バンド風景( 上 海 )1940年の頃

上海今昔物語-①

 私は1920年上海で誕生した。古い上海を知る人の仲間だが、古い、悪いの感想ではなく、ある意味では懐旧談になるのかもしれない。
産経新聞1月22日一面に中国GDP8.7%増09、円高・日本に肉薄と言う記事を読んでやや感傷的ではあるが、自から比較して見たかったのである。

  例えば自動車の販売台数が急増し前年比46%の増の1364万台と世界一に躍り出るなど内需が拡大。金融危機の影響から「V字型回復」を果たし、世界経済の牽引役を担っている。中国の昨年のGDPは、各国の経済規模を示す名目で33兆5353億元だった。

ドル換算で比較される世界順位では、円高のため日本の名目GDPが膨れあがり、中国は日本をわずかに下回った模様だ。中国はドイツを追い抜いて世界3位になっている。(産経)戦後の中国には訪問していないが、恐るべき勢いを感じてしまう。現状の模様はテレビ・コンピュータ・新聞で知ることは可能である。戦前の模様は老上海の友人が贈ってくれたもので、むしろ見聞しているので、十分に比較できるものだ。上海年表譜なるものが手元にあるので、1842年頃からの歴史的な変遷を拾ってみるものも興味あるのではないか?と思う。
1842年アヘン戦争。英国上海を一時占領。南京条約により通商港として開放。
ジャーデン・マセソン商会上海支店を開設イギリス租界の始まり。

 (この会社は英国の象徴的な殖民政策の商会)1849年フランス租界成立。
(この頃から欧米各国の租界政策が始まる)1945年が日本敗退の日だが、それ以前に何度か生まれ故郷の上海へ帰っている。欧米諸国が本格的に殖民地政策に乗り出したのは、1842年頃だが、それまでの上海の中国人の生活は惨めなものだった。

人力車( 上 海 )1940年頃 1940年頃の上海の町並み

 多くのワンポウツオウ(人力車)の人達は田舎から出て来た人達で貧しい生活をしていた反対に欧米から来た人達は逆に豪華な生活をしており、辺りを睥睨していた。日本人はウーソン路と言う名の地区に多くの店を開き、地元の中国人は挟まれるように遠慮しがちに店を開いていた。

  私の父は紡績工場に長らく勤務していたが、あたかも日本本国の生活の様な生活をしていたが、欧米人のような生活態度ではなかった。1932年上海戦争が起こったが、陸戦隊という海軍が支配していたが、私は12歳で怖い思いをした思い出がある。

 「中国人と犬、入るべからず」と言う屈辱的な看板を出していた公園があったが、まるで人間性を無視していたような租界生活をしていたのだ。その後私は日本へ行き、その後の上海での生活は知らない。

 1945年わが国が敗北して殆どの日本人は引き上げてしまった。
母は当然引き上げたが残念ながら自分の家を確保していなかった。
父は上海に残り、1953年現地で亡くなった。しかし新中国政府の成立を見て父から私に立派な政府樹立の知らせがあった。

 手紙の内容は見る見るうちに変わった。社会主義国家になったので、書かざるを得ない様子が伺われ、思想変化の恐ろしさを痛感した覚えがある。
1949年中華人民共和国成立、今日の中国の立派な政府が続き、今日の安定と繁栄が続いている。

 母親は父親が家を購入してなかったことを死ぬまで恨んでいた。残っているのは大分県臼杵湾を望むお墓だけだが、父親、母親、妹が永遠に眠っている静かな墓地が在るだけである上海の現状は繁栄の一途を辿っているが、第二の故郷として、その繁栄をひたすら祈っており、時には生まれ故郷を偲んでいる現在だ。

 人口13億人、広い地域を支配している中国政府の活力はどこにあるのだろうか。
いかにも中国人らしく、融通無碍の政策を心得ているに違いない。
他国のことは口に挟むことは許されないが、第二の故郷が伸びてゆくことは、何となく納得できるものがある。

  平成22年2月18日               石 井 立 夫