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女性ノンフィクション作家の死 |
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昭和を見つめ続けた生涯、上坂冬子さんが亡くなった。心から彼女の死を悼みたい。 |
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昭和5年生まれだから、まさに戦時中に15歳になったが、戦後は一時所謂BG生活を過ごし、当時労働運動が華やいだ時代に、彼女は職場の人間模様をまとめた「思想の科学」に投稿し掲載されたのが、ノンフィクション作家の道へ進むきっかけとなったらしい。 |
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戦時中に米兵を生体解剖した事件の全容を追った「生体解剖―九州大学医学部事件」、巣鴨プリズンで処刑された戦犯の遺族らを訪ね歩き、声にならなかった無念の思いを書きとどめた「巣鴨プリズン13号鉄扉」など、あの戦争は何だったのか」という問いかけに対する答えを自ら探すような著作を次々と発表した。 |
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彼女の本籍地は、北海道国後郡泊村、北方領土の国後島だ。戦後ロシアに不法占拠され、スターリンに“拉致”されたままの四島を取り戻さない限り戦後は終わらないと、北方領土にも熱心に取り組んでいた。 |
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彼女は死を予想したのか?曽野綾子さんとの対談本が出版されたのは、2009年2月だ彼女は既にがん闘病記を書いていた。内容は主治医と対談し、雑誌に連載を載せていた。最後まで仕事を続けた気丈な人だったらしい。男女の区別なく読ませる本だ。性格は正反対なのだ。曽野綾子さんは産経新聞にも上坂冬子さんのことを書いていた。 |
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二人は何から何まで正反対の生き方をしてきたが、それがまた結構うまく行っていて、ざっと30年、本当のケンカもせず、会えば必ず「ああ言えばこう言う」言葉の上での対立を止めずに、相手をけなしながら笑い転げていたのである。 |
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彼女は作家のとして鋭い眼力で言葉を残している。その一つは「東京の地価が高いのは魂の自由代が含まれているからだ、と言うものだ。東京は誰がどのように生きかたをしても一切、口出ししない土地だ。彼女にとっては、この自由こそ人間性を保持するための社会構造上、必須条件だった。二つ目の名言は、ここ数年来のものである。 |
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彼女は私に「もう一つする仕事がある」と言うようになっていたが、それは「死ぬという仕事を果たす」ことだったのである。私は次のテーマは何なのだろうと思ったのだが、それは人間の宿命としての死を通過することだった。最後の「老い楽対談」の中で私たちは魂の問題、葬式のやり方まで語りつくした。私は彼女の死を少しも悼んでいない。 |
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| 還暦祝いの記念にベルリンの壁にて | 曽野綾子・上坂冬子の対談 |
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これだけ自由の羽ばたき、『上坂冬子』という名前を聞いただけで皆が笑顔を禁じえないような魅力的な生涯を、誰もが送れるものではないからだ。(曽野綾子さんのオピニオンから)われら後期高齢者の共通点は好奇心、病気になってもケガをしても「御身大切に」にはしない。ああ言えばこう言う。 |
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わが道を行く“かわゆくないおばあさん”の迫力談義を残して、あっさり去っていった上坂さん、お二人の対談は見事なものだった。最後の病床では、戦後大流行した「蜜柑の花のさく丘」や軍歌などを口ずさんでいたと言う。誠に悲しい話だが、いかにも戦後日本のありようを語れる人を亡くしてしまったのだ。 |
| 平成21年5月7日 石 井 立 夫 |