、振ったと言って胡麻化しているが、実はオヤジの振り方では殆んど絶対に困難とも言うべき畳六の目を出して、最高点で押し付けようと巧らんでいるのだ。
 これがわかると吾輩は子供ながら、煮えくり返るほど癪にさわって来た。六六だろうが八八だろうが骰子の目に刻んである限り手加減一つで出ない事はあるまい。オキアガリ小法師こぼしの赤い達磨さんだってマカリ間違えば逆立ちするのを見たことがある。だから今度だけは六六にしてアイコで片付けてこの次に本当に振らして負かして遣ろう。そうしてその後で、最初からのインチキ手段を残らずアバキ立ててくれよう……どうするか見ろ……と思うと味噌ッ歯で唇を噛みしめながら鷲掴わしづかみに骰子を取り上げた。

     五十九

「お前、畳六の目をヨウ振るケエ」
 と女親が額から生汗をしたたらしながら片目をショボショボさして吾輩の顔をのぞき込んだ。その言い方は吾輩の手腕を半分ぐらい信じている言葉付きであったが、しかしその態度は半分以上諦めている恰好であった。しかし吾輩は平気の平左で答えた。
「ワテエ知らんがな。運やから……」
「運やからて……運やからて……」
 と女親は唾液つばを呑み呑み今にも泣き出しそうな顔になった。男親も何に感激したのか知らないが眼に涙を一パイたたえて吾輩の顔をのぞき込んだ。その珍妙な顔を見ると吾輩は又、フキ出したいくらい可笑しくなって来た。
「……そやけどなあ。六と六より上はないよって、ワテエ六と六振ろうと思うとるがな」
「六と六……ジョウ六の上なら……」
 と女親は殆んどふるえ出さんばかりにして瘤おやじをかえりみた。
「デコ一じゃ」
 と瘤おやじは両膝を掴んだまま投げ出すようにプッスリと言った。そうして後で失敗しまったと言う恰好で唇を噛んだが、最早追っ付かなかった。
「デコ一て何や」
「一と一や」
「そんなら訳ない……。ソラ一や……こちらも一や……ソーラ……」
 吾輩は座布団のまん中を指さしながらケラケラと笑った。
 ところがその笑った一瞬間であった。
 その吾輩が指さした左の手を、大きな毛ムクジャラの右手でムズと掴んだ瘤おやじは、グット自分の方に引き寄せたので、ハズミを喰った吾輩は、右手に座布団の下の十円札と証文を掴んだまま引っくり返りそうになった。同時にシッカリと掴まれた左手が捻じれ返ったので、証文と十円札を懐に仕舞う間もなく、悲鳴をあげてしまった。
「痛アイッ」
「何するのや……」
 と女親が慌てて立ちかかったまま片膝を立てた。同時に男親も中腰になって、引きずり寄せられて行く吾輩の片足を押えたので、吾輩の腕がイヨイヨねじれかかったお蔭で、喰い付こうにも引っ掻こうにも手の出しようがなくなった。
「何するのや……この児を……どうするのけえ……」
 と今にも掴みかかりそうな恰好をした女親は、そのまま瘤おやじを睨み付けて赤くなり又青くなった。これに反して吾輩の足を掴んだ男親は、やはりそのままガタガタ震え出している事が、吾輩の足にハッキリと感じられた。
 しかしそうなると、イヨイヨ落ち着き払った瘤おやじは吾輩の腕を掴んだ指に一層強く力を入れた。その顔を下から見上げると、依然として血の気のない白茶気た顔をして、額に青すじをモリモリとあらわしていたが、それでも声だけは大きく高らかに笑い出した。
「アッハッハッハッハッ。何をしようとこちらの勝手じゃ。文句言うなら言うて見やれ」
「……エエッ……文句言うなテテ……この児は勝っとるやないか」
「アッハハ。勝ち負けも糞もあったものかい。コラ……よう聞けよ……貴様たち夫婦は、今、警察のお尋ねものじゃろうが。利いた風な事をかし腐るとこらえんぞ。アッハッハッハッハッハッ」
 この瘤おやじの一撃には、さすがの勝気な女親も参ったらしい。中腰になったままワナワナとふるえ出して来た。それにつれて男親は吾輩の足を放して、ジリジリと風呂敷包みの方に後退りし始めた。
 瘤おやじはそうした恰好の二人を笑殺するかのように、モウ一度高笑いをした。
「アッハッハッハッハッ。どんなもんじゃい。文句は言わん方が良かろうがな。折角コッチが穏やかに一晩泊めて遣って、明日はイクラか小遣いを持たせて、安心の行く親分の処へ送り届けて遣ろうと思うとったに、案外な餓鬼サレどもじゃな貴様わい達は……。カンのええ子供にインチキを仕込んで道中をするイカサマの非人とは知らなんだ。知らなんだ……」

     六十

「……しかも、この瘤様の縄張りの中に失せおって、利いた風な手悪戯てちんごうをサラシおったからには、片手片足コキ折ってタタキ放すが規則じゃが、今度ばっかりは堪えて遣る……その代りにこの児とその風呂敷包みをば文句なしに置いて行け……」
「……………」
 こうした瘤おやじの胴間声のタンカは、今でもハッキリ印象に残っている。口真似をすると如何にも手ぬるいようであるが、その間の抜けた文句の切れ目切れ目に聞こえる、物すごい嵐の音と共に、何とも言えない重みを含んだ、場面にふさわしい名啖呵めいたんかとして、子供の吾輩の耳に響いた。
 しかし吾輩は、あお向けに引っくり返されたまま押え付けられながらも……そうして押え付けた奴の名タンカに敬服しながらも、何とかして逃げ出して遣ろうと、一心に隙を狙っていた。片手で半身を支えながら、ジリジリとスタートをするような恰好に姿勢を変えているうちに、女親と男親は意気地なくも畳に手を突いて、交り番こに米きバッタを始めていた。
 もっともこれは無理もない話であった。吾輩の両親が束になって掛かって行ったって、腕力と言い度胸と言い、この瘤おやじに敵う筈がなかった。況んや相手がコンナ方面で相当の場数を踏んで来たらしい剛の者であるに於ておやであった。
「……すまん事致しました」
「……えらい事しまして……堪忍しとくんなされ……」
「文句があるなら言え。……ないならないで今出て行け。渡すもの渡いて……」
「……ヘッ……」
「……エヘッ……」
 と両親はいよいよ平ベッタクひれ伏してしまったが、あんまり瘤おやじがかさにかかって来たので返事が出来ないらしく、ただミジメにブルブルワナワナと震え出すばかりであった。
 この様子を見ると瘤おやじはイヨイヨ徹底的に両親をタタキ付けたと思ったらしい。そうしてイクラか安心したらしく、ホンの心持ち手を緩めて来たので、吾輩は占めたとばかり、とりあえず戦闘準備に取りかかった。まず右手に掴んだままの証文と十円札を、ソーッと懐中ふところにねじ込んでから、次の作戦計画をめぐらしつつ、なおも機会を窺っていると、その機会は意外にも直ぐに来た。察するところ瘤おやじは吾輩をインチキと踊り以外には何の能力もない女の児と侮って、スッカリ油断していたらしい。両親がヘタッタのを見ると、モウ大丈夫と思ったかして、片手で花札とサイコロを掻き集めて内ぶところに無造作に仕舞い込んだ。それから今度は座布団の下に手を突込んで証文とお金を探しまわったが、これは最早トックの昔に吾輩が、電光石火の早業をもって引っこ抜いてしまったアトだから、いくら探したって在りようがない。しかしそんな事とは知らない瘤おやじは、何より大事な証文がなくなっているので少々面喰らったらしく、ウッカリ吾輩の手を離して、両手で座布団を持ち上げて覗いてみた。
 吾輩はこの機会を逃がさなかった。電光のように起き上って、両親の背後うしろに在る風呂敷包みを引っ掴むが早いか、アッと言う間もなくランプと反対側の蚊帳の外に飛出して大きな声で叫んだ。
「ととさん。かかさん。早よう出て来んか」
「……………」
「そないなインチキのおじい、怖いことあらへん。何も謝罪ことわり言う事あらへん。お爺の方が、よっぽど悪人わるもんやないか」
「……………」
「ワテエ。福岡の髯巡査さんトコへ行くけんで安心してや。そのインチキお爺の悪い事皆言うたるけんで怖いことチョットもあらへん……」

     六十一

 コンナ調子に蚊帳の外で、吾輩は大威張りに威張りながら、思う存分に毒舌あくたいきはじめると、瘤おやじは果せる哉、こっちの計略に引っかかり過ぎるくらい引っかかって来た。
 最初、蚊帳の中に取り残された両親と瘤おやじは、吾輩の行動があんまり神速すばしこかったので、呆気に取られたまま見送っていたが、続いて瘤おやじを嘲弄し始めた吾輩の言い草が又、極端に傍若無人だったので、一々肝を冷やしたらしく、三人が三人とも首を縮めて息を殺していたようであった。……と思うと間もなく瘤おやじが、弾き上げられたように大きな身体を四ツン這いにした。そうして吾輩に掴みかかるべく眼の前の蚊帳の内側に飛んで来たのであったが、あの時遅くこの時早く、吾輩はイキナリ蚊帳の隅に飛び付いて、釣りを引っ切ってしまったので、瘤おやじは急に出られなくなって、手ごたえのない蚊帳天井を掴みながらモガモガし始めた。おまけに其の足か帯際かに両親が獅噛み付いたらしく、忽ちドタンドタンと組み打ちになった。
 しかし組み付いたのは二人とは言え、高が女と、女以下の腕力しかないヘナヘナ男だから、大した組打ちになる筈はなかった。何の苦もなく左右へ突き放されてしまったらしく、階段の下へ降りて行こうとする吾輩を、瘤おやじは走り寄って反対の方へ追い詰めながら蚊帳越しに大手を拡げてとらまえようとした。
 そこで吾輩は又、一隅の釣り紐を引き落す。又一方から出ようとする。又釣り紐を引き千切る。とうとう四隅とも引き落した蚊帳の中で、三人の男女のヤッサモッサが始まる事になったが、その中にランプの前に畳まった蚊帳の天井から、まん丸い瘤おやじのアタマが、青い蚊帳に包まれたままニューッと突き出て来た。そうして蚊帳越しに見当を付けながら、倒れかかるようにして吾輩を捉えようとしたが、ツイ眼の前にランプが在るのに気が付いたらしく、よろめきながら立ち止まって眼の球ばかりをギョロギョロ回転さした。その恰好があんまり可笑しかったので吾輩は逃げる事を忘れてしまって、ついゲラゲラと笑い出してしまった。
「……おじい……ここまでヨウ来んかい」
「……チ……畜生……ウムムッ……」
 瘤おやじは青鬼みたように歯をバリバリと噛んだ。そうして蚊帳の中を泳ぐようにして盲目滅法界に飛びかかって来ようとしたが、その両足に両親が武者振り付いているのでドタリと前にツンのめって、お尻を高くして四ツン這いになってしまった。
 吾輩はイヨイヨ笑い出した。
「ハハハ。面白いなオジイ。まっと面白いインチキ見せたろか……コレ……」
 と言うなり吾輩は、風呂敷包みを下に置いて、両手で前をまくって見せた。
「……コレ見い……おじい。ワテエ男さがなハハハ……こんでも芸者になるならばア。三味線弾いたり踊ったりイ。チンチンドンドン、チンドンドン……」
 と踊り出しかけたが途中で止めた。それは瘤おやじがこの時、憤怒の絶頂に達したらしくイキナリ両手で蚊帳の天井を引き裂いて首から上だけニュッと出したからであった……が……その顔の恐ろしかったこと……さすがの吾輩も大慌てに慌てて風呂敷包みを抱えるなり横っ飛びに逃げ出したほどであった。
 ところで梯子段を転がるように駈け降りると下は真暗である。しかし夕方見当を付けて置いたから、手探りで上り框の処へ来て、下駄を探しているうちに、二階でドタンバタンという組打ちの音と、ガチャンガチャンという物のこわれるような音とを殆んど同時に聞いた。すると又、それにつれて真暗になってしまった二階から、雷の落ちるようなスバラシイ音を立てて、何かしら巨大おおきなものが畳の上までズシーンと落ちて来たので、吾輩はビックリしてしまった。そのまま下駄も穿かないで、表の戸口にぶつかって、やはり手探りで心張棒と掛け金を引き外した。そのまま小さな潜り戸を引きあげて表に飛び出すと、忽ち風に吹き倒されそうになって、戸口を閉める間もなくヨロヨロとよろめいた。

     六十二

 この時の大風は明治十何年とか以来の猛烈なものだったそうで、豪雨を含んでいたために遠賀川や筑後川の下流には大氾濫が出来るし、倒壊流失家屋が何千、死人が何十とか何百とか言う騒ぎだったそうであるが、その大風の中を、大きな風呂敷包みに抱き付きながら、一丁ばかり村の方へ走り出ると、きょうの昼間、両親と一緒に帆かけ船から上陸した処に出る。そこの河岸かしに一艘の小さな川船がつないであったのを、昼間上陸しがけにチャンと見て置いたから、それに乗って河のまん中に出れば、自然と川下へ流れて行って、きょう汽車を降りた、ウドン屋の在る町(折尾)へ来るに違いない。だからそこの石の段々を昇って汽車に乗ればイヤでも福岡へ着くにきまっている。そこで案内知った警察へ乗り込んで行って、髯巡査にスッカリ事情を話して、吾輩の身売り証文を見せたらば、瘤おやじの悪い事がわかるだろう。そうして両親を助ける事が出来るだろう……と言う……如何にも子供らしい盲滅法な吾輩の計画であった。
 ところがサテ大風の中をうようにして川縁に辿り着いて、薄い月あかりに透かしてみると、川岸には舟らしい物の影も見当らない。それどころか水嵩がずっと増して、堤防の半分以上の処をドブドブと渦巻きながら流れている。川の中心に近い処はゴーゴーという音を立てて眼のまわるようなスピードだ。おまけに時々車軸を流すように降りかかる雨は、まるで小石のようにピリピリと頬や手足を乱れ打って、ウッカリすると川の中へタタき込まれそうな猛烈さである。
 吾輩はトウトウ立っていられなくなって、風呂敷包みを抱いたまま、路ばたの草の上にヒレ伏してしまった。そうして声を限りに、
「……トトさん、トトさん、トトさん、トトさん……カカさん、カカさん、カカさん、カカさん……」
 と叫んだが、その声はまだ自分の耳にも入らないうちに、何処かへ吹き散らされてしまった。
 それでも吾輩は又叫んだ。その声は又、風に吹き散らされた。それでも構わずに吾輩は又叫んだ。今度は頭をすこしもたげて……けれども何の役にも立たない処か、風呂敷包みごと猛烈な風に吹き起されて、そのまま空中に持って行かれそうな気がするので、なおもシッカリと草の根に獅噛み付きながら、くさむらの中に顔を突込んだ。そうして襟元からチクチクと刺すようにタタキ込む雨の痛さをジット我慢しいしい顔を横向けてモウ一度叫んだ。
 するとその返事は依然として何処からも聞こえなかったが、その代りに、ゴーゴーと言う風の音の下をビシャビシャと言う人間の足音が近付いて来た。しかもその足音が、吾輩のすぐ傍まで迫って来ると、不意に左右から腋の下に手を入れて抱え起されたので、ビックリして顔を上げてみると、それは意外にも吾輩の両親であった。のみならず二人とも三味線と鼓とをチャント包んで荷造りをしている上に、頬冠りをして尻を端折っている様子である。それを見ると吾輩は不思議に思って、
「瘤のオジイは……」
 と問うたが、両親は何とも答えなかった。或は聞こえなかったのかも知れないが、そのままダンマリで吾輩を引き立てると、風呂敷包みを吾輩の首ッ玉に引っかけて、グングンと引きずって行った。
 ……それから先の恐ろしかった事……それは吾輩の記憶にあんまり強く印象され過ぎて、却ってハッキリした説明が出来かねる位であった。
 そうした途方もない大風の中を、親子三人が手を引き合いながら横に並んで行くのは、まるで洪水をき止めながら押し上げて行こうとするようなもので、絶対不可能な仕事であることが間もなくわかった。しかも、こんなに無理をしてまでも風上の方に逃げる必要があるか知らん。それよりも風下の方に逃げた方がよっぽど楽で、歩きよかったに違いないと、その時に吾輩はチョット気が付かないでもなかったが、そんな事を尋ねる隙もなく雨と風が吹きつけて来るので眼も口もけられない。ウッカリすると三人とも手を繋ぎ合ったまま宙に浮いて行きそうな気持ちになるのであった。

     六十三

 三人はいつの間にか女親を先に立てて、その蔭に隠れるように男親が行く。その又蔭に吾輩がいて行くという順序になったが、それでも風に吹きまくられて思うようにあるけない。おまけに大きな包みを背負わされている吾輩は何度も何度も転んでは起き、起きては転びするのを、両親は無言のまま引き起しては歩かせ、歩かせては押し遣りする。
 前からは雨と風がタタキ付ける。堤防の両側に並んだはぜか何かの樹の枝がポンポンと折れて虚空に飛ぶ。又は足もとにバサバサとタタキ付ける。よく気を付けて見ると、足もとの泥濘ぬかるみの中は木の葉で一パイである。頭の上には時々月が出て四囲まわりが明るくなり又暗くなる。そのうちにそこいら中が突然にパアーッと明るくなったので、ビックリして振り返ると又驚いた。
 ツイ今しがた出て来たばかりの村外れの木賃宿が火事を起している。屋根の上に出来た大穴から吹き上ぐる大火焔が、すこし離れて並ぶ村の家々を朱の色に照し出しつつ、地を這う滝の水のように火の粉を浴びせかけている。最前吾輩が寝しなに閉め切った南側の雨戸は二枚とも倒れたらしく、二階一パイに満ち満ちた火の光が、風のために白熱されて、四角い太陽を見るように眩しく照り輝やきつつ、吾々の行く手に続く櫨の並木を照し出しているのだ。
 その大光明を振り返りながら吾輩は思わず風の中に立ち止まった。……瘤おやじはどうしたろう……と子供心にモウ一度心配し始めたが、反対に吾輩の両親たちはこの光を見ると急に慌て出したようであった。やはり無言のままイキナリ吾輩の風呂敷包みを奪い取った男親が、真っ先になって逃げ出す。あとから三味線の包みを逆さに抱えた女親が、大きな図体をよろめかしながら追っかける。そのあとから身軽になった吾輩が一所懸命の思いで踉いて行くのであったが、何を言うにも子供の足と大人の足だからイクラ走っても走っても後れがちになるのは止むを得ない。そのうちに二、三度風のために吹き転がされて泥まみれになった吾輩は、トウトウ遣り切れなくなって、
「ととサアーン……かかサアーン……」
 と叫んだ。
 けれどもその声は両親の耳に入らなかったのであろう。右に左によろめきながらグングンと急ぎ足になって、赤い光に照らされながら見る見る小さく遠ざかって行くのであった。
 それを見ると吾輩はイヨイヨ絶体絶命の気持ちになった。ビッショリと雨に濡れて重たくなった着物の裾が、足首にまつわって鞭でタタクようにヒリヒリするのを、両手で引き上げ引き上げ走った。跣足はだしの足の裏がヌカルミの底にある砂利に刺されて針の山のように痛いのも我慢しいしい走った。けれどもそのうちに息が切れて苦しくてたまらなくなるのをどうする事も出来なかった。今にも泣き出したい位情なくなったが、泣いたらイヨイヨ後れてしまって、この嵐の中に取り残されることがわかり切っているので、けつまろびつ走りに走った。持って生まれた性分とは言いながら、この時の吾輩の剛情さばかりは今でも吾ながら感心している位で、思い出しても身の毛の竦立よだつ体験であった。
 そのうちに大きな橋の袂に来たが、両親はその橋を渡らずに、依然として真直に堤の上を走って行った。吾輩もむろん後を慕って行ったが、間もなく道幅が次第に狭くなって、草の中をウネウネと走る小道になった。しかし火事の光はイヨイヨ強くなるばかりで、川向うに並ぶ町らしい家々をズラリと照らし出している。今思うとそれは直方の町らしかったが……その町の上の雲の破れから出て来る満月の光の青かったこと……余りの物すごさに思わず立ち止まって、喘ぎ喘ぎ振り返って見ると、木賃宿の火はモウ木屋の瀬の本村に移ったらしく、空が一面に真赤になっている。
 吾輩は顔を流れる雨のしずくを嘗めてホット一息した。けれどもその次の瞬間に顔にまつわるおかっぱさんの髪の毛を撫でのけながら振り返ってみたが、吾輩の両親はどての上の遠くに豆のように小さくなっているのであった。
 それを見ると吾輩は何かしら胸がドキンドキンとしたので思わず泣き声をあげてしまった。

     六十四

 それから何時間経ったか、何日過ぎたかサッパリわからないが、気が付いた時にはどこかの立派なお座敷のまん中に、柔らかいフワフワする蒲団に包まれて寝ていた。コンナ上等の夜具の中に寝た事のない吾輩は、まるで空中に浮いているような気がしたが、それはかなり高い熱に浮かされていたせいばかりではなかったように思う。それと一緒にどこからかクックッと笑う若い女の声がきこえて来たが、これも何だか夢を見るような気持ちで聞き流しながら、又もウトウトしかけていた。
 すると間もなく枕元でパチャンパチャンと金盥かなだらいに水の跳ねる音がして、冷たい手拭が額の上に乗っかったので、急に気持ちがハッキリしてキョロキョロとそこいらを見まわして見ると、直ぐ枕元の左っ側に、白い髯を長々と生やした、仙人みたいに品のいい老人が、濡れた手を揉み乾かしながらニコニコと眼を細くして、吾輩を見下ろしていた。若い女の声はそのお爺さんの背後に在る襖の向うから聞こえて来るのであった。
 その老人は血色のいいスラリとした身体からだに、灰色の着物を着て、黒い角帯を締めていたように思うが、吾輩が眼醒ましたのを見ると、膝まで垂れた白い髯を長々としごいて一層眼を細くした。そうして如何にも親切そうな柔和な声を出した。
「……どうじゃな気分は……」
「キブンて何や……」
 と吾輩はすぐに反問した。この老人に、早くも言い知れぬなつかしさを感じながら……。
「ハハハハ……」
 と老人は如何にも朗かに笑い出した。それと同時に襖の向うの若い女の笑い声が一層高くなった。如何にも我慢し切れないと言う風に、
「ホホホホホホ。ハハハホホホホホ……」
 と聞こえたが、そうした笑い声の中に、何とも言えないなごやかな、ノンビリした家の中の様子が感じられた。
「ハハハハハ。わしの言う事がわからんのか。気持ちはええかと尋ねているのじゃ」
「ワテエの気持ちけえ」
「そうじゃそうじゃ、眼がまわりはせんかな」
「ワテエの眼の玉けえ。まわそうと思えばまわるがな」
「ハッハッハッハッ。いよいよ面白い児じゃのウ。ハハハ」
「何でそないに笑うのけえ」
「ハハハハハ……いやのう。お前が寝言に面白い歌を唄うたから、家の者が皆笑うているのじゃ」
「……………」
 吾輩は思ず赤面した。今まで寝言を言って笑われたことは一度もない上に、他人の寝言なら毎晩木賃宿で飽く程聞かされて、その醜態さ加減を知り過ぎる位知っていたからである。しかしそれにしても一体ドンナ歌を唄ったのであろう。万一アネサンマチマチの替え歌でも唄ったのだったらどうしようと思うと、殆んど泣き出したいくらい情ない気持ちになって、モウ一度そこいらをキョロキョロと見まわした。
「ハッハッハッハッ。イヤ。心配せんでもええ。何を唄うても構わんがの……わしは医者じゃからノウ」
「お医者様けえ。トッサマは……」
 と吾輩は小さな溜息をしいしい問うた。
「ウム。そうじゃ。この直方に住んでいる医者じゃ。伜は東京に上って学問しよるから、今は娘と二人切りじゃ。何も心配することは要らんぞ」
「そないなこと心配しやせんがな……」
「ウム。そうじゃそうじゃ。そうしてゆっくり養生せえ。お前は今病気じゃからの……」
「わてえ何ともあらへんがな。起きてもええがな」
 と言いも終らぬうちに吾輩はムックリと起き上りかけた。それを白髪の老人は慌てて両手で押え付けたが、その拍子に吾輩は座敷の天井、柱も、床の間の掛物も何もかもがグルグルと回転し始めたような気持ちがしたので、両手でシッカリと眼を押えながら、モトの処に頭を押し付けた。
「ソーラ見い。眼がまわるじゃろ。静かにしとらんといかん」
「眼はまわりはへんがな。お座敷がまわるのじゃがな」
 と吾輩は気持ちの悪いのを我慢して言った。老人と少女の笑い声が一層高まった。
「アッハハハハ……成る程負けぬ気な児じゃな。県知事さんを睨み返すだけの器量は持っとるわい」
「エッ。県知事さんがいるのけえ。あの禿茶瓶がここに来とるのけや……」
「アハハハ。口善悪くちさがない児じゃなア。ハハハ……」
 と老人は反り返って笑いながら又も長々と白い髯をしごいた。
「……県知事閣下はここにはお出でにならぬ。しかし荒巻という巡査部長が知事閣下のお使いで、わざわざここへ見えてノウ」
「……アッ……髯巡査さんが来たのけえ」
「そうじゃ。最前からお前の枕元に見えてのう。お前の事をくれぐれも宜しく頼むとお話があったのじゃ。お前は眠っていたから知るまいが……」
 吾輩は眼がまわるのも忘れてガバと寝床の上に飛び起きた。
「……髯巡査と会わしてや。大切な用があるのや……今すぐに会わしてや……」

