東 京 大 空 襲
昭和二十年三月十日の思い出

 この日の米軍B29の爆撃機の空襲は特別のものだった。連日のような空襲ではなかった従来は高度一万ほどの高さで飛来していたのだが、その日は特別の日だった。超低空飛行だったのだ。日本は殆どの家屋は木材だったので、目標を変更して低空飛行に切り替えたのだ私は将校で、営外居住を認められていたので、若松町のアパートを借りていた。

 その晩の空襲は特別のものを感じたので、急いで連隊へ移ったのである。
その時の笑い話である。
友人の建川と営外居住していたが、ただ事ではないと思い、迎えに来た兵隊とともに当時の道路はアスファルトで舗装されていたが、ひたすら急いで走って連隊へ向かっていた。

  乗馬の達人であった建川はうまくコントロールしながら走っていたが、私の場合は全くその逆で、へたをすると転びそうな姿だった。どうやら馬のほうが勝手に自分の場所を覚えていると言わんばかり・はしり続けて厩舎に収まったのだ。
全く様(サマ)にならないとはこの事だ。
さてこの晩の空襲は後世に伝えられる誠に酷いものだった。東京地区一円の大空襲だった。幸いにも厩(ウマや)ではなく、連隊の庭先に集中的に落として行った。
塹壕に避難していた我々は中隊長の突撃の掛け声で火消しに集中出来たのである。

米軍はこの連隊の跡地利用を考えていたようだ。そのころは・すっかり米軍の飛行機になめられていた格好だ。

 マフラーをたなびかせて、連隊の上空を飛びまわっていた。この際機銃掃射の予定はしてあったが、土壇場で兵隊を死なせてはまずいと、ただボウーとして相手に任せていたという様だった。もはや戦争の状態ではなく、ひたすら生き残る事だけを考えていた。

昭 和 天 皇 陛 下 アメリカ大統領「トールマン」

 連隊本部の二階から何となく眺めていたが、ある者は一日でも早く故郷へ帰る準備をするもの、或いは出来るだけの軍隊時代の荷物をしょって帰国を急ぐもの、将校の中には兵隊を使って(まだ将校の威厳を利用して)トラックに軍隊時代の色々な物を積ませていたもの、まことに厳しい軍隊の末路を見た感じだった。

この様な時代に直感的に物にこだわるセンスや行動には馬鹿まじめに軍隊生活を送ってきたものには、即座に判断できないと思っていた。ところが、故郷へ帰った母親がむしろこの様なセンスを持っていたのには、まことに驚いたのであった。

 これだけ、自分がなにも世間を知らなかったという事になる馬鹿さ加減だった。嗚呼 已んぬる哉(ヤンヌル哉)もうお終いだという気分にされた思いだけが残った、まことにどうにも仕方がないという心境だった。その後の平和ボケという言葉まで流行している現状では・・・・・・。

      平成23年6月30日             石井 立夫