相模湾の風景

相模湾俯瞰図(サガミワン・フカンズ)

 春の海ひねもすのたりのたりかな、(蕪村)これに謡われている状態が現在の相模湾にあてはまるのである。私の住むマンションの四階から眺められる風景である。普段はまことに静かな風景だが、自然界の事だから、いつ荒れるかわからない状態だ。朝は真鶴半島の先から朝日が昇る。好天気の場合は毎朝なんとなく拝む。

 まこと平和な風景だが、ふと戦時中の事を思い出す時がある。陸軍通信学校での授業で思い出されるのは、アメリカの艦隊の上陸が予想される、海岸は3か所である。千葉の房総半島沿岸、鹿児島の海岸線、更に相模湾と言われたのを思い出されるのだ。

 相模湾の場合はまさに現在住んでいる場所になるが、水平線の彼方から突如現れたアメリカ艦隊から砲弾を撃ち込まれたら、確かに鉄道沿線は破壊されるだろうし、現在で考えられるのは、一番作戦に適しているのではないかと思われる。
其の授業では、海岸線の鉄道破壊が狙われると教わった記憶がある。交通手段を破壊されたら、どうしようもない状態になる。国内の輸送手段を破壊すれば、問題は解決すると読んでいたらしい。
陸軍の計画は、次の計算では信州の山奥への退避だった。特別戦車隊を指揮していた関口君の後日談では、毎日のように川口市の橋梁まで何分で走れるか、それが毎日の演習だったと言っていた。

 天皇・皇后をご乗車するための特別戦車で将校といえども内容は絶対に見せなかった。残念ながら関口君は他界してしまった、終戦後この戦車の始末に困ったという話を聞いた覚えがあるが、どさくさまぎれに、どのような処置をしたか、それは聞いていない。
ともかく騎兵連隊だったが、まず馬の処理をどうするか・・・・・・・。

 120頭もいた馬をどう処理するか、まず兵隊で払い下げを希望する人には、確か一頭あたり800円で払い下げをした記憶がある。連隊本部の二階から見ていたのだが、3頭の馬を併馬して、箱根越えをして、岐阜へ帰る兵隊もいた。

 殆どの兵隊はせいぜい完全武装した状態で除隊する人が殆どだったと記憶している。中には輸送戦車を運転して故郷へ帰るつわものもいた。払い下げは幾らかしらないが・・・・。とにかく大変な騒動であった事は覚えている。

 私の場合母の住んでいる大分県臼杵町へ荷物を送った。途中豊橋駅で、米軍航空隊B29捕虜がピストルを構え、復員将校連中の乗っていた列車で、軍刀・時計・財布などなどを盗んでいた風景に出くわし、敗戦の情けない場面にあったのを思い出した。私の場合は先に軍隊行李を別便で送ってあったので、被害には遇わなかった。

 かくして敗戦の後はまことに情けない状態だったが、母親は私が持ち帰った荷物はこれだけかと言われた。既に猛烈なインフレ時代が始まっていたのである。

 母親は既にインフレに対応する準備をするために、当時の朝鮮人(現在の韓国人)が闇商売をする人がいて、戦前上海から持ち帰った豊富な品物の切り売りをしていた。
双方とも生きるために、必死になっていた姿を見て、軍隊帰りの私には驚きの連続だった記憶があった。
世間知らずの私にはどうやら日々慣れてきた覚えがある。

 その後私も毎日のように町の図書館に通い、新時代に如何に生きるべきか勉強した覚えがある。しかし図書館には何も教えてくれるものはなく、いわば時間つぶしのような毎日だったような生活だった。その後の私の新しい生活は色々な変化を経験したが、これは別の思い出にゆだねることにした。

    平成23年3月24日             石井 立夫