B 2 9 の 襲 来

20・3・10(東京大空襲)

 この数字は忘れてはいけない数字をさすものである。日本では忘れることが出来ない日なのだ。昭和20310日の夜B29と言う名のアメリカの爆撃機が夜中の2時ごろ主に東京を中心にした超低空爆撃があった。この爆撃の様をこの日、坂本一琥というダンサーがテレビを通じて披露していた。のたうち回る人々の狂った様を表現していた。

 私は当時近衛騎兵の将校としてつぶさに経験した。幸い連隊は軍馬小屋(厩舎)を避けての空襲だったので、無事爆撃から逃れられた。その夜の空襲は最悪の状態だった。
靖国神社は幸い焼け残ったが、一人の婦人は焼けた布団を背負って歩いていたので、忠告したらどうでもいいんですとの返事だった。つまり放心状態で歩いていたのだ。

 その晩は東京の下町いったいは特に火の海で約10万人の焼死者が出たと言われている。墨田川の土手一帯には多数の死者が多く浮いていた。私が下宿していた若松町の一帯はもちろん焼けていたが、子供を背負うたお母さんが焼け死んでいた姿はまことに哀れなものだった。焼ける前に友人の許英沢がトランクを提げて出てくるところに偶然会った。彼はこれから故郷の朝鮮に帰るときだった。彼はその時、石井君この戦争日本は絶対に負けるぞーと言っていた。当時私は陸軍少尉の軍服を着用しているので、まさか同調するわけにいかなかった。お互い戦争が終わったら、是非また会おうと約束して別れたのである彼とは国際問題その他をテーマにして議論したものである

 戦後彼の消息を尋ねるため、調査を依頼した覚えがあるが、消息を調べる術はなかった。
不幸にも韓国は北と南に分かれて統治されているが、許君は北朝鮮か南朝鮮か聞いていなかったので、調べようがない。多分生きていてくれると思うが、消息を知る術はないのだ。

B 2 9 と 富 士 山 東 京 の 焼 け 野 原

 ともかくその日の空襲で、ほとんどの東京は、焼け野原になってしまった。
まず自分の下宿先を変更せざるを得なかった、独身だから荷物と言っても知れたものだが、友人の家に引っ越した思い出がある。

 軍隊で奉仕する身分だったので、まず軍務が優先しなければならず、終戦の日まで、友人の家で過ごした思い出がある。毎晩自分の下宿先へ帰ることはならず、結局は終戦の夜は軍隊で迎えることになった思い出がある。

 通信担当の私にはますます責任が重くなり、自宅に帰ることなく終わった思い出が残っている。戦争で負けた惨めな思い出だけが残る日だった。
66年前の惨めな思い出である。

    平成23年4月14日             石井 立夫