東中野の付近の屋敷町

三行広告の思い出話

 戦時中の思い出話である。二人の独身将校が部屋を探しているという広告を出した反応が今時考えられないものだった。日本国の現状と比較できない思い出話である。
17通の反応があった。結論は一番目に来た東中野の家に決めたのだが、軍務がるので、他のお手紙にいちいち回る暇はないのが事実だった。

 一番目に決めたのは特別の意味があったのではなく、誠意があったと解釈したのである。
その家の息子さんは幹部候補生の試験に合格できないでいた。当時はお米の配給権が支給されたが、軍隊で飯を食べているので、必要はないのであったが、一応配給制度の恩恵に浴したのである。この制度が後日役に立ったのである。

 騎兵連隊の将校だったので、毎朝当番兵が併馬して馬の出迎えがあった。
これは特別のことではなく当然の事と思っていた。現在では車での迎えと同じ状態である。
毎朝偉そうに乗馬して連隊まで通っていたのである。空襲のない時期の話である。毎朝乗馬姿に近所の犬が毎朝吠えていた姿を思い出の一つだ。戦時中だったので、社会情勢が浮き彫りになっていた。例えば、大邸宅なので空き室が多く、主人は目下出征中で何年も音沙汰がない。
未亡人に等しい寂しい毎日を過ごしているので、是非部屋を利用してほしいという内容。何が目的なのか,よくわからない問い合わせだった。

 その他の内容も大体同じような問い合わせの返事だった。戦時中で先に述べたお米の配給制度を受けたのだが、その後友人の家に引っ越しした。その時、彼の母親が、お米の配給券を持ってきたかと尋ねられた。当然のように配給券を出した覚えがある。さて、いよいよ空襲が激しくなり、迎えに来た兵隊が併馬してくるのを待って、当然連隊へ馬で駆けつけなければならい。

 アスファルトの道路を既に敵機が爆弾を落とし同時に光を出すので、馬は驚きながらはしるのだが、友人は乗馬に慣れていたので、うまくコントーロールしながら連隊へ向かって走るのだが、私の場合はうまくコントーロール出来なく、馬が勝手に自分の厩舎へ向かって入ってゆく状態だ。まさに様にならない状態だった。

 徐々に空襲が激しくなってきたので、連隊へ戻ったが、B29の空襲が東京の中心地を目標に毎日のように空襲が続いた。昭和20年3月10日の空襲には徹底的に東京は空襲されその日にわが連隊もやられた。

  厩舎は空襲から逃れたが、連隊本部の庭には焼夷弾が雨あられのごとく落とされた。
中隊長が突撃と指揮し、消火に勤めた思い出がある。
このような日々が続きついに終戦の日を迎えたのである。敗戦の日ともいう日だ。
惨めな思い出を残しながらわが故郷へ帰ったのである。以上

  平成22年10月14日             石井 立夫