     六十五

「……何……髯巡査に会わせてくれと言うのか……」
 と老人は、白い髯を掴んだまま、眼を光らした。そうして吾輩を寝かし付ける事も額から落ちた濡れ手拭を拾うのも気が付かずに、吾輩の顔を見詰めていたのだからよっぽど驚いたのであろう。それと同時に次の間の笑い声もピッタリと止んだようであった。
 しかし吾輩は、そんな事を気にも止めないまま無造作にうなずいた。
「サイヤ。髯巡査に会いたいのや。あの瘤おやじの悪い事申告とどけて、ととさんとかかさんをば助けんならんよってん……」
「フウ――ムムム……」
 老人はいよいよ驚いたらしく眼をみはった。
「フムムム……あの瘤おやじの仙右衛門は、そのように悪い奴じゃったのかのう」
「サイヤ、インチキ賭博ばくち打って父さんと母さんを負かしよったんや。そうして一文も遣らんとワテエを買うたように証文書かしよったんや……それでワテエは寝とったけんど起きて来て瘤おやじのインチキをワテエのインチキで負かして遣ったんや」
 老人は驚きの余り眼をショボショボさした。
「……お前が……あのカラクリ賭博に勝ったと言うのか……あの名高い仙右衛門おやじに……」
「さいや。何でもあらへん」
「……まあ……」
 という軽い嘆息の声が襖の向うから洩れた。
 その声を聞くと吾輩は急に意気昂然となった。
「……おじい……おじい様。あの瘤おやじはインチキ下手なんやで……。そやから花札でもサイコロでも皆ワテエに負けよったんや。……ワテエが一番で証文取り返して遣ったんや。そうしたらな……あの瘤おやじがえらいおこり出しよってな……蚊帳の天井引き裂いて追っかけて来よったから、ワテエ蚊帳の紐を引落いて逃げたんや。そうした後から父さんも母さんも来て、一緒に逃げよったけんど、ワテエ子供やから途中で後れたんや。……そやからワテエ、その証文と、勝った時の金あんじょ持って来たんや。……コレ……ここに在るがな」
 と言い言い吾輩は懐中ふところを掻い探ったが、その時にやっと気が付いた。吾輩はいつの間にか白ネルの小さな着物に着かえさせられていて、大切な振袖はどこへ行ったか解らない。懐中は無論カラッポで薬臭いような汗のにおいがプンプン出るばかりである。
 吾輩は又もそこいらをキョロキョロと見まわした。
「オジイ様。ここに入れといたのはどこへ遣ったのけえ」
 老人は急に返事も出来ない位、何かに驚いているらしかった。ただマジリマジリと吾輩の顔を見ているばかりであったが、やがて思い出したように切れ切れに言った。
「……それは……荒巻巡査部長が……持って行ったが……」
「……エ……荒巻巡査がけえ……髯さんがあの証文見よったのけえ。そんなら父さんと母さんが悪者でないことモウ解ったんけえ」
 老人は又も思い出したように渋々とうなずいたが、それを見ると吾輩は躍り上らんばかりに喜んだ。
「……おお嬉し……そんならワテエ……もう髯さんに会わいでもええ。おお嬉し嬉し……そやけど……そやけど……」
 と吾輩は急に思い出しながら、老人の顔と、室の中の様子を見比べた。
「……そやけど……そやけんど……ととさんと母さんは今何処にいるのけえ」
 けれども老人は返事をしなかった。
 県知事が吾輩にお辞儀をした時の通りに、両手を膝の上にチャント置いたまま、眼を半眼に開いて吾輩と向い合っていたが、その心持ち血の気をなくした顔色を見ていると、ちょうど彫物の人形か何ぞのように静かで、少々気味が悪かった。

     六十六

 しかし吾輩は何が故に老人が、コンナ改まった態度に変って、謹しみ返っているのか、その気持ちがわからなかった。だから構わずに畳みかけて問うた。
「……おじい……おじい様……。父さんと母さんはどこにいるのケエ」
 こう言って蒲団の上でムキ出しになった膝を撫で撫で乗り出したのであったが、それでも老人は返事をしなかった。その代りに、心持ち伏せた瞼の下から泪をポロポロとこぼし始めたので、吾輩はイヨイヨ妙な気持ちになった。何という可笑しなお爺さんだろう……? それともこっちが何かしら悪い事を言ったのじゃないかしらんと、最前から話し合った言葉を一ツ一ツに思い出そうとしたが、どうしても思い出せなかった。仕方がないからスッカリ手持ち無沙汰になったまま、老人の泣き顔を見まいとして俯向いていると、そのうちに老人は突然にズイズイと吾輩の前にニジリ寄って来て皺だらけの両手でピタリと吾輩の肩を押えたのでビックリした。慌てて逃げ退こうとしたが、そのソッと肩に掛けられた手の中に何とも言えない親切な力が籠もっているようで、逃げようにも逃げられない気持ちになってしまった。
 老人はそのまま吾輩の顔をジッと見た。そうしてその眼から溢れ出て来る泪を拭おうともしないまま、唇をワナワナと震わした。
「コレ……お前は、あの両親に会いたいと言うのか」
 吾輩は面喰らった。この老人は前から吾輩の両親と心安いのか知らんと思った。しかし、それにしても恐ろしく念入りに口を利くお爺さんだ……と考え考え指を啣えたまま答えた。
「アイ……早う会いたいのや。ワテエがおらんと母さんが三味線弾いても、ととさんが鼓を叩いても銭くれる人がおらんのや。踊りをおどるワテエがおらんよって……」
 と老人はなおも唇をワナワナと震わしながら、吾輩にお辞儀をするように頭を下げた。それを見ると吾輩はイヨイヨ困ってしまって、弁解いいわけをするように切れ切れに言った。
「……ワテエがおらんと……父さんも……母さんも、おまんまヨウ喰べんよってに……」
「……………」
「……ワテエも……早う踊りたいのや。会わしてや……」
「エッヘヘヘヘ……」
 と老人が突然に妙な声を出した。それと同時に薄い白髪しらがを分けた頭をイヨイヨ低く垂れたので、吾輩はタッタ今泣いていた老人が急に笑い出したのかと思って、下から顔をのぞき込んで見たら、あに計らんやの大違いであった。老人は吾輩の肩に両手を載せたまま感極まったていでシャクリ上げているのであった。
 それを見ると吾輩はもう、身の置き処もないくらい面喰らってしまった。何しろ世の中に、声を出して泣く者は女と子供だけで、コンナ老人が、コンナ奇妙な声を出して泣くだろうとは夢にも想像していなかったのだから、ちょうど生まれて初めて汽車を見たくらいにビックリしたのは当然であろう。しかもその上に驚いた事には、襖の向うでタッタ今まで笑っていた女の人がヒソヒソと声を忍んで泣き出している気はいが、洩れて来たのであった。……大人というものはどうしてコンナ変テコな処で泣き出すのだろう……一体、何が悲しくて泣くのであろう……と思うと、吾輩は呆れを通り越して可笑しくなってしまったくらいであった。
 するとその時に老人は、力を籠めて吾輩の肩をグイと一つゆすぶったので、又ビックリさせられた。そうして叱られるのか知らんと思いながら、頭を下げ加減にしていると、老人は泪に曇った激しい声で、吾輩に喰い付くように問うた。
「……コレ……」
「……アイ……何や……」
「……お前は……あれほど無慈悲な双親ふたおやの事をまだソレほどに思うているのか……」
 吾輩は水ッ洟をススリ上げながら顔をもたげた。
「……ムジヒ……て何や……」

     六十七

 老人は吾輩の質問に答えないでなおも新しい涙を両眼から湧き出さした。あんまり沢山に涙を流しだすので、鼻の頭の方へシタタリ落ちるのを拭おうともしないまま唇を震わした。
「無慈悲にも何も、お話にならん親たちではないか。あの両親は、何処かの非人同士が引っ付き合うたもので、お前は真実の子供ではない。お前を生みの親から引き離してカドワカシて来たものと言うではないか」
「どうしてそないな事知っとるのけえ」
「髯の荒巻巡査が、何もかもこの爺に話したのじゃ。しかもお前の両親は、そのお前のお蔭で永年養われて来た大恩を忘れているのじゃ。お前の親孝行につけ込んで、人間の道を外れた盗人じゃの人殺しじゃのを教えて、その上にけ火までさせているのじゃ。……そればかりではない。今の話でようよう訳がわかったが、お前の両親たちは、自分たちの罪を逃れるために、何もかもお前に投げ付けて行方を晦ましているのじゃ。……何と言う邪慳な親か。親でうてもそのような無慈悲な事が出来るものではない。……然るにお前はその親でなし……人でなしの親を、なおも親と思うて、行く末を案じて遣るとは……遣るとは……世が逆様とはこの事じゃ……この事じゃ……エッヘッヘッヘッヘッ……」
 吾輩は馬鹿馬鹿しくなって来た。親でなしであろうが、人でなしであろうが、永年一緒に暮して来た父さんと母さんが何処へ行ったか解らないとなれば、誰でも心配するにきまっている。極めて自然な、当り前の事でしかないのだ。大人というものはドウしてコンナに下らない事ばかり感心するのであろう。おまけに泣いたり、お辞儀したりしてばかりいて、要領を得ない事おびただしい。この品のいい老人よりもあの仙右衛門おやじの方が悪い奴には違いないが、それでも悪いなりにヨッポド要領を得ている。言う事がハッキリしていて、相手になっても張り合いがある……と子供心に考えた。
 しかし、それにしても未だハッキリしない事が、あんまり沢山あり過ぎる。第一両親が吾輩にナスリ付けて逃げて行ったと言う、その罪の正体がわからない。吾輩の記憶によると、吾輩の両親は何一つ悪い事をしていないように思えるのに、何で警察から睨まれるのか知らん。そればかりか、知事の禿茶瓶と、大友の刺青いれずみ親分と、髯達磨の荒巻巡査部長は仲よしにきまっているのだから、髯部長が吾輩の両親を睨んでいるとなると、知事も大友の親分も髯部長の味方になって、吾々親子に敵対する事にならないとも限らない、福岡で知事の禿茶瓶が威張り腐った時には吾輩が思い切りヤッツケてあやまらせて遣ったが、今から考えるとアレが悪かったかも知れない。是は容易ならぬ事になって来たぞ……と子供心に思案をすると、今度はこちらから老人の方にニジリ寄った。
「……おじい様……」
「……何じゃの……」
「そんなら父さんと母さんは、ホンマニ何処へんだか解らんのけえ」
「ウム。今日で三日になるが、まだ捕まえられんのじゃ」
「……三日……」
「そうじゃ。あの遠賀川の川堤の上にお前がたおれておったのを、消防組の若い者が、ワシの処へ担ぎ込んでからきょうで三日になるじゃ」
「……その間ワテエは眠っとったのケエ」
「そうじゃ。歌ばかり歌うておったのじゃ」
 と言ううちに老人はやっと鼻紙を取り出して涙を拭いた。
「どないな歌うとうとったのけえ」
「一々は記憶おぼえんがの……」
「アネサンマチマチやたら、カッポレやたら、棚の達磨さんやたら……」
「そうじゃそうじゃ。そのような歌じゃ」
 吾輩は自分の顔が赤くなるのがよくわかったくらい気まりが悪かった。

     六十八

「そんなら父さんと母さんは、モウ髯さんから捕まえられん遠いところへ逃げてしもうたんけえ」
「そうじゃそうじゃ。モウ大分県か何処かの管轄違いへ逃げ込んだのじゃろう。それじゃから、お前も安心して寝え寝え、寝とらんと又熱が出るぞ」
 吾輩は又もホッと一息安心をした。そうして老人に押え付けられるまにまにフワフワする夜具の中にモグリ込んだ。
「そんならお爺様……」
 吾輩はモグリ込むと直ぐに横を向いた。タッタ今額に載せて貰った新しい冷たい手拭を片手で押えながら……。
「何じゃな……」
「そんならお爺さま……その父さんと母さんが、ワテエにさせた悪い事言うのは、どないな事や」
「……ウ――ム。それはのう」
 と老人は言い淀んだ。しかし間もなく、如何にも慈悲深い、気高い顔になって、吾輩の額の手拭に手を添えた。
「それはのう。お前に言うて聞かせても仕様のない事かも知れんが……物を盗んだ事と、人を殺した事と、よその家に火をけた事じゃ」
「……阿呆らし……」
 と吾輩は思わず叫んだが、そのまま口をつぐんで老人の顔を穴の開く程見上げた。……ドウして……何処からそんなトンチンカンな、恐ろしい話が出て来たのだろうと疑いながら……。ところが老人は吾輩が叫んだ言葉を聞くと、いかにも吾意を得たりという風に何度も何度もうなずいた。
「そうじゃろうと思うとった。ウンウン、そうじゃろうと思うとった。わしは息も絶え絶えのお前を引き受けた最初から、お前には罪はないと固く信じておったのじゃ。わしはいささか骨相を見るでの」
「コッソーて何や」
「骨相とは人相を見ることじゃ」
「……アレ……お爺様人相見るのけえ」
「フーム。ほかに人相を見る人をお前は知っとるけえ」
「知らないでか。空家の前で提灯とぼいて、四角い木とサーラを机に並べて銭貰うとるあの爺さまやろ」
「アハハハ。よう知っているのウ」
「知らないでか。木賃宿に一緒に泊ったこと何度もある。やっぱりお爺様のように白い髯引っぱっとったがな。この髯はわしの大切な商売道具や。そやけど、わしの人相見は当らんよってに、一つ処に永うおられん言いよったがな」
「アッハッハッハッハッハッ」
 と老人は又高らかに笑い出したが、それに連れて次の間でも又、ヒソヒソと笑い出す声がきこえて来た。よく泣いたり笑い出したりする連中だ。
「アハハハハハ。口の悪い児じゃのう」
「そんでもホンマやがな」
「そうじゃそうじゃ。その通りじゃその通りじゃ。しかしこの爺はのう。空家の前で提灯もとぼさんし、お金も貰わんのじゃが、その代りに、わしの言う事は必ず当る。お前のこれから先の事でもチャント見透いとるからのう。何でもこれから、わしの言う通りにするのじゃぞ。そうすればお前は今の病気が治っても、警察へ呼ばれんで済むのじゃ」
「呼ばれてもええがな。恐いことあらへん。ワテエ。警察の裏で小便して遣った」
「ウムウム。その話も聞いた。髯の巡査部長から詳しゅう聞いたが、しかし、それは罪がのうて呼ばれた時じゃ。悪い事をした疑いを受けて警察に呼ばれると、それはそれは地獄よりも恐ろしい眼に合うのじゃぞ」
「ワテが何じゃら悪い事したて、髯巡査が言いよるのけえ」
「したにも何も大変な嫌疑うたがいがかかっているのじゃ……そればかりではない。お前にはまだまだ世にも恐ろしい災難が、あとからあとから付きまとうて来よるのじゃが、それをこの爺と娘が、タッタ二人で助けて遣ろうと思うて一所懸命になっとるのじゃ。お前はまだ子供じゃから解りにくいかも知れんが、しかし大凡おおよそ道筋みちすじでも解っていると都合がよいと思うから、話して聞かして置こうと思うが、よう聞けよ……ええか……」

     六十九

 これから天沢老人が吾輩に話して聞かせたことは、所々むずかしい漢語が入るので些なからず弱らされたが、それでも大体の意味はよくわかった。その話と、今の吾輩の見聞と想像を綜合して考えてみると、まだ七つにしかならない吾輩が、この遠賀川ぶちで巻き起した事件というのは、実に二重三重の恐ろしい意味で付近を騒がしたのみならず、その前後に行なわれた選挙大干渉以上のセンセーショナルな大事件として全県下の新聞に報道されたものであった。
 ちょうどその時から三日前のこと、直方から見ると遠賀川の川向う、木屋こやの南の村外れに在る一軒の木賃宿から火を発して、木屋の瀬の全村に燃え移り、折柄の烈風に煽られて猛烈この上もない火勢を示した。これを見た直方を初め付近各村の消防組は時を移さず馳け付けたが、何を言うにも立っておられない程の大風の中とて、自由な行動が出来よう筈がない。遂に木屋の瀬全村を烏有に帰し、焼死者、負傷者各若干を出して漸くの事で鎮火したのであった。
 然るに、一方に大風は、鎮火後も引き続いたのみならず、稀有な豪雨をさえ交えて、川筋の堤防が危険に瀕して来たので、警察と消防は全力をつくして警戒に当ったのであったが、力及ばず、各方面に各種の被害が続出したので県当局は総出のありさまで救護に奔走し、県知事筑波子爵も、安永保安課長、荒巻巡査部長以下の一行を従えて直方地方まで巡視して来た。
 ここに於て直方の警察署内は非常な緊張を示し、とりあえず木屋の瀬の出火の原因について極力調査を遂げてみると、火元の木賃宿は南側の柱二、三本を残して殆んど完全に近く灰になっている。その中央の上りかまちと思われる処に、並外れて大きな人骨が、雨と風とに晒し出されて横たわっていたが、その首の周囲まわりには、ランプの釣り手に使われたらしい、両端に鉄の鈎の付いた銅線が巻き付いていたばかりでなく、その一方の端は大黒柱に巻き付けたものと見えて四角に折れ曲っていた。その状況によって推察すると、一旦打ち殺して置いて、あとから息を吹き返しても急に起き上れないようにして、火をけたまま逃げ去ったものと見ることが出来る。極めて浅墓な手口ではあるが、その残忍さに到っては近来出色の事件であった。
 そこで直方署ではイヨイヨ緊張してこの事件に当る事になったので、まずこの死骸を近隣の人々に見て貰ったが、無論誰の骨だか解る筈がなかった。ところがその中に、木屋の瀬の北の村外れに住んでいた、タッタ一軒類焼を免れた火葬場の番人のオンボウ佐六という男が遣って来てその骨を一目見ると、これは瘤おやじ仙右衛門に相違ない。第一この骨は普通人よりズッと大きくして六尺豊かの大男のものであるし、その上に仙右衛門は生前オンボウ佐六に冗談を言ったことがある。……俺が死んだら無料ただで焼いてくれなあ。焼き賃には福岡で入れた金の奥歯を遣るけんな……と大きな口を開いて見せたことがあるが、その時に見覚えのある歯がこの骸骨にも付いているから、イヨイヨ仙右衛門に間違いはないと、警官の前で断言したのであった。
 そこで直方署では早速手をまわして博奕打ちの仲間の噂を探ってみると、元来仙右衛門という男は直方の遊び人仲間でも一番の古顔で、この頃大友親分に対抗して売り出した荒親分、磯政事、磯山政吉という男の大兄哥あにい筋に当る名人なうてであるが、その賭博のインチキ手段が余りに卑劣で巧妙なために、所の人から忌み嫌われて、殆んど仲間外れと同様の冷遇を受ける事になった。そこで仙右衛門は仕方なしに木屋の瀬の村外れの木賃宿を一軒買って自分はその亭主となり、行き来の旅人を相手にして小銭をカスリ始めたもので、この頃はドンナ詐欺いんちき手段を用いていたか知っている者すらない。だから、仙右衛門の死骸が他殺ときまれば、その犯人は必ず仙右衛門のために絞上げられた旅渡りの者に違いない……と言う噂であった。
 然るに一方に直方署では、その大風の最中に、何処かの村の若い者が、河岸にたおれているこの辺には見慣れない女の児を発見した。そうしてその女の児をこの界隈に徳望の高い天沢老先生の処へ持ち込んだと言う噂を聞き込んだので事の序に巡査に当らせてみると、意外にもその女の児というのは実に七、八歳ぐらいの男の児で、しかもその身体からだには、仙右衛門の筆跡に相違ない仙右衛門宛の身売り証文と二十円が雨に濡れたままヘバリ付いていた……という事実が挙がった。

     七十

 この事実を探り出した直方署内は又も一層の緊張を示した。
 その子供の身体にヘバリついていた身売証文と円札こそ、仙右衛門殺しの真相を物語る重大な証拠物件ではないかと睨んだので、直接に吾輩を取り調べて、事実を掴もうとこころみたが、生憎吾輩は雨風に打たれながら過度の激動をしたせいか、天沢老人の処へ引き取られると間もなく高熱を発して歌ばかり歌っているし、天沢先生も当分のうち重態と認めて取調べを遠慮して貰いたいと主張しているので手が付けられない。又吾輩を天沢医院に担ぎ込んだ二、三人の若い者も、唯、川向うの消防組と名乗っただけで、まごまごすると橋が落ちて帰れなくなるからと罵しり合いながら、殆んど死骸を投げ出すようにして風の中を駈け出して行ったので、この上に探索の進めようがない事になった。
 ところがこの事を聞き込んだ知事随行の荒巻巡査部長は大いに驚いた。すぐに……もしや……と感づいたので、早速、直方署長を同伴して天沢先生の処へ来て見ると果せる哉、福岡の警察署が知事の厳命によって懸命に探索しているその当の本人の吾輩が寝てたので非常に喜んだ訳であったが、同時に、その髯巡査の話と、天沢先生が提供した証文と、お金との二つの証拠物件によって、吾輩……もしくは吾輩親子三人の罪状が、殆んど確定してしまったのであった。
 吾輩の両親はその頃まで珍しくなかった山窩の一種で、警察仲間ではカゼクライと名付けている持て余し者の一類ということになった。
 すなわちカゼクライと言うのは大道芸人を装いつつ各地で悪事を働いて行く無籍者の総称であるが、その悪事の手段の一つとして、乞食仲間でカゼと称する子供を使って人眼を欺きつつ、チボ、万引、走り込み、駆け抜け、掻っ浚い、シノビ、パクリ、インチキなぞ言う各方面にわたって稼ぐのがある。しかもその中でも吾輩の両親が使っていたカゼ……すなわち吾輩は単に、見るからにイタイケなカゼであり、かつ、大道芸人として勿体ない程の舞踊おどりの天才であったばかりでなく、実に世にも珍しいインチキ賭博の名人であり、かつ大胆不敵な窃盗の卵であることが、吾輩自身で公言した言葉や、東中洲の待合で、知事以下三、四人のガマ口を失敬した手口によって遺憾なく証明されている。こんな素晴らしいカゼは乞食仲間でも非常に高価な売買価値を持っているもので、木屋の瀬の瘤おやじが吾輩を狙ったのも多分そこに着眼したものと考えられる。のみならずその身売証文を吾輩自身に持っていたのは、吾輩が直接に瘤おやじから盗み返したものとしか考えられないので、いずれにしても吾輩は、まだまだドレ位、悪事の天才を隠し持っているかわからないシタタカ者でなければならぬ。後世恐るべしとは吾輩のために言い残された言葉に外ならぬ……と言うのが福岡県当局の定評であった。
 だから木屋の瀬の殺人と放火の犯人が吾輩と認められて来るのは自然の結果として止むを得なかった。その残忍さや拙劣さから推測して、子供の吾輩が手を下したものではないかと考えれば、考え得る余地が充分にあるので、いずれにしてもこの子供は決して取り逃がさないように監視して貰いたい。そうして一日も早く取調べの出来る程度に回復さして貰いたい……というのが、ツイ先刻まで来ておった荒巻部長の言い分であった。
 ところで、今から考えると荒巻巡査は、同伴した直方署長の説明か何かで、天沢老人の人格を信頼した結果、このような腹蔵のない意見を述べたものらしかったが、しかし天沢老人は、こうした当局の「見込み」の内容と、事件の経緯いきさつをチャンポンに聞いているうちに非常な不愉快を感じ始めた。そうして荒巻巡査部長の言葉が終るのを待ちかねて、極力これに反駁を加えはじめたのであった。

     七十一

 天沢家の奥座敷には、こうして時ならぬ法廷が現出したのであった。すなわち黙って聞いている直方署長が差し詰め裁判長の立場で、吾輩に対する嫌疑を述べ立てている荒巻部長が検事格、又、これに対して反駁を加えている天沢老人が弁護士の役目を買って出た訳で、襖の蔭にお茶を入れながら一言一句も聞き洩らすまいと耳を傾けているこの家の令嬢がタッタ一人の傍聴人兼書記の役廻りになった。しかもそのカンジンカナメの被告人となった吾輩が、寝床の中から時々飛んでもない猥歌を歌い出す。ウカウカすると夜具の中から飛び出して夢うつつのまま尻振り踊りを始めるのを、検事と弁護人が慌てて元の穴へ押し込むというのだから、トテモ珍妙な場面であったに違いない。
 然るに吾輩の弁護に立った天沢老人の弁論なるものが又、頗る珍妙無類を極めたものであった。すなわち天沢老人は、直方署長と荒巻部長を前に置いて、威儀堂々とコンナ意見を述べ立てたという。
「私は骨相学上から見て、当局と全然正反対の意見を主張しなければならぬ事を、非常な光栄としかつ、欣快とするものである。
 元来骨相学なるものは古来一種の迷信、もしくは荒唐無稽な愚論として軽蔑されて来たものであるが、私が七十年間の経験によって判断してみると決して根拠のないものでない。殆んど恐ろしい位に適中するもので、現に古今の名判官と呼ばれる人で、有意識無意識にこの骨相の観察を判決の土台にした例が、数限りなく記録に残っているのを見てもわかる。
 ところで私はこの患者を引き受けた最初にこの児の骨相を一眼見ると、心中深く驚いたのであった。この児が尋常の生まれでない……必ずや身分家柄の正しい、立派な人物の血を引いた児でなければならぬのみならず、将来どのような偉大な人物になるかわからないと言う、殆んど理想に近い完全な骨相を持っておることを発見して、思わず襟を正したのであった。
 その中でも第一に御注意申し上げたいのは、この児の天帝に暗帯濛あんたいもうの気がミジンも見えない事である。骨相学上で天帝というのは、眉の間から中央にかけた白い平たい処であるが、一度でも悪事を働いたもの、又は生まれながらにして性質の曲っておる者は、ここの皮膚の下に、冬の日陰のような暗い、つめたい気分がとどこおっておるものである。見なれた者の眼にはその暗帯濛の形がハッキリと見えるものであるが、この児の天帝には、そんなものの影さえない。極めて天空快濶な奔放自在な性格であることが一眼でわかる。又、身分の正しい家柄の児であることは、その鼻筋の気品を保った通り工合でわかり、偉人となるべき将来を持っておることは、その重瞳が、遠くは豊太閣、近くは勝海舟なぞと同様、稀有のものであることによって判断される。又、頭脳の明晰なことは、その顱頂骨ろちょうこつの形によってわかり、殺伐残忍な性格でない事は、耳殻と、顴骨かんこつの高さでわかり、正義を主張する意志の強固さは、その顎の形が表明し、芸術的技巧に秀れておることは、その鼻翼の彎曲が左右均斉しておるのでわかる。これを要するにこの児の性格を綜合してみると、悪人としての要素は、過去、現在、未来を通じてミジンも認められないのみならず、却って諸悪の征服者として世に輝くべき天分を十分、十二分に持っておることが証明されて来るばかりである。
 だから私は、ただ今警察当局のお話を承っておるうちに、意外千万な感じに打たれざるを得なかった。警察当局のこの児に対する嫌疑を根本的に否定せざるを得なかった。同時に、たといその嫌疑が全部、事実と認められる証拠があったとしても、この児が悪人であるということだけは、何処までも、天地神明に誓って否定しなければならぬと、固い決心をした次第である」
 云々というので、荀子一流の性善説か何かを引き合いに出しながら滔々一時間に亙って、吾輩の骨相の効能書きを御披露に及んだものであった。
 ところでこうした超時代的な、ウルトラナンセンス式な無罪論は、さすがに物慣れた二人の警官を頗る面喰らわさしたものらしい。第一、漢学の素養が余ッ程出来ていないと、一言半句も反駁の加えようがない訳で、二人の警官は互い違いに「成る程、成る程」を連発しながら、髯をひねるばかりであったが、それでも髯巡査は老人のお説教が一段落ち着くと、次のような薄気味の悪い挨拶を残して立ち去った。

