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別にそれが当たり前の感覚と記憶していたのである。そこで、十八歳になるまで育ったのである。違和感は全くなかった。
近代史につながるのは当然だが、自分の越し方を改めて顧みるのも意味ありと思う。小学校卒業式は雨天体操場で行った。
上海事変の影響で学校は負傷兵の病院になっていた。昭和7年、上海商業学校へ入学した。当時の中等学校は、この学校しかなかった。家庭が比較的裕福な人は長崎中学校へ行ったものだ。別に違和感はなかった落第生はパリックスクールへ進んだ。
まず英語は出来ないので、子供のクラスに入り、そこでなんとなく英語が出来るようになると、上のクラスへ進み、まことに現在では考えられないような、フレッキシブな学校であった。
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