牧師の喫茶室


Googleマップは楽し
この頃、Googleマップを見るのが楽しみです。
Google Earthでもいいのですが、これで、世界旅行の気分に浸っているのではありません。

そもそも、私の「世界の姿」という固定概念は、半世紀も前に造られたものです。
そのころは、まだ、テレビもなかった時代で、雑誌に載っている一枚の写真など、
わずかな情報で世界を想像し、私の固定概念が形成されていったのです。

面白いことに、一端出来上がった固定概念は、なかなか壊れないものなんですよね。
しかも、その固定概念を補強するような、情報ばかりが目につくもので、
それを見つけては、心の中で「やっぱりね!」と思ったりします。

そんな私に、Googleマップの航空写真は、心地良い固定概念の破壊をもたらすのです。
中国のタクラマカン砂漠のど真ん中に、ガスコンビナートの工場?があります。
また、タクラマカン砂漠の中央を、エベレスト山の雪解け水が流れていて、そこには、
たくさんの人たちが住んでいるのです。

そして、航空写真で一番感心するのは、人間が地球を耕している幾何学的模様です。
田んぼであれ、畑であれ、牧場であれ、それは、理路整然と並んでいて、
そこには人間の理性を感じるのです。

ナイル川の河口は、聖書では「ゴシェンの地」と呼ばれますが、イスラエル(ヤコブ)の一族が移り
住んだところです。この地は、ダムが出来るまで、毎年の洪水によって、肥沃でありながらも、
人間には住みにくい場所だったのです。

ところが、面白いことにナイル川の恵みから、一歩でもはずれると砂漠地帯になっています。
でも、よく見ると、その砂漠地帯に、円形の畑があるのです。
これは、円形の潅漑施設によって、水のかかるところだけが畑になっているのです。

実に、人間が地球上で活動した形跡は、はっきりと残るのです。しかし、地球上には、動物たちもいます。
彼らの形跡は、足跡が見えたとしても、それは、人間の様な形跡を残さないのです。

しかし、彼らとて、生物学の法則に従い、物理学の法則にしたがっているのです。
法則にしたがっているのにもかかわらず、人間の目には、混沌と見えるのです。

ここに人間の知恵の限界があるように思います。
人間的にものすごい知恵のある人がこう云いました。
「 空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。」

伝道者は、この世で益になるものを求めたのです。しかし、それは霧をつかむようなもので
存在はしているのだけれど、つかんで自分のものにはできないのです。

Googieで見る地上の世界。人間が造り出している幾何学的模様に感心しますが、
混沌と見える手付かずの自然の中にこそ、私たちの理解できない神様の知恵が潜んでいる
のではないでしょうか。

でも、私たちには、それは「空」、何もないところのように見えてしまうのです。


性格より人格
つい最近、私たち夫婦は韓国の兄弟姉妹の招きによって、韓国の教会を見学してくる恵みが
与えられました。たくさんの恵みを神様から頂きました。韓国の料理もおいしくて、霊肉ともに
元気になって帰ってきました。信仰のリフレッシュを与えていただきました。カムサハムニダ!

韓国の方と話していると、その考え方が違うことはもちろんですが、教えられることがたくさんあります。
ある、女性が、自分の結婚についてこういわれたのです。「結婚する時に大切なのは人格です。」

日本だと、結婚する相手に求めるものは「性格」じゃないですか。
特に、「やさしい性格」というのは、女性からすべての男性に求められる、必須条件のような気がします。

でも、韓国女性が「大切なのは人格です。」と云われたとき、「そうだ!」と頭の中で叫びました。
考えてみれば、結婚を考えている女性に対して、男性が優しくするのは当たり前です。
この時点で、やさしくできない男性は、そもそも結婚適齢期ではありません。

で、「やさしさ」は、確かに結婚へのきっかけにはなるでしょうね。
しかし、結婚式は、たったの一時間、それからの結婚生活は何十年と続くのです。

やがて、えくぼと思っていたものが“あばた”と気づきます。
喜びが嘆きと変わるときがやってくるのです。

この時、生きてくるのが「人格」だと思ったのです。
その人が、何を大切に生きているのか。ポリシーは何なのか。
それは、その人が親から受け継いでいる価値観、親離れしてから自分なりに悩み、
苦しんだあげくにたどり着いた価値観です。

それが、独りの人格の中に融合し、人格を成り立たせているのです。

日本の男性よ!韓国の女性は、うわっつらのやさしい態度ではなく、あなたの人格を
見ているのですぞ!!


不思議な経験
もう、ずいぶん昔のことになりますが、不思議な経験をしました。
私は、鹿児島のある村にトラクト配布に出かけました。大きな道沿いに村の家々があり、
そこを配り終えて、村の背後に出るとU字型の道路の向こう側に家がありました。

私は、その家まで配布しようと道を歩き出しました。すると、どうも奇妙な感じがするのです。
目の前の景色が、ゆらゆら動いて見えるのです。

すると、後ろの方で何人かの村人が、私の目の前を指差して緊迫した感じで何かを話して
いるではありませんか。私は、なんだろうと思って、私はもうその時は、そちらの方に
歩いていたのですが、5メートルほど先にパッと赤いのが見えたのです。

私は一瞬「なんだ!」と思いました。すると、その赤い上のほうで、もう一つ赤いのが
パッと見えたのです。そして、それには目があったのです。

その時です、「あっ、これはサルだ」とわかったのは。
サルたちは、畑に干してあった大根をひきおろして、食べていたのです。
しかも、5,6匹の群れだったのです。

私が、何も知らずサルたちに近づいていったものですから、サルは尻を上げて
不法侵入してくる私を見たのです。

私は、動物園に行って、サルを何度も見て知っています。
でも、冬毛のサルが、自然の景色の中に溶け込んでいた時には、
まったくわからなかったのです。

私は、目の前にいたサルの群れを見ていたにもかかわらず、サルが見えなかったのです。
これには、私自身が驚きました。

少なくとも、それまでの私は、自分の目で見ているものは、すべて理解できていると思って
いました。ところが、この経験をしたことによって、目で見えていても、自分の心が
それを捉えない限り決して、見えてはいないんだとわかったのです。

いったん、その景色の中にサルを見つけますと、サルたちが何をしているのかが良く
見えたのです。
同じものを見ながら、村人にはサルが見え、私にはサルが認識できませんでした。

私たちは、自分が見たものに自信があるんですよね。そして、他人もそうだと。
ところがどっこい、私たちは、自分に興味のあるものしか見えていないものなんですね。

そういえば、家内が、お腹が大きかった時は、世の中に妊婦さんが異常に多かったし。
子どもが生まれてからは、町には子どもが溢れていると思っていました。
今はまた、孫みたいな子どもを見ると、この頃「孫」が増えてるなと思いますもん。

つまり、私たちは、それぞれの自分の心によって、この世界に色合いをつけて
見ているんですよね。これは、不思議なことです。

さあて、明日から、私の目に何が見えるのでしょうかね。



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