     七十二

「イヤ。いろいろと御高話を拝聴致しまして誠に有り難う御座いました。実はこの児の罪状と申しましてもまだ未決定のもので、この児の両親を捕えて訊問してみなければ判然しない訳であります。又私共とても御説の通り罪人を作るばかりが能では御座いません。過去の経験と、現在の証拠とによって的確な判断を下して行くばかりで御座いますから、その点は決して御心配ないようにお願い致します。
 但し……かような無邪気な少年が、自発的に容易ならぬ大罪を犯しました例は、私どもの職掌柄、たびたび見聞致しておる事を申添えさせて戴きます。すなわち或る異常な性格を持って、特殊な境遇に育った少年には、随分思い切った事をする者がありますので、しかも、この少年が特にそうした条件に叶った境界に育てられて来ましたという事は誰人も否定出来ない事実であります。現に知事閣下の前に出ましても、目上の者を屁とも思わず、又、忠義とか孝行とか言う言葉を冷笑的な態度を以て見流し聞き流すところを見ますと、実に不敵な根性を持っているとしか思われません。つまりこの少年の人並外れた性格からそのような嫌疑が割り出されて来ましたものでありますから、その辺は何卒なにとぞ悪しからず御諒察を願います。
 なお、これはホンノ御参考までに申し上げて置きますが、万一この児が今申しましたような大罪を犯したものと致しますれば、両親の罪が非常に軽くなると同時に、この児は丁年未満の事ですから処罰する事が出来ない。実に困ったことになるのであります。又は両親が罪を引き受けて収監されるとしましても、福岡にも小倉にもまだ少年を収容する設備が出来ておりませぬから、何処かでお預かりを願わねばなりません。
 一方に知事閣下は、この少年に対して非常な興味を持っておられまして、失礼ながら費用は何程でも負担するから、どうか大切に御介抱願いたい。いずれ有罪無罪にかかわらず、自分の手に引き取って世話をする積りだから、何分よろしくお頼みする……と言うお話で御座いまして、実はただ今伺いましたのも、そうした知事閣下のお言葉をお伝えに参りましたのが主要な目的で御座いました」
 云々という挨拶で、要領を得たような、得ないような事にして二人の警官は立ち去ったのであったが、今から考えるとこうした言葉の裏には、万一犯人が掴まらぬ場合、吾輩に何もかも結び付けて、有耶無耶のうちに責任をのがれようと言う、田舎警察一流のずるい方針がほのめかされていたように考えられる。しかし人の好い天沢老人は、自分の言いたい事だけ言ってしまえば、それで清々したという恰好で、却って二人の警官が徹頭徹尾自分の言い分に敬服して帰ったものと思ったらしく、まだ子供の吾輩に向って、さもさも得意そうに自分のお説教を繰り返して、噛んで含めるような註釈をつけて聞かせるのであった。
 ところが吾輩は、そんな話を聞いておるうちに、済まない話ではあるが、少々睡たくなって来た。それはタッタ今、少時すこしばかり起き上っていた疲れが出たものらしかったが、そうして半分ウトウトと睡りながらも、コンナ風に大勢の大人たちが寄ってたかって吾輩一人を問題にして騒ぎまわるのが、不思議で不思議で仕様がなかった。罪があるとかないとか、余計なオセッカイばかりされるのが、五月蝿うるさくて仕様がなかった。
 こんな事なら、深切な人間の世話になるよりも、邪慳な両親と一緒になって、乞食をして歩いている方が、よっぽど気楽でアッサリしている。仙右衛門爺が死んだのだって両親がしたことかどうか解ったものでない。吾輩と両親が逃げてしまったのを悲観して、自分で首に針金を巻き付けて自分で火をけて死んだかも知れないのを、現場を見届けもしない人達が寄ってたかって何とかかんとか言って騒ぎまわるところを見ると、大人というものは、よっぽどひまなものと見える。
 そんなに罪人がきめたければ、何もかも吾輩が引受けてもいい。そうすれば両親は罪がなくなるから、髯巡査にイジメられなくて済む。吾輩も今の話によると、子供だから罪にならないとすれば、結局、何にもなしになるから都合がいいではないか。仙右衛門みたいな悪い奴はドウセ死ん方がいいにきまっているのだから、罪にならないものと解っていたら、ホントウに吾輩が殺してしまったかも知れない。イヤイヤ。これから後でもあること。罪にならないときまれば構うことはない。悪い奴は片っ端から殺して遣ろうか知らん……と言ったような事を考え考え、嵐の晩の恐ろしかった光景を眼の前に描いていると、そのうちに次の間から最前の令嬢の声がした。
「お父様……磯政さんの乾児こぶんで浅川さんという方がお見えになりました」
 その声を聞くと天沢老人は軽く舌打ちをして顔を撫でまわした。
「又遣って来たか。浅川というのは何度も来た若い男じゃろう。死んだ仙右衛門の遠縁に当るとか言う」
「さようで御座います」
「……執念深く付き纏う奴じゃのう。この児もナカナカ人気者じゃわい。アハハハ……」

     七十三

 天沢老人の笑い声を聞くと、令嬢は次の間でハッと固唾を呑んだらしかった。そうして心持ち怯えたような声で言葉を継ぎ足した。
「あの……今度は十人ばかり見えておりますが……」
「何人来たとて同じ事じゃ。今病人の傍に付いておるから会われんと言うたか」
「ハイ。申しました。そう致しましたら、ホンの一寸で、お手間は取らせんからと申しまして……」
「よしよし。それならば今度は待合室へ通して置け。茶も何も出す事は要らん。お前はこの児の傍に付いておれ」
「大丈夫で御座いますか、お父様……」
「アハハハハ。心配する事は要らん。高がユスリ、タカリを仕事にするナラズ者じゃ。武芸のたしなみさえあれば十人が二十人でも恐るる事はない。小太刀を持たせたら、お前一人でもよかろう。ハハハハハ……」
 老人はコンナ事を言ってスックリと立ち上ったが、その態度には痩せこけた老人に似合わないシャンとしたものがあった。そうして如何にも武芸の出来た人らしい悠々たる態度で室を出て行った。
 そのうしろ姿が、障子の向うに消えると間もなく、次の間に足音がして、隔ての襖がスーッと開くと、間もなくそこから、眼をみはらずにはいられない位美しい人の姿が、ニコニコ笑いながら入って来た。
 それはツイ今しがたまで襖の向うで泣いたり、笑ったりしていたこの家の令嬢に違いなかったが、何の気もない子供の吾輩ですら眩しいような気持ちになった位だからよほど美しい人であったろう。年の頃や眼鼻立ちは説明の出来る程ハッキリと記憶していないが、眼に残っている幻影をたよりに想像してみると十七か八ぐらいであったろうか。頭には何か金色の紐が結ばっていたようだから、島田か何かに結っていたものと考えられる。質素な、洗い晒した浴衣を着て、幅の狭い赤い帯を太鼓か何かに結んだ、極めて色気のない姿であったが、それでもその顔の色が、桜の花のように美しくて、黒い眼の光が、何とも言えず柔和であったことだけは、今でもシミジミと印象に残っている。
 その令嬢は百年も前から吾輩と一緒に暮して来たかのように親しみ深い態度で、吾輩の枕元に坐ると今一度ニッコリ笑いながらさし覗いた。
「……気分はどう……」
 吾輩はこの時に初めてこの令嬢の言葉が、ここいらの人間の言葉の調子と違っているのに気がついたので、チョット面喰らった。そのまま眼をパチパチさせていると、令嬢は又も優しく寄り添いながら微笑した。
咽喉のどが乾くでしょ」
 吾輩はその眼もと口もとの美しさを穴の開く程見惚れながら、無言のままうなずいたが、その時に飲ませて貰った水の美味おいしかったこと……美しいお嬢さんの親切と一緒にはらわたの底の底まで滲み透って行くような気持ちがした。
 吾輩が間もなくそのお嬢さんと姉弟きょうだいのように仲よくなったことは言う迄もなかった。生まれ落ちてから今日まで、女の人の親切というものに接した事のない吾輩は、こうした若いお嬢さんの心からの同情に包まれて、ほとんど悲しいくらいの喜びを感じた。そうしてそのお嬢さんといろいろな話を始めたのであった。
 吾輩はお嬢さんから尋ねられるまにまに今までの身の上話を前後取り留めもなくして聞かせたが、お嬢さんは一々眼を丸くしたり、感心したりして聞いてくれた。ずいぶん乱暴な事や、碌でもない事までもアケスケに話したのであったが、お嬢さんは不愉快な顔をする処か、面白がって聞いてくれたので非常に愉快であった。それから最後に吾輩が、今迄誰にも話す機会のなかった木屋の瀬の木賃宿の一件の真相をありのままに話して吾輩の無罪を一々承認して貰った。そうして火事の光に照らされながら、大風の中を逃げた時の恐ろしさを説明すると、お嬢さんは唇の色まで真白になって、満腔の同情をもってその時の苦痛に共鳴してくれたので、滅多に感傷的な気持ちになった事のない吾輩もとうとう涙ぐましくなってしまった。
 それから今度は、お嬢さんが話を引き取って、吾輩が人事不省のままこの家に担ぎ込まれてから後に起った出来事を、詳しく話して聞かしてくれたが、吾輩は、吾輩を中心にしてこの直方の町中に渦巻き起っているモンチャクが殆んど想像も及ばぬくらい猛烈なのにすくなからず驚かされたものであった。

     七十四

 お嬢さんは……あたしによくわからないけれど……と謙遜しいしい話してくれたが、実はスッカリ事情を飲み込んでいるらしく、現在直方の町中を脅やかしておる、吾輩中心の渦巻き事件の真相が、当の本人の吾輩にも、手に取るごとくハッキリとうなずかれたのであった。
 遠賀郡の堤防の上で打ちたおれていた吾輩が、人事不省のまま天沢医院に担ぎ込まれたという噂が伝わると間もなくのことであった。直方署から来た警官と入れ違いに死んだ仙右衛門爺の縁家の者と称する浅川という男が、タッタ一人で天沢医院に尋ねて来て、玄関に低頭平身しながら仙右衛門の筆跡を見せてくれと頼み込んだ。すると好人物の天沢老人は、浅川という男がドンナ人間か知らないまま一途に仙右衛門の血縁の者と思い込んだので、まだ警察に渡してなかった吾輩の身売証文を、半濡のまま、応接間の机の上に拡げて見せて遣った。
 ところがその浅川という男は、天沢老人の隙を窺って、半濡の証文の上に左手をピタリと載せると、刺青だらけの腕を肩までまくり上げて脅喝を始めた。……この証文はたしかに仙右衛門の物に相違ない。それをこの家にかくまわれておる子供か又はその両親かが、仙右衛門を殺して奪い取ったものに相違ないものと考えられる。だからこの証文の文句通りにその子供をこっちへ引き渡せばよし。渡さぬとあればこの儘には帰らぬぞ……と炭坑地方一流の猛悪な啖呵を切って、威丈高になったのであった。
 しかし天沢老人はビクともしなかった。旧直方藩の御典医であった家柄として皇漢医学と、武芸の秘術をけ伝えて来た天沢老人は、何の苦もなく荒くれ男の浅川の左腕をじ上げて、丁寧に下駄まで穿かせて往来に突き出すと、机の上に粘り付いていた証文を傍の火鉢で乾かして、茶箪笥の中へ大切に仕舞い込んだのであったが、しかし天沢老人はこの出来事を極めて些細なことに考えていたので別に警察へ届けるような事もしなかった。
 ところが事件はソレッキリで済まなかった。
 それから二、三時間経つと浅川は又も天沢家の玄関へ遣って来て低頭平身して最前の無礼を詫びながら、済まないが証文をモウ一度見せてくれと頼んだ。むろん天沢老人は面会もせずに追払わせたのであったが、その時に取次に出た台所の婆やの話によると、浅川の背後には二、三人の書生体のものが太いステッキを持っていて来ている模様で、天沢医院の横露地や、診察室の奥の方を透かし覗いている処を見ると、どうやら家の中の様子を探っているらしい形勢である。それから昨日の正午ひる過ぎの事、久し振りに大風が晴れて日の目が出たので、婆やは洗濯して置いた吾輩の着物を干しに裏庭へ出て行くと、ずっと向うの裏長屋の屋根の上に立っていた二人の男が、こちらのお座敷を指しながらしきりに話し合っていた。そうして色のめた女の児の着物が物干竿に引っかかって高く高く差し上げられるのを見ると、互いに顔を見交してうなずき合いながら、大急ぎで屋根の上から降りて行ったので、妙な事をすると思って気にかけていたが、今から考えるとあれはやはり浅川一味で、この家に評判の子供まで匿まわれているかどうかをたしかめに来た連中に違いない……気味の悪い事……と言うので婆やは早くも慄え上がっているのであった。
 この話を聞くと天沢老人はチョット暗い顔になった。そのまま吾輩の枕元に坐り込みながら頻りに髯を撫で下ろしていたが、そうした天沢老人の心痛の原因は、お嬢さんによくわかっていた。
 その当時の直方は現在の直方市の半分もない小さな町であったが、それでも筑豊炭田の中心地として日本中に名を轟かしていた。しかもその当時の筑豊炭田というものが又、まだ開けてから間もない頃のことで、鉄道がやっと通じたばかり……集まって来る人々は何よりも先に坑区の争奪戦に没頭して、毎日毎日血の雨を降らすと言う有様であった。
 ところでその坑区の争奪戦の中心となって、互いにしのぎを削り合っている二つの大勢力があった。その一つは官憲派とも名付くべきもので、その当時の藩閥政府と、これに付随する国権党の一味であったが、福岡県知事はいつも党勢拡張と炭坑争奪の直接の指導者兼援助者として赴任して来るものと見做みなされていたので、吾が禿茶瓶のカンシャク知事もむろんその一人に外ならなかった。しかも、そのカンシャク知事は、お手のものの官憲の威力と、近頃売り出しの大友親分の勢力を左右に従えて、最も峻烈にして露骨な圧迫を各町村役場に加えつつ、片ッ端から坑区を押えてしまったので、一時筑豊の炭田は、尽く、官憲派の御用商人の手に独占されてしまいそうな形勢であった。

     七十五

 ところが、こうした筑豊炭田の争奪戦に関する官憲派の横暴に対抗して起ったのが、有名な福岡の玄洋社の壮士連であった。
 玄洋社と言うのは誰でも知っている通り、維新の革命に立ち遅れて、薩長土肥のような藩閥を作り得なかった福岡藩の不平分子が、国士を以て任ずる乱暴書生どもを馳り集めたもので、或は大臣の暗殺に、又は議会の暴力圧迫に、その他、朝鮮、満豪の攪乱に万丈の気を吐いて、天下を震駭していた政治結社であった。しかもその頭目と仰がれている楢山到という男は、玄洋社の活躍の原動力として、是非ともこの筑豊の炭田を官憲の手から奪取せねばならぬと考えていたらしく、当時直方で生命いのち知らずの磯山政吉という、やはり売り出しの荒武者を味方に付けて、大友親分に対抗させる一方に、玄洋社一流の柔道の達者な書生どもを多数直方方面へ入り込ませて、官憲の威力をタタキノメス気勢を示したのであった。
 直方の町々が、こうした二大勢力の対抗のために、極度の緊張を示したのは言う迄もない事であった。時ならぬ賑いを見せたのは町々の飲食店ばかりで、一般の民衆は今にも戦争が始まりそうな息苦しさを感じつつ夜を明かし日を暮している。その中に到る処で、書生やゴロつきの衝突が起って、血を見ることが珍しくないので、素破こそと固唾を呑む人々が多かった。サテなかなか本喧嘩が始まらない。筑豊の大炭田が果してどちらの手に落ちるかは、容易に逆賭出来ない形勢のまま暫く睨み合いの姿になった。
 ところへ突如として吹き起ったのが三、四日前の大暴風であった。あの大暴風は、一面から見ると、こうした二大勢力の睨み合いに一転期を画するために吹き起ったものと見てもよかった。
 直方の形勢が危機に瀕しておることを聞いていながら、自身に出かける機会を持たなかった福岡県知事筑波子爵は、風が止むと間もない一昨日の午後になって、多数の警官を随行させ、大友親分の一味に取り巻かれつつ、暴風視察を名として、堂々と直方の桜屋旅館に乗り込んで来たのであった。そうして玄洋社側の壮士に睨み縮められておる直方署の署員と大友親分配下の兄哥あにい連を激励しつつ、八方の村々に手を分けて、石炭採掘の承諾書に調印させ始めたのみならず、既に玄洋社側の有志の手で押えていた坑区までも手を廻して、否応なしに官憲派の御用商人の名前に書き替えさせ始めたのであった。しかも筑波子爵の蔭にはこのような仕事に慣れたものが付いているらしく、その手段が如何にも巧妙敏速で、玄洋社側の壮士連中は勿論のこと、磯政親分一味の手でも到底防ぎ止め得ない事がわかったので、この上はイヨイヨ腕力に訴えるより外に致し方がない。すなわち多大の犠牲を払う覚悟をもって知事以下の官憲一派を直方署と共にタタキ倒し、その勢いに乗じて一斉に筑豊炭田を官憲派の手から奪い返すよりほかに道はない。そうして直方に於ける玄洋社一派の勢力を確保して、社中以外の人間の炭坑経営を妨害し窒息させるよりほかに方法はない。と言うので、多賀神社の付近の民家へドシドシ暴力団を集結した。……サア官憲が勝つか……民権が勝つか。玄洋社の興廃この一戦に在りというので壮士連の勢いは正に天にちゅうせんばかり。……真に箸が転んでも血の雨が降り出しそうな形勢となった。
 ところが折も折とて大風の副産物として、瘤おやじの仙右衛門が川向うで焼け死んだ事を磯政の身内の者が、慌しく報告して来た。同時に女の姿をした男の児が、天沢先生の処へ担ぎ込まれている。しかもその児の身体には仙右衛門の筆蹟らしい証文ようのものと円札が二、三枚ヘバリ付いていた……という事実が、やはり磯政の身内に聞こえて来たので、それならば新聞で評判になっている県知事のお声がかりの子供に違いない。その子供に何とか因縁をつけてこっちの手に奪い取ってしまえば、喧嘩のキッカケには持って来いの条件になるばかりでなく、こっちの強味になる事うけ合いである。ことに依ると知事と直接交渉の材料になるかも知れない……とか何とか言うので巧らんだものであろう。浅川嘉平という乾児こぶんに天沢病院を当らせてみることとなったのであった。

     七十六

 この浅川嘉平というのは一名タン嘉と呼ばれている脅喝の名人で、ナカナカ掛け引きの巧者な男であったが、好人物とばかり思い込んでいた天沢老人に見事に逆捻を喰わされたままスゴスゴと帰って来た。けれどもそのお蔭で天沢老人が世間で評判する通りの好人物の人格者であるばかりでない、容易ならぬ度胸と腕前の持ち主である事が初めてわかったので、今度は念入りに策略をめぐらし始めたものらしい。一方に浅川も名誉回復のためか何か解らないが、そうした策略の一手段らしく、何度も何度も遣って来て訳のわからない文句を並べては様子を見い見い帰って行くので気味の悪いことおびただしい。しかしその来るたんびに付き添って来る壮士らしい者の人数が二、三人ずつ殖えて行くので、今にドンナ事をする積りか全く見当が付かない。天沢老人はたしかに、そうした形勢を心配していたものに相違なかった。
 しかし天沢老人は間もなく晴れやかな顔になってコンナ事を放言したそうである。
「アハハハ。考える程のことはないわい。この子供がワシの家へ来たのは、こっちのためにも良いキッカケじゃ。ノウさようではないか」
 これを聞いたお嬢さんは、老父の言葉の意味がわからなかったので、ただ柔順すなおにうなずいたばかりであったが、天沢老人は構わずに言葉を続けた。
「……おれはこの児をダシに使うて、知事公と、玄洋社の大将の楢山という男に会うて見ようと思う。そうしてこの大喧嘩がまだ起らぬうちに仲裁をして、仲よく筑豊の炭田を開発させてみようと思う。そうすればこの児は、この界隈の福の神になる訳じゃ。ノウそうではないか」
 何も知らない純真なお嬢さんが、こうした老人のスバラシイ思い付きに賛成しない筈はなかった。殆んど涙を流さんばかりに嬉し喜んだのであったが、老人は又チョット考えた後に、コンナ事を独言のようにつぶやいたと言う。
「……しかし……驚くことはないわい。万事は玄洋社の楢山社長が直方に出て来てからの事じゃ。……楢山は近いうちに出て来るに違いないからの……その時に両方を一緒に集めて仲直りさせねば、効能はないと言うものじゃ。何でも老後の思い出じゃからの……ハハハハ……」
 そう言って高らかに笑う老人の顔が、お嬢さんの眼には神様のように気高く見えたと言うが、これも尤も千万なことであった。
 ところで吾輩はそうしたお嬢さんの話を聞いているうちに面白くて面白くてたまらなくなって来た。吾輩を中心とする大人同士の騒動がイヨイヨ眼まぐるしく大きくなって行くのが何かなしに愉快で仕様がなくなった。何が馬鹿馬鹿しいと言ってもコレ位馬鹿馬鹿しい事はないと思われたが、それと同時に、そのスバラシイ大騒動がイヨイヨ大きくなったら面白いだろうと言う気がしたので、吾輩は勢いよく寝返りを打ちながらお嬢さんに尋ねてみた。
「そんならその禿茶瓶とゲンコツ屋とドッチが悪いのけえ」
「ホホホホホ。まあ面白いことを言うのねえ。禿茶瓶て何の事……」
「知事の禿茶瓶のことやがな。知事の頭テカテカやがな」
「まあ……そう……妾チットモ知らなかったわ。この前をお通りになったのを拝んだけど……」
「シャッポ冠っとったんけえ」
「……え……黒い山高を召していらっしたわ。……だけど……そう言えばミンナがお辞儀をしたけど一度もお脱ぎにならなかったようだわ。ホホホホ……」
「あの禿茶瓶アホタレヤ。フーゾクカイラン見たがる二本棒や」
「……まあ……」
 とお嬢さんは眼を丸くしたが、二の句が継げないまま顔を真赤にした。
「……ゲンコツ屋の親分も見たんけえ」
「ホホホホ。ゲンコツ屋じゃないことよ。玄洋社よ」
「どっちでもええ……見たんけえ」
「いいえ。まだ見ないけど、エライ方だってお父様おっしゃったわ」
「そんだら、ゲンコツ屋の方が強いのけえ」
「そんな事あたしにはわからないわ」
「そんだらドッチが悪いのけえ」
「なおのこと解りゃしないわ」
「そやけど……あんたドッチが好きや」
「ホホホホホ。あたしドッチも好きじゃないわ」
「何でや……」
「ホホホホホ。ドッチも嫌らしい男ばっかりだから妾嫌いなのよ」
「……姉さま男嫌いけえ」
「……ええ……あたし貴方のような男の子が一番好きよ」
 と言ううちにお嬢さんはイキナリ顔を寄せて、吾輩に頬ずりをしてくれた。

     七十七

 吾輩は生まれて初めて女の人に頬ずりされたので思い切り赤面してしまった。するとお嬢さんも真赤になって笑ったが、吾輩がモウ一度、
「あんたはホンマに男好かんけえ」
 と尋ねたのでなおの事真赤になってしまった。
「ワテエも女大嫌いや。ただ、あんただけ好きや」
「ホホホホホホ。まあ、お愛想のいい事……」
真実ほんまやで……そやけど、あんたの言葉何処の言葉けえ」
「ホホホ。オカシナ人ねえ。どうしてそんな事尋ねるの……」
「どうして言うたて違うやねえけえ」
「そりゃ違うわ。東京にいたんですもの」
「そんだらここの家の人じゃないのけえ」
「いいえ……ここの家の者よ」
「どうしてここの家へ来たんけえ」
「……貰われて来たのよ」
 と言ううちに又もお嬢さんの顔が真赤になった。しかし吾輩にはその意味がわからなかった。
「どうしてここの家に貰われて来たんけえ」
「知らないわ。そんなこと……」
 といううちにイヨイヨお嬢さんは真赤になった。
「そんだらお嬢さんはこの家に来て何しとるんけえ」
「何もしていないわ。時々小太刀のお稽古をしている位のもんよ」
「コダチて何や」
「小さな刀のことよ。お父さまがね。この直方と言う処は人気が荒いから、身体からだを守るために覚えておけと仰言おっしゃってね、時々教えて下さるのよ」
「コダチ知っとると強くなるのけえ」
「ええ。刀で向って来ても大丈夫よ。女でも子供でも覚えられてよ」
「ワテエに教えておくれんけえ」
「ええ教えたげるわ。だけど今は駄目よ。貴方が病気だから……」
 吾輩は今にも起き上って、小太刀を習いたいのを我慢しいしい家の中を見まわした。
「このうちには男の人ほかにおらんのけえ」
「ええ。いらっしゃるわ。今東京に行って、お医者の学問をしてお出でになるのよ。その方がお帰りになったら、あなたもキット好きになれてよ」
「ワテエこの家のお爺様の方が好きや」
「ホホホホ」
 とお嬢さんは口に手を当てて笑った。
「こっちのお爺様占いさっしゃるのけえ」
「ええ。占いもなさるけど人相を御覧になるのがお上手よ」
「ワテエが悪い事しよらんと顔見ただけでわかると不思議やなあ」
「ほんとにね」
「ワテエにでぼちんにナタイモが入っとるてホンマけえ」
「オホホホホ。奈多芋なたいもじゃないわよ。アンタイモウよ」
「そんならアンタ、イモ好きけえ」
 と吾輩は大人の真似をして洒落を言った。お嬢さんは引っくり返って笑った。
「好きならワテエが天帝になった時にタンマリ喰べさせて遣るがな」
「ホホホホホホホホ。ハハハハハハハハ」
 とお嬢さんは止めどもなく笑いこけたが、やがて急に真面目な顔になって笑いめた。玄関の方で何事か談判をしている天沢老人の朗かな声と、その相手になっている男のシャガレタ声とがだんだん高くなって来たからであった。
「……成る程……浅川君の言われることはよう解りました。あなた方が知事と張り合いになっておられる事情も、今のお話で残らず判然しました。貴方がたのお話の通りならば、私は是非とも玄洋社の味方になって、官憲の横暴を懲らしめねばならぬ処じゃが、しかしその問題と、あの児の問題とは全然別の話じゃ。あの児は私が医者として預かっているのじゃから、あの児の病気が回復する迄は、この家から一歩も出すことはなりません」
「楢山先生からのお話でもですか」
「無論じゃ。それが医者としての責任じゃからのう。ハハハハ……」

     七十八

「それでは彼の児はドウしても渡されんと仰言るのですな」
 そう言う男の声は何となく息苦しく角張って来た。しかし天沢老人の声は依然として朗かに落ち着いていた。
「そうじゃ、そうじゃ。たとい又あの児が元気になったとしても、あんた方より先に知事閣下からのお話を承っている以上、その方へお答えせずに、お渡しする事は出来ません」
「八釜しい……」
「何と……」
「知事が何かい。俺達は相当の権利があって来ておるとぞ」
 と今度は別の声が言った。
「おれ達はあの子供の両親から頼まれて来ているのだ」
「ホホオ。これは意外じゃ」
「意外でも何でもないぞ。あの子供の両親は昨日から吾々の友人の処へ来ている。涙を流してあの子供の事を頼むから吾々は来とるとだぞ」
「ハハア。それならばその両親をここへ連れて来なさい。私からジカに尋ねたい事がある。まことに良い序じゃ」
「……エッ……」
「驚く事はない。あの児の両親はあの児を仙右衛門に売り渡したとあんた方は言うていられるではないか。それならばあの児を引き取る権利はモウのうなっているじゃろう」
「……………」
「それともあの児を売り渡しておらんと言うなれば、ええ幸いじゃから両親を連れて来なさい。わしから尋ねてみたい事がある。あれ程親孝行な子供に永年養われた大恩を忘れて何であのような恐ろしい証文に爪印をしたか。あの子供はいつ、何処の村里で、誘拐かどわかいたかと問い訊してみたい」
「ウ――ム」
「あんた方の親分の磯政ドンや玄洋社長の楢山到という人は、その辺の事情を残らず承知の上でアンタ方をよこされたのか」
「……ソ……それは………」
「それとも両親に頼まれたのは嘘か……」
「……エッ……」
「アハハハハ。大方嘘じゃろう。磯政ドンでも楢山君でも、そげな筋道の通らん事を言うて遣る人間ではないじゃ。アハハハハハ……」
「……イヤ……恐れ入りました。しかし……」
 と又別の男の声がした。
「……しかし……これにはいろいろと秘密の事情がありますことで……」
「ハハア。まだ秘密の事情がありますかな」
「……さようで……実はその事に就きまして私と貴方と二人切りでお話したい事があるのですが……ほんの二、三分でよろしいのですが……」
「ハハア……どのような事じゃな」
 それから先の話声は、ドカドカと廊下を出て行く足音と、扉がギイーと閉まる音に掻き消された切りパッタリと聞こえなくなってしまった。
 吾輩は自烈度くなった。今にも活劇が始まるだろう……始まったら直ぐに飛び出して、天沢老人の武術の腕前を拝見して遣ろう……事によったら加勢して遣ってもいい……くらいに考えながらワクワクして待っていたが、サテなかなか始まらない。いや。始まらない処か、血気の壮士が十人も来ていると言うのに、一人残らず天沢老人の理屈に押し詰められたらしく、チュウの音も挙げ得ない様子である。勿論、天沢老人も人格の点では福岡県知事や玄洋社長の上手を行く人物だったそうだから、さすがの我武者羅連も自然と頭を押え付けられたのかも知れない。そこで今度は「欺すに手なし」という訳で、密談に事寄せて老人を診察室に閉じ込めて、その間に或る仕事をする目論見らしかったが、しかしそんな事を知らない吾輩は甚だ詰まらなくなった。一体十人の男たちはどんな顔をしているのか知らん。玄洋社の壮士なんてドンナ風体のものだろう。ソーット見に行って遣ろうか知らん……なぞと考えながら小豆枕を傾けて、見るともなしに横に坐っているお嬢さんの顔を見ると、驚いた。
 お嬢さんは顔色を真青にして、眼をマン丸く見張ったまま、吾輩の右手のお縁側の障子を見ている。吾輩もビックリして何事か知らんと怪しみながら、その方を振り返ってみると、いつの間に開いたものかお縁側の障子が一尺ばかり動いていて、そこから、お庭の向う側に咲いている、赤と黄色の見事な鶏頭の花が見える。
 ……と思う間もなくそこから、頭の毛を蓬々もやもやさした、人相の悪い浴衣がけのライオンみたいな男の顔が覗いた。

