黄  浦  江

上海今昔物語 ②

 この題名①で書いたが第二話を書いてみたい。前回は自分の生まれ故郷であることを紹介したが、まだまだ書き足りない面があるので、続きを書いてみようと思う。
しかしこの問題は現在の中国を批判するのではなく、戦前英国・フランス租界が有ったのが中国人もともに住んでいたのは事実である。

 現在の中国政府は立派に経済的には成功しており、経済面では日本経済を超えて、世界第二位になっており、ダマロ(往年の上海の中心的な道路)を歩いている青年たちの服装を見れば理解できる。

 その共同生活があったのは現在では信じられない状態であったのだ。我々の住宅事情は中国人とは隔離されており(一応安全面で保護されていた)高い塀で囲われていたのだ。当時は陸戦隊という組織で日本の海軍が約三千人位で上海を警戒していた。
一応安全を保っていたのだ。私の社宅にも一部の陸戦隊約五十人が常駐していた。
子供のころだったが、この状態が当たり前と思っていた。日本の陸軍は見たことはなかった。
当時は便衣隊(ベンイタイ)という名の中国人のスパイ組織があったのだ。ある日10名くらいの捕虜が囚われて社宅に連れてこられた。中には女性も一人いた。全員腰ヒモで括られていた。陸戦隊の兵隊が取調べをしていたのを子供ながら見ていた。女性の捕虜は平気な顔をして、煙草を要求した。

 平気な顔をして煙草を吸っていたのを見ていた。さすが社宅では銃剣による殺人は行われなかった。何処かで行われたのだろうが、その後の始末は黄浦江で流されていたらしい。
その死体を見た覚えがある。

シ ン ダ ン ツ ウ

 当時の中国人の家には便所が無かった。家の片隅に家族全員が共同で使用していたらしい立派な模様が施された立派なお櫃(オヒツ)のようなものが置いてあった。
日本軍の兵隊はその認識はなく、食事用のものと使われたと言う話題があったのだ。
これは後日談だが・・・・・・・。

  朝早くモードン車と言う名の黒色に塗られたものを車が毎朝汲み採りにきていた。
その
糞尿をガラガラ曳いて黄板橋(ワンパンジョウ)と言う場所に艀のような船に流し入れていた。それが1杯になると黄浦江に流していたようだ。

 家庭ではその糞尿の処理は共同租界で設備されていた水道管で洗っていた風景を見た覚えがある。中国人は風呂に入る習慣がなかったらしい。家庭に風呂場がなかったのだ。
しかし風呂場を商売にしていたのがあった。

 その風呂場では徹底的な身体を洗う方法が有ったらしい。例えば使用人がいて身体を洗うのだが、その洗い方が普通では考えられないものだったらしい。私は経験が無いので知らない。中学生は戦時中だったので、上海の郊外で戦争演習が良く行われた。当時は中国では焼却場が少なく(?)野原に棺桶が置いてあった。シンダンツー(上海語)と言われていた。

 中国側が徐々に軍隊を増強し、(蒋介石軍)陸戦隊だけでは危険になってきた)初めて日本陸軍が上陸してきた。子供のころだったが初めて見る陸軍の姿を見て大いに感激したことを覚えている。

 当時はまだ現在のような弾丸よけのヘルメットがなく、全員白鉢巻姿で戦闘していた。オートバイはドイツ製のもので、動きは自由でバックが出来るサイドカーだった。
当時は鉄兜と言っていたのを覚えている。

 在留日本人は陸戦隊には大いに感謝していた。英国が租界ではかなり大都会の様相を示していた。社宅のトイレは様式のもで、水洗便所になっており、大きな水道設備を整えた公園のような立派な設備があった。

 食べものは中国人のものを平気で食べていた。ターピン・ツーウエイ・など中国人のものを食べていた記憶がある。例えばツーウエーとは、かなり汚れた・ふきんのような布で、材料はもち米でおにぎりのようなものを売っていた。

 中学生時代は朝食事を食べ学校へ行く前に、このおにぎりの中にターピンという名の油で揚げたものを包みこんだものを買って自転車で通ったものである。

モ ー ド ン 車

 乗り物で小車(ショウツオウ)と言う名のものがあった。器用な扱いで豚を運ばれていたものだ。人を運ぶ姿もあった。

 日本人とは何もかも異なっていたのは当然のことながら未だに鮮明に覚えている。
現在の中国に訪問したことがないので失礼に当たることがあるかも知れないが、あくまで戦前の中国の姿を描いてみたものである。

昔の写真を見るたびに昔日の姿を偲ぶものを書いてみた。

  平成22年3月18日               石 井 立 夫