引き算人生

 曽野綾子さんのコラムを読んだ。この人は正しいと思うことには、遠慮なしにか書くコラムニストで、毎回この人のコラムを、楽しみにしている。1月9日の産経新聞の正論で、私がこれまで日記に書いていた日本国の現状が見事に一致していたので、あえて、その趣旨を採用させてもらった。副題として、「どこまで恵まれれば気が済む」とあった。

 私はまさに意気投合した感を持ったのである。その内容を一部採用させてもらう。戦争もなく、食料危機もなく、学校へ行けない物理的な理由もないのに、また今日食べるものがないというのではなく、動物のように雨に濡れて寝るという家に住んでいるのでもなく、

 お風呂に入れず病気にかかってもお金がなければ完全に放置される途上国暮らしでもないのに、読売新聞が昨年12月行った
全国世論調査では、30,40代では、自分の心の健康に不安がある、と答えた人が40%にも達したという。
しかも多くの人たちが、不安の原因を仕事上のストレスと感じているという。ストレスは、自我が未完成で、すぐに単純に他人の生活と自分の生活を比べたり、深く影響されるところに起きるものと言われる。ストレスは文明の先端を行く国に多いのだろうと私は長い間思い込んでいたが、まだ残っている封建的な社会にも実はあるのだと、或るとき教えられた。社会の常識が許しているというので夫が複数の妻を持とうとしたり、同族の絆の強い共同生活に耐えようとすると、それがやはりストレスになるという。

 私は昔から、自分の弱さをカバーするために、いつも{足し算・引き算}の方式で自分の心を操って来た。健康で、すべて十分に与えられて当然と思っている人は、少しでもそこに欠落した部分ができるともう許せず耐えられなくなる。

私が勝手に名付けたのが、これを引き算型人生という。それに反して私は欠落と不遇を人生の出発点であり原型だと思っているから、何でもそれよりよければありがたい。

完全な平等だけ評価
 食べるもの、寝る所、水道、清潔なトイレ、安全正確な輸送機関、職業があること、困った時相談する場所、ただで本が読める図書館、健康保険、重症であれば意識がなくても手持ちの金が一円もなくてもとにかく医療機関に運んでくれる救急車、電車やバスの高齢者パス

 何よりも日常生活の中に爆発音がしない。それだけでも天国と感じている。これが足し算型の人生の実感だ。これだけよくできた社会に生まれた幸運を感謝しないのは不思議だと思う。しかし人間は、教育し耐えられなければ、このように思えない。

 子供は幼い時から悲しみと辛さに耐えるしつけが必要だ。平等は願わしいものだが、現実として社会はまず平等はあり得ない。しかし不平等な才能があちこちで開花している。それなのに完全な平等しか評価しない人間の欲求は、深く心を痛む。叱る先生は父兄に文句を言われるから{生徒様方をお預かりする営業的塾の教師}のようなこと勿れ主義になった。

人のためを考えること
躾ける親も少ない。子供たちは叱られることも、家事を分担させられたこともない家庭が多いという。親たちも享楽的になっていて、来る日も来る日も家庭で食事の用意をするという人間生活の基本を見せてやる親も減ったとうから、人格を作る努力や忍耐の継続が生活の中で身につかない。

 だからいつまで経っても、自分は一人前の生活をできる存在だという自信もつかない。この自信のなさが、荒れた人間を生むのである。何よりも怖いのは、子供たちが本を読まないことだ。つまり自分以外の人生を考えた身勝手な意識のままの大人になる。本の知恵はテレビやインターネットの知識とは違う。

 戦後教育は{皆いい子}と教えた。ところが人間性の中には、見事さと同時に底なしの身勝手さと残忍も共存している。このおぞましい部分を正視してそれに備えていないから、思いつきで人を殺す。

 多分罪を犯したこじつけの言い訳だけはちゃんと自分の中に用意しているのだ。今はDNA鑑定にも何故か黙っているが、昔は指紋登録だけでも人権侵害だと言って大騒ぎした人たちがいた。言うことの筋が通らない。

     

 人間は自分のためだけではなく、人のためにも生きるものだという考えは、すべて軍国主義や資本主義の悪に利用されるだけだ、という人は今でもいる。人は自分独自の美学を選んで生きる勇気を持ち、自分の意志で人に与える生活ができてこそ、初めてほんとうの自由人になる。

 受けるだけを要求することが人権などと思わせたら、今後も不安と不幸にさいなまれる人は増え続けるだろう。今年は政治や社会がそのことを気づくかどうか。
以上が曽野綾子さんの正論だった。
私は、もう一度、引き算人生で考えなおすべきだと思い返した。

        平成24年3月15日             石井 立夫