2・26事件

75年前の我が瞑想

 75年前の瞑想がふと浮かんできた。14歳だった。中学4年生だった。生まれは中国上海の田舎育ちだった。修学旅行で初めて東京を知ったときだった。昭和11年の秋だったと記憶している。何か東京で大きな事件があったらしいと知った。現在のような情報時代ではなかった。2・26事件だったのだ。

 その後3年間の軍隊を経験し、運よく無事に復員できた。25歳だった。自分には記憶がないのだが、2・26事件に関係した15名の将校の処刑の場面を具体的に書いているのだ。
私には何のために、誰に頼まれて書いたのか、全く記憶にないのだ。然し現実に書いてあった。青年将校たちは純粋に国を憂い、将来の日本国の運命を自分たちで何とかしようと思ったに違いない。純粋なだけに余計に哀れさを感じるのだ。

 その光景を見事に書いてあるのは、自分ながらテレを覚えるが、多分幹部候補生の予備士官学校で、中隊長が話をしたのを聞き覚えで書いた覚えがある。当時の青年たちに大いに刺激を与えた話題だったに違いない。

 たまたま暦が226日にめぐりあったので、昔の瞑想が蘇えったのだ。現在のNHKのある地域に、戦後処刑された将校の名前を彫った銅像があった記憶がある。その付近は陸軍の衛戍刑務所があったのだ。実際の刑務所があったのだ。

 古い話題だが、わが連隊にこの刑務所から開放されてきた兵隊がいた。
脚がいやに曲がっていたので、その兵隊に聞いた覚えがある。お前は何をしでかして刑務所に入れられたのかと聞いた。その兵隊は蒙古地帯で初年兵として勤めていたが上級の下士官が、現地で、その地域の女を強姦したとき、たまたま監視役をさせられたらしい。
その後そこにいた仲間が全部逮捕されたらしい。気の毒な話だが、その初年兵も一連の罪として衛戍刑務所に4年間も入れられていた。やっと開放されて我が連隊に再び配属されてきた。私の中隊に配属されてきたので、当時の話を聞いたのだ。彼は単に監視役を命令されたばかりで、同じ罪に問われた誠に気の毒な兵隊だった。

2・26事件 2・26事件(青年将校)

 刑務所の中の兵隊の経験した内容を聞いて、いかにも戦時中の酷い扱いを具体的に聞いた両足のあいだに棒を差し込まれ、現在では考えられない、まるで地獄の沙汰のような暴力を受けたらしい。然し本人は、人の嫌がる仕事を積極的にこなし、いささか感心してこの人物を見ていた。ある日外出の許可を申し出てきた。

  この場合は絶対に許可にならない兵隊の立場たが、私は逆に普通の兵隊と同様の見方をしていたので、外出許可を与えた。内心は実は多少の不安はあったが・・・・外出の許可時間は夜の八時だった。彼は時間に間に合はせるために、外出先から走りに走って時間通りに帰ってきたが、余りに走って帰ってきたため、点呼を行っている最中に無事帰ってきたが、そのままベッドへ倒れてしまった。

  普通なら馬鹿野郎と言って、兵隊を叩くのが当時の軍隊では当然の制裁だったが、ばったり倒れている兵隊を叱る場合ではなかった。
私はそのまま倒れている兵隊をそのままにして、点呼を行なって何も兵隊を叱ることはしなかった。当時の軍隊では完全に規則違反だったのだ。

 無理偏に拳骨と言うのが、軍隊の仕来りだった。私は完全に規則違反だった彼が、必死になって帰ってきた、安全だったのが、彼の誠意と判断した。これは今だから言える理屈かもしれないが、現在の日本では考えられない時代だったのは事実なのだ。

  平成21年2月26日               石 井 立 夫