萌黄会の経緯(モエギ会)

 この会の名称は近衛騎兵連隊の日本陸軍解散後の名称である。この連隊は全国から兵隊を集め組織をしていた連隊であった。主に全国の騎兵将校の名称でもある。
兵隊は当時としては優秀な人材を集めたと言われている。兵隊は選ばれた者として、それなりに誇りを持っていた。

 私たちは特別教育班と称し、昭和十七年十月一日に別途召集された三十四名が集められたのである。大学・専門学校出身者が該当した。特別集められたと言われていたが、特別に優秀な人材を集めたものではなく、単なる学生が集められたものと入隊したものの感想である

 入隊して20日頃経過したある日に、班長が本日はお前たちの好きな歌でも唄って良いから・・・・・と言われ、学生気分が抜けない一同はすぐさま調子に乗って、歌を唄い始めた。私も直ぐ調子になってジャズを唄った思い出がある。それは新兵の思想調査みたいなもので、後でその影響は長続きしたものだ。例えば幹部候補生の成績に影響したらしい。当時私はこの様な仕組みには無関心に近いもので、どうでもよい考え方だったようだ。
したがって成績はビリで甲種候補生になったのは17名で、最後の番号だった。
当時は隣の兵隊は成績を上げるべくこっそり懐中電燈をつけながら勉強していたが、風邪が原因で死んでしまった。

 その後の自分の運命はまことに不思議なもので、通信の教育を受けることになった。単に通信だけではなく、暗号まで教育を受け、連隊での重要な存在になったのである。終戦の最後の通信を受け連隊長へ届けたとき、連隊長は泣いていたことまで覚えている。終戦のショックは連隊の兵隊には大きなもので、現在までもその時の光景を思い出すのだ。その後何回か同窓会みたいな会が行われたらしいが、私は不幸にして会合に出た覚えはない。

 何回か会合があったらしいが、その会合は自然に消えていったらしい。復員した時、母親は私の荷物が少ないことに驚いていたが、当時はものすごいほど、インフレ現象が起こっていたのだ。我々の教官であった人が、突然トラックに軍隊の荷物を積んでいるところを見たが、この様子を連隊長が見つけて怪しんで注意していたところを見た。

 人間最後になって人間性つまり教養みたいなものが、欠如している姿を見てがっかりした思い出もあった。何事も最後が大事であるということを痛感したが、九州の自宅へ帰る途中豊橋駅で、捕虜になっていた米軍の兵隊が、ピストルを構え日本軍の将校が乗っていた車両で、刀剣・財布・時計類などを両腕に巻いて略奪していた。

 哀れな日本軍の最後の姿を象徴するような場面を見て戦争に負けた真の姿を見た思い出があった。徒な戦争が終わって、残ったのは、哀れな敗戦の日本の姿だった。
その後の日本の姿を垣間見る思いだった。

      平成23年7月7日             石井 立夫