知られざる事実
平成14年10月に調停が成立したが、いまだに境界沿線の市道(当時町道)拡幅工事が中断したままである。永年に亘る当家と隣家(相手方)が抱えてきた境界紛争がこの要因だが、地域住民の皆様方に多大な迷惑を掛けてきた事を後見人として本人に代わりお詫び申し上げたい。
調停成立後すでに10年以上経過し、その間に相手方当主Oが死亡した。調停で示された境界際に植えた樹木(けやき)に関する案件など、相手方の息子は知るよしも無いのか履行するつもりは全然ないようだ。我々の親族も調停結果がどのようなものなのか記憶に留め置く事が難しくなってきている。近隣住民の方々で昔の出来事を知る人は数人だけとなった現在、世代交代した若者がこうした状況に疑問の目を向けている事も容易に想像できる。
その事を踏まえ、調停に至る経過と結果について報告するのが皆様方のご理解を得る最善策と考えここに記録しておく事とする。
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境界紛争の概要
両家の境界は、昔から多少のいざこざによる出入りがあったが、漠然とした概念で双方認め合っていた事は事実である。ただ、昭和51年の国土調査を機に測量した結果、当家の土地面積が登記簿面積よりおよそ300u少なく、隣家の面積がおよそ1,000u多い事が判明した。そのため土地を区分する境界の設定がなされなかった。これがこの紛争の争点である。
昭和51年に実施された国土調査(以下国調と言う)の結果、両家の周囲は境界の設定・確認が実施されたが、両家の間に介在する境界線が確定しないため両家の土地は筆界未定地となっていた。
役場(当時)の公図を基に計算した数値は両家合わせて10,466.91uだった。この数値は絶対的なものではないがほぼ確定値と仮定する。
この状況を打破するため昭和52年に相手方の長男が平板測量を行った。両家の面積を掌握するためだった。その時測量を手伝ったのが当家世帯主・Tの配偶者と、相手方東隣の親類にあたる佐々木家のNだった。Oは測量の資格を持っていたわけではないが、県職員であり測量に関する少々の知識は持っていたと思われる。帰省して作業を垣間見ていた建設会社員の私が断言できるが、後で「測量した事は知らない」と嘯いた相手の気が知れない。
その測量した図面を基に、Tが勤めていた登米町の関係業者に計算してもらった面積は次の通りだった。
当家 3,227.58u
相手方 7,158.12u となり、筆界未定地の仮定数値と比較すると▲81.21uの差異があった。
計 10,385.70u
筆界未定地の仮定数値に近づけるため、この差異をOの測量誤差と考え両家の面積に応じて按分すると次の通りである。
当家 3,227.58u+25.24u=3,252.82u
相手方 7,158.12u+55.97u=7,214.09u
計 10,385.70u 10,466.91u
この数値はあくまで概算値であるが、両家の登記簿上の面積と比較すると次のことが分かる。
当家の登記簿面積 3,549.00u
相手方の登記簿面積 6,122.87u 以上の事から当家 296.18uの不足、相手方 1,091.22u多い事が判明した。
計 9,671.87u
さらに、両家の過不足はこの通りとしても、実際の面積と登記簿上の面積差を昔の縄延び等による余剰地と考えた場合、両家の筆界未定地内には概算で795.04uの余剰地があることが分かる。
当家の世帯主Tは、この状況が昔からのいきさつ(後で述べる)があった結果だと考え、不足分について何らかの形で返還するよう相手方のOに申し入れをし、Oも世代交代したら必ず返還する旨の口約束を交わしていた。
時は過ぎ、両家の土地に接する町道(現市道)の拡幅工事が始まったが、いつまでも境界が解決しないためにその部分の工事に着手できず町も地元住民も困り果てていた。その間相手側では世代交代がありOが世帯主になったが、時代の流れと共に欲が出たのか返還の口約束は反故にされた。本人同士以外の関係者で解決策を協議し解決一歩手前まで進んだ事があるが、その都度Oが邪魔をして解決には至らなかった。区長さん初め地元住民の多くが立会いの下、測量杭を打ち役場職員が測量するまで行ったのに、その日の夜、Oが測量杭を全部引き抜き、みんなの努力が実を結ばなかった事もあった。
「いつまでも近隣住民に迷惑を掛けてはならない」と、平成8年4月3日にTが弁護士を介し調停を申し立てたのだ。
調停に至るまでの経緯と経過
昭和51年
国土調査が実施され、両家間の境界が確定せず筆界未定地としてそこだけ空白になっていた。
昭和52年5月頃
相手方の長男Oが測量(平板測量)を行う。その結果を基に「T家の面積が約三畝18歩少ない事が分かった。
世帯主のTOに言っても聞き入れてくれないので、自分の代になったら必ず解決する」旨の約束(口頭)をした。
昭和56年頃から
