父親の様子が可笑しいと家族一同が警戒をしていた。父親とは、建川美次将軍のことである。昭和二十年八月十五日、日本国は敗戦の日を迎えた。全国民が敗戦というショックを受け、茫然自失していた時である。
友人建川英夫は連隊で同級生だった。彼は六男坊で、既に自宅に帰っていた。私は大分県に帰るために渋谷駅で建川と会うために待っていた。彼はやや遅れて来たが、親父が死んだので、悪いがここで失礼するといって別れた。
この日昭和二十年九月九日老将軍建川美次将軍は切腹自殺をした日だった。友人は三十年後のある日その事実を何気なく語ったのである。私は軍隊時代外出しても行く先がないのでよく彼の部屋に遊びに行った。
その前に尊敬する将軍へ挨拶をして友人の部屋へ行ったのである。友人はあんなプロペラ親父なんかにいちいち挨拶しなくてよいと言っていた。将軍は鼻下に立派なひげを生やしており、貫禄充分な立派な姿だった。
奥さんはいささかアルコール中毒の状態だった。モスクワ大使を最後の勤めをしていたがその際外交特権を生かして大量のウイスキーを持ち帰ったようだ。その部屋で割腹自殺をしたが、後に友人が語るところによれば、その部屋はまるで血の海だったと語っていた。敗戦の直後だったので、棺桶の手配すら困難を極めたらしい。
子供のころ少年倶楽部という名の雑誌があり、夢中になって読んだものである。特に“敵中横断三百里”という名の実話が読まれた。斥侯隊長として建川中尉が活躍した物語であるその当時の物語に出てきた建川という名前の主人公が将軍となり、敗戦の日まで生き残っていたのである。
敗戦の責めで自殺するという事実は現在では考えられないことだった。その他に例があったのかもしれないが・・・・・・。しかも切腹という形での自殺である。現在は仕事の失敗人様に迷惑をかけたという理由で自殺という形で責任をとるということはあるだろうが切腹という形では考えられない。
自殺ということは、ある意味では世間様に認められない罪悪に等しいとまで言われるようになった。現在の人間は責任をとるということは、少なくなっているようだ。
まず弁明が先になり、なんとか責任から逃れようとする貧しい時代になっているようだ。特に政治に携わる人々はこの点を十分承知の上で国の事を考えてほしいものだ。 友人であった建川英夫君は既にこの世にはいない。さびしい話だ、以上