     七十九

 その人相の悪い男は、眉毛の上から太い一文字の刺青をしていたが、その刺青の両端が、外の光を受けてピカピカと青光りに光っていたことを今でもハッキリと記憶している。
 その男は、その刺青の下の凹んだ眼で、お嬢さんと吾輩の顔を見比べると、白い歯を剥き出してニヤリと笑った。……と同時に、ほとんど鴨居につかえそうなイカツイ身体からだを障子の蔭から現わしたと思ううちに、突然、疾風の如く飛びかかって来た。
 お嬢さんはその時に
「……アッ……」
 と小さな叫び声をあげたようであった。その瞬間に吾輩も無我夢中になって、額に乗っていた濡手拭を引っ掴みながら、片手ナグリに投げ付けたが、その手拭は四角に畳まったまま、大男の鼻と口の上へヘバリ付いて、パーンと烈しい音を立てた。
 ……と思うとその次の瞬間に、不思議な現象が起った。
 その男は濡れ手拭を顔にクッ付けたまま、座敷のまん中に仁王立ちに立ち止まった。眼の球を二、三度クルクルと廻転させてヒンガラ眼を釣り上げた。両手をダラリとブラ下げたまま仏倒しにドターンと畳の上に引っくり返ると、間もなく、手足をヒクヒクと引き釣らせながら、次第次第にグッタリとなって行った。
 それは実に見ている間の出来事で、驚くすきも怪しむ余裕もない場面の急変化であった。
 吾輩はそれからズット後になって、この時の出来事の原因を理解する事が出来た。それは吾輩が福岡に残っている双水執流そうすいしりゅうという当て身や投げ殺しを専門みたいにする珍しい柔道の範士に就いて「合い気の術」というものを研究しているうちに成る程と首肯うなずいたもので、この時にこの屈強の大男が、まだおかっぱさんの吾輩に、何の他愛もなく引っくり返されたのは、所謂「逆の気合い」に打たれたものに相違なかった。つまりアッと言う間に吾輩を奪い去るべく飛び込んで来た、その極度に緊張した一本槍の気合いが、偶然に投げ付けた吾輩の濡れ手拭に顔を打たれて、ピタリと中断されたばかりでなく、最前から詰めて来た呼吸をスッと吸い込みかけたそのショッ鼻を、一気に完全にハタキ止められたので、その一瞬間に呼吸機能の神経的な痙攣を起して、気絶してしまったものらしかった。
 しかしその時の吾輩には、そんな事が理解されよう筈がなかった。
 眼の前の出来事がアンマリ意外なので、スッカリ面喰らってしまった。吾れ知らず寝床の上に起き上って、畳の上に伸びている男の姿を凝視した。そうしてどうしたらいいか知らんと言ったような気持ちで、お嬢さんの顔を振り返ると、お嬢さんも真青になったまま吾輩を振り返った。そのうちに巨男おおおとこの戦慄が、又、一しきり激しくなって、手足がヒクリヒクリと引き釣り縮まって行く模様である。
 それを見ると吾輩は、ヤット自分の仕出来しでかした事に気が付いた。夢中で投げ付けた手拭がこの巨男を殺しかけている事に気が付いたので、今更のように狼狽して、大急ぎで大男の傍へ馳け寄って、顔の下半部にヘバリ付いている濡れ手拭を取りけて遣ったが、その序に見るともなく見ると、唇の色がモウ変りかけている模様である。
 吾輩は急に胸がドキンドキンとし始めた。おなじ思いに駈け寄って来たお嬢さんと二人がかりで、巨男の襟首に手をかけて、エンヤラヤッと抱え起こそうとこころみたが、ナカナカ動く事でない。そこで今度は方向をかえて、二人で左右の胸倉を掴んで、思い出したように掛け声をかけた。
「いち……にの……さんッ……」
「ひの……ふの……みいッ……」
 と引き起しかけたが、生憎なことに、半分ばかり成功したと思うと、死んだかと思った巨男が突然反抗するかのように、
「……ムムムムムム……」
 とりくり返ったので、二人とも引きずり倒されながらヨロヨロとブツカリ合った。その拍子に巨男のドテッ腹をめがけて、左右から思い切り膝小僧を突いてしまった。すると又その拍子に二人とも襟元を取り放したので、又も仰向に引っくり返った巨男は後頭部うしろがみをイヤと言うほど畳の上にブッ付けて弾ね返されながら、今度は御念入りに、
「……ギャギャッ……」
 という奇妙な叫び声をあげた。

     八十

 お嬢さんと吾輩はモウ一度ビックリして左右に飛び退いた。同時に吾輩は落ちていた濡手拭を引っ掴んで、モウ一度タタキ付ける身構えをした。
 一方にお嬢さんは、床の間の横の袋戸へ走り寄って、赤い房の付いた黒鞘の懐剣を取り出すと、大男から一間ばかり隔たった床柱の前に片膝を突きながら、袂を啣えて身構えたが、それはよく芝居の看板にいてある……アンナような、何とも言えないい恰好であった。
 その間に大男はやっと意識を回復したらしかった。畳の上に大の字になって眼を閉じたまま、ペロペロと舌なめずりをしていたが、やがて眼を開いて天井をキョロキョロと見まわすと、自分が何処に来ているか忘れたらしく、しきりに眼をこすりまわしていた。
 それから誰か呼ぶ積りらしくモウ一度舌なめずりをして、オイオイと呼びかけたが、その声は咽喉に詰まって、蚊の啼くようなヒイヒイ声にかわってしまった。
 大男はここで初めて、自分が他所よその家の中にブッ倒れているのに気付いたらしい。そうして呼吸が辛うじてしか出来ないと言うような奇妙な目に合わされていることがヤッと判然わかったらしく、ガバと跳起きて左右を見まわした。
 吾輩とお嬢さんは、それと見るや否や、同時に一歩退いて身構えた。
 そのお嬢さんの手に握られた懐剣の光と、吾輩が振り上げた濡れ手拭のピッチャー第二球式の構えを見ると、男はハッと息を引きながら、ライオン式の表情を真青にしてしまった。辷りたおれんばかりに飛び上って猫のように四ツン這いになったが、その拍子に詰まっていた呼吸が出て来たらしく、
「ワ――ッ」
 と叫ぶなり身を翻えして、半分開いた障子を蹴離して縁側伝いに玄関の方へ馳け出した。
 すると、それと同時に今まで鳴りを静めていたらしい玄関の方から、
「どうしたかい」
「遣り損のうたか」
「子供はおったか」
 と口々に叫びながら、五、六人ドカドカと踏み込んで来る足音が聞こえたが、それに入れ交って今の男の声が、押し戻すように響き渡った。
「帰れッ……みんな帰れッ……あの児は幻術ドグラマグラ使いぞ、幻術使いぞ。逃げれ、逃げれッ。殺されるゾーッ」
 と怒鳴り続けるうちに、その声は表の方へ駈け出して忽ち聞こえなくなってしまった。その足音がチットモ聞こえなかった処を見ると多分下駄を穿かないまま飛び出して行ったものであろう。
「何や何や」
「どうしたとかい、どうしたとかい」
「ハンマの源太が青うなって逃げて行ったぞ」
「奥座敷で遣られたらしい」
「何かいるとじゃろ」
「殺されるぞ……て言うたが」
「ウン。何やら解らん……」
「源太が言うならよくよくの事じゃろ」
「帰って見ようか」
「ウン。帰って見よ……」
「ウン。帰ろう帰ろう」
 コンナ問答をせわしなくしているうちに、みんな臆病風に誘われたらしい。ガタガタと下駄を穿く慌しい音がした。それと一緒に診察室の扉が開く音がして、
「まア。……ええではないか」
 という落ち着いた天沢老人の声がしたが、
「ヘイ。ヘイヘイ。又いずれ……」
 という挨拶もそこそこに、あとから今一人帰って行く下駄の音がした。その下駄の音が遠ざかるに連れて、玄関の方が急にシンとしてしまったようである。
 一方に奥座敷で身構えていたお嬢さんと吾輩は、当の相手のハンマの源太に逃げられたので、スッカリ張合いが抜けてしまった。思わず顔を見合わせた二人は、そこで初めてお互いの大袈裟な身構えに気が付いて、急に噴出ふきだしてしまった。
「オホホホホホホ」
 とお嬢さんが、鞘に納めた懐剣を投げ出して笑いこけると吾輩も、
「ハハハハハハ。ヒヒヒヒヒヒ」
 と笑いながら、濡手拭をモトの額の上に載せようとすると、いくら押え付けても、うまく額の上に乗っからないで、バタリと畳の上に落ちてしまった。その時に吾輩はヤット、自分が起きている事に気が付いたので、慌てて夜具の中にモグリ込んだが、それが又可笑しかったので、お嬢さんと吾輩はモウ一度腹を抱えて、汗の出るほど笑いこけたのであった。

     八十一

 その翌々日の事であった。
 吾輩は朝早くから天沢老人に引き起されて、お嬢さんが縫ってくれた白飛白しろがすりの着物を着せられて、水色のサワイの帯を締めて貰って、顔を洗うと直ぐに、約三十分ばかりの約束で小太刀の稽古を付けて貰うことになった。勿論熱はモウ前の日一日中、全然出なかったばかりでなく、吾輩の身体からだは生まれ付き頑健に出来ている上に、行く先々の雨風と、毎日毎日の烈しい乞食踊りと、重たい荷物に鍛い上げられていたので、僅か二、三日のうちに半死の疲労から回復したらしい。見る見る非常な食欲と元気が付き出して、ジッとしていられない位、身体がウズウズして来たので、何か遣って見たくて堪まらない処であった。
 一方に天沢老人も、吾輩がハンマの源太を遣っ付けた時の情況をお嬢さんから聞いて、吾輩の度胸や気合いが、とてもスゴイものがあると見込んだ結果、ためしに武芸を仕込んでみる気になったものらしい。
「サア。来て見なさい。朝飯前の仕事に、これから毎日指南して遣る。ええか。すべて武術というものは人を殺すのが目的でない。自分の身を護ると同時に、刀を抜かずして相手の悪心を押え付けるのが目的じゃ。ええか。薬を使わずに病気を治すのが医者の一番上手と同じ事じゃから、その積りで稽古せんといかん」
「何でも勝ったらえのやろ」
「ウム。まあそんなものじゃ。そこで向うに、わしと向い合って坐って見なさい。今すこし間を置いて……もうすこし離れて……そうじゃそうじゃ。その襖の付け根の処に坐るのじゃ。すべてこの小太刀というものは、ことさらに得物が小さいのじゃから、何よりも先に、身体の構え一つで相手を押え付けんといかん。長い刀や槍が正面に構えているのに、小太刀は背後うしろに構える場合が多いのじゃから、チョットでも身体に隙があると、すぐに長い刀が切り込んで来るからの……サアこの糊押しへらを持って構えて見なさい」
「これでお爺様を突くのけえ」
 と吾輩は、尖端さきの丸い大きな竹箆をヒネクリまわしてみた。
「アハハハ。まだ突いてはいかん。気の早い奴じゃ。突く前に一度ソレを持って坐って見い。右膝を突いて、左足を前に出して……イヤイヤ、反対じゃ反対じゃ。左足を引くのは受け身の構えじゃ」
「こうけえ……」
「さようじゃ、さようじゃ。ウーム。構えはなかなか立派じゃ。何処かで小太刀の構えを見たことがあるな」
「アイ。一昨日見た。お嬢さんが、こないな風にしてハンマの源に向いよった」
「成る程。さようか、さようか。しかし、それにしても初手からさように立派には行かぬものじゃ。踊りの名人だけの事はあるわい。ウーム」
「突いてもええけえ」
「ハハハハ。突かれては堪まらんが、そう無暗に人が突けるものでない」
「そんでも突いたら、あの懐剣くれるけえ」
「あの懐剣とは……」
「おとつい、お嬢さんが使うたのんや」
「ああ赤い房の下ったのか。あれはイカン。あれは娘に遣ったのじゃから……」
「そやけどお嬢さんは、ワテエに約束したで」
「ホホオ。何と約束した」
「ワテエがお嬢さんに、あの懐剣欲しい言うたら、お嬢さんが老父様ととさんに小太刀習うて勝つようになったら遣る言うたで」
「アハハハハ。馬鹿な奴じゃ」
「そやからワテエ。そんだら明日稽古して貰う時に、老父様を突いて見せる言うたら、突いたらアカンけんど、老父様のアタマのツルツルした処を一つたたいたらあの懐剣を遣る。続けて二つたたいたらお前のお嫁さんになって遣る言うたで……」
「アハハハ。イヨイヨ途方もない奴じゃ。まあ、そんな事はドウでもええ。稽古じゃから……」
「稽古でも何でもホンマにたたいてええけえ」
「それは構わんが、それでは稽古にならんからのう」
「ならんでも大事ない。ワテはあの懐剣貰うのや。お嬢さんお嬢さん。チョット来て見てや、来て見てや。ワテエがお爺様のアタマのツルツルした処タタクよってん……」
 と言ううちに吾輩は竹箆を持って老人に突っかかって行った。

     八十二

 むろん吾輩は、糊押しの竹箆で天沢老人を付く気は毛頭なかった。ただお嬢さんの秘蔵の懐剣が欲しさに、あわよくば老人に突っかかる振りをして、その隙に乗じて天窓あたまの禿た処を一ツピシャリと叩いて首尾よく約束の通り懐剣をせしめる積りであったが、それにしても吾輩の飛び込んで行き方があんまり素早かったので、天沢老人は少々狼狽したらしい。元来が子供に教える気構えで、何の用心もしないでいた処へ飛び込まれたので、ハッと面喰らいながらも、老人に似合わぬ素早さで身を交しながら、
「コレッ。コレッ、待て待て、と言うに。あぶないあぶない」
 と言って鬼ゴッコみたいな気軽さで逃げまわった。それを吾輩が矢継早に飛びかかって追いまわすので、冗談のつもりの老人はややもすれば座敷の隅に追い詰められそうになった。
「アハアハ。これは堪らん。恐ろしい鋭い奴じゃ。コレ娘。チョット来い。この児が俺を……おれのアタマをたたくと言うて聞かんのじゃ。チョット来てくれい……来てくれい。この児を止めてくれい。アハハハハ。アハハ、アハハ、アハハ。これは敵わん」
 台所の方で何かガチャガチャやっていたお嬢さんは、この声を聞いたらしく、バタバタと走って来たが、この情景ありさまを見ると、襷を半分外したま、お縁側に笑いこけてしまった。
「オホホホホホホホホホ」
「コレコレ。笑ってはいかん。この児を捕まえてくれい」
「オホホホホホ。ハハハハハハ」
「いかんいかん。アハハハ。早う止めい止めい。突かれそうじゃ。タタかれそうじゃ」
 と言ううちに老人は火鉢の向う側に追い詰められて絶体絶命になったらしく、うしろの襖を開いて玄関の方へ逃げ出した。
「爺さん逃げるのけえ。逃げたら敗けやぞ。アタマ叩かれるよりも卑怯やぞ」
 と叫ぶなり吾輩もすぐにあとを追っかけたが、老人は、そのまま玄関の方へ姿を消したようである。そこで吾輩ものがしてなるものかと竹箆を逆手に持ちながら玄関の前の板張りに飛び出す。とハッとして立ち止まった。
 広い玄関の正面の患者控室らしい八畳ばかりの畳敷のまん中に、お茶やお菓子や蒲鉾の切ったのがチャンと出て、平服を着た五人の男が坐っている。それを見た最初に吾輩は患者が来ているのかと思ったが、病人らしいものは一人もいないばかりでなく、揃いも揃ってイガ栗頭の色の黒い、逞しい屈強の男ばかりで、眼の光が皆それぞれに一癖も二癖もありそうな面魂である。のみならず昨日から顔馴染になった台所のお徳婆さんと、俥屋の平吉さんと言うのがお酌をして一杯飲ましている処で、二、三人はモウ真赤になっている処であった。
 その五人が五人とも通りかかった吾輩の足音をきくと一斉に振り返って吾輩の顔を見たので、その鋭い視線の一斉射撃に遮り止められて吾輩はハタと立ち止まった。そうして竹箆を逆手に持って身構えたまま五人の視線を一つ一つに睨み返したのであった。
 五人の男は、そのまま瞬き一つせずに吾輩を凝視した。盃を持ったまま、酌しかけたお徳婆さんは燗瓶を持ったまま呆れ返ったように吾輩の顔を見ていたが、やがて正面の中央にあぐらを掻いていた八の字髯のズングリした男が、思い出したようにニヤリと笑ったと思うと、前に在る饅頭を三つ重ねて吾輩の方に出して見せながら、眼を細くして手招きして見せた。
 それを見ると吾輩はツイ以前の習慣を出して、竹箆を投げ棄てながら板張りに両手を付いて、
「おわりがとう御座います」
 と超特急のお辞儀をしてしまった。
 五人の男はそれを見ると一斉にドッと吹き出した。
 それにつれて吾輩も、何だか冷かされたような気がして、急に極まりがわるくなったので、慌てて逃げ出そうとすると、その饅頭をさし出した八の字髯のズングリ男が慌てて吾輩を呼び止めた。
「オイ。チビッ子チビッ子」
「チョット待て、チョット待て。聞きたい事がある」
 と外の男も口を添えた。
 吾輩も実を言うと、内心大いに饅頭が欲しかったので、すぐに立ち止まって振り向いた。
「何や」

     八十三

「何でもええからここへ来てこの饅頭を喰べい。欲しければだいくらでも遣る」
「アハハハ。ドウセイこの家から接待に出たものじゃからノウ。ナカナカ気前がええわい。アハハハハ」
 と酔っているらしい右側の大男が高笑いした。その顔を八の字髯はチョット睨み付けた。
「要らん事を言うな。大事な事を聞きよるのじゃないか」
 大男はうなずいて黙り込んだ。
 そんな事を言っている間に吾輩は貰った饅頭を三つともペロリと呑み込んだ。そうして舌なめずりをしながらモウ一度八の字髯に問うた。
「ワテエにきたい事て何や」
「ヤッ。貴様モウ三つとも饅頭を喰うてしもうたか」
「アイ。久し振りやで美味うまかった」
「途方もない喰い方の荒い奴じゃのう」
「三つぐらい何でもあらへん」
「ウーム。まっと喰いたいか」
「アイ。いくらでも喰べたい。そやけど訊きたい事て何や」
「ウム。それはのう……」
 と八の字髯は、言葉尻を残してそこいらを見まわしたが、お徳婆さんも俥引きの平吉もいつの間にかいなくなっていた。表の通りにはちょうど人影が絶えているようであった。
 その様子を見定めると八の字髯の男は、吾輩の耳に口をさし寄せるようにして問うた。
「おとついナア」
「アイ……」
一昨日おとつい、お前を誘拐かどわかしに来た男なあ」
「アイ」
「大きな男じゃったか、小さい男じゃったか」
「大きな男じゃった。あそこへとどくくらい大きな……」
 と吾輩は鴨居を指して見せた。
「その男は眉毛に刺青しとらせんじゃったか」
「アイ。しとった」
「ウーム。それでわかった。天沢老人が、自分は中立じゃから内通は出来んと言うて、詳しい事情を話さんものじゃから、昨日押しかけて来た奴どもの目星が付かんじゃったが、それであらかた見当が付いた。やっぱり彼奴あいつじゃ」
「ハンマの源じゃろう」
「ウム」
 皆頭を合わせた。その顔を見まわしながら八の字髯は腕を組んで説明し出した。
「ウム、彼奴なら磯政親分の片腕と言われとる直方一の乱暴者じゃから、彼奴のした事を磯政が知らん筈はない。磯政は一日も早う喧嘩のキッカケを作ろうと思うて焦燥あせっとるに違いないのじゃ」
「焦燥っとるて、どうして焦燥るとかいねえ」
「それはこうじゃ。磯政の一党は何でもかんでも玄洋社長の楢山が直方に来る前に喧嘩を始めて、知事閣下を初め、吾々官憲と大友一派の勢いを直方から一層して筑豊の炭田を残らず押えてくれようと言うので、盛んに小細工をして見ているのじゃ」
「ウム。そう言えば事実らしいのう。つまり万一手違いがあっても楢山に責任がかからぬようにしようと巧らんでいるのじゃろう」
「ウム。その通りじゃ。彼奴きゃつ等は皆首領思いじゃからのう。殊に彼奴等は吾々官憲を軽蔑しおってのう。吾々を直方から追い払うのはこの子供が饅頭を喰うよりも容易たやすいように思うとるでのう。喧嘩さえ始まればと皆思うとるらしいのじゃ」
「ウム。人数から言えば玄洋社の壮士だけでも吾々の三倍ぐらいいるのじゃからのう」
「玄洋社の柔道は強いげなのう」
「講道館へ持って行けば二段三段の奴が、いくらでもいるちゅうじゃなかか」
「ウム。しかし喧嘩となれば別物じゃと大友親分も言いおったがのう。近頃の柔道は体育を主眼としとるで武術のうちには入らん。刃物を持ってかれば一も二もない……と署長も笑いよったが……」
「撃剣ならば自信があるわい。アハアハ」
 と横から大男が笑い出した。その尻馬に付いてほかの三人も自信ありげに腕まくりをして見せた。……面白いな……と思いながら吾輩はどんぶりの中の饅頭を二つ一緒に引掴んだ。

     八十四

「ところがここに一つ問題と言うのはこの子供じゃ」
 と八の字髯は仔細らしく腕を組んで皆の顔を見まわした。それにつれて四人の男が交る交る吾輩を振り返ったので、吾輩は二ツ一緒に頬張りかけた饅頭を一つに倹約した。
 八の字髯はニヤニヤ笑いながら、説明を続けた。
「のう。この子供は見かけの通りナカナカヨカ稚児じゃでのう。知事閣下がトテモ夢中になって愛着して御座ることを、先方でもチャント知っとるのじゃ。そこでこの児を人質に取って楢山社長のお手のものにして献上するとなれば、楢山社長も評判の稚児好きじゃから喜んで育てるにきまっとる。そればかりでなく、この児を取られた事が知事の方に知れたなら、知事が夢中になって逆上のぼせ上って、無理にも取り返しに来るに違いないと見込んでヤンギモンギ連れて行こうとしているのじゃが、天沢先生がこの児を押えて御座るもんじゃからナカナカ思う通りにならん」
「成る程……しかし天沢先生は温柔おとなしくこの児を知事に渡いたらよかりそうなものじゃが……」
「そこじゃ。そこが天沢先生の流儀違いのとこじゃ」
「流儀違いとは……」
「ウン。その……流儀違いと言うと、すこし言い方が違うかも知れんが、天沢老人はあの通り一寸見たところ柔和な人格者じゃが、あれが漢学仕込みの頑固おやじで、役人でもゴロ付きでも後へは引かんと言うナカナカの強情者じゃそうじゃ」
「成る程。そう言えばそげな処もある」
「そこでこの直方におっても人格者とか何とか立てられたもんじゃが、その天沢先生の眼から見ると、知事が官憲の力を利用してこの筑豊の炭田を押えようとするのは大きな間違いであると同時に、これに反抗して玄洋社が炭坑取りを思い立ったのも大きな心得違いと言うのじゃ」
「アハハハハ。成る程。それならば公平でええな」
「イヤ。笑いごとじゃない。全く公平な議論に違いないのじゃ。のみならず今の通りじゃと直方の町々はいつ喧嘩が始まるかわからんと言うので一軒残らず戸を閉め切りの有様じゃから、商売も碌に出来ん。そこでこの喧嘩を仲裁して直方の町をモトの繁昌に返すには是非ともこの児を手の中に握り込んで置かねばならんと天沢老人が頑固に構えているらしい。一方に又知事閣下は知事閣下で、なるべく喧嘩を楢山が来るまで引っぱって置いて、来ると同時にワーッと始めて、そのドサクサに乗じて楢山を縛り上げて監獄にブチ込むという方針じゃから、とにかくにもそれまではこの児を敵の人質に取られんようにせんければならん……と言う訳で、その用心棒として吾々はこの家に派遣された訳じゃ」
「成る程なあ。道理でやっと理屈が飲み込めた。今朝署長から、あの天沢病院におる子供を保護しに行けと命ぜられた時までは、何の事やら意味が解らんじゃったが……成る程なあ」
「それじゃから万一この喧嘩が、天沢老人の手で止まるとなれば、直方の人民どもはドレ位助かるか解らん」
「そうなれば天沢老人はこの直方の守り神になる訳じゃな」
「ウン。天沢老人に限らん。誰でもええ」
「しかし、この炭田争いは当分まるまいなあ」
「止まるものか。神様の力でも困難むずかしかろう。何にせいこの筑豊の炭田を皆押えたら日本帝国の世帯を引き受けるだけの財産じゃそうじゃからのう。ことに将来支那や露西亜と戦争する段になれば何よりも先に立つものは石炭じゃそうじゃからのう。政府でも一所懸命になる訳じゃ」
「しかし。今ではその炭田争いがヨカチゴ争いになりかけとるじゃないか。ハハハ」
「ウム。言わばまあソゲナものじゃ。アハハ。しかもその争いの中心を守っとるのじゃから、吾々の任務たるや頗る重大なもんじゃ」
「酒と饅頭が出る訳じゃのう」
「アハハハ……」
「いかにものう。見れば見るほどヨカチゴじゃのう」
「アハハハ。そこでチョット一杯酌をして貰おうか」
「馬鹿。そげな事すると首が落つるぞ。知事閣下のお気に入り様じゃないか」
「ヒヤッ。危ない危ない。いかにもいかにも」
「やあ。お前はモウあれだけの饅頭を喰うてしもうたか」
 不意にこう問われた吾輩は、ちょうど最後の一個を頬張っていたので、返事が出来なかった。大急ぎで口をモグモグやりながら、涙ぐんだ眼で八の字髯を見上げてうなずいた。同時に気が付いてみると吾輩は、五人の話を一心に聞き聞き、いつの間にか七つ八つ在った饅頭をペロリと平げてしまっているのであった。

