追憶の記録

年令を重ねるたびに、追憶の記録も増えてくる。しかし残念ながら思い出の仲間の死がそこにあることだ。これは自然の摂理だとして、受け止めざるを得ない。まず自分の病歴から書くことにする。これは自分の運命にかんすることなので、相手がいない。

 中学等四年生の時、赤痢に掛ったことだ。当時泳ぎが大好きで、親父の勤めていた会社のプールがあった。毎日のように良く泳いだものだ。調子に乗って、他のプールにも遠征したものだ。そのころの衛生状態は必ずしも良くはなく、それが原因で赤痢になったらしい。
昔の事だから何となく病院に入れられた思い出がある。よくぞ助かったものだと今さら思い出している

 軍隊の義務が終わり、独身時代、小さな会社の仕事をしていたが、戦後のため、大した仕事も無く、会社の土地だったところの草取りなどをしていた。当時どうも熱がある感じがして、早びけさせてもらって寄宿舎へもどり、寝ていたが、熱が収まらず徐々に苦しくなってきた。誰も気にしないうちに、寝ていたら偶然寮のおばさんが見に来て、寝ていた私を見つけて、熱があることに気が付き、急きょ救急車を呼んでくれた。病院へ運ばれたが、当時発疹チブスが流行していたので、その場所へ待たされていた。医者が見回りに来て、これは天燃痘だからと下の病室へ移された。真正天燃痘と診断された。当時天燃痘には適応する薬品はなく、そのままベットで寝ていた。

 この病気に対する薬はないことを後で知った。毎日顔に出来た吹き出物を自分で取ることが毎日の仕事みたいなものだった。中国の上海ではモーピーと言ってよく見かけたものだった。予防の手当てが普及していなかったので、多くの人を見かけたものだ。現在は普及しているだろうと思う。

 入院してみて分かったことは、患者が戦後の食糧不足のため、病院を抜け出して自宅に食糧を取りに出かけていることを知った。そのため、電車の中で簡単に伝染する事が分かったのだ。戦後の混沌とした世の中の甚だ迷惑な話だった。先述したように、この病に手当てする薬がないことが分かった。特別に薬も無く、毎日顔に出来た吹き出物を取ることに専念していた。

 家族や友人に手紙を書いたが、その内容は俺の人生は終わったと書いたのだ。宿直の看護婦さんが消毒の為一応葉書を読んだらしい。病室に来て大笑いして、私の顔を見に来た。
あなたはあらかじめ子供の時以来予防接種をしていたのだから、絶対に顔にあざは出来ないと教えてくれた。やっと安心して笑った事を覚えている。

 その他先述したように、チブスを患ったこともあった。入院が終わり明日退院する日に妹が長崎の宿舎でジフテリヤで倒れたと電報が入り、看病に来ていた母親が泣きながら長崎へ向かった事があった。妹は残念ながら死亡してしまった。

 戦後色々な出来事があったが、病気にかっかてしまったことが、大きな痛手であったことは残念なことだった。衛生状態が悪かった事も大きな原因だったが、戦後の悪条件が災いした事実もあったのだ。現在の日本では、かなり衛生状態も良くなっているし、若い時に色々な病に倒れた事も、今となっては思い出の一つになった。

 現在は有難いことに健康に関しては良好な状態だが、例えば現在は血圧が安定していることぐらいが自分の健康のバロメーターになっている。人間だれしも健康に関しては注目しているが、自己管理が最大の目標であるべきだと思う事が最大の目標であるべきだと老人になって理解している。

      平成23年6月23日             石井 立夫