桜 散 り ぬ

 本年の桜満開の季節はどうやら終わった。年々歳々生きている証拠を見せんとして、今年も咲き誇ったのである。現在散り始めたのは、マンションの庭先に咲いていた八重桜が、惜しげもなく散り始めている。来年を期して咲いてくれと願うばかりである。

 桜と言えば、受験シーズンに合格したかどうかを家庭に知らせる方法でもある。本年も合格した者、合格あたわぬ者の来年を誓う者、種々様々の報告スタイルである。私の場合のような老人には、さらに来年を期して老いて行く我を励まさんと覚えてゆくのである。
何事も縁起を担ぐ人がいるが、私の場合も同じ心境である。

 更に活気を覚えるのは,単なる強気ではなく、なにびとにか・お願いする心境でもある。振り返れば、いささか長い人生のような気もする。なお・この世の続きを見たいと願う心境でもある。ひたすら長生きを願うものではない。必ずそこに生きがいを求め、更に己の生きている何らかの証拠を見つけたいのだ。私には、そのような哲学的な要素はない。しかし・単なる老人ボケのような残りの人生ではなく、何となく世間に合致した老人になりたい。出来るかどうかの問題ではなく、要は日頃の心の維持ではないだろうか。世間に迎合する事もなく、さりとて・とぼけることもなく、普通の老い姿である。意外とこれは難しい。
駐車料金を届けに行ったとき、年齢を五歳若く言われたが、さすがその時はいささか嬉しさを感じたものである。

 その時、人には言えない嬉しさを感じたものだ。これを女房だけには言った覚えがある。
若い時には、年齢を少しでも多く言われて嬉しかったこともあったが、老人になると、御世辞ではなく、真顔で尋ねられたのが、嬉しかった。

 単純な人生感ではあるが、不思議なもので、誰にも言えない心境になるものだ。残念ながら金持ちに見られたことは一度もない。残余の人生をどうすれば健康を維持しながら生きて行かるかが、現在のまともな人生観なのだ。

今さら・ということはなく、無理をすることでもなく・無理をしないように心掛けて行くのが、今後の問題だろう。例えば、世間の激しい移り変わりを他人事のような顔をして、見つめて行くのも一つの方法だろう。女房にも言えない・言わないようにしている。意見が合わない場合は喧嘩になるからだ。これも一つの人生朝露(ちようろ)の如しという言葉が浮かんできた。

      平成23年4月28日             石井 立夫