上海の近代化されたビル郡

顧みる昭和の日々

 題名は近代史を述べるのが当然のことであるが、私人が歴史的に大部分影響を受けるのは宿命ではないだろうか。今更と言う感はあるが、90年というわが人生を振り返るとき、その影響は、やはりぬぐえないものがあるのだ。それが人生と言えるのだろう。

 大正九年生まれで六年後に昭和元年になった。その年に私は小学校一年生になった。
生まれは上海市だったが、東部小学校へ入学したが、当時の記憶は全くないのが残念で仕方がない。当時既に上海には四校が設立されていた。まるでわが故郷の感じだった。

 当時は別に中国とか上海とかの意識はなく、中国人との差別は感じなかった。
しかし中国人にとっては、これ以上の屈辱感はなかったであろう。
社宅は高い塀で囲まれており、出入りは日本人と海軍の陸戦隊しか認められなかった。父はカネボウに勤めていて、毎日社宅から歩いて通勤していた。別にそれが当たり前の感覚と記憶していたのである。そこで十八歳になるまで育ったのである。違和感は全くなかった。記憶による記事を書いてみたい。中華人民共和国が19⒋⒐年10月に成立したが、それ以前の歴史を書いたものである。
①昭和六年上海事変があった。陸戦隊が白鉢巻姿でドイツ製のオートバイ(バックまで可能な車)で戦う姿を思い出す。
当時は現在のような防弾ヘルメットは無かったのだ。理由は分からないが、子供心に勇ましいという印象だった。

 ②東部小学校には平和な時代はインド人の守衛がいた。学校の行き帰りには立派な日本語で生徒の指導も行っていた。名前はバサンドンという名前で日本語を十分話が出来る人だった。門衛の仕事が主なものだったが、その他色々な仕事をしていたのだ。

 上海は国際都市だったから、かなり多くのインド人がいて、主に工部局という組織があり都市の治安を維持もしていた。三年生まで梅田先生に教わった。弁当持参の時代だったが“お百姓さんいただきます”と感謝の言葉を述べたのを思い出す。

 東部小学校はその後陸軍第四野戦病院に設置された。負傷兵の多くが収容されていた。
卒業式は雨天体操場で行われ、六人の卒業式だった。当時は殆どの居留民団人は日本本国へ引き挙げていたのである。

 ③上海商業学校へ入学した。当時の中等学校はこれしかなかった。裕福な家庭の子供は長崎市へ進む人が多かった。この学校でもインド人のタラセンと言う名の守衛がいた。
現役の陸軍配属将校が派遣され、軍事教練は厳しいものがあった。当時はすべての学校が軍事訓練を受けていたのである。

 ④昭和十二年に卒業、初めて日本という国に渡った。私立大学へ進んだ。テニス部へ希望したが、ホツケイ部へ誘われて入部した。昭和十六年九月兵役義務のため近衛騎兵連隊という名誉ある部隊に入隊した。

 ④昭和二十年八月終戦となった。O県U市へ帰還した。帰還兵の消息を聞くために市の職員が一同を集め、その口の聞き方が気に食わぬため、抗議をしたため、長崎ハジマ炭鉱へ六月間働いたことがあった。終戦直後だったから身体の心配はなかったが、滅多に得られない体験をしたものと思っている。真面目に働いたので、職員扱いで採用すると言われたが、断り東京へ出た。

 ⑤食糧は日本人独特のもがあったので、長崎あたりから補充されていた。中学生の頃は何を食べても平気な時代があった。油条(油炸鬼)ユーザークエ(小麦粉を練って環状・棒状にして油で揚げる。それをおこわ条で包んだもの、(ツーウエ)などなど朝食を食べた後学校へ行く途中に買い食いしたものである。

 ⑥フランス租界はよく整備されていて、街頭全体がシャレた雰囲気があった。西部小学校が既に立ち上がっていた。

 ⑦イギリス租界は上海を土地章程締結という形で実現したものらしい。アヘン戦争で英国が上海を一時占領し、その後共同租界が出来たもの。

 英国はそのご市街を充実して、まず公園を三箇所作成した。見事な背景を表現したものである。代表的なものでは、ジェスフーイールド公園を作成した。

 見事な背景を表現したものである。その他水道会社を設立、ガス会社、などなど。
ガーデンブリッジは有名な橋で、野暮な日本陸軍が占領と言う形で、兵隊が立っていた。
市街を走っていたバスの車掌が“パスネツレ”という言葉をかけると、一斉に中国人は“登録証”を見せていた。

 残念ながら水道設備、ガスなどの中国人社会には普及されなかったらしい。おそらく、手が回らなかったのではないだろうか。中国人の家庭では、トイレという設備はなかったらしい。丸い綺麗に装飾を施した糞尿用の桶を家庭に置いてあったのだ。翌朝モードン車という名の車が集めて回っていた。

 それをワンパンジョウと言う場所に艀(ハシケ)の大きな船模様のものに明け渡していたのである。その船が黄浦江の上流のほうで積み替え、捨てていたようだ。衛生門題はあったが昔は毎朝中国人の家庭ではモードン車に空け渡していた。その姿は上海の朝のひとつの風景だった。

 風呂の設備も各家庭になかったようだ。特別の風呂屋はあったらしい。普段は自分で体をきれいに拭き取るようにしていたらしい。

 ⑧葬式は大変豪華なものだった。貧乏人はひつぎを野原に置きぱなしにしていた。
軍事訓練を受ける場合、そのひつぎを盾にしていたのを思い出す。

  黄包車(ワンポウツオ)という名の人力車にたまたま乗って自宅へ帰ったとき、一ドル貨幣を払ったが、そのとき車夫は人の見ている前で自分の持っている貨幣と掏り合わせ音を確かめ本物かどうかを確認した。大変失礼な話だが、それが当時の中国では当たり前の所作でつまり偽の貨幣が流通していたのである。

  ⑨上海戦争が激しくなり、陸戦隊だけでは中国軍に対抗できなくなり、ウ―スン地帯に陸軍が上陸した。その後一部の陸軍が我が家にも駐在するようになり、鯖江36連体だった。
牧野軍曹と言う人の名前を未だに記憶している。再び前線に派遣される前日の夜、母親が食事を供応したが、沢庵を一切れにして出した。三切れでは縁起が悪いと言う意味だった。

 ⑩人生を振り返ってみると、いろいろの経験をしたが、いちいち覚えていない。忘れることも人生には必要な条件だと考えている。これからの人生を考えるとき、正に驚くべき時代になっている。いわゆるPC時代が躍進してきている。内容は熟知しきれない場面が多いが老人と雖も無頓着ではいられない。人生には終わりがないということを改めて知らされた思いだ。

  平成22年7月22日             石井 立夫