両家の世帯主同士(TとO)ではいつまでも解決策が見出せないため、
当家はTの長男と次男、相手方はOの二人の弟がこの件で話し合いをする事になった。
当家の言い分である、まず不足分の解消と、両家の筆界未定地に介在する余剰地を両家の面積日で按分して境界を定める事からスタートした。
話し合いの当初は、不足分を委譲する件については相手方も理解していた。
平成2年秋頃
何回か協議した後、大筋で境界を決めることで決着した。
当家の北側にある水田(53番地)を当家に委譲し、その他はほぼ現況の境界線らしき線で決めると言うものだった。
当家では非常に不満ではあったが、「この紛争にケリがつくのであればそれも已む無し」と承諾した。
その日、親族・近隣住民の方、部落の区長立会いの下で境界杭(コンクリート製)が設置されたが、
最後に役場の建設課職員が測量を始めようとした時、Oが出てきてせっかく決めようとした境界線に文句をつけ結局測量が出来なかった。
その次の日にはコンクリート製の境界杭がOの手によって大方引き抜かれ跡形も無くなっていたのである。
平成8年4月
登米地方は昔から弁護士が不在だった。
最近になり持ち回りで仙台から弁護士がやって来て「法律相談所」が開設された事を機に、
申立人本人であるTが中々解決しない境界問題について担当した弁護士に相談した。
平成8年8月
弁護士を立てて正式に仙台家庭裁判所登米支部に調停を申し入れた。
その後数回調停が開催され、Tの次男である私がその都度出席した。
平成9年11月
調停の間に、裁判官の提案により両者が主張する境界線に杭を打ち当方の土地面積を測量する事になった。
その測量結果は次のような数値だった。
Tが主張した当家の面積 3,768.73u(登記簿面積に対し219.73u多い)
相手側が主張した当家の面積 2,843.59u(登記簿面積より705.41u少ない)
以上の事から、Tが主張した面積は登記簿面積より219.73u多くなったが、それでも余剰地を加味した面積よりは少ないものである。
一方、相手側(修と章)が主張した線で測量した当方の面積は登記簿面積より705.41uも少ないもので、
境界が畑(現況水田)の真ん中にあるというようなでたらめな主張だった。
平成10年9月
申立人Tが下垂体腫瘍手術のため仙台の病院に入院する。
平成10年10月〜平成12年12月
術後の経過が思わしくなく、手術を起因とした認知症で記憶障害に陥ったため調停を中断する。
それでもせっかく時間を掛けて行ってきた調停が無駄になる事を避ける意味から、私が後見人の手続きをして調停を継続する事を決意した。
平成12年12月〜
成年後見人の手続きは時間が掛かった。
私の兄弟への同意や医師による司法診断を裁判所が調査・判定するためだった。
それでも調停は1ヶ月1度のペースで開催された。
調停を重ねる度、T側が余剰地の放棄など不足分だけでも配慮した解決を図るよう妥協し提案するが、
相手側は早期に解決する事よりも自分の所有地をいかに減らさぬ事に徹し、
合わせて昔の事を知らないOの弟Aが口を出すものだからますます解決は遠のき、無駄な時間が経過するだけだった。
平成14年3月
成年後見の申し立てが審判され、正式に私が後見人になった。
平成14年7月25日
長い間の調停にやっと区切りをつけた。Tが健在ならとても容認できる内容ではなかったが、
こちらの主張をしても相手方が納得する事はこれ以上期待できず、「欲しいのだったらくれてやる!」の気持ちで不本意ではあるが同意したのである。
結果、当家の登記簿面積 3,549.00uに比べ同意した面積は3,289.96uと250.04uも少なくなり、
相手方の登記簿面積 6,122.87uが7,257.11uと余剰地を含め1,134.24uも増加した。
これは誰が考えても不条理とは思うが、この境界紛争を解決する為には大幅な譲歩が必要だったのである。
調停で相手側が要求した「雨水をよこすな」「法面に土留めをしろ」についても、当方では雨樋を設置したり境界際にブロックを積むなど誠実な対応をしている。
相手のゴネ得くとは言え、当方が大幅に譲歩した事で解決したと思えば少しは気も休まる。
但し、以後両家の間に親族関係は全く介在せず、単なる隣家となった事を言っておきたい。
世代交代する相手側の後継者が、こうした経過によって今の境界が設定された事を理解して欲しいと切に願うだけである。
ただ、この境界が確定後しばらくしてほとんどの境界杭をOが引き抜いてしまったようだ。
杭を抜いているところを咎めたNさんと口論していたと言うからOで間違いないと思う。
境界の位置は座標で管理されているからすぐ復旧できるのだが、測量会社に依頼すると多額の費用が掛かる事を知らなかったのだろうか。
そのOも平成25年に亡くなった。
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