     八十五

「呆れた喰い助じゃのうお前は……。そげに喰いよると虎列刺コレラにかかるぞ」
 吾輩はしかし依然として返事が出来なかった。無言のまま咽喉に詰まった饅頭をタタキ下げて、横に在った茶碗を取り上げながら一口飲むと、渋茶と思ったのが酒だったので、忽ちせ返ってしまった。
 それを見ると五人の巡査は、又も引っくり返るほど笑いこけたが、そのうちにヤットの思いで冷えた茶を飲まされて落ち着いた吾輩は、さすがに久し振りの満腹を覚えると同時に、思わず大きなゲップを一つした。
「ウ――イ美味かった」
「アハハハ。成る程大きな顔をする児じゃのう。アハハハハ」
「ドッチが美味かったか。酒と饅頭と……」
「ドッチも美味かった」
「アハハハ。トテモ物騒な稚児さんじゃのう。アハハハハ」
 吾輩はそうした五人の笑い顔を舌なめずりしいしい見まわしていたが、やがて笑い声が静まると、今度はこっちから問いかけた。
「叔父さんえ」
「何じゃ」
 と八の字髯の横の大男が坐り直した。
「戦争が始まるん真実ほんまかえ」
「ウムウム。本当じゃ本当じゃ」
 と大男が腕を組んでうなずいた。
「何処で戦争が始まるのけえ」
「それはのう」
 と大男が、片手で茶碗酒をグイグイと引っかけながら、玄関の横の方のはるか向うを指して見せた。
「それはのう。このズーッと向うにのう。鉄道線路を越して行くと多賀様と言う、山の上の神様が御座る。そこの近くに陣取っとる玄洋社という国と、それから、こちらの方のズット向うの賑やかな通りに在る青柳という家に陣取っとる知事さんの家来とが戦争をするのじゃ」
「いつ頃始まるのけえ」
「いつ始まるかわからんが、相手の大将が来ればすぐに始まる」
「相手の大将て誰や」
「玄洋社の大将の楢山到という男じゃ」
「こっちの大将は知事さんけえ」
「そうじゃそうじゃ」
「知事さんと玄洋社とドッチが悪いのけえ」
「そりゃあ玄洋社の方が悪いてや」
「そんならワテエはどっちの味方や」
「そりゃあ言う迄もない。知事さんの味方や」
「あの禿茶瓶の味方けえワテエ」
「コレ。そげな事……」
「アハハハハ。いやナカナカ痛快な児じゃのう。知事さんの味方好かんちゅうのか」
「好かん」
「アハハハ。面白いのう。何で好かん」
「あの禿茶瓶スケベエやから……」
「アハハハハハハ」
「ワッハッハッハッハッハッ」
「そんだら叔父さん」
「何じゃ。アハハ」
「そんだら玄洋社の大将はスケベエけえ」
「ウン。好色漢すけべえとも好色漢とも。知事さんよりマットマット好色漢じゃ」
「そんだら二人とも悪いのやろ」
「その通りその通り」
「そんだら二人の喧嘩めさせてもええやないか」
「アハハ。それがナカナカ止められんのじゃ」
「何で止められんのけえ」
「アハハハハハ」
「何で笑うのや。叔父さんは……」
「お前知らんけえ……」
「知らんから聞くでねえけえ」
「お前があんまりヨカ稚児じゃからよ」
「ヨカチゴて何や」
「知らんかのうお前は……」
「知らん。教えてや」
「アハハハ。これは困ったのう。教えて遣りたいのは山々じゃがのう。アハハハハ」
「ワハハハハハ……」
 酒に酔った五人は止め度もなく笑い崩れてしまった。その時に天沢老人が奥の方から慌しく、
「チイヨ、チイヨ」
 と呼ぶ声がしたので、吾輩は素破すわこそ又も一大事御参なれと言う勢いで、足を宙に飛ばして廊下を一足飛びに駈け付けてみたら何の事だ。一緒に朝飯を喰えと言うのであった。

     八十六

 吾輩はもう饅頭でウンと言うほど満腹していたので朝めしなんかどうもよかったのであるが、それでも沢庵がステキにお美味かったので、三杯ほどお茶漬を掻っ込んだ。
 それから天沢老人にねだって最前の糊押しの竹箆を貰って、硯箱の小柄を借りて、短刀の形に削り始めた。
 それは天沢老人が診察に出かけた留守中の事であったが、お嬢さんも古い糸屑箱を貼り直すと言って、秘蔵の千代紙を取り出して、火鉢で糊を煮始めたので、吾輩がその横に坐って無調法な手付きで竹箆を削り始めると、お嬢さんは、糸屑に交った竹屑をつまけながら、
「まあ、その箆を削って何にするの」
 と問うた。
「何にするて、コレ短刀にするのや」
 と吾輩は正直に答えた。
「まあ嫌……短刀を作って何にするの」
「玄洋社と知事の喧嘩を止めさせるんや」
「オホホホホホホホ」
 とお嬢さんは半分聞かぬうちに笑いこけた。このお嬢さんは実に申し分のない親切な、天女のように美しいお嬢さんであるが、タッタ一つの欠点は何を見ても笑い出すことであった。
「知事と玄洋社の喧嘩やめさせるくらい何でもあらへんがな」
「まあ。えらいのねえ。オホホホホ。どうして止めさせるの」
「知事の禿茶瓶と、玄洋社の楢山やたら言う馬鹿タレをこの短刀で突く言うておどかすのや」
「オホホホホホホホ。止めやしないわよ。オホホホホホ」
「止めん言うたら真実ほんとに殺いたる。そうしたら喧嘩ようせんやろ」
「オホホホホホ。面白いのね貴方は……東京にだってアンタみたいな児はいやしないわ」
「東京にいたんけえ。お嬢さんは……」
「ええ。東京の伯母さんとこにいたわ」
「そんだら何でも知っとるんやろ」
「何にも知らないわ。女学校を卒業しただけよ」
「そんでもヨカチゴ言うたら知っとるやろ」
「知らないわ。そんな事……」
「そんでも表にいる警察の人がワテエを見て、ヨカチゴ言うたで」
「……………」
 お嬢さんは何と思ったか吾輩の顔から視線をらすと、真赤になってさしうつむいた。しかし吾輩にはその意味がわからなかった。
「なあ。ワテエ真実ほんまにヨカチゴけえ」
 お嬢さんはヤット泣き笑いみたような顔を取り繕って吾輩をチラリと見た。
「知らないわ。そんな事……それよりもいいものを上げましょうか」
「アイ。何や」
 お嬢さんは無言のまま、膝の上に重ねた千代紙の中から、銀色のピカピカ光る紙を二、三枚引き出して、そのうちの一枚を鋏で半分に切って吾輩に渡した。
「ソレはねえ。わたしが東京から持って来て大切にしている銀紙よ。それをその短刀に貼って御覧。キット本物のように光ってよ」
「コレ。どうして貼るのけえ」
「ちょっと妾に借して頂戴……その竹箆も一緒に……妾が貼ったげるから……ね……」
 そう言ううちにお嬢さんは箱貼りをソッチ除けにして、吾輩の竹箆をイジリ始めたが、如何にも細工好きらしく、見る見るうちに竹箆が細身の短刀の形に削り直されて、ピカピカ光る銀紙が本物みたいに貼り付けられた。それからお嬢さんは、古い砂糖の箱の馬糞紙を切って、柄と鞘の形を作って、その上から紫と赤のダンダラ模様の紙を貼って、四ツ目錐で目釘穴をあけて、そこへ古い琴の飾りに使った金糸交りの赤い房を通して結んでくれたのでトテモ立派な短刀が出来上った。
 お嬢さんはそれを日当りのいい縁側に吊して、乾くまで触ってはいけないと言ったが、吾輩はそれが待ち遠しくて待ち遠しくてたまらないので、何度も何度も縁側から手を伸ばしかけては叱られた。ところが、それが日暮れ方になってヤット乾いたので、大喜びでお嬢さんから受け取って、ちょうど診察から帰って来た天沢老人に見せると、老人は眼を細くして吾輩の頭を撫でながら、自分の事のように喜んでくれた。
「ウムウム。立派なもんじゃのう。それならば危のうないから持っておってもええぞ」
「お爺さま。これで戦争出来るけえ」
「おお、おお。出来るとも出来るとも。武術の名人じゃと竹箆でも人を斬ると言う位じゃからのう。ハハハハ。明日からその短刀で稽古をせい。そうして早よう小太刀の名人になれ。ハハハハ」
 吾輩は躍り上らんばかりに嬉し喜んだ。そうしてその夜、次の間に寝かされる時に、出来立てのオモチャの短刀を枕元に置いて寝たが、それを見てお嬢さんは又笑った。
「まあ用心のいいこと。泥棒が見たら怖がって逃げて行くでしょ。オホホホホ」

     八十七

 ところが困ったことに吾輩は、この晩に限って眼がハッキリと冴えて眠れなかった。玄関の時計が十時を打っても十二時を打ってもマンジリとも出来ないばかりでなく、夜が更けるに連れて、途方もない考えばかり頭の中に往来し始めて、トテモジッとしておれない気持ちになった。
 今から考えてみるとこの晩、吾輩が眠れなかったのは、やっぱり枕元に置いたオモチャの短刀のせいに違いなかった。何しろほぞの緒を切ってからこの方オモチャなぞ言う贅沢なものを一度も手にした事のない吾輩が、本物と違わぬくらい立派な、赤い房の付いた短刀を貰ったのだから、その嬉しさというものはトテも形容の限りでない。普通の家庭に育った子供が本物の豆自動車を買って貰った嬉しさの一万倍と形容してもいい位であったろう。
 眠られぬままに何度も何度も暗闇の中に手を伸ばして枕元の短刀を探ってみる。探り当ると抜いてみる。又手探りで鞘に納めてみる。そのうちに鼠が出て来て、引いて行きそうな気がするので、シッカリと抱いて寝ると、腐った米で作った糊の甘酸っぱいにおいが夜具の中でプンプンする。それが又嬉しくていろいろな想像を描いてみる。……鬼を退治たいじる処だの……大蛇と闘うところだの……瘤おやじの幽霊を追いかける処だの……そのうちにだんだん自信が出来て来て、玄洋社だろうが、警察だろうが、この短刀一本で撫で斬りに出来そうな気がして来たので、吾輩は思わずムックと起き直った。同時に室の隅に逃げ込む鼠の音がガタガタとしたが、あとはそこいら中が森閑として、襖越しの座敷に寝ている老人とお嬢さんの寝息とがスヤスヤと聞こえて来るばかりである。
 吾輩はそのまま寝床の上に立ち上って、味噌ッ歯で短刀をくわえながら、帯をシッカリと締め直した。それから、抜き足さし足で玄関へ出て見ると、ゴリゴリキューキューと言う鼾の音が聞こえる。これは今夜用心のために患者控室に泊り込んでいる二人の巡査の中のドチラか一人なのだ。
 吾輩はその奇妙な鼾の音が可笑しかったので、一人でクックッ笑い出しながら診察室に忍び込んだ。見ると外にはヤット屋根の上に出たばかりの片われ月が光っている。その月の下の西洋式の硝子窓のネジ止めを音を立てないようにジリジリと捻じ外して、そこから外に飛び降りると、ヤット手の届くくらいの高さの窓をモトの通りに念入りに押え付けた。
 ところがそこから跣足はだしのまま横露地の闇づたいに往来の処まで来て、首をソーッと出してみると驚いた。すぐ向家むかいの乾物屋の軒の下に私服の巡査が二人立っていて、こちらを見ながらヒソヒソと話し合っているではないか。
屋内なかには二人泊り込んでいるのだな」
「二人とも御馳走酒に酔っ払って鼾を掻いているようだ」
「吾々が二人新たに張り込んだ事を知らせて遣ろうか」
「イヤ。それはいかん。近所に知れるといかん。秘密警戒じゃからな」
 二人はソレッ切り話をやめた。そのうちの一人のサアベルのこじりが半分ほど月の下に突き出て、ピカピカ光っているのがトテモ凄い。
 吾輩は二人の話ぶりから、何かしら形勢が切迫していることを直感しいしい、ソーッと首を引っこめて、反対の方向に爪先走りをした。すると間もなく横露地が行き止まりになって、張り物屋らしい広場と花畠がある。その花畠の向うはズーッと黒板塀になって、その向うが往来か何からしく見える。
 吾輩は、その黒板塀の内側の横木に飛び付いて、難なく幅の狭い冠板の上に突っ立った。見るとそこは往来でなくて、深い大きなどぶになっているので飛び降りる事が出来ない。仕方なしに吾輩はその板塀の上を綱渡り式に渡って、土塀に取り付いた。その土塀から煉瓦塀、煉瓦塀から又板塀と一町ばかり渡って行くうちにようようの事で小さな橋の袂に来たので、ヒラリと往来の上に飛び降りた。その拍子に懐中から飛び出した短刀を拾い上げて念入りに懐中ふところへ押し込むと、多賀様と思う方向へ一所懸命に走り始めた。

     八十八

 その頃の直方は今の三分の一ぐらいしかない、小さな町であった筈であるが、子供の足で走ってみるとナカナカ広い町のように思えた。ことに福岡市と違って吾輩に取っては全然不知案内の処だったので、多賀様が町のどっちの方向に在るかマルキリ見当の付けようがなかったが、何でも昼間大男の刑事巡査が指さした方向に走って行ったら何処かで鉄道線路に行き当るだろう。そのうちに汽車の音が聞こえたらその方へ走って行ってもいい。そこでその鉄道線路を越したら山にブツかるだろう。そうしてその山の中を探したら何処かに神様の鳥居が在るだろう。それが多賀様で、玄洋社の根拠地に違いない……と言う例によって無鉄砲な見当のつけようであった。
 そこでその多賀様に着いたら、壮士が何人いようが構わない。この短刀を突き付けて、直方の町の人のために喧嘩を止めるか止めないか談判して遣ろう。楢山と言うスケベエの大将の言う事を聞くような奴の家来だったらドッチにしても高がれている。知事でさえ吾輩に頭を下げる位だから、大抵の奴なら睨めくらだけでも吾輩に降参するだろう。
 万一言う事を聞かなければ片っ端から突き殺すまでの事だ。瘤おやじやハンマの源太やぐらいは言う迄もない。天沢老人でさえ吾輩に敵わない処を見ると、大人と言うものは存外無調法な、意気地のないものとしか思えない。
 そこで玄洋社側をヤッツケたら今度は、青柳とか言ううちへ行って、ジカに知事に会って一談判喰らわせてくれよう。そうしてこの喧嘩を止めさせて、直方中の人々を助けて遣ったらドンナに喜ぶ事だろう。世の中に商売の出来ないくらい辛い事はない事実を、吾輩はこの年月の乞食商売の経験で骨身に泌みるほどよく知っている。商売が出来ないと言って吾児に八ツ当りをする親がまだほかにドレ位いるか解らないのだから、そんなのをミンナ一時に助けて遣ったら吾輩はそれこそ無数飛び切りの日本一のヨカチゴさんになるだろう……。
 ……なぞと子供らしい空想を、次から次に湧かしながら、前後を振り返り振り返り、月あかりの町を走って行くうちに、とある横町を曲り込むと間もなく、アカアカと明りのさす、大きな西洋館が見えて来た。
 吾輩はその時チョット不思議に思った。
 第一この界隈にコンナ大きな家は一軒もなかったし、ことにこの真夜中に、商売でもするように表の戸を開け放している家なんか滅多にある筈はないのだから、子供心に不思議に思い思い、懐中ふところの短刀の柄を握り締めて、軒の蔭のドブ板を一つ一つに爪先で拾いながら近づいて見ると、何の事だ。それはこの直方の警察署で、軒の上に取り付けてある大きな金色の警察星と、赤い軒燈の光が、満月のように明るい夏の夜の片割れ月の光に紛れていることが間もなく吾輩にうなずかれたのであった。
 吾輩はそう気が付くと同時に、誰もいない入口の石段の上に素足を踏みかけて、人民の受付口からソーッと室の中を覗いてみた。
 見ると室の中は福岡の警察よりもずっと広いようであるが、高い高い天井裏から黒い鎖が一本ブラ下がって大きな八分心のランプが一つるして在る。その下の青い羅紗をかぶせた大きなテーブルを取り囲んで三人の巡査が茶を飲みながら、何事か低声こごえで話し合っていたが、その言葉のうちに「天沢」とか「玄洋社」とか言う言葉がチラチラ聞こえたから、吾輩は思い切って石段を上ると、受付の窓口に取り縋りながら、自分の事のように耳を傾けた。
「楢山が今夜来ると言うのはホントウか」
「ホントウとも。福岡から確かな情報が入っとる。それじゃから知事閣下は三池炭坑にいる兄弟分の鬼半の乾児こぶんを呼び寄せるように電報打ったという話じゃ」
「楢山が来ればすぐに喧嘩を始める積りじゃな」
「ウン。その積りらしい。何でもその鬼半の乾児が四十名ほど三時の貨物列車で直方に着くという話じゃが。これはまだ誰も知らんそうな」
「ウム。まだ二時間ばかりあるな」
「しかし、そんな事をせずとも、楢山が直方に着く前にくくり上げてしまえばイザコザはなかろうが」
「それがナカナカそう行くまいて。第一どこから来るかわからんし、それにシッカリした壮士が護衛して来る筈じゃからのう」
「ところで、楢山がこっちへ着いたら、直ぐに多賀神社の方へ行くだろうか」
「それは、今言う通りで、直接に天沢老人を訪問するという説が多いのじゃ」
「やはりかの子供のためじゃろうな」
「そうじゃろうと思う」
「英雄色を好むかな。ハハハハ」

     八十九

「ハハア。成る程。そこで今夜は天沢老人の家を内外から警戒しとる訳じゃな。来たら直ぐに有無を言わさず引っくくる方針で……」
「ウム。その積りでこっちはいるし、大友一派もその積りで青柳に集結しとる訳じゃが、玄洋社側ではこっちの計略をチャンと感付いていて、楢山には指一本も指させんと豪語しとるそうじゃ」
「知事閣下もあの子供には指一本指させる事はならんと言うて御座るそうじゃからのう」
「何にしても高が乞食の児の癖に途方もない大問題になりおったものじゃのう」
「イヤ。大問題になるのも無理はないてや。署長の見込では容易ならぬ悪性の無頼少年チンピラか、それとも天下取りの卵かも知れんと言うとる位じゃからのう」
「それに天下無類のヨカ二世チュウ話ではないか」
「ヨカニセて何の事かい」
「知らんか……玄洋社の連中はヨカチゴの事をヨカ二世と言うのじゃ。二世さんとも言うげなが。二世て契るという訳じゃろう。アッハッハッ……」
「それでもまだ七ツか八ツと言うじゃないか」
「ウン。しかし一眼見るとポーッとなる位、可愛い顔しとるげなぞ」
「お前まだ見んのか」
「ウン。しかし村岡が言いよった。きょう天沢の処へ警備に行ったのでのう。酒の酌をさせたと言うて自慢しよったが……」
「ウーム。一眼見たいものじゃのう」
「けれども饅頭の喰い方の荒いのには魂消たまげったと言うぞ」
「アハハハ。馬鹿な……」
「イヤ。全く呆れたと言うぞ。二十近く在ったのを瞬く間にペロッと喰うたちゅうぞ」
「……違う……」
 吾輩は思わずこう叫んだが、後から気が付いてハッとした。巡査が一斉にこっちを向いたので……しかしその揃いも揃ってビックリした制服の顔がアンマリ可笑しかったので、吾輩はモット戯弄からかって遣りたくなった。
「アハハハ。みんなで饅頭十一や。アハハハハ……」
 三人の巡査は魔者まものにでも出会ったように、青くなった顔を見合わせた……と思う間もなく一番向うにいた青髯巡査が、佩剣はいけんをガチャリと机の脚にブッ付けながら、一足飛びに駈け出して来たので、今度は吾輩の方が驚いて鉄砲玉のように表に飛び出した。そうして飛び出すと同時に吾輩は左右を見まわす間もなく、警察の横露地に逃げ込んだが、入れ違いに往来へ出た青髯の巡査のあとから、ほかの二人も往来へ出て来たと見えて頓狂な声で評議を始めた。
「何もおらんじゃないか」
「いや。たしかに子供の声じゃったぞ」
「ウン。饅頭は十一じゃ。アハハハと笑いおったが」
「不思議じゃのう。おらん筈はないが」
「何かの聞き違いじゃないか」
「イヤ。二人とも聞いとるのじゃから間違う筈はない」
「そこいらの横露地に逃げ込んどりゃせんか」
 と言ううちに一人の巡査の靴音が、向うの家の間を覗きに行った。同時に吾輩は警察の奥へ逃げ込むべく身構えていたが、間もなく一人の巡査が口を利き出したので、又立ち止まった。
「待て待て、これは事に依ると切支丹の魔法かも知れんぞ」
「ナニ、魔法?」
「ウム。あの子供は魔法使いと言う噂があるからの」
「アハハハ。そげな馬鹿な事が……」
「イヤ。あの磯政の乾児のハンマの源太でさえも、あの子供に遣っ付けられたと言う位じゃないか」
「ウム。そう言えばそげな話も聞いた」
「何でもあの子供がヤッと言う気合いをかけると、ハンマの源は息が詰まって引っくり返ったと言うぞ」
「そげな話じゃのう」
「あの家の評判娘が手裡剣を打ったとも言うとるではないか」
「そげな話もあるが、しかしハンマの源は実際、何処にも傷を負うておらん。その代りに息が詰まって、命からがら逃げて帰ると、大熱を出いて、まあだ寝とるチュウ話ぞ」
「フーム。それが真実ほんとなら、やっぱりあの子供の幻魔術ドグラマグラかも知れんのう」
「ウーム。今の声ものう」
 三人の巡査がそのまま黙り込んでしまったので、そこいらが急に森閑となった。三人が三人とも吾輩の魔法を信じて気味が悪くなったらしい気はいである。
 吾輩は又も、たまらなく可笑しくなって来た。しかし今度は一所懸命に我慢をして、三人の巡査が引っ込むのを待っていると、間もなく吾輩が来た方向の横町から、
「オーイ、オーイ……大事ぞオー……」
 と呼ぶ声と一緒に、バタバタと走って来る靴の音が聞こえた。

     九十

「オーイ。何かあ……」
「荒川じゃないか。どうしたんかあ……」
 とこっちの巡査が交る交る返事をした。そのうちに荒川と呼ばれた巡査の佩剣と靴の音が入り乱れて近づいて来た。
「オイ。大事件じゃ大事件じゃ」
「何が……どうしたんか」
「天沢病院の子供がのう……」
「それがどうしたんか」
誘拐ゆうかいされたぞッ」
「ナニ。誘拐された」
「……かどうかわからんがのう……家の中におらん事がわかったのじゃ……小便に起きた天沢老人が発見して、今大騒ぎをしとるところじゃ。……すぐ手配してくれい」
「手配してくれいと言うたとて、皆青柳に詰めかけとるで、ここにいるのは留守番の三人切りじゃ。三人ではドウにもならんがのう」
「天沢病院の戸締りは全部あらためたんか」
「チャンとして在ったそうじゃ。それに子供はお嬢さんになついとるで、逃げて行く筈はないと天沢老人は言いよるげなが……」
「……そんなら今の声は……」
「何じゃ、今の声とは……」
「タッタ今ここで子供の声がしたんじゃ」
「ナニ。あの子供の声が、ここでしたんか」
「ウム。その子供の声かどうかわからんがのう。アハハと笑う声をたしかに聞いたんじゃが」
「そんなら、まだそこいらに……」
 と言ううちに四人の巡査は慌てて四方に別れながら、近まわりの露地を覗いてまわるけはいである。
 ここに於て吾輩も慌てざるを得なくなった。ここにいては袋の鼠と考える隙もなく、警察の奥へ逃げ込んで、裏口からソーッと忍び込むと、最前三人の巡査が評議していた室のまん中の大テーブルに掛かった青い羅紗の下へ這い込んだ。同時にここへ入ってはイヨイヨ袋の鼠と気が付いたがモウ遅かった。
「おらんのう」
「ウン。何処にもおらんようじゃ」
 とガッカリした口調で話し合いながら四人の巡査がドカドカと入って来て、吾輩の周囲を取り巻きながら腰をかけた。
「とにかく署長殿に報告してくれい」
「お嬢さんも、やはり誘拐されたと言うて泣きよるげなが」
「そげな事はどうでもええ」
「署長殿は青柳に行っておられる。知事閣下と一緒に飲み御座るじゃろ」
「困ったのう。報告したら大眼玉を喰うがのう」
「それはそうじゃ。又、知事閣下のカンシャク玉が破裂するぞ。四人も張り込んどって取り逃がいたのじゃから……」
「とりあえず貴公達四人は免職になるかも知れん」
「困ったのう。報告せんうちに探し出す工夫はないか知らん」
 と荒川巡査は半分泣きそうな声を出した。
 吾輩は四人の巡査が可哀そうになった。
 今更に悪い事をしたと気が付いたので、すぐにテーブルの下から飛び出して、温柔おとなしく縛られて遣ろうと思いかけたが、まだそう思うか思わぬかに、又も突然表の方からバタバタと走り込んで来る靴音がして、息も絶え絶えに叫ぶ若い男の声がした。
「大変じゃ……タ……大変……」
「何だ何だ。木村巡査。何が大変じゃ」
「ああ苦しい苦しい。息が切れて……たまらん。署長殿はどこにおられますか」
「署長殿は青柳じゃ。福岡から来た私服連中と一緒に御座る」
「そんならそちらへ報告して下さい。私はモウ……眼がくらんで……」
「……何を……何を報告するんか」
「私は……直方駅の、南の踏切の処から、多賀神社の方向を監視しておりました。そうしたら……そうしたらあの方向の、民家の燈火あかりが急に殖えて……見えたり隠れたり……ああ苦しい」
「サア茶を飲め。燈火が殖えたのがドウしたんか……しっかりせい」
「ケヘン、ケヘン……それで私は……怪しみまして……思い切って神社の裏手から、遠まわりをして近付いてみますと……玄洋社の壮士連中が皆起きて、出発の準備をしております」
「ウーム。何処へ行くんか解らんか」
「鬼半が加勢に来るから、その加勢が来んうちに、知事をタタキ伏せると言うて……ケヘン、ケヘン」
「イヤア。それは大変じゃ……」

