焼け跡と、りんごの歌
遙かなる昭和(第二部)

 第一部では終戦前夜、師団司令部が偽の命令を下し、一時は宮城内に一部、反乱軍が命令
に従って実際に宮城内へ進軍していったのである。各連隊では終戦に際し、当然のごとく大混乱があったのは事実だった。最後に偽の命令を出した師団参謀は自決して責任を取りこの事件は事なきを得たのである。

 国民の全体が茫然自失の状態からやっと少しは抜けだしたのは、並木路子さんの歌った「赤いりんご」が大いに国民を元気づいたのは、今から思えばその効果はおおいにあったのではないかと思う。

 しかし事はそのように簡単ではなかった。占領軍としてGHQが上陸してきて国全体が完全に占領されたのだ。
私の下宿していた家の娘に現在日本で一番偉い人は誰かと聞いたら、残念ながらマッカーサー元帥だという返事だった。うちひしがれた当時の我々から米軍の闊歩している姿に日本女性が腕を組みながら歩く姿は戦後の一つのパターンだった。

戦地に残された、特に北方領土に残された多くの兵隊は自分の国へ帰れると思い喜んでいたが、ソ連のスターリンは前途有為の日本兵をウラジオストックへ情け容赦なく運んだ。

  65万人の兵隊を所謂ラーゲリーという寒風吹きすさぶ収容所へ入れた。シベリアの極寒地区で、そこで作業を無理強いに行われたのである。しかも時間がたつに従い、共産主義教育を始めた。抑留された二年目の春頃、収容所の一角に、元日本共産党の党員だったという者を中心として{友の会}が組織され、その中で共産主義の勉強が始まった。そしてある時{友の会}の指導で{青年行動隊}が組織された。

 その頃「シベリアの虎」といわれていた袴田陸奥男がチタ地区の捕虜の上に君臨していた。彼が民主学校の校長として、各収容所から送れてきた青年達を三ヶ月で、アクチブとして教育洗脳したのである。反動分子は次々に摘発され、大衆の批判にかかった。批判つまり吊るし上げである昼食後の休憩時間、収容所のベットの上で夜を徹して行われた。結果として反動分子は姿を消した。起床から就寝まで、労働する以外はすべて民主運動で埋め尽くされた。革命だ!祖国日本を救え!の声はアジとなり、まさに収容所は革命の坩堝と化して行った。現在の共産主義を取り巻く状況はどうやら続いているが、過去の厳しい状態を知っているのか?シベリアの収容所での赤化洗脳の嵐は語り草になっている。現代の日本人はどこまでこれらの過去を認識しているのか?平和に埋もれた現状からは想像も出来ない過去の歴史になっている。歴史は過去の事実をひとつの事実として伝えられているのだ。絶えず繰り替えされる中で人間は生きてゆくのだろう。

  平成21年10月22日               石 井 立 夫