旧軍隊物語

 旧軍隊組織のあり方を思い出しながら青春時代を振り返りたい。昭和17101日、東部4部隊に入隊を命ず、と言う葉書を手にして入隊した。34名の同期生が乗馬部隊へ入隊した。乗馬の経験のあるものが半分、私は未経験者だったが、特別教育隊として編成され、全員ともに教育を受けることになった。

 まず一人当て毛布を8枚支給され、長靴を支給された。自分の脚に合いませんと言ったら靴に自分の脚を合わせろと言われた。同時に新しい営内靴を支給されたが、その晩に古い靴と替えられたので班長さんに報告したら、馬鹿野郎、自分に合うものを探して来いと言われ初日からドロボーの経験をした。

  その晩は班長さんの訓示があり、これからの生活の説明があった。毛布の敷きかた、たたみ方を教わり隣の同期生と初めて挨拶など抜きにして、まごまごしながら作業を始めたのである。最初の3日ぐらいは要領を覚えるのに必死になって覚えた。まず便所へ行く言葉をどのように言えば分からず、便所へ行ってきますと言ったら、馬鹿野郎、厠(カワヤ)と言うんだと教わり、先ず初日からまごまごした。

 なんでも“馬鹿野郎”という言葉が飛んでくるのだ。6時にラッパと共に起こされ、先ず馬小屋(厩舎)に飛んでゆく。乗馬の経験のないものは馬小屋の世話、馬の水のみ方、馬の首のところへ手を当ててのみ数を数えることを覚えさせられた。直ちに馬を引き入れて、馬小屋の糞掃除、敷き藁の取替え、などを順序良く行う。

 同じ中隊の伊藤・建川の両名はすでに乗馬の経験から馬の取り扱いは慣れていて仕事はすばやいが、要領の悪いのは、作業が遅れてしまう。お前は馬鹿か、と何度も言われた。一人の戦友は既に死亡、もう一人の戦友は寝たきりの状態で意識も既に無い状態が続いている。

 食事当番制があり、この当番は実に嬉かった。入隊して10日もたつと猛烈に腹がへって仕方がなかった。この当番に当たると飯の盛り方が自由にできるので、学習院を出たものもいて、この盛り方は少ないとか多いとか喧嘩ごしになるのだ。
正に地獄のような争いだった。今からでは考えられないような争いだった。

 次に8時半から始まる初年兵の訓練の時間までに朝食をとる。味噌汁に沢庵を大急ぎで食べなければ演習に間に合わない。班長さんに食べ方まで注意され、例えば肘を食卓について食べていたら、馬鹿野郎と注意された。

  8時半までに演習の姿に着替えて庭先に集まる。この忙しさは初年兵には実に忙しい仕事だった。さて、朝から演習が始まるが、歩き方、敬礼の仕方、声の出し方、何もかも初めから教わるのだ。このような地獄のような第一次試験が終わった。隣に寝ている戦友は合格を祈って、毛布を中で懐中電灯を秘かに照らして勉強していた。

 寝ることに必死になっていた私など、どうしてそんなに合格したいのか分からず、寝ることに必死になっていた。やがてその戦友はかぜが原因で死んでしまったのだ。第二次試験があり、教官が変更になった。よく殴られた思い出がある。大学時代にボクシングを経験した戦友がいたが、その倒れ方が気にくわなかった教官が再び殴り始めた・・・・・。
このようなぶざまな状態でどうやら過ごしていた。

 葉書を出したら全部点検をされた。班長に呼ばれ、お前はどうしてこのような感傷的な文を書くのかと注意されたことがあった。私は思わず班長室で泣いた経験があった。あまりにも馬鹿馬鹿しい話だが・・・・・。このような経験をして、とにかく騎兵学校(将校になるための予備士官学校)へ進んだ。

 この学校での経験は現在では理解できない厳しいものだった。卒業が10月になっていたが太平洋戦争がじょうじょに不利になってきたので、一ヶ月延長になったのだ。例えばジャングル戦に備えて真っ黒メガネをして演習を始めた。やっと卒業を迎えて訓示があった。
原隊に帰ったら今までと違って昔の兵隊になめられるなよ・・・と言われた。

 案の定帰隊したら「ヨウ:お前帰ってきたか」と言われた。それを無視して我慢した経験があった。これも馬鹿馬鹿しい話だが・・・・・・。どうやら将校になったが、次は原隊の残るのは7名で良い、後は全員戦地に派遣されることになった。連隊長が希望者はいるかと言われれば手を上げる。その遅い早いが運命を変えたのだ。

 私はどうやら運が良かったのかどうか分からないが、ともかく連隊に残ったのだ。このようにして終戦まで生き残ったのだが、その晩残った三人は連隊の芝生でこれから社会に出てどう生きるかを話を始めたら、いきなり戦友の一人が泣き出した。今まで君達に隠していたが、実は俺には女がいた。このレコードは二人で聴いたものだ。この話を聞かされた二人は特別泣くことはないだろうと言ったのを覚えている。妙にシラケタ思い出がある。

 それから一週間後に復員したが、むしろ戦後の生活の方が大変だった。帰国に行李一つで帰ったら、お袋が持って帰った荷物はこれだけかと言われた。
すでに猛烈なインフレが始まっていたのだ。世間音痴の私はどうしたらよいのか理解できなった経験があった。

 その後の生活はインフレに悩まされ、どうやら今日まで生き延びたのだが、いつの間にか齢90歳になった。さてこれから生き残るほうが、より厳しいのだが・・・・・今更神様・仏様ではないが、少しでも長生きでますように祈るだけだ。

  平成22年3月11日               石 井 立 夫