     九十一

「一体いつのことか、それは……」
「今……タッタ今のことです。まだ壮士連は多賀神社を出発しておらん筈です。飯を喰いよりましたから……」
「ナル程。貴公は新米の癖にナカナカ機敏じゃ」
「機敏はええが、こっちも機敏にやらんといかんぞ。すぐに報告しなくては……小早川……君はすぐに青柳に走ってくれい。それから瀬尾君……貴公はモウ一度線路付近へ行って様子を見て来てくれい」
「よし。心得た」
 二人の巡査は、そのまま表に駈け出すと、すぐに左右に分かれて行った。後に残った二人の巡査は立ち上ってバタバタと表の扉や窓を閉め始めたが、吾輩は、その隙を狙って裏の方へ抜けると、最前忍び込んだ道筋を逆に往来へ飛び出して、一所懸命に瀬尾巡査の後を追跡した。
 瀬尾巡査は警察署の前から十間ばかりも離れると、間もなくユックリユックリした大股になりながら、帽子のアゴ紐をかけた。それから又小急ぎになってゴミゴミした横町を二、三度曲って行くと間もなく鉄道線路へ出た。そこで瀬尾巡査は線路に添うてズット向うの踏切の方へ行くらしかったが、吾輩はそちらへは行かずに、すぐに線路と道路との仕切りになっている、黒い焼木杭やきぼっくいの柵に取り付いた。モウ瀬尾巡査に踉随くっついて行かなくともいい……多賀神社と思われる鳥居の生えた山が、ツイ鼻の先のお月様の下に、クッキリと浮かみ出ていたからであった。
 しかしよく気を付けてその鳥居の近くを見ると、最前の巡査の報告と違って、そこいらには何の燈火も見えない。ただ鳥居の向うにタッタ一つ焼籠やきかごの火か何かがチラチラしているだけで、人影も見えず、山の上の大空から、山の下の線路へかけて、月の光が大河のように流れている。夢のように美しい夏の真夜中である。そこいらの草原には虫の音がシミジミと散らばって、トテモ殺気に満ち満ちた直方の中心地帯とは思えない。
 吾輩は何だか狐につままれたような奇妙な気持ちになった。何だか吾輩タッタ一人が、大勢の大人から寄ってたかって馬鹿にされているような……又は現在自分は夢を見ているのじゃないかと思われるような、一種の奇妙な錯覚にとらわれたまま暫くボンヤリとそこいらを見まわしていたようであったが、そのうちに又気が付いて、線路の柵の間をスリ抜けると上りと下りと四本並んだレールの上を、人に見つからないように這いながら、ソロソロと渡って向う側に出た。
 線路の向うは幅の狭い草原になって、山のつけ根まで青々とした田圃になっている。穂を出しかけた稲が、露を含んでギラギラと美しい。その間をズーッと多賀神社の方向へ、一間幅ぐらいの道がうねり曲っている。
 それを見ると吾輩はすぐに柵の間から飛び出して、多賀神社の方へ行こうとしたが、その時にその里道を向うから来る三人連れの男の影が見えたので、パッと傍のくさむらの蔭に身を伏せた。
 月あかりで見るとその三人は紛れもない玄洋社の壮士であった。三人が三人とも白地の浴衣に白兵児へこ帯を締めて、棒杭みたような大きな杖を打ち振り打ち振り、大きな下駄をゴロンゴロン引きずって来る。如何にも傍若無人の態度である。しかもそこいら中筒抜けの大きな声で喋舌り合って来るので、その用向きが手に取るようにわかった。
「オイ。急がんと間に合わんぞ。三時と言えばモウじっきに来るぞ」
「あすこいらへ大きな石が在ればええが」
「ない事はなかろう。ない時にゃあの石橋の角石をば外いて線路い寝せとくたい」
「遠い処から見えやせめえか」
「一町ぐらい離れとりゃ、わかるめえ」
「駅の入口で汽車が引っくり返ったなら、駅長が引っくり返ろうやねえ。ハハハ」
「あんまり大きな声で笑うな。敵に聞こえるぞ」
「聞こえた方がええ。早よう喧嘩が始まるだけの話じゃ。この頃久しゅう人を投げんケンのう」
「ウム。俺も腕が唸りよる。鬼半の乾児が半分ぐらい生き残ろうか」
「ナンノ、汽車が引っくり返っても怪我する位の事じゃろう」
「丸々四十人が無事で汽車から出て来ても、一人で十五人ずつ引き受くれば、相手が五人足るめえが」
「そら不公平じゃ。それよりか俺たちが二人で二十人ずつ投げ殺す方が割り切れてえ。離れてあしらう。隙を見て組み着く。当て殺いてから投げる……ちゅう塾頭の教えた型通りに行けば二十人位十分間で片付くじゃろ。貴様は横で月でも眺めてでもヘヘリヨレ」
「アハハハ。それもよかろ。……あああ肥後の加藤が来るならばア……か……」
「弾丸硝薬ウウウウ……これエエエエ……ゼンシュウウウウ……チエーストーオ」
「アハハハハハハハ……」
 三人は吾輩の前を通り過ぎ、高い茅原の蔭に隠れて行った。アトには詩吟と天の川が一筋残った。

     九十二

 あとを見送った吾輩も、実を言うと腕が唸った。三人が三人とも見るからに腕っ節の強そうな壮士なので、ハンマの源なぞよりはズット手応えがありそうに思えたが、ジット我慢して遣り過ごして、柵の間に身を退いた。又も線路の上を這うようにして向う側の柵へ取り付いて、柵の蔭をソロソロと伝いながら直方駅の軒の下の暗がりに這い込んだ。
 そこで頭を持ち上げてみると、直方駅の待合室には洋燈ランプも何もいていなかった。その中に何人かの巡査が睡りこけているらしい姿が見えたが、そんなものには構わずに、ピッタリと閉した入口を通り過ぎて、一番向うの端のカンカン燈火あかりのついた駅長室を覗いてみると、思わずアッと声をあげる処であった。
 紋付袴に黒山高の威儀堂々たる大友親分が、駅長らしい色の黒い制服制帽と、例によって髯だらけの荒巻巡査と三人車座になって、真赤に起った七輪の炭火を囲みながら、汗を拭き拭き何かやっている。見るとそれはするめを焼いては引き裂いているので、左右の机の上と、窓の框に置いた三ツの八寸膳の上には鯣と切り昆布の山が出来ている。傍にはこも冠りの樽が二つ置いて在るのが見えたが、そのうちに焼き鯣のたまらないにおいが、はらわたのドン底まで泌み込んだ。吾輩はソーッと手を延ばして、窓の框上に在る膳の中から昆布と焼き鯣を引っ掴んでは懐中ふところに捻じ込んだが、話に夢中になっている三人はチットモ気付かぬらしかった。
「まだ汽車の笛が聞こえんなあ。モウ着く頃じゃが」
 と大友親分の声……。
「ハイ。しかし汽笛よりも先に轟々と音がします。今夜のような静かな晩は三里位先から聞こえますから、それから乗降場ホームへ出ては早過ぎる位です」
 と駅長が何だか気の進まぬ調子で説明した。
「みんな多少は酔うとるかもしれん。折尾で夜食を喰うとる訳じゃから」
「イヤ。喧嘩の前は奇妙に酔わんものですよ。それよりも吾々の計画が相手に洩れとりゃせんかと思うて、それを心配しよりますが」
「大丈夫です。駅員は皆帰しとりますから。ハハハ……」
 と駅長が、やはり気のなさそうに笑った。
「心配せんでもええ。今からなら洩れてもええわい。玄洋社むこう狼狽うろたえて仕掛けて来れば、仕掛けた方が悪いことになるから、一人残らず引っ括るだけの話じゃ。ハハハ。事によるとこの酒が、夜の明けぬうちに勝ち祝の酒になるかも知れんてや……」
「そこです。私も考えておりましたて……ハハハハハ」
「ワハハハハハハハハハ……」
「ヘヘヘヘヘヘヘヘ……」
 そんな笑い声を聞き残しながら吾輩は、鯣を一本口に押込み押込み、駅の横の便所を抜けて、ポイントの前に在る焼木杭やけぼっくいの柵を潜り抜けた。
 その頃のポイントは今と違って、吾輩の背丈ぐらいある大きな鉄のかんざしみたような恰好のものであったが、そんなのが四ツ程、小舎こやの蔭の薄くらがりに並んでいた。その中でも左から二番目の奴がタッタ一本手前の方へお辞儀をしているのであったが、それを見ると吾輩はイキナリ、そのハンドルに手をかけた。
 吾輩は今日まで津々浦々を歩いて来たおかげで、鉄道線路や駅の構内の模様は何度も何度も見て知っていた。その中でもポイントの理屈は子供の目に面白いだけに、一番先にわかっていて、いつか一度は自分でやって見たくて見たくてたまらなかった。駅長や駅夫になって、思う通りに汽車を止めたり走らしたりしたらドンナにか面白いだろうと、心ひそかにあくがれ願っていたくらいであったが、今夜計らずも玄洋社の壮士の話を聞くと同時に、思わずムラムラと野心が起って来たのであった。
 ……玄洋社の壮士は三人がかりで駅の入口の線路に石か何か置いて、汽車を引っくり返す計画らしい。そうして加勢に来た鬼半の乾児こぶんを一人残らずやっつける計画らしい。
 ……一方に大友親分の一味の連中は、そんな事が相手に洩れている事を知らないらしく、列車が着くのを待ちかねているようである。そうして加勢の人数が着くと同時に玄洋社側に戦いを挑む計画らしい。
 だからこの際、線路の遠くに在るシグナルを上げて、はるか向うの田圃の中で汽車を止めたら両方ともアテが外れてガッカリするだろう。事に依ったら双方とも張り合いが抜けて、この喧嘩を止めてしまうかも知れない……と言うような、如何にも子供らしい、面白半分の計画で、ポイントを上げにかかったのであったが、しかし、そうした考えのモウ一つ奥を言うと、大きなポイントを自分の手一つで動かしてみたかったのが一パイに相違なかった。

     九十三

 ところが困った事に鉄道のポイントなるものは、誰でも知っている通り、容易ならぬ重たさのものである。その上にハンドルの白く光っている処が、手のあぶらでヌルヌルしていて力を入れるたんびにツルリツルリと辷ってしまうので、先天的に怪力を持っている上に体力不相応な荷物持ちで鍛え上げた吾輩の腕力を以てしても容易に歯が立ちそうにない。
 そこで吾輩は一思案をして、両手に泥を一パイに塗り付けて、膏ダラケのハンドルをゴシゴシとこすった。それからふところの中の昆布と鯣がバラバラと地面へ落ちるのも構わずに、必死の力で抱え起すと、腕がモウ抜けるかと思う頃やっと上の方へ一寸ばかり上った。そこで最早スッカリ脱け切った力を一所懸命に奮い起してグングン引き上げると間もなく、惰力が付いたと見えて、さしもの大きな鉄の簪がグリグリゴトンと地響を打たして、向う側に引っくり返った。それに連れてはるかはるか向うに見える螢のような青い火がチラリチラリと瞬いたと思うと、クラクラと赤い灯に変ったが……その時嬉しかったこと……。モウ一度やり直して見たくてたまらなかったが、トテもそんな力が在りそうにないので諦めた。懐から落ちた鯣と昆布を月あかりに透かしながら大急ぎで拾い集めていると、又も駅長室の方から大きな笑い声が爆発した。
「アハハハハ」
「ウワッハッハッハッハッハッ」
 吾輩はその笑い声に追い立てられるように、駅の構内を上り線の方へ走り出した。今度は駅の入口の線路に置いてある石と、汽車の止まる処が見たくなったので……。
 ところが駅の入口の踏切の処に来て見ると、案外にも石がまだ置いてない。線路の左右には小さな溝川があって白い切石の橋が架かっているが、それを取り外した模様もない。どうしたのかと思って線路の上から遠くを見まわすと置いてない筈だ。はるか向うの溝川の処から、最前見た三人の書生がヨチヨチと歩いて来るが、その一人一人が、手に手に長さ三尺ばかりの四角の切石を一ツずつ抱えたり担いだりして来るようである。
 吾輩はその腕力のモノスゴイのに感心してしまった。玄洋社の壮士とはコンナにも強いものか。これでは巡査が百人かかっても敵わないだろう……なんかと想像しながら傍の茅草の間にモグリ込んで、なおも様子を見ていると、三人はそのままヨタヨタと線路の側まで来て、往来のまん中へ石を投げ出したが、その地響が吾輩の足下までユラユラと響いた。同時にそこいらの草原の中で鳴いていた秋虫が一斉に啼き止んだ位であった。
「ああ……汗ビッショリになったぞ」
「線路の両方に乗せるか」
「イヤ片方に三つ固めて載せたがええ。その方が引っくり返り易かろう」
「二人ずつで抱えようか」
「ウン。そうしよう……」
「オイオイ。チョット待て……」
 と、うしろの方に突っ立っていた一人が驚いたような声を立てたので、吾輩は見付かったのかと思って首を引っこめたが、耳を澄ましてみると違っていた。
「聞いて見い」
「何かい」
「汽車が来る音が聞こえるぞ」
「……………」
「ウン。聞こえる聞こえる」
「……………」
 三人は無言のまま大急ぎで切り石を抱え上げて、線路の上に置き始めた。
 吾輩は胸が躍った。すぐにも首を出して線路の向うを見渡したかったが、三人が頑張っていては身動きが出来ないので、そのままジリジリと後しざりをして黒い柵の外に出た。そうして柵と並行した往来を一散走りに駅の方へ走り戻って、便所の横の柵から便所の屋根へ……便所の屋根から駅の本屋根へ登ってペタリと瓦に腹這いになりながら、ソーッと首を伸ばして見ると、見えた……見えた……。
 赤い信号のの向うに今一つ赤茶気た灯がチラチラして、その向うに何やら黒い巨大おおきな物の姿がジットしているのが月あかりでボンヤリと見えていたが、やがてその黒い固まりが白い蒸気を継続して空中に噴出ふきだした……と思う間もなく、慌しい汽笛が、静かな夏の夜の空気をつんざいて、直方の町々を震撼すると同時に、山から野原を鳴り渡り鳴り響いて、月の下を遠く遠く消え去った……と見る間もなく、又も前より一層激しい汽笛の音が火の付くようにほとばしり始めた。

     九十四

「非常汽笛だ、非常汽笛だ」
事件ことだ、事件だッ」
「皆起きろッ……起きろッ」
 と叫ぶ声が、眼の下の駅の軒先から飛び出した。それは駅長と大友親分と荒巻巡査部長であった。
「どうしたんか」
「非常汽笛です」
「何か起きたんか」
「アッ、信号標が上っている」
 と叫ぶうちに駅長はポイントに飛び付いて引き起した。それに連れて遥か向うの赤い灯がチラリと青い灯へ変化したが、それでも汽車は動き出す気はいがないばかりでなく、却って前よりも急激な笛を吹き立て始めた。駅長が手提ランプの青い灯を振りまわして見せれば見せる程、その笛が猛烈になって行くのであった。
「何だ何だ……どうしたんか駅長……」
「何か故障が起きているようですが……アッ。あの線路の上の白いものは何だろう」
「ウム。何か四角いものが寝とるようじゃのう」
「何だろう」
「何でしょう」
 最前から腕を組んだまま黙ってその方角を見ていた大友親分はこの時急に叫び出した。
「あッ……ダイナマイトだ。綿花薬ハッパだ、綿花薬だ」
「ウンそうかも知れん。ソレッ。皆来い」
 と言ううちに荒巻巡査は顎紐をかけて走り出した。四、五人の巡査もその後から走り出したが、その背後うしろから大友親分は追いかけるように怒鳴った。
「気を付けんと危ないですぞ」
 荒巻巡査は振り返り振り返り首肯いて行った。そのあとから巡査達は線路伝いに一直線になって走って行ったが、その行く手の方を心配そうに見渡した大友親分は、前の通りにジット腕を組んで考えているうちに、フト思い出したようにうしろに突立っている駅長を振り返った。
「駅長さん。済みまっせんが、チョット駅の前の俥屋を起いて来て下さらんか」
「ド……ドウしてですか」
 と駅長はアンマリ突飛な頼みに驚いたらしく呆然とした口調で問い返した。しかし大友親分は一向平気な態度でその顔をシゲシゲと見守りながら山高帽を脱いで頭を掻き掻き高笑いをした。
「アハハハハハ……。イヤ、これは私が遣り損いです。これ程に事情が切り詰まっているとは今の今まで気が付きませんでした。すぐに青柳へ知らせて乾児共を全部呼び寄せて置かねば、あぶないと思いますので……」
 吾輩は大友親分の烱眼けいがんに些なからず感服した。表面何の変りもない月夜の直方駅の構内構外に、殺気が横溢していることが、屋根の上からハッキリと見え透いて来たので……しかし駅長は大友親分の言う事がわからないかのようにイヨイヨ顔を長くした。
「そ……そんなに大事件……」
「ハッハッ。大事件ですとも……味方の計画が全部敵に洩れておりますわい。アッハッハッハッ……」
 大友親分の笑い声は、駅の構内に溢れて、ズット向うの多賀神社まで反響したくらい、高らかに響き渡った。
 駅長はその笑い声に圧倒されたかのようにワナワナとふるえ出した。膝小僧のガクガクしているのが月あかりにハッキリと見えた。
「……どど……どうしてこちらの計画が、玄洋社側に……洩れたのでしょう」
「……貴様が洩らしたんじゃろう」
 と言いも終らぬうちに大友親分は、眼にも止まらぬ早さで、駅長の横面を一つグワンと喰らわせた。駅長はそのままウンともスンとも言わずに線路の上に転がり落ちて、あとに手提ランプばかりが、チャンと地面に突立ったまま残った。
「ウフフフ。馬鹿。貴様は玄洋社長から学費を貰うたことがあると聞いとったが、果しておったわい。貴様よりほかに今夜の事を知っとる奴はおらん筈じゃからのう。フフフ……取りあえず今夜の血祭りじゃ」
 と憎さげにつぶやくうちに大友親分は、駅の内外を注意深く見まわしながら、悠々と手提ランプを持って駅の構内を出た。そうして駅の向い側に並んでいる民家の中で「人力車」と書いた大きな提灯を下げた家の表戸をホトホトと叩き始めた。

     九十五

 一方に月あかりの中を駅の外へ走り出した荒巻巡査の一隊四、五人は、構外踏切の線路の上に置いた白い花崗岩みかげの切石の処まで来ると手を揃えて石を抱えけ始めたから、どうなる事かとなお伸び上り伸び上りしていると、果して、まだやっと一つ抱え除けるか除けないかに、田圃の青稲の蔭から四、五人の壮士が躍り出して、髯巡査達の背後から襲いかかった。巡査たちの白い服が見る見るうちに片っ端から稲田の中に投げ込まれるのがよく見える。そのうちに一人佩剣はいけんを抜いて、二、三人の壮士と渡り合っているのは荒巻巡査らしい。口には呼子笛よびこを啣えているらしく、微かな笛の音が断続して聞こえて来る。
 ……と思ううちに又、吾輩の背後うしろの方から夥しい人声が聞こえて来たので、何事かと思って振り返ってみると、駅の前の本街道に通ずる横町から、足ごしらえをした若い者ばかりが五、六十人、手に手に得物を持ちながらドヤドヤと走り出て来た。しかもその中には消防の身姿みなりをして鳶口とびくちの長いのや短いのを持っている者が多数に交っていたが、それを見ると大きな俥屋の提灯の蔭に隠れていた大友親分は、ツカツカと駅前の広場のまん中へ出て来たので、皆一斉に立ち止まりながら、
「オ――ッ」
 と声を挙げかけた。
 紋付袴に山高の大友親分は、その前に堂島(その当時流行した表付の下駄)を踏んはだかって、片手をあげながら制し止めた。
「しっ、声を立てるなと言うに……」
 五、六十人の人間が一時にピッタリと静まったが、それと同時にバラバラと隊を崩して大友親分を取り巻いた。
「しかし、どうしてこげに早う来たか。今知らしゅうと思うた処じゃったが」
 大勢の中から一人の背の高い消防服の男が進み出た。新しい手拭で白鉢巻をして、長い鳶口を金剛突きにしているのがステキに勇ましく見える。
「ヘイ。その……玄洋社の方で今夜、鬼半の加勢が来るちゅう事をチャント知っとるチュウ知らせが本署から来ましたので……」
「ウ――ム。成る程……」
 と大友親分は山高帽を阿弥陀に冠り直しながら駅の屋根を見上げた。吾輩は見つかりはしまいかと思って吾知らず首を縮めた。消防服の男が鉢巻を取った。
「ヘイ。そんで皆、身仕度しとる処へ、最前非常汽笛が長いこと鳴りましつろう」
「ウム。それで列車に事が起ったと思うて駈け付けたんか」
「ヘイ。そんで様子を見に来たのです」
 大友親分は腕を組んで考えた。
「警察はどうしとるか」
「警察はズーと向うの下りの踏切の横町に隠れております。喧嘩が始まったら、止めるふりをして割り込んで、片っ端から壮士連中を斬ると言うております」
「ウム。何人位いるか」
「今集まっただけで二十人位おりました」
「ウムよしよし。貴様達は皆駅の待合室に固まってジット隠れとれ。俺が合図をする迄は一足も出ることはならんぞ……ヤッ……呼子が鳴っとるじゃないか」
 大友親分はそう言いながらジット耳を傾けていたが、やがてモウ一度、
「ええか。待合室にジッとしとれよ」
 と念を押しながら急いで待合室を駈け抜けてプラットホームへ出た。
 大友親分が小手をかざして出て見た時に、線路の向うでは喧嘩がグングン拡大しかけていた。
 田圃に投げ込まれた巡査連中が皆匐い上って来て、一斉に抜剣をしたせいか、相手になっていた壮士連が、すこし切り立てられ気味になりかけると、その背後から又も十人ばかりの壮士が一斉に飛び出して来て、巡査の一隊を包囲しそうな形勢になったので、巡査たちは思い思いに刀を引いて駅の構内へ逃げ込んで来た。その後からかさず壮士連の白い浴衣がバラバラと追い込んで来る模様であったが、間もなくその十四、五人の壮士連が一人残らず立ち止まって背後を振り返った。
 それは線路の上のはるか向うからときの声をドッと作って、一隊の黒い人数が殺到して来たからであった。

     九十六

 それは言う迄もなく鬼半の加勢の連中四十名が列車の中から飛び出して、駈け付けて来たものに違いなかったが、それを見ると十四、五人の壮士は一斉に身を翻えして立ち向って行った。同時に稲田の蔭から又も、十人ばかりの壮士の同勢が立ち現われて、十四、五人と一カタマリになって線路の上を突喊とっかんして行った。
 吾輩は屋根の上で血沸き肉躍った。生まれて初めて見る大喧嘩の威勢のヨサに、仲裁たる事も何も忘れて陶酔してしまった。同時に、これが武者振いというものであろうか。全身が止め度もなく、冷たい屋根瓦の上で戦き出したが、しかし、それは決して怖いという気持ちからではなかった。
 ……あのままあすこに隠れていればよかったものを……そうしたら自分も一緒に飛び込んで行って、どっちか敗けそうな方の味方をして遣るものを……と言ったような自烈度じれったさから出て来た身ぶるいらしかった。
 ところがその吾輩の念願が叶ったものか、喧嘩が急にこっちの方へ近付き始めたのであった。
 玄洋社側は最初、破竹の勢いで線路の上を猛進して行った。白い浴衣がけの一団がグングンと黒い一団を追い返して行くのが屋根の上からハッキリと見えた。ところがそのうちにポンポンという鉄砲の音が二、三発ずつ、二、三回断続して聞こえると、玄洋社側の一団は俄かに退却を始めて、手に手にステッキを打ち振り打ち振り、バラバラと駅の構内に走り込んで来たが、しかし、それは本当の退却ではなかったらしい。その白浴衣の一団の中で、タッタ一人黒い着物を着て、黒い袴を穿いた小柄な男が、一本の青竹を振りまわして絶叫した。
「散らかれ、散らかれッ。散らかれば弾丸たまは当らんぞ。散らかれ、散らかれッ。……ええかッ……ピストルを持った奴を見付けたら、犠牲になって引っ組めッ。わかったかーッ」
「わかりました、わかりました」
 と五、六名の白浴衣が前後左右から返事をした。
「ううむ。彼奴あいつが塾頭らしいのう」
 と言う声が吾輩の足の下で起ったので、ビックリして振り返って見ると、すぐ真下の便所の蔭から荒巻巡査と大友親分が覗いている。
「そうらしいですな。感心な奴です。よほど喧嘩には慣れておりますな」
「そうと見える。ナカナカ手剛い奴じゃ」
「しかしピストルを撃ったのには弱りましたな。鬼半も詰まらぬ奴をよこしたものです。私の名折れになりますからな……今更苦情も言えませんが……」
「ここであちらの手勢を出して、挟み撃ちにしてバタバタと片付けてはどうかな」
「まだです。まだ磯政の奴輩やつばらが出て来ませんからな。何処をまごついとるか知りませんが……」
「ウム。それもそうじゃな」
 吾輩は二人の落ち着いているのに又も感心させられたが、それよりも驚いたのは玄洋社側の壮士の勇敢さであった。
 玄洋社側は、吾輩の足の下の駅の待合室に溢るるほど敵勢が詰め込まれているのを知らぬらしく、駅の方を背中に向けたバラバラの一人一人になって、群らがり蒐かる鬼半の同勢と向い合った。
 ところで、これに対する鬼半の同勢は、ちょうど昔の渡世人の果し合いのように、脚絆草鞋のたすきがけでドスを引っこ抜いた連中ばかりであったが、それを玄洋社側は物ともせずに、ステッキや素手で睨み合って近寄せない。そのうちに隙をみて組付く。組付いたと見る間に投げ付けるという戦法で行く。しかも壮士達は皆玄洋社名物の柔道家の中から一粒選りにしたものらしい上に前以て訓練が行き届いていると見えて、その戦法がまるで道場の稽古か何ぞの様に、一人残らず型にまって行くのだから見ていて気持ちのよい事おびただしい。見る見るうちに三人五人とバタリバタリ片付いて行く。投げられた者の中から起き上る者のすくないのは当て身を喰らったものであろう。中には肩越しに背後に投げ落されて妙な音を立てながら首の骨を折ったらしい者が二、三人見えたが、これは講道館流の柔道の手にはない、双水執流そうすいしりゅうという福岡独特の柔道の手だとか言う話で、投げる前に当て殺して置くのだから、そうなる訳である。しかも喧嘩の後で調べられても「殺す積りではなかった」と言い開きが出来るという、極めて重宝な秘伝になっているという話を後で聞いた。

