追 憶 の 写 真
終戦後私は母が住んでいる大分県臼杵町へ復員してきた。 私には正式の故郷はなかったので、とりあえず母の住む臼杵町へ帰ってきた。生まれて初めて日本へ来たという感じのものだった。
上海育ちの私には、どう考えても日本への故郷という感覚が湧いてこないのだ。 とりあえずお墓があるので、故郷という感覚はなんとなくあった。 ここに一枚の古びた写真が出てきた。南海添区第五班・土曜日会全員と書いてある。 追憶の写真と題して昭和二十一年四月吉日という母の記録を頼りに思い出を書いてみたい。
(写真というものは必ず日時を入れておくものだと痛感した。)記録を頼るのは日つけが入っているのが常識だが、遡って思い出を探ることが出来るからだ。 この写真はまことに貴重なもので、母が丁寧に期日を書いていたので、追憶が出来るし、それぞれの名前まで思い出せるのだ。
しかし残念ながら、私は大分県臼杵町で育った事がないので、この写真に出てくる人々の全部の人は知らないのだ。除隊して取り敢えず母の住む場所へ帰ってきたが、その時の記念写真らしい。
弟は戦時中一応上海から引き揚げてきたので、この町の中学校へ転向した。 母は幸いにも、終戦直前に日本へ帰ってきたので、家庭の荷物は全部持ち帰る事が出来た。其の当時、母は日本の物資不足の事情を知っていたらしく、大量の布切れ(木綿)を持ち帰ってきており、それが物資不足の際大変貴重な商品となっていた。
当時の日本では物々交換するのが常識だったが、統制が厳しく簡単には許されなかった。 当時は韓国の人々は自由に統制物資のいわゆる闇物資を簡単に扱える状態だったので、其の人を利用して持ち帰った布切れを切り売りしていたのだ。
復員軍人の私は初めて母の意外な商才を見つけたものである。大きなブリキカンの箱を見せて、多くのお米を買い付けていたのを見せられたのを思い出した。例えば現在でいうところのアルバイトに出たときには、臼杵弁で(ひっかぶせ)といった小麦の粉団子の中に色々な混ぜ物を練って混ぜたものを称していたのを持たされていた。 さて写真の人物を見ると知らない人ばかりだった。
そりゃそうだろうと思う。自分の育つた場所ではないし、集まってすることもないので、近所の人たちが何となく我が家へ集まり毎晩百人一首ぐらいしかすることはなかった。みなさん襷がけで必死になって遊んだものだ。母が百人一首を読み上げていたのを思い出す。
現在の服装から見ると、みなさんモンペ姿である。戦争時代の余韻が残っている。 母はその後地元の人々と如才なくお付き合いをしていたらしい。しかし家は借家で、毎回お父さんが家を購入しておいてくれなかったので、その点では泣き言ばかり言っていた。 私は、その後東京へ出たが、大きな握り飯を作ってくれて呉れたことを思い出した。
上海に残っていた父は別の意味で苦労したらしいが、アメリカを通じて、貴重な品物を送ってくれた事を思い出した。それを自分では仲間に売って生活の足しにしていた。 青森に住んでいた弟にも贈っていたようだ。とにかく戦後の生活は大変な思いをしたが、誰もが経験した苦い思い出だったのだ。