東 京 の 終 戦 直 後

顧みる昭和の日々

 大正九年生まれで六年後に昭和元年になった。その年に私は小学校一年生になった。生まれは上海市だったが、東部小学校へ入学したが、当時の記憶は全くないのが残念で仕方がない。当時既に上海には四校が設立されていた。まるでわが故郷の感じだった。当時は別に中国とか上海とかの意識はなく、中国人との差別は感じなかった。

 しかし中国人にとっては、これ以上の屈辱感はなかったであろう。社宅は高い塀で囲まれており、出入りは日本人と海軍の陸戦隊しか認められなかった。父はカネボウに勤めていて毎日社宅から歩いて通勤していた。

 別にそれが当たり前の感覚と記憶していたのである。そこで、十八歳になるまで育ったのである。違和感は全くなかった。
近代史につながるのは当然だが、自分の越し方を改めて顧みるのも意味ありと思う。小学校卒業式は雨天体操場で行った。
上海事変の影響で学校は負傷兵の病院になっていた。
昭和7年、上海商業学校へ入学した。当時の中等学校は、この学校しかなかった。家庭が比較的裕福な人は長崎中学校へ行ったものだ。別に違和感はなかった落第生はパリックスクールへ進んだ。
まず英語は出来ないので、子供のクラスに入り、そこでなんとなく英語が出来るようになると、上のクラスへ進み、まことに現在では考えられないような、フレッキシブな学校であった。

 現在で考えられると英語の世界になりつつあるので、思い切ってその学校へ進むのも、一つの方法であったのかもしれない。昭和十六年九月大学を短縮卒業させられ、急遽軍隊に入隊を命ぜられた。近衛騎兵連隊だった。
父はわざわざ上海から私の入営のため来日し、入営の前の晩珍しく渋谷の酒場で別れのために飲んだ。二人でしみじみと飲んだことは忘れられない思い出だ。

 乗馬部隊だったが、乗馬の経験はなかった。三十四名臨時入隊だった記憶がある。幹部候補生の要員として入隊したことが分かった。甲種候補生と乙種候補生とあり、試験の結果十七名が甲種候補生に選ばれ、私は十七番目にやっと合格した。

 幹部候補生教育は厳しいものだった。鉄拳制裁は当時は認められていた。例えば制裁を受ける際、歯が折れないよう噛みしめ、倒れないよう頑張ったが、中には大学でボクシングを体験していた者が、倒れる様はボクシング其のものもで、倒れる姿を見せた。教官はその様を見て、さらにもう一度殴ることがあたった。

 これは、全くふざけた姿で、本人は恰好をつけたらしいが、逆に教官の逆鱗に触れ、さらに起き上がらせ、猛烈な鉄拳制裁を食わされていた。本人は恰好よく見せたつもりが、逆の効果を生んだのだ。

 その後習志野の騎兵学校へ進んだ。将来騎兵将校へなる身だから、その教育は生半端のもではなかった。例えば毎朝校庭で、軍人に賜った手帳を胸のポケットに入れとくのだが、忘れて別の手帳を読むふりをしていたら、それを見つけられ、教官が怒って,校庭を五十回まわれと言われ、教官がその場から立ち去るのを見て、ごまかして走る風を見せて、終わった経験もした。

 太平洋戦争がますます激しくなったので、卒業を一ケ月延ばされて、ジャングル戦の教育を受けた。その年の終わりにやっと原隊へ帰ったが、連隊に残るのは7名ぐらいで、後はそれぞれ他の部隊へ派遣され、一部の者は野戦に派遣される人も出た。幸い私は通信教育を受けることになり、暗号教育も受けることになった。

 その後連隊では必要なものになり、終戦の日まで東京の原隊へ残ったのである。
八月十五日の夜、他に残った三人と今後の社会生活へ戻る話をしながら、真夏の夜空を眺めていた、今後の不安な生活を語り、お互いそれぞれの故郷へ復員していったのである
戦後の生活はむしろ厳しいものだったと記憶している。以上

     平成23年3月31日             石井 立夫