     九十七

 壮士連はこうした戦法で、二倍に近い鬼半の同勢をグングン圧迫して行った。そうして物の十分と経たないうちに、線路の左右へ十四人もタタキ付けると、トテモ敵わないと思ったものか、鬼半の同勢の中から又も、ピストルを射ち出した。
 それは最初から背後うしろの方の線路に突っ立って、形勢を見ていた三人の一組であったが、それが突然にバラバラと前の方へ馳け出すと塾頭らしい男の真正面からキラキラ光る三梃のピストルを指し付けた。
 それと見た塾頭は、そのピストルを遮るかのように、青竹を青眼に構えたまま仁王立ちに突立った。そうして四、五秒の間モノスゴイ睨み合いを続けているようであったが、その中にドンナ隙間すきまを見付け出したものか、構えていた青竹を三人の中央まんなかめがけて発矢はっしと投げ付けたと思うと、三人が慌てて身を避けようとする間に、電光のように飛び込んで、まん中の一人を突き倒した。それを見て立ち直った二人が左右からピストルを突き出す背後から、塾頭の護衛らしい二、三人の青年が声を合わせて組み付こうとすると、振り返りざまに撃ち出された一発に、その中の一番若いらしい青年が、
「アーッ」
 と叫びながらバッタリとたおれた。
 それを見た玄洋社側の壮士連は憤激その極に達したらしかった。青年が倒れた一瞬間に、揃って、何とも形容の出来ないモノスゴイ唸り声を挙げたと思うと、いなごか何ぞのように四、五人ずつ一かたまりになってピストルを持った二人に組み付くか付かぬかに、手もなく地面にタタキ付けた。そうして起き上ろうとする上から二、三人折り重なって何やら揉み合っていたと思ううちにポキンポキンと何か折れたような音がしたと思うと、ピストルを奪われた二人の男が相前後して獣とも鳥ともつかぬ奇妙な叫び声を揚げながら鬼半の同勢の眼の前に投げ出された。見ると柔道の手で両手と両脚をどうかされているらしく、首と胴をクネクネとうねらせながら起き上ろうとして起き上り得ないままに、聞くに堪えない断末魔の悲鳴をあげ続けている。
 それを助けようとして鬼半の同勢が一斉に斬り込んで来る。それを向うに廻して一団となった壮士連が、又も睨み合う、組み付く、投げる……の型を繰返しつつ、右に左にバタリバタリと投げとばして行く。手に手に獲物は持ちながら鬼半の同勢は、又も無手の玄洋社側に圧倒されかけて来た。
 すると此のていを駅の横から覗いていた大友親分は、最早見るに見かねたらしい。
「エーッ糞ッ。玄洋社は鬼半の身内で引き受くると言うたからここまで辛抱しとったが、モウ見ちゃおられん。それじゃ後をお頼ん申しますよ」
 と荒巻巡査に一礼しながら、羽織をパット脱いで手近い木柵に引っかけた。そうして小急ぎに駅の屋根の下へ走り込みながら、構内に響き渡る大声で怒鳴り立てた。
「出ろ出ろッ。うしろからかれッ」
「ワ――ッ」
 と言うときの声が、待ちかねていたように大友親分の声の下から起った。同時に長い得物えものを持った新手の連中が、バラバラと駅の中から駈け出したが、この時遅くかの時早く、最前大友親分の配下が押し出して来た左手の大横町からと、ズット下手の下り線の踏切の近くからと、相前後して鬨の声が起って、左からは一揆のような人数が百人ばかり、又右からは、白い制服に黒脚絆がけの巡査の一群が、佩剣を月の光に閃かしながら押し出して来て、両方とも駅の広場を目がけて殺到した。
 これを見た大友親分の同勢は多少狼狽したらしかった。改札口から飛び出した二十人ばかりも一斉に立ち止まって振り返ったが、待合室に残っていた連中は大友親分の指図を聞く間もなく引返して、駅前の広場に駈け出すとバラバラと左右に拡がって、思い思いの得物を構えた。
 一方に駅の前の広場に入ったのは無論、百人の同勢の方が早かったが、大友親分の組に比べると倍以上の大勢なので、殆んど駅の前の広場を包囲する位に広々と左右に広がって、圧倒的な気勢を示した。その中でもまん中の一番先に飛び出しているのは脚絆鉢巻の扮装いでたちこそ変っておれ紛れもないハンマの源太で、両手に一梃ずつ提げているのは腕におぼえの鉄槌ハンマらしい。その鉄槌を打ち振り打ち振り又も二、三歩前に進み出た源太は、月の光に白い歯を剥き出して笑った。
「アハハハ。俺を知らん者はなかろう。ハンマの源太がドンナもんじゃい。アハハハハ。五十人でも百人でも束になってかかって来い」
 と言ううちにハンマの源太は、白光りする程磨き上げた左右の鉄槌をブンブンと風車のように振りまわして見せた。
「ハハハハハ。どんなもんじゃい。アハハハハハハ……」

     九十八

 大友親分の同勢はこうした源太の異様な武者振りを見ると、さすがに少々たじろいたらしい。左右に張った陣の中央が一しきりザワメキかけたが、その時に双方の横合いから走りかかって来た巡査の一隊の中から、警部の帽子を冠った美髯びぜんの警官が、佩刀を左手にひっさげて大喝した。
「待て待てッ。此の喧嘩待てッ……俺は直方署長だぞッ」
「……ナニ……直方署長ッ……」
 とハンマの源太は振り向きざまにセセラ笑った。
「署長が何かい。喧嘩の邪魔をする奴は、ドイツでもコイツでも木っ葉にするぞ」
「黙れ黙れッ」
 と馳け付けて来た直方署長は息を切らしながらモウ一度大喝した。
「貴様はハンマの源太じゃないか。貴様のような奴には用はない。磯政は何処にいる」
「アハハハ。親分が知った事かい。親分は玄洋社長を迎えに行っとる。喧嘩なら俺一人で余るわい。アハハハハ」
 と源太は又も物凄く高笑いをした。
「ここにいるのは皆、俺の手下の生命いのち知らずぞ。きょうは署長とは言わさんからそう思え」
此奴こやつ。嘘を言うか……貴様のようなハシタ人足にいつこれだけの乾児こぶんが出来た」
「ハハハ。今夜から俺の乾児になったチュウ事知らんか。巡査じゃろうが知事じゃろうが、恐ろしがる奴は一人もおらんぞ」
「おのれ反抗するか」
「喧嘩の邪魔じゃい。ええ退かんか」
 とののしるうちにハンマの源太は右手の鉄槌を高々と振り冠って身構えた。その勢いの恐ろしかった事……さすがの署長も驚いて身を退きかけた。すると小石か何かに引っかかってヨロヨロとしたついでに、自分の佩剣に足を絡まれてドタンと尻餅を突いた。そこを付け込んでハンマの源太が一気に襲いかかろうとしたが、その間一髪に吾輩は、吾を忘れて屋根の上から叫んだ。
「ハンマの源太ア――コッチを見い――」
 ところがその声に連れてこっちを見たのはハンマの源太一人ではなかった。思いもかけぬ高い処から甲走かんばしった声が聞こえたので、驚いたらしく、広場におった連中が一人残らずこっちを向いたが、その中でも真先に吾輩を見付けたハンマの源太は、振り上げた鉄槌ハンマを取り落しそうな恰好で、二、三歩ヘタヘタと背後うしろにたじろいた。
「アアア……アイツが……あしこに……いる……」
 その声は、今までの勢いに似気ない怯え切った空虚うつろの声であった。そうして鉄槌を高く挙げて吾輩の方を指しながら、又も二、三歩うしろによろめいたが、それを見ると吾輩はなおも調子付いて叫んだ。
「わかったけえ……アハハハ。動くとあかんで……ワテエが降りて行くまで……ええけえ、ハンマの源……」
 ところが吾輩の注文通りに動かなかったのはハンマの源一人じゃなかった。駅の前の広場に詰めかけていた人間は、大友方も磯政方も警官も一人残らず、呆気に取られて吾輩を振り仰いだまま……喧嘩の姿勢を取ったまま……身動き一つしなかった。
幻魔術ドグラマグラじゃ」
「忍術じゃ」
「バテレンの魔法じゃ、魔法じゃ」
 と言う怯えた声が、そこここでつぶやくように聞こえた。
 吾輩は急に可笑しくなったので、思わず声を立ててケラケラと笑った。そうして衆人環視の中を悠々と屋根から降り始めた。
 露を含んだ屋根瓦をすべらないように軒先へ来て、便所の屋根から木柵に乗り移って、一気に地面へ飛び降りたが、その間じゅう、広場にいた二百人近い人間が身動き一つしなかった。今にも吾輩が魔法か忍術を使うかと思って一所懸命に吾輩の行動を見守っているらしかったが、しかし吾輩はナカナカそんなものを使わなかった。そのまま大手を振って大友親分の同勢の中を分けて行くと皆道をあけて通してくれたので吾輩はイヨイヨ大威張りで広場のマン中に出た。
 吾輩はそこで、ほかの者へは眼もくれずに、ハンマの源のマン前に来て懐中ふところの短刀に手をかけた。
「ハンマの源……」

     九十九

 ハンマの源は返事をヨウしなかった。一ツ目小僧にでも出会ったように、眼を真白にき出して顎をガクガクさせた。ハンマを二本ブラ下げたまま、膝頭をワナワナと震わして、又も二、三歩うしろによろめき込むと、左右から抜き身を持った荒くれ男が二、三人出て来て、ハンマの源を庇うようにしながら、吾輩を睨み付けた。
 しかし吾輩はビクともしなかった。その男たちは武術の心得がないと見えて、刀の構え方が丸でなっていない。オッカナビックリ刀をことづかって来たかのように、柄の処を両手でシッカリ握っているので、ヤッと気合いをかけたら自分の首でも斬りそうな恰好に見える。コンナ奴が邪魔をするのかと思うと吾輩は少々しゃくに障って来たので、なおも身構えをして詰め寄った。
「何するのけえ。ワテエ源太に用があるのや……邪魔するのけえ」
 皆はシンとして誰も答えない。それを見ると吾輩はホントウに腹が立って来たので、又も二、三歩詰め寄った。
「邪魔するのけえ。邪魔すると斬るぞ」
 と言ううちに、懐中の短刀を抜く手も見せず、眼の前にドスを構えた男の右手から飛び込んで行くと、そこいらの五、六人が一ときに、
「ワッ……抜いたッ」
 と叫びながら左右にバッと雪崩なだれ開いた。そのマン中にハンマの源太がタッタ一人尻餅を突いたまま居残ったので、吾輩は得たりとばかり飛びかかって行こうとすると殆んど同時に、
「あぶないッ」
 と叫んで吾輩の帯際おびぎわを掴んで引き戻したものがある。振り返って見るとそれは最前の署長だったので、吾輩はイヨイヨ腹が立ってしまった。この場合になって抜いたもアブナイもあるものか。源太の相手にもなり得ない癖に、子供と思って馬鹿にすると言ったような気持ちで、イキナリ短刀を逆に振り廻して切り払おうとすると、その切先がグサと署長の手の甲に突き刺さったので、さすがの署長も驚いたらしい。
「アイタッ」
 と叫んで手を離した。その隙に乗じて吾輩はなおも飛び込んで行こうとすると、一旦逃げ出した荒くれ男の四、五人が、又も引返して来て、白刃を吾輩に突き付けようとする。それを素早くかい潜って飛び込んで行こうとすると、
「その子供を逃がすな」
「こっちで生捕れッ」
「ソレッ、生捕られるな。知事閣下のお声がかりの児ぞッ」
「危ない危ない」
「ええ、邪魔するかッ」
 と口々に罵しりながら三方から吾輩に追い迫って来る。そのうちにあっちでもこっちでも喧嘩のキッカケが出来たと見えて、ワーッワーッと言う鬨の声が起った。
 吾輩は面喰らった。いつの間にか吾輩を広場のまん中に放ったらかして、思い思いに斬り結んだりタタキ合ったりしている上に、どっちが敵だか味方だか解らないので加勢の仕様がない。それでもジッとしてはおられないので、面喰らったまま二、三遍そこいらをキリキリ舞いしていると、そのうちに誰だか判然わからないが、吾輩の横手で斬られたらしく、ギャッと言う声に連れて頭からパッと血煙が引っ冠って来たので、眼の前が一ペンに真暗になった。
 吾輩は又も面喰らわせられた。眼の中に血が入ったせいか、そこいら中がボ――ッとして、何が何やらサッパリ見当が付かない。顔中が血だらけになったらしいが、その血を拭う暇もなく闇雲に短刀を振り廻し振り廻し逃げ出すうちに倒れた人間につまずいたり、流れた血に辷り転んだり二、三度ぐらいしたようであったが、今から考えると、よく無事に助かった事と思う。或は皆が皆、喧嘩の方に気を取られて、吾輩の方がお留守になっていたものか、それとも怪我をさせないように逃がしてくれたものか、又はホントウに魔法使いと思って恐れでもしたものか、その辺のところはよくわからないが、ベタベタとクッ付き合う左右のまつげを両手でコスリ分けながら見まわしてみると、吾輩はいつの間に何処へ来たものか解らないが、低い、みすぼらしい長屋の庇合ひあいの中途に来てボンヤリと突立っている。背後を振り返ってみると、ペンペン草の生えた長屋の上で、お月様がニコニコ笑ってござる。何だか夢を見ているようなアンバイである。
 右の手を見ると、短刀は赤い房と一緒に抜け落ちてしまって、手の中にはボール紙の筒しか残っていない。懐中のするめと切り昆布も半分以上、短刀の鞘と一緒に消え失せているが、それがいつドウして抜け落ちたか知らない処を見ると、吾輩はやはり暫くの間喧嘩の勢いに釣り込まれて無我夢中になっていたものであろう。

     百

 吾輩はそこに短刀の鞘と柄を捨てた。惜しくて仕様がなかったが仕方がない。
 それと同時に、オレは一体何の目的であの喧嘩の中に飛び込んだのだろうと考えてみたが、イクラ考えても理屈がハッキリしなかった。……これでは喧嘩を留めに入ったのじゃない。喧嘩のキッカケを作りに入ったようなものだと考え付いたので、タッタ一人で極りが悪くなった。
 しかしモウ喧嘩は見飽きてしまった上に、方角さえわからなくなっているので、今更引返してどっちが勝ったか様子を見に行くほどの興味もなくなっていた。おまけに何だか疲れが出て眠くなった……で、大きな欠伸を一つした。するとそれにつれて恐ろしく咽喉が乾いている事に気が付いたので、何処かに井戸はないか知らんと思って、キョロキョロそこいらを見まわすと、ズット向うの長屋の間を出抜けた処に井戸らしいものが見える。近づいて見ると果して背の低い車井戸で、まわりはチョットした草原になっていて、シイ――ンと言う虫の声が、そこここに散らばっている。
 吾輩はその車井戸の桶釣瓶おけつるべを一つ汲み上げると、井側の外へ引き出して、頭と、顔と、手足の血をいい加減に洗い落した。
 それからその水を捨てて、モウ一パイ汲み上げて、井側の縁に乗せかけて飲もうとしたが、髪毛から薄黒い、なまぐさい血の雫が滴るのでナカナカうまく飲めない。それを片手で撫で上げ撫で上げ腹一パイ飲み終ると、今度は小便が詰まっているのに気が付いた。
 吾輩は井戸の横の草原に走り込んで、虫の声のする方に見当を付けて小便を垂れ始めたが、その小便が思ったよりもズット長いのに呆れた。考えてみると天沢老人の処を飛び出してからここへ来る迄の間、小便の事なんか考える隙もないくらい忙しくて、緊張していた上に、停車場の屋根瓦の上で長い間お尻を冷やして来たのだから無理もない。自分でもまだかまだかと思うくらい気持ちよく、あとからあとからほとばしり出る。それが月の光に透きとおって銀色の滝のように草の葉に落ちかかって、キラキラと八方に乱れ散るそのおもしろさ……美しさ……。そのうちに何だかジクジクと気持ちよく寒くなって来たようなので、二つ三つ身ぶるいをしながらクッサメをしていると、何処から来たのかわからないが吾輩の背後の方から、黒い、大きな影法師がニューと近付いて来たので、ビックリして小便をやめた。そうしてそのままの姿勢で振り返ってみると、何だかエタイのわからない案山子の出来損ないみたような奇妙な者の姿が、吾輩のすぐ背後うしろにノッソリと突立っている。
 吾輩はさすがにギョッとしながらその者の姿を見上げ見下した。新しい手拭で頬冠りをしているから顔付はハッキリとわからないが、眼の玉の引っ込んだ、鼻の高い、天狗と狸の間の子見たような薄気味の悪い人相に、占者みたような山羊髯をジジムサく生やしている。それが青だか紫だかのダンタラ縞のドテラに、赤い女の扱帯しごきをダラシなく巻き付けて、竹の皮の鼻緒の庭下駄を穿いていたが、何か考えているのか懐手をしながらジッと吾輩を見下して突っ立っている。むろん喧嘩をしに来た風体ではないが、何だかニコニコ笑っているらしい目付きを見ると、田舎によくいる低能男アニヤンではないかとも思われる。いずれにしても大きな男ではあるが、吾輩に敵意を持っていない事だけはすぐに直感されたのであった。
 そうした相手の風采を見て取ると吾輩は安心して、又も小便をりはじめた。しかし何となく気にかかるので、小便をしいしいうしろを振り向いて物を言ってみた。
「お前何や……」
 その大男は返事をしなかった。相変らず懐手をしたまま吾輩を見下してニヤニヤと笑っているらしいので、イヨイヨこの男は馬鹿かキチガイに違いないと吾輩は思った。
「……お前馬鹿けえ……キチガイけえ……」
「……………」
「人が小便しよんの何で見とんのけえ」
「アッハ、アッハッハッハッハッ」
 とその大男が突然に笑い出した。しかも河童みたいに大きな口を開けて、お月様が見える程あおむきながら、心から可笑しそうな無邪気な笑い声を出したので、吾輩は少々気味が悪くなった。これはキチガイに違いないと九分九厘まできめてしまった。

     百一

 大男はその時に褞袍どてらに掛かった黒い襟の間から、大きな握り拳を出して、自分の鼻の頭を悠々とコスリ上げた。それから見かけに似合わない可愛らしい、ユックリとした声で問うた。
「……貴様は……何チュウ奴ケ……」
 吾輩は小便を放り終って身ぶるいを一つしながら向き直った。キチガイの癖に横柄な奴だと思いながら……。
「知らん。お前は何チュウ奴ケエ」
 と向うの真似をして問い返した。すると大男は寒くもないのに、又も悠々と懐手をしながら、吾輩をジッと見下した。
「ウーム俺か……俺は玄洋社の楢山じゃ」
「ナニッ……楢山ッ……」
 と吾輩は叫びながら飛び退いた。タッタ今小便を振り撒いたばかりの叢の中に片足をさし込んだが、そんな事なんかドウでもよかった。マサカ楢山がコンナ飛んでもない恰好の人間とは思わなかったが、ここで出会ったのはいい幸いだ。カンシャク知事と喧嘩をする位の奴だからドウセ利口な奴ではないにきまっている。ここで此奴を取っちめて、かの大喧嘩を止めさせたら、天沢のお爺さまがイヨイヨ感心するだろう……と思い付くには思い付いたが、生憎タッタ今短刀を棄てたばかりで、そこいらを見まわしても竹片一本落ちていない。仕方なしに吾輩は両手で小さな拳骨を固めながら身構えた。
「……お前ホンマに楢山けえ」
「ウム、ウム」
 と大男はユルヤカにうなずいた。
「俺を知っとるか」
「知らいでか……知事と喧嘩しとるバカタレやろ」
「アハアハアハアハアハアハ」
 と大男は又も月の下で反り返って笑った。よく笑う男だ。
「そうじゃ、そうじゃ。よう知っとるのう」
「知らいでか。知事とお前が喧嘩するよってん、直方の町中の人が泣きよるやないか」
「……………」
 大男は笑わなくなった。そうして返事もしないままシゲシゲと吾輩の顔を見守っていたが、やや暫くしてからヤット口を利いた。
「どうして、そげな事をば知っとるとや」
「知らいでか……みんなそげに言いよるやないか」
「……………」
 大男は又も返事をしなくなった。奇妙な光を帯びた眼で又も吾輩の血だらけの姿を見上げ見下していたが、やがて又自分の鼻の頭を拳骨で丁寧にコスリ上げた。それから赤い舌を出して唇のまわりをペロペロと嘗めまわしたが、そのペロペロが又、如何にも御念入で、手数のかかる事夥しい。この塩梅ではいつ返事をするか解らないと思うと、ふと自烈度くなったので、吾輩はすぐに先を言って遣った。
「そやからワテエ……その喧嘩を留めに行たんや」
「ウフウフウフウフ。貴様は喧嘩をば留めに行ったか」
「アイ……けんどワテエの横で誰か斬られた血が掛かって、眼が見えんようになってしもたケニ、ここまで逃げて来たんや」
「ウーム。怪我はせんやったか」
「ワテエ。武術知っとるよって斬られやせん。けれどほかの武術知らん奴言うたら皆死んどるやろ」
「ウーム。何処で喧嘩しよるか」
「オイサン知らんけえ」
「知らん」
「停車場でしよるがな」
「あっちの方じゃな」
「どっちか知らん」
「ウーム。さようか。しかしどっちが勝ちよるか」
「ドッチかわからん。そやけど玄洋社強いなあ。玄洋社が投げると皆死によるで……」
「ウーム。さようか。さようか」
 と楢山社長は大きくうなずいた。大方嬉しかったのだろう。
「楢山のオイサン何処から来たんや」
「アッチから来た」
「植木チュウ処けえ」
「さようじゃ。昨日まであすこの友達の処で寝とった。水瓜を喰い過ぎて腹を下いてのう。ハハハハ。しかしお前はドウして知っとるか」
「知らいでか。皆言いよった。磯政の親分が迎えに行たやろ」
「そうか。磯政が俺を迎えに行とるか」
「サイヤ。ハンマの源が、そげに言いよった。警察の巡査も、今夜アンタを縛る言うとったで……」
「アハハハハ。そうかそうか」
「どうして縛られんでここまで来たんけえ」
「ウーム。どうもせん。あんまり月のよかけん、寝巻なりい散歩あるいて来たとたい」
 と言ううちに楢山社長は、相変らず悠々とした態度で横を向いて小便をし始めた。

     百二

 吾輩は指をくわえながら、小便をする楢山社長の姿を見上げていたが、よく見ると楢山社長は丸裸体にドテラ一枚らしく、臍の処まで剥き出している。吾輩はこんなダラシのない人間を生まれて初めて見たので、内心些なからず呆れさせられた。しかし同時に、最前からの緊張した気分が、楢山社長と話し合っているうちに、いつの間にかノンビリと融け合ってしまって、何とも言えない親しい気持ちになったのを子供心に不思議に思った。それに連れてさすがは玄洋社長、と言ったような尊敬の気分もイクラか起って来たので、今更のようにお月様と、楢山社長のホイトウ姿を見比べていると、楢山社長は吾輩の真似をするかのように、なおも黄色い小便を長々と垂れながら頬冠りを吾輩の方に向けた。
「貴様は天沢先生の処におった奴じゃろ」
「サイヤ。天沢のお爺様に生命いのち助けて貰うたんや」
「ウム。恩義を知っとるか」
「オンギて何や」
「アハハハ、そげな事あインマわかるがのう。知事は何処にいるか貴様は知らんか」
「知らんけど青柳にいるてて巡査が言いよった」
「青柳チュと料理屋か」
「サイヤ。スケベエの行くとこや」
「アハハハハ。途方もない事知っとるのう……アハハハ。その青柳に俺と一緒い行かんか」
「何しに行くのや」
「知事を叱りに行くのじゃ」
「何で禿茶瓶を叱るのけえ」
「知事が巡査を使うてのう……悪い事をばさせよるけんのう……言うて聞かせて喧嘩をば止めさせるとたい」
「ウン。そんなら行こう」
「ウム。サア来い。俺が肩車に乗せて遣るぞ」
 と言ううちに小便をり終った楢山社長は、ニコニコと笑いながら吾輩を抱き上げて軽々と肩車に乗せた。普通の人間がダシヌケにコンナ事をしかけたら、すぐ逃げ出す処であったが、この時に限って何だか有難いような、嬉しいような気持ちになったのは、返す返すも不思議であった。のみならず全身血まみれの上に、泥だらけの足をしている吾輩を、絹の上等のドテラの上に担ぎ上げて、頬冠りの白い手拭が、吾輩の手に残った血で汚れて行くのも構わずに悠々と歩き出したその無頓着さに、吾輩はスッカリ愉快になってしまったのであった。
 吾輩はその楢山社長の頭を頬冠りの上から抱きかかえながら問うた。
「オイサン……」
「何かい……」
「あんたスケベエけえ」
「ウン。スケベエじゃ」
「……………」
 今度は吾輩が行き詰まらせられた。多分否定するだろうと思ったのに、案外無造作に肯定されてしまったので、チョット二の句が継げなくなった形である。同時にコンナ男がスケベエなら、スケベエと言うものはそんなに嫌なものじゃないとも考えさせられた。
 吾輩は楢山社長の頭を平手でタタキながら又問うた。
「そんならオイサン」
「何かい」
「知事さんはスケベエけえ」
「ウン。彼奴あやつもスケベエじゃ」
「あんたと知事さんと、どっちがスケベエけえ」
「知事の方が女好きじゃろう」
「アンタ負けるのけえ」
「ウム。負けもしまいが」
「そんなら知事さんとおんなじもんじゃろ」
「ウン。おんなじもんじゃ」
「イヤアア……」
「アハハハハハハ……」
「ワテエおなご嫌いや」
「ウム。そうかも知れんのう。しかし大きうなったら女から好かれるぞ」
「大きうならんでも女から好かれとるで」
「ウム。誰から好かれた」
「天沢の美しいお嬢さんが頬ずりしてくれたで」
「アハハハハハ……。タマラン奴じゃあ貴様は……アハハハ……」
「あぶない……そないに笑うたら落ちるやないか」
「落ちて死んでしまえ。今のうちに……」
「ワテエ死んだらお嬢さんが泣くで……」
「イヤア……モウイカン……ここで下りれ……アハハハ……。おらあキツウなった」
「弱っぽうやなオイサンは……そないに弱いと女が好かんで」
「女に好かれんでもええ」
「ワテエも好かんで」
「アハハハハハ。そんなら止むを得ん。アハハハ。貴様はナカナカ豪い奴じゃ。人間を御する道を知っとる。アハハハハハ……」

     百三

 楢山社長はこんな風に傍若無人の高笑いをしながら、悠々と歩いて行ったが、青柳という家の在る処を知っていると見えて、小さな家の間を迷いもせずに右に曲り、左に曲りしながら抜けて行く。吾輩も生まれて初めて乗った肩車の気持ちよさにコクリコクリと居ねむりを始めたが、やがて大きな通りへ出てから一町ばかり真直に行くと、夜目にも料理屋らしく見える立派な門構えの前に来た。その間人ッ子一人出会でくわさなかったが、その家の前に来ても犬の影すら見えなかった。
 楢山社長は、その忍び返しを打った瓦葺きの門の前まで来ると、吾輩を首の上に乗せたままツカツカと門の扉に近づいたので、半分眠りかけていた吾輩は軒先の瓦にオデコをイヤと言う程打ち付けられてスッカリ眼が醒めてしまった。
「痛いやないかオイサン」
「アハハハハ。そこいおったか」
「おらいでか。オイサンが自分で乗せたんやないか」
「ウム。忘れとった」
「馬鹿やなあ。アホタレ……」
 と吾輩は楢山社長の頬冠りの上からコツンコツンと拳骨を下ろして遣った。
「ウム。痛い痛い。堪えてくれい」
「そんだら堪えて遣る。ああ痛かった」
「首がきはせんじゃったか」
「除いたけんど又粘着ひっついた」
「ウム。それはよかった」
 と言ううちに楢山社長は腰を屈めて門の扉に近付きながら、ドンドンと二ツ三ツ叩いた。すると家の中から待っていたように、
「ハア――イイ――」
 と言う女の声が聞こえて、カタカタと敷石の上を走って来る音が聞こえたが、その足音が門の傍まで来ると立ち止まって、
「……どなた……」
 と問うた。何処かの隙き間から様子を見ているけはいである。
「ウム。俺じゃ。楢山じゃ」
「まあナア様……」
 と門の中の女は急に怯えたような声を出したが、
「……どうしてここに……」
 言ったなり後が言えないで息を詰めてしまった。
 しかし楢山社長は依然としてゆるやかな、平気な声で口を利いた。
「お前はお近か……」
「ハイ……」
「ウーム。女将おかみはおらんとか」
「ハイ……この間から小倉の病院に入院しておりまして……」
 と言ううちに女の声が次第に、蚊の啼くような細い声に変って行った。
「ウム。そうか。知らんじゃった。……巡査どもはおらんとか」
「ハイ……あの今……大友さんの方が……あの……怪我人が多いとか言うて、お使いの人が見えまして……」
「ウーム。皆加勢に行たか」
「……ハイ……あの……そのお使いが来ますと知事様の御機嫌が損ぜまして、ここはえけに、皆加勢に行け……一人もおることはならん……あとは戸締りして、打ち破られても開ける事はならんと仰言おっしゃいまして……」
「アハハハ。例のカンシャクを起いたか」
「ハイ。大層な御立腹で御座いまして……私ども恐ろしゅうして恐ろしゅうして……」
「アハハハハ。俺が来ればモウ心配する事は要らん。喧嘩はモウ千秋楽じゃ。手打ち祝いは貴様の処でするぞ」
「ありがとう御座います」
「開けてみやい」
「ハイ」
 と言いながら女は素直に閂を外しにかかったが、それでも気味悪そうに……独言のように……言った。
「……あの……只今……お休みで御座いますが」
「ウーム。知事は寝とるのか」
「ハイ。中二階でお休みになっております。ちょっとお起しして参りますから」
「ウン。楢山が会いに来たと言え」
「ハイ」
 と言ううちに門の扉がいたが、その間から出て来た三十位の仲居らしい女の眼の前に、楢山社長が吾輩を抱え下すと、女は一眼見るか見ないかに、声を立てないで扉に縋り付きながらヨロヨロよろめいた。
「アハハハ。この児を知っとるじゃろう。俺が途中で拾い出して来た」
「ハハ……ハイ……」
「……恐ろしい事はないけん。アトをばシッカリいて置け。大友でも磯政でも、署長でも玄洋社の奴でも入れてはならんぞ。ええか」
「……ハ……ハイ……」

