毛 利 画 伯
ある寡黙な美大生

 昭和十七年十月一日全国の学生は半年卒業繰り上げ卒業で軍隊に召集された。
東部第四部隊に三十四人の学生が入隊した。当初はお互いの出身校など知る由もなく、とにかく厳しい訓練が始まったのである。乗馬訓練があった。乗馬の経験者が半分、未経験者が半分だった。

 厳しい訓練が始まったが、ただの三カ月で、翌年の観兵式に参列したのである。
古兵が心配して、落馬したら自殺するんだぞと励まし、なんとか無事事故なく終わったのである。

 続いて騎兵学校へ入学し、その年末に見習い士官として原隊へ復帰した。
原隊には七名しか残らず、他のものは、それぞれ他の部隊へ配属を命ぜられ、赴任していったのである。
他部隊へ転任して行った先は当時消息を知らされていない。希望して他部隊への(シンガポール)転属を希望したのもいたが、結局ビルマに転属したのもいて、戦後同窓会で語っていたが、酷い目にあったと語っていた。
戦時中の配置転換だったから、何時・何処へ・まわされるか知る由も無かったのだ。同期生の毛利武彦君は幻駿忌(随筆集)を発行しているが、彼は絵画と文筆にも優れており、現在彼の作品集は成川美術館に現在収蔵されている。

 騎兵学校である日学生たちの慰安会が催され、その日ばかりは笑いが絶えなかった覚えがある。毛利君は詩の朗読をした。その時の声は朗朗とした声で

毛 利 画 伯 ・ 奥 様 戦 友 ( 仲 間 )

 我らが戦うはソロモン海峡の戦いに非ず・・・・・・(作詞者不明)
全員への感動を与えたのは言うまでの事はない。
彼は原隊には残らず、他の部隊へ転属になったらしいが、その時の転属先は知らない。昭和二十年八月に終戦となり、それぞれ現地での解散だから、余計に全員の消息は不明のまま年数が過ぎてしまっていたのである。

 戦後しばらく経ってから、同窓会を開いた。その時に全員が暫くぶりに再会したが、お互い生きていたことが確認出来たのである。その日はお互い生きていたことを先ず確認しあって昔日の思い出話が始まった。毛利君は慶応大学高等部の画の先生を始めたが、確か電車の中で一度会ったことがある。

 その後武蔵野大学の先生を勤めたりしたらしいが、高島屋デパートでの展覧会で久しぶりに出会ったことがあった。その後の事はお互い多忙のため、会うことも無く、突然彼の訃報を聞いたのである。つい最近のことだが、優れた友人を失ったことは,まことに悲しい事だ

 もの静かな画業に専念していた彼を、軍隊時代の一時期だけ共にした仲間だが、軍隊と言う厳しい時代の友として、共に厳しい訓練に耐えてきた仲間の死について知らされた時は、かなりのショックを受けたのは事実だ。一人去り、二人去り、共に激しい訓練を受けて来た友人が、去ってゆくのは誠にさびしい話だ。しかしこれも運命なのだと受け取らざるを得ないのだ。

      平成23年9月22日             石井 立夫