2月18日の産経新聞の記事にから(韓)くに便りに黒田勝弘氏が美しく老いるという記事を書いていた。この言葉に大いに注目した。美しく老いるという言葉は簡単だが、いざ実現すると簡単ではない。齢九十歳になると、いかに美しく老いるかは重大な関心事だ。
何が美しいのか?どのようにすれば美しいのか?言葉が大事なのか?服装が乱れていないか? 歩き方が問題なのか?人様によれば色々の見方があるだろう。結局自然体に勝るものはないのだという結論になるだろう。私は極力そのように努めているのだ。
今あらためて司馬遼太郎の風塵抄を取り上げて見たいと思う。彼の出版物の中で珠玉の随想集と思われる。p・326にわたり書かれているが、そのページを追って私の感想文を書いてみたいと思う。題名の美しく老いる は書かれていない。
従来エッセーを書いてきたが、司馬遼太郎の風塵抄が重要な参考になるので、この書を借用することにした。私はこの作家の大フアンであり、例えば世間話のなかに「恒心」を語る珠玉の中の随筆集。恒心とはすなおで不動のものという意味である。ひとびとに恒心がなければ、社会はくずれる。表紙にすでに心奪われる言葉が出てくるのだ。
「あとがき」題の風塵というのは、いうまでもなく世間ということである。風塵抄とは小間切れの世間ばなしと解してもらえばありがたい。なるべく、日常の」いわば身体髪膚に即したことを書こうと私(ひそかに)きめたいのだが、やがて内外に前代未聞の事件が相次いでおこり、日常に即してばかりもいられなくなった。「あとがき」より
初めからこれらの言葉の羅列であった・・・・・・・・・。世相の形が複雑になればなるほど、余計な事柄が増えるのは当然の現象ではないだろうか。老人と雖も看過することは許されない社会になりつつあるような気がする。例えば、IP時代には、どのように対処すればよいのか、無視でいない時代のような気がする。
この言葉は美しく老いるとは無関係だが、世間に取り残されないためには、結構配慮しなければならないと私は思うのだ。取り残されることの恐ろしさは従来の人生の経験から、大変恐ろしいことなのだと痛感している。もし全て世の中から無視される場合を想像したら、生きている価値がないとまで、私は考えている。
老人と雖も存在感を無視されたら、考えただけ腹が立つだけの余力を持っているつもりだ人間は死ぬまで自己の存在感を持つべきだと私は思っている。世間では老人は出しゃばるな・・・・と言われるが、或部分では認められるが、そこはきわめて当然の常識として弁えている。その判断が自己判断だと思っている。以上