     百四

 お近という仲居さんらしい女は、楢山社長が口を利くたんびに慄え上って行った。今にもブッ倒れそうなのを一所懸命に我慢しているらしく、門の扉に取り縋って唾液を飲み込み飲み込みしていたが、その怯え切ったマン丸い眼は、片時も吾輩から離れなかった。尤もこれは無理もない話で、月の冴えた真夜中に、血塗れのお合羽さんの子供がニコニコ笑いながら入って来たのだから、大抵の女なら気が遠くなるにきまっている。それを一所懸命で踏みこたえた処を見ると、このお近という女はかなりのシッカリ者であったろう。それでも辛うじて一つうなずいたと思うと、脱けかけた腰を引っ立てるようにして、ガタンガタンと門を閉め始めた。
 その間に楢山社長は吾輩の先に立って、ノッソリと玄関から上った。吾輩も後から上ろうとしたが、小便だらけの泥足のままなので遠慮して、そこに脱ぎ棄ててあったお近さんの赤い鼻緒の上草履を穿いて上って行った。ちょうど内と外と反対になってしまった。
 ところで玄関を上った楢山社長は、うしろを振り返ってお近さんが上って来るのを待っていたが、お近さんはまだ門の扉に縋ったまま真青になって吾輩の姿を見詰めている。そうして吾輩が振り返ったのを見るとイヨイヨ気分が悪くなったらしく、両手を顔に当てて門の扉の蔭にしゃがみ込んでしまったので楢山社長はチョット困ったしい。玄関の奥の方を向いて、
「オイ。誰かおらんか」
 と二、三度大きな声で呼んでみたが、処々ランプが赤々と灯いたなりに、広い家の中がシンカンとして鼠の走る音すら聞こえない。ただ一度、何処か遠くの隅から虫の啼くようなふるえ声で、
「……ハ……イ……」
 と返事した者があったようにも思ったが、それでも出て来る者が一人もなかった。深夜の玄関の明りの下に、泥棒然たる大男と、血だらけの子供が突立ったら、男でも取次に来ないのが当然であったろう。
 楢山社長はそこで決心したらしかった。かねてからこの家の案内を知っているらしく、玄関横の階段の処へ来ると、吾輩の手を引いて遣りながらドシンドシンと二階へ上って行った。それから長い暗い二階廊下へ出ると、向こうの突き当りが知事の寝ているへやらしく、キリコ細工の置ランプの光と、金屏風の片影が、半分開いた硝子障子ごしに見える。その金屏風の片側には美しい裾模様の着物と、赤いダラリとした扱帯しごきが掛かっているのが、幽霊のようにホンノリと見えた。
 楢山社長はそうした室の様子を見るとチョット躊躇したかのように立ち止まった。しかし間もなく又、思い返したと見えて、吾輩の手を引きながら、その室に近づいて、半分開いた硝子障子の間からノッソリと中に入ったが、室に入ると同時に、何とも言えない奇妙な、せっぽい匂いが鼻を撲ったので、吾輩は思わず鼻をつまみながらキョロキョロと見まわしてみると、それは正面の床の間に据えて在る大きな瀬戸物の蛙の口から出て来る煙の匂いである事がわかった。今から考えるとそれは蚊遣り香で、この節では格別珍しいものでもないが、その当時は王侯貴人的な贅沢物であったろう。
 室は十二畳ぐらいの大きな室で、まん中には大きな白い敷蒲団が二枚か四枚重ねて敷いてあったように思う。その上に被さった薄青い掛蒲団の中から紫色のくくり枕に乗った知事の禿茶瓶頭と、赤い房の下った朱塗りの高枕が並んで見えていたが、イクラ知事でも枕を二つ使うなんて馬鹿な奴だと、吾輩はすぐに軽蔑して遣りたくなった。
 しかし楢山社長はそうでなかった。室の中に入ると、何処となく恭しい態度に変って、頬冠りを取り除けたばかりでなく、褞袍の前をキチンとつくろって、知事の枕元にピタリと正坐した。だから吾輩もベタベタとクッ付き合う血だらけの着物の前を、いい加減に両手で合わせながら、畳の上に草履を脱ぎ棄てて、楢山社長の横にペタリと坐り込んだが、知事はグッスリと眠っていると見えて身動き一つしない。
 頬冠りの手拭を鷲掴みにして膝の上に載せた楢山社長は、そこでその禿茶瓶を見下しながら、
「知事さん……知事さん……」
 と二声呼んだ。しかし知事は依然として身動き一つしなかった。眠っているのか起きているのかわからない。その頭をジッと見下していた楢山社長は、なおも顔を近付けながら呼んだ。
「筑波子爵閣下……起きて下さい。玄洋社の楢山がお眼にかかりい来ました」
 しかし筑波子爵閣下は依然として禿頭をテラテラさせたまま動かない。ちょうど御本人が死んでしまって、禿頭だけが生き残っているかのように見える。

     百五

 吾輩はおかしくもあり自烈度くもなった。すぐに立って行って鼻でも抓んで遣ろうかと思って腰を上げかけている処へ、今来た反対側の廊下からペタリペタリと言う絹ズレの音がして来たので吾輩は中腰のまま振り返った。……楢山社長がタッタ今、誰も来る事はならんと言っていたのに……家中の奴が震え上って動けないでいる筈なのに、コンナに悠々とこの室に入って来る奴は何者か知らん……と怪しみながら室の入口を凝視していると……驚いた。
 半分開いた硝子障子の隙間からしなやかに辷り込んで来たのは、若い、美しい、真白にお化粧をした女であった。頭に銀のビラビラの付いた簪を一パイにさして、赤や青のダンダラのキレをブラ下げて、燃え上るような真紅まっかの長襦袢を長々と引きずり引きずり入って来たのであったが、よく見るとまだ半分眠っているらしく、両手で眼のふちをコスリコスリ知事の枕元に近づくと、そこでヘタヘタと坐り込んだ。そうしてその枕元に寄せて在る茶器盆の上から金色の茶碗と、銀色の急須を取り上げながら、何気なく吾輩二人の方を見たが……そのままピタリと動かなくなった。
 糸のように細くなっていた左右の寝ぼけまなこが見る見る大きく開きはじめて、今にも飛び出すくらい真白に剥き出されて行った。それにつれて小さな唇がダンダン竪長くなって、あごが外れるかと思う位顔が長くなったと思うと、左右の手から急須と茶碗がぬけ落ちてガチャンガチャンと音を立てた。同時に、
「キャ――ッ……」
 と言うオモチャの笛みたいな音がしたと思うと、赤い長襦袢が虚空に翻えった。白い手足が眼まぐるしく交錯した。入口の硝子障子が一枚ブチ倒されて、廊下の板張りで二、三度尻餅の反響がしたと思うと、階段を転り落ちる人間のあわただしい物音と、モウ一度、
「キャ――ッ……」
 と叫ぶ咽喉笛の音がゴチャゴチャになって、階段の下の方へ消え失せて行った。
 するとその声と物音が消えるか消えないかに、
「何事か――ッ……」
 と怒鳴る声がツイ鼻さきに起って、白い寝巻を着た知事の禿茶瓶がムックリと跳ね起きた。その声は紛れもなく予てから印象づけられていた知事特有の癇癪声で、額にはチャンと二本の青筋まで出ていたが、しかし眼はまだ醒めていないらしく、真赤になった白眼を片っ方ずつ閉じたり開いたりしながら坐り直した。大方いい心持ちで眠っている処へ大きな音が聞こえたので、夢うつつのままカンシャクを起したのであろう。膝小僧を出して坐ったまま、モウ一度眼を閉じて眉を逆立てながら、
「何事か――ッ」
 と大喝したが誰も返事をしない。ただ吾輩がタッタ一人あんまり可笑おかしかったので、ゲラゲラと笑っただけであった。
 ところがその笑い声を聞くと、知事はヤット気が付いたらしかった。慌てて両手で顔でコスリまわしながら、真赤な眼を剥き出してキョロキョロとそこいらを見まわしたが、間もなく吾々二人の姿を見つけると、見る間にさっと青くなった……と思ううちに又、見る間に真赤になりながら大喝した。
「貴様達は……ナ……何者かアッ……」
 その声は深夜の青柳の家中をピリピリさせたかと思う程スバラシク大きかった。しかし楢山社長は一向平気で、膝の上に両手を突いたまま静かに頭を下げた。極めて親しみ深い、落ち着いた声で言った。
「知事さん。私じゃ。玄洋社の楢山じゃ」
「ナニッ……楢山……」
「……チョット用があるので会いに来ました」
 知事の額から青筋が次第次第に消え失せて行った。それに連れてカンシャクの余波らしくコメカミをヒクヒク噛み絞めていたが、しまいにはそれすらしなくなって、ただ呆然と吾々二人の異様な姿を見比べるばかりとなった。
 楢山社長は半眼に開いた眼でその顔をジット見上げた。片手で山羊髯を悠々と撫で下したりしながら今までよりも一層落ち着いた声で言った。
「知事さん」
「……………」
「今福岡県中で一番偉い人は誰な」
「……………」
 知事は面喰らったらしく返事をしなかった。又も青筋が額にムラムラと表われて、コメカミがヒクヒクし始めたので、何か言うか知らんと思ったが、間もなくコメカミが動かなくなって、青筋が引込むと同時に、冷たい瀬戸物見たような、白い顔に変って行った。
「誰でもない。アンタじゃろうが……あんたが福岡県中で一番エライ人じゃろうが」

     百六

 楢山社長の言葉は子供を諭すように柔和であった。同時にその眼は何とも言えないなごやかな光を帯びて来たが、これに対する知事の顔は正反対に険悪になった。知事の威厳を示すべくジッと唇を噛みながら、恐ろしい眼の光でハタハタこちらを射はじめた。
 しかし楢山社長は一向構わずに相変らず山羊髯を撫で上げ撫で上げ言葉を続けた。
「……なあ。そうじゃろうが。その福岡県中で一番エライ役人のアンタが、警察を使うて、人民の持っとる炭坑の権利をば無償ただで取り上げるような事をば何故しなさるとかいな」
「黙れ黙れッ」
 と知事は又も烈火の如く怒鳴り出した。
「貴様達の知った事ではない。この筑豊の炭田は国家のために入り用なのじゃ」
「ウム。そうじゃろう、そうじゃろう。それは解っとる。日本は近いうちに支那と露西亜ば相手えして戦争せにゃならん。その時に一番大切なものは鉄砲の次に石炭じゃけんなあ」
「……………」
「……しかしなあ……知事さん。その日清戦争は誰が始めよるか知っとんなさるな」
「八釜しい。それは帝国の外交方針によって外務省が……」
「アハハハハハハハ……」
「何が可笑しい」
 と知事は真青になって睨み付けた。
「アハハハハ。外務省の通訳どもが戦争し得るもんかい。アハハハ……」
「……そ……それなら誰が戦争するのか」
「私が戦争を始めさせよるとばい」
「ナニ……何と言う」
現在いま朝鮮に行て、支那が戦争せにゃおられんごと混ぜくりかやしよる連中は、みんな私の乾児こぶんの浪人どもですばい。アハハハハハ……」
「……ソ……それが……どうしたと言うのかッ……」
 と知事は少々受太刀の恰好で怒鳴った。しかし楢山社長はイヨイヨ落ち着いて左の肩をユスリ上げただけであった。
「ハハハ……どうもせんがなあ。そげな訳じゃけん、この筑豊の炭坑をば吾々の物にしとけあ、戦争の始まった時い、都合のよかろうと思うとるたい」
「……バ……馬鹿なッ……馬鹿なッ……この炭坑は国家の力で経営するのじゃ。その方が戦争の際に便利ではないかッ」
「フーン。そうかなあ。しかし日本政府の役人が前掛け当て石炭屋する訳にも行かんじゃろ」
「そ……それは……」
「そうじゃろう……ハハハ。見かける処、アンタの周囲ぐるりには三角とか岩垣とか言う金持の番頭のような奴が、盛んに出たり入ったりしよるが、あんたはアゲナ奴に炭坑ば取って遣るために、神聖な警察官吏をば使うて、人民の坑区をば只取りさせよるとナ」
「……そ……そんな事は……」
「ないじゃろう。アゲナ奴は金儲けのためなら国家の事も何も考えん奴じゃけんなあ。サア戦争チュウ時にアヤツ共が算盤ばはじいて、石炭ば安う売らんチュウタラ、仲い立って世話したアンタは、天子様いドウ言うて申訳しなさるとナ」
「しかし……しかし吾輩は……政府の命令を受けて……」
「……ハハハハハ……そげな子供のような事ば言うもんじゃなか。その政府は今言う三角とか岩垣とかの番頭のような政府じゃなかな。その政府の役人どもはその番頭に追い使わるる手代同様のものじゃ。薩州の海軍でも長州の陸軍でも皆金モールの服着た、金持のお抱え人足じゃなかな」
「……………」
「ホンナ事い国家のためをば思うて、手弁当の生命がけで働きよるたあ、吾々福岡県人バッカリばい」
「……………」
じっと考えてみなさい。役人でもアンタは日本国民じゃろうが、吾々の愛国心まごころが解らん筈はなかろうが」
「……………」
 知事はいつの間にか腕を組んで、うなだれていた。今までの勇気は何処へやら、県知事の威光も何もスッカリ消え失せてしまって、如何にも貧乏たらしい田舎おやじじみた恰好で、横の金屏風にかけた裾模様の着物と、血だらけの吾輩の姿を見比べたと思うと、一層悄気返ったように頭を下げて行った。
 その態度を見ると楢山社長は、山羊髯から手を離して膝の上にキチンと置いた。一層物静かな改まった調子で話を進めた。
「私はなあ……この話ばアンタにしたいばっかに何度も何度もアンタに会いに行った。バッテンが貴下あんたはいつもおらんおらんちゅうて会いなさらんじゃったが、そのお蔭でトウトウこげな大喧嘩いなってしもうた。両方とも今停車場の処で斬り合いよるげなが、これは要するに要らぬ事じゃ。死んだ奴は犬死にじゃ」
「……………」
「そればっかりじゃなか。この喧嘩のために直方中はさびれてしまいよる。これはみんなアンタ方役人たちの心得違いから起った事じゃ」
「……………」
「あんた方が役人の威光をば笠に着て、無理な事ばしさいせにゃ人民も玄洋社も反抗しやせん」
「……………」
「その役人の中でも一番上のアンタが、ウント言いさえすりゃあこの喧嘩はすぐに仕舞える。この子供も熱心にそれを希望しとる」
「ナニ。その子供が……」
 と知事は唇を震わしながら顔を上げた。
「そうじゃ。この子供は直方町民の怨みの声ば小耳に挟んで喧嘩のマン中い飛び込うだとばい。生命がけで留めようとしてコゲニ血だらけえなっとるばい」
「ウーム」
 と知事は青くなったまま又腕を組んで考え込んだ。それを眺めていた楢山社長は、山羊髯をナブリ始めた。

     百七

 吾輩は自烈度くなった。
 これ位わかり易い話がドウして知事にわからないのだろう。今まで解からなかった喧嘩の底の底の理屈が、子供の吾輩にもハッキリと呑み込めたくらい噛んで含めるような談判をされているのに、まだ腕を組んで考えているなんて、ヨッポド頭の悪いアホタレに違いない。しかもそれを又、ニコニコ然と眺め遣りながら山羊髯を撫でまわしている楢山社長も楢山社長で気の長いこと夥しい。四の五の文句を言わせるよりも、手っ取り早く拳骨を固めて、ポカーンと一つあの禿茶瓶をナグリ付けたらさそうなものと思ったが、そのうちに又吾輩は、最前からの談判を聞きながら、たまらない空腹を感じ始めている事に気がついたので、横合から楢山社長の顔を見上げながら尋ねて見た。
「オイサン」
「何かい」
 と楢山社長はニコニコしながら吾輩を振り返った。
「下で御飯喰べて来てええけえ」
「おお。そうそう。腹が減っつろうのう。ええとも、ええとも。お前だけ先に行て喰うて来い」
「ここいするめと昆布を持っとるけんど……」
「ハハハハ。そげな物な喰わんでもよか。オイオイ誰かおらんか」
 と言ううちに楢山社長はポンポンと手を叩いた。すると直ぐに……ハ――イ……と言う返事が下の方から聞こえて、最前のお近という女が上って来たが、見るとまだ青い顔はしていたけれども、気分はスッカリ落ち着いたらしく、モウ震えてはいないようである。
「この子供に飯を喰わしてくれい。それから何か丁度ええ着物はないか」
「……あの……生憎男のお児さんのお召物が御座いませんが」
「ウム。何でも構わんがのう」
「……あの……女将さんの娘御の着古しをば私が頂いておりますが」
「ウムウム。それがええ、それがええ」
「ハハイ……かしこまりました」
 お近さんはそのまま吾輩の手を引いて下に降りて行った。見ると階段の下に続いている長廊下にはそこいらの女中と芸者を総動員した程立ち並んで何かしらヒソヒソと話し合っていたが、吾輩の姿を見ると皆一斉に口をつぐんでしまった。中には吾輩がまだ行かぬうちに顔色を変えて、廊下をコソコソと逃げ出す者もいたが、これは血だらけの吾輩とスレ違うのを嫌がったのであろう。
 お近さんはその中の二、三人に小さな声で、何か二言三言言い付けると、まず吾輩を湯殿に連れ込んで、雑巾でも抓むような恰好で着物を脱がせて、洗粉を身体中にまぶしながらスッカリ洗い上げてくれた。それから女中が持って来た袖の長い、赤と青の紋の着物を着せて、何か知らん桃色のキューキュー言う帯を巻き付けてくれたが、吾輩はその時に板の間に落ち散っていた鯣と昆布を両手で掃き集めて、シッカリと懐中に捻じ込んだので、お近さんは青い顔を急に真赤にしてクスクスと笑い出した。
 そこでやっと顔色の直ったお近さんは、吾輩を台所に連れ込んで、まだ生あたたかい御飯を喰べさせてくれたが、その副食物の種類の多かったこと……多分戸棚の中の余り物を総ざらいにしてくれたものであったろうが、何にしてもコンナに沢山の副食物を貰ったことは生まれて初めてだった。参考のため勘定してみると容れ物の数が十一あった。
「お近さん」
「ハイ」
「コレ……みんな喰べてええのけえ」
「……ヘエ……よござっせにゃあコテ……」
「……おお嬉し……」
 と吾輩は飛び上って喜んだのでお近さんはトウトウ声を立てて失笑ふきだしてしまった。
 ところが残念なことに吾輩は、その副食物を残らず平らげて見せる訳には行かなかった。
 否、全部どころか、まだ半分も片付けないうちに裏の方と表の方からと同時にワ――ッと言うかちどきの声が起って、門の扉か何かをドカンドカンと叩く音が聞こえ出した。
 ところでその音を聞くと吾輩は直ぐに、これは玄洋社と磯政の同勢が喧嘩に勝ったので、この家をタタキ破りに来たものだと直感したが、しかし台所に集まっていた連中は、まだ何が何やら見当が付かなかったらしかった。ただ真青になって顔を見合わせているばかりであったが、その中に誰かがタッタ一口、
「玄洋社」
 と言う声が聞こえると、五、六人の男女が一斉に、電気に打たれたように悲鳴をあげた。同時に坐ったまま腰を抜かして這い出すものや、当なしに面喰らって右往左往に走りまわる者が、そこいら中をドタバタ言わせ始めたが、間もなく誰かが台所のまん中にブラ下がった洋燈ランプに行き当ったらしく、ガチャンガチャンと言う音と共に、四方が真暗になってしまった……と思う間もなく台所の板の間から一面に青い火がメラメラと燃え上り始めた。

     百八

「ウワ――ッ。火事火事ッ……」
「あらあ……火事じゃが、火事じゃがア……」
 と言ううちに二、三人走り寄ってタタキ消しかかったが、何を言うにも石油の火だからナカナカ思うように消えてしまわない。そのうちに板の間の床の下からムウ――と黒い煙が噴き出したと思うと、赤茶気た焔がメラメラと伸び上って、真黒な煤煙が吾輩のいる次の間まで一パイになってしまった。
 ウロウロしていた男も女も、これを見ると又もや悲鳴をあげて逃げ迷った。その中にお近さんの声がして、
「知らせにゃ、知らせにゃ……早よう、早よう……」
 と言いながらバタバタと走って行く足音がしたが、ソレッキリそこいら中がシンとして、ボロンボロンと燃え上る石油の音ばかりになってしまった。
 ところであとに取り残された吾輩はタッタ一人でドウしようかと思い迷った。お箸と茶碗を両手に持ったまま顔中にモヤモヤと群らがりかるけむりの渦巻きを撫でまわし撫でまわしていたが、やがてその渦巻きがズンズン室の外へ流れ出し始めて、板張りから燃え上る焔の光にヤッと眼の前のお膳が見え出すと、吾輩は又尻を落ち着けた。お手盛りで一杯飯をよそいながら、残った副食物を平らげ出した。むろんそれは大急行おおいそぎで一番おしまいの楽しみに取っといた玉子焼を一番先に口に入れたくらいであったが、そのうちに又火が天井裏に入ったらしく、頭の上の天井板がミシリミシリと鳴り出したので、吾輩も少々慌て気味になって、最後の一杯をお茶漬にしながら、フウフウ言って掻き込んでいた。
 するとその時であった。今まで聞こえていた裏口の扉をタタキ破る音が、いつの間にか静まったと思う間もなく、台所の小潜り付きの大戸がメリメリバリバリと大音響を立てて内側へ倒れ込んだので、一旦内側へなびいた天井の焔と煙が一斉に外へ流れ出し始めた。その光で見ると裏口から雪崩なだれ込んだ大勢の人間が、鳶口や竹槍で力を合わせて無理矢理に大戸をコジ離した事がわかったが、その連中が真正面から火気を浴びて、
「ウワア……火事ぞッ……」
「消防、消防……」
「井戸は何処かい、井戸は何処かい」
 と口々に叫んで雪崩退く中に、タッタ一人両眼をカッと見開いて吾輩を凝視しながら、仁王立ちに突立っている大男があった。その男は頭に白い布を巻いていたのでチョット誰だか解らなかったが、よく見るとそれはハンマの源太で、両手に持った鉄槌ハンマが手首まで真赤に染っているのであった。
 そう気が付くと吾輩も、台所の次の間から板の間一面の焔を中に置いて、両手に茶碗と箸を持ったまま眼が痛くなる程睨み返して遣った。その序に口の中の蒲鉾と沢庵を、味噌ッ歯でモゴモゴと噛み始めたが、そうした吾輩の姿をハンマの源太の背後にひしめいていた連中が見付けると、我勝ちにワイワイ騒ぎ出した。
「いるぞ、いるぞッ。子供がいるぞッ」
「真黒い顔して振袖ば着とるぞッ」
「また火けといて飯喰いよるぞッ」
「仙右衛門ば焼き殺した外道じゃろ」
「この序に片付けてしまえッ」
「ニコニコ笑いよる……不逞な餓鬼ばい」
「油断すんな。魔法ドグラマグラかけられるな」
 そんな文句を罵り立てて、手に手に吾輩をゆびさしながら押し合いヘシ合いしていたが、何しろ天井と床板から燃え上る焔が、見る見る猛烈になって来て、顔が熱くなる位なので、誰一人飛込んで来る者がない。それを見ると吾輩は急に面白くなって来たので、大急で沢庵と蒲鉾を嚥み込んで、お茶を一パイ呑み干すと無言のまま両手でベッカンコウをして見せた。
 すると、それと殆んど同時に、大砲の弾丸たまのような音がして、膝の前のお膳や皿が粉微塵になって飛び散ったので、吾輩は肝を潰して飛び退いた。見るとハンマの源太が投げ付けたに違いない血だらけの鉄槌ハンマがお膳の破片の中に逆立ちをしている。これはと思って振り返るとハンマの源太はモウ一つ左手に持っている鉄槌を右手に持ち換えて、タッタ今投げ付けそうなモーションを執っていた。
 吾輩はその第二の鉄槌と殆んどスレ違いに室を飛び出した。その鉄槌が障子か襖かを突き抜けて、戸板を撃ち破る猛烈な音響を振り返りながら、取りあえず楢山社長の処に帰るべく手近い処にある二階段を馳け上ろうとすると、早くも二階へ火が廻っているらしく、白い煙が濛々と渦巻き降りて来る中から、逃げ迷ったらしい芸者が一人盛装のまま物も言わず真逆様に転がり落ちて来た。
 吾輩は又も少々面喰らいながら横にれて、長い廊下を左へ一直線に走った。すると間もなく真正面に丸い月見窓が、薄い外あかりで透かして見えたので、コレ幸いと手を突込んで障子と雨戸を引きけて、二本渡した竹の棒の間から脱け出して見ると……何の事だ。
 外はお庭かと思ったのが広い往来になっていて人ッ子一人通っていない。ただズット遠くの町の角から梯子を持って出て来る二、三人の人影が見えるばかりである。月はもう西に傾いて、夜が明けかかっているのであった。
 吾輩はその人影に見付けられないうちに一散走りで右手の横町に逃げ込んだ。それから青柳の家と離れるように離れるように走り続けたら、間もなく鉄道の踏切を越えて山の岨道そまみちにかかった。そこでホッとして振り返ってみると、青柳の家は直方の町の真中で盛んに黒煙をあげて燃えている。
 それを見ると吾輩は急に恐ろしくなって又走り出した。
 昨夜の喧嘩も、今朝の火事も、直方中の騒動は何もかも、みんな自分一人で仕出かしたような気持ちになりながら、何処かわからなくなった山の中を滅法矢鱈に走った走った……走った……。





底本:「夢野久作全集5」三一書房
   1969(昭和44)年11月15日第1版第1刷発行
   1991(平成3)年2月28日第1版第11刷発行
初出:「福岡日日新聞」
   1931(昭和6)年9月23日から1932(昭和7)年1月26日まで連載
入力:宮城高志
校正:
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