日本人の特性

 京都大学教授会田雄次氏の論文に、日本人の特性が見事に指摘されていたので、その一部を引用させて頂き、長生きしてきた老人が、現代まで感じてきた日本人の感性なるものを書いてみたい。

長所発見のヘタな国民性
 これは日本人全体について指摘できる日本人の国民性だと思う。日本人は真の意味での反省心には極めて乏しい民族性を持つということは、他のあらゆる調査から言えることである基本的には日本人の“骨がらみ”の性格となっている劣等意識の表現だと言える。
それは日本人の他人志向型と表裏一体をなしている。

 日本人は外国のことは何でもよく思う性格を持つ。日本人は自尊心が乏しいだけ最近流行の各種の反抗運動者の中に、理解しがたいゆがみを認めることが多いのはそのためだ。逆に言えば、理解しがたい行為は、そこに劣等意識という基本条件に、置くとき、極めて明快に解明できるものとなる。

たえず評価待遇に不満
 この劣等意識は自己の社会的存在に対して特に強く現れる。自分の能力や働きの割合に、自分は会社や周辺から不当に低くしか評価待遇しかないという「損」意識である。つまりたえず損をして生きて行かねばならないとの思いだ。68(日曜日)に極めて理不尽な殺人事件が起きた。死者7人・怪我人10名の大事件だった。

 これは正に典型的なスタイルと言えよう。この意識は各種各様に私たちの思考と行動を規定するが、それを分類・列挙すると次のようになる。第一は、理由なき不当待遇だという思いである。第二は、自分は正義でその自分を不当な待遇をする周辺、究極的には体制を不正と決めつける心情を持つ。

 第三には、あらゆる機会を捉えて、この損害をうめあわせようとする衝動にいつもとらわれているということである。第四は、抜きん出ようとする仲間に対する異常な羨望と憎悪である。これは戦後の教育によって強烈に叩き込まれた。東大主義や秀才教育をけなすと、ワーツとくる理由もそこにある。

反体制の権威にすがる
 自分を「正当」評価」してくれる機関や組織や人がどこかにありはしないかという強い願望である。劣等意識が強いから、あまり正面から評価されると、返って不安になる。とりわけ自信を喪失するよう訓練された戦後派の人々にはその傾向が強い。「出世など責任が重くなるからいや、それより趣味に生きたい」というような若者の意見などその代表である。

 これを出世と否定しているなどと受け取るのは間違いだ。責任を持ちたくないだけのことなのである。しかし、それよりむしろ彼らの望みは、組織から外れた世界での評価である。
「半」タレントを望んだり、市民運動や組合活動でリーダーシップを望んだり、新興宗教の幹部として活動することに生き甲斐覚えたり、冒険行などで有名になったり、異様な服装で顕示欲を満足させたり、すべてそうだ。

 それをのんびり行こうというという精神だなど誤解も甚だしい。こういう欲求に対し、政府や財界が無知無策なことは呆れるばかりである。逆に共産党などの洞察とそのエネルギーの吸い上げの巧みさには舌を巻くものがある。世界で共産党がもっともらしい顔をして、活躍している国は、日本くらいではないか。

 私は戦後の共産主義運動には、スターリンの指導による共産主義運動が一時、日本中が犯された事実は忘れられない思い出が、どうしても払拭できないのである。戦後強制収容場に入れられた兵隊がまだ生きているのだ。これを絶対に忘れてはならないという思いである。

愚衆支配
愚衆政治という現象が最悪の形で出現するというおそれだ。人口一千万という都会の真ん中で日照権を要求することは、自分のマンションの横に高層ビルが建つと、眺望権が阻害されると反対することと同じ狂気の沙汰、それが基本的人権と尊重されているのである。

 人影も見えぬ山中に五、六軒で「住宅街」を作った。電気は勿論、都市ガスも下水道も、小学校も病院も持って来い、その一つでも欠けることは、体制の悪の表現の外ならぬ。そんなところでも朝夕刊が配達され、刺身が食べられてこそ、シビル・ミニマムが保証されたといいうる。そのようないまや牙をむき出しした大衆の欲望を、少しでも制限しようと社会不安がおこる。そんな極限まで日本は到達しようとしているのである。

 ここまできた劣等意識民族のヒステリーをどうしたら沈静させ、正気の状態に戻し得るのか。その困難で、おそらく「殺人的不人気」を招くだろう課題に、まともに取り組もうとする為政者はまだ出現しないようである。

 ここまで読んで私は背筋にある悪寒を覚えたのである。理不尽な事件が起きている社会に生きて行くには、これに対応できる為政者が出てくるだろうか。

  平成20年8月14日               石 井 立 夫