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| 硬 骨 漢 |
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硬骨漢という男に相応しい名前の村松剛氏の論文を久しぶりに拝読した。この人は正に硬骨漢という名に相応しい人だという、名に恥じない男の中の男と私は関心を持っていた男だといっても差し支えない。勿論他にも男臭い人はいるだろうが、最近は社会において、これぞ男だといえる人には滅多に会わない。 |
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しかし硬骨寒と言われる人には、当然のことながら、文芸評論家として世間で評価されるだけの資格、教養があるのは当然のことだ。 |
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村松剛氏はこの論文で、革新自治体を代表する美濃部亮吉・東京都知事の都政を激しく批判した。「一人でも反対があれば政策を強行しない」というやり方は政治放棄に等しいと指摘した。この4年前の昭和44年、立教大学文学部教授だった村松氏は過激派学生に弱腰な大学当局に愛想を尽かし辞表を提出したが、受理されず、教授会は学生との大衆団交で「懲戒解職」を約束させられた。 |
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村松氏はこの論文でも、自己の思想をのみを絶対化し、他を「人民の敵」として排除する勢力を批判し、自由の大切さを重ねて強調している。産経新聞・昭和正論座から下記を引用してみたい。 |
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昭和44年当事は学生運動の真っ盛りで、有名な東大講堂での学生たちの無駄な抵抗は一日中テレビで放送された。 |
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その中にあって、村松剛氏は一人孤高を守り、断固として学生たちに同調しなかったという。日本国中が左翼化するような雰囲気で、特に国鉄の電車には、現在では見られない反対のための反対文字が書かれていた。 |
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かたや、残念ながら日本人はいちじるしく情緒的な国民である。第二次大戦のまえ、新聞はナチ・ドイツと手を結び、ドイツをあたかも理想の国のようにたたえ、「時代の流れ」であると説いた。共産党が天下をとると自由が失われるとなどと言われるが、戦争中に軍国主義に抗して自由を守ったと言い分をラジオで聞いたが、確かに、最後まで節を曲げなかった少数の共産主義者がいた。 |
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しかし彼らが守ったのは共産主義のイデォロギーであって、ブルジョア的自由と彼らは言うところのもののためなどではなかったはずである。いかなる主義主張も、この世には存在する権利がある。それが自由主義というものである。そして何党であれ自己の思想のみ絶対化して、他は「人民の敵」として排除、粛清する勢力が支配するとき、かけがいのない自由は息絶える。 |
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戦後の日本人は簡単に言えば小アメリカ化することにつとめてきた。これは所詮無理な相談だった。日本の可住面積はカリホルニア州ほどしかない日本総面積に、しかもその中の可住面積は二割ほどの土地に、アメリカの人口の半分が住みこんで社宅も工場も、ゴミ処理場もつくる、というのは、日本はゴミ箱化するほかない。 |
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日本人は月給を上げてほしい、クルマもテレビもほしい、しかしそれらの源泉である発電所や工場はつくってほしくない。まったく矛盾した論理のどうどうめぐりが、いっそう苛立ちを昂じさせる。 |
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美しい山河をとりもどそうとすれば、工業の発展も、所得の向上も、ある程度は我慢しなければならない。問題は日本人がどの様な生活を望み、なにを幸福と考えるかということである。その考察がすべて出発点になる。現在は改めて生活の姿について国民的規模で反省することを強いられているのである。言論機関や政府が、率先して問わねばならないのも、じつはこの基本問題だろう。 |
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一国の長い歴史には、幾度もの曲折がある。曲がり角で苛立ちから冷静さを失い、自由を投げ捨てた国々の悲劇のいくつかを歴史は示している、一度失われた自由は、容易なことでは戻らない。日本はいったいどこに行くのであろうか。一介の老人である私は、この論文を読んで深く感銘したので、敢えて紹介を試みた次第である。 |
| 平成20年6月19日 石 井 立 夫 |