|
今回珍しく日本政府が前総統の来日についてビサを発行した。.従来中国側との関係で、簡単に発
行を控えていたのだが、李登輝氏は既にリタイヤーした人であり、彼ほど日本を理解し、日本への
思いを深めていた人を招待できないことは、国として誤解を受ける立場を考慮して、やっと発行し
た。 中国のクレームだけが問題であった。
今回政府側はあえて中国側の何時もの決まり文句を排除して、ビサを発行した。.果たして中国側の
反応は、意外とトーンが下がり、日本に滞在中は外交行動はしないという条件に変わったのである
それでも官房長官は新聞協会やジャーナリストに、あまり報道はしないで欲しいというコメントを
だしていた。誠に情けないことではあったが、ともかく李登輝さんは1月3日無事離日された。
滞在七日間の静かな日々をゆっくり過ごされたが、西本願寺に眠る故司馬遼太郎氏のお墓にお参り
をして旧情をあたためた。尚奥さんの曾文恵さんはみどり夫人あてに、「彼岸にて やさしきまな
こで今もなお 台湾国の平和見守らむ」という和歌を色紙に書いて、託されたと言うではないか.。
その奥床しい御夫婦の日本への厚い友情と理解、京都大額農学部の昔の恩師にも挨拶に行かれた由
正に昔の日本の信義を重んじ、礼儀正し姿を見た思いをした。
日本人の有識者との面識が多く、特に東京都知事石原慎太郎氏、曽野綾子さん、故司馬遼太郎氏
などと親しい仲であることは知られていた。
さて、ここに司馬遼太郎氏の名前が出てきたが、彼が台湾を訪問し、その思い出を風塵抄に書い
てあるので取り上げて見たい。
(記)
まだ台北での私の“正月休み”がつづいている。 陳舜臣氏の誘いでここまできた。
学校の同窓ということを越えて、この人と同席していると、毛穴を開けっぱなしにしているような
安らぎがある。台湾そのものが、そうだといえる。たとえばソウルなら、私のようなノンキ者でさ
え、“概念としての日本人”としての緊張を覚えざるをえないが、台湾にはそれがない。人間を
“概念”で見ない。古いことばでいえば襟度の寛(やかさを感じさせるということである。「李登
輝(総統)さんも、昭和十八年の学徒出陣組の一人だった」と、陳さんがいう。私と陸軍が同期と
いうことになる。ただし李登輝さんは生粋のタイワニーズ(台湾生まれ)である。旧制台北高から
旧制京大にすすみ、農業経済を専攻し、戦後、渡米して、統計学で学位をえた。
蒋氏の二代(介石総統、経国総統)の時代、官吏になり、官選の台北市長をつとめたり、副総統
に任ぜられたりした。第二代経国氏のえらさは、古代以来の中国的な“私”をみずから絶ったこと
である。「私のあと蒋家の者が総統になることはない」と表明し、やがて自分の死後は副総裁を昇
格させよ、といい、その点にかぎっていえば、近代国家らしい“公”の精神を、鮮明にした。
台湾の近代は、この一言からはじまったといっていい。その結果としての李登輝氏である。
台湾のテレビは、ドラマでも演説でも、字幕が出る。初老の人達までは普通語(北京語)ができる
とはいえ、方言がまだナマでつかわれている。大陸系、福建語系、広東語系、客家語系などがこの
島に混在しているために、“ただ一種類のタイワニーズ”が形成される近未来までは、この字幕の
習慣はつづくにちがいない。
私の台北滞在中、李登輝さんの施政演説がテレビで実況放送された。字幕のおかげで、大意を知
ることが出来た。「過去より未来を見よう」という意味のことばがあった。
過去とは日本における戦後、国民党が台湾を支配した時代の弾圧の記憶のことである。
年配の台湾人なら兄弟親族のたれかが、ときに十人以上も、投獄されたり死刑になったりして、
そのことが、“運命共同体”成立に影をおとしつづけている。李登輝氏も生粋の本島人であり、そ
のころの恐怖を共有した。台湾人は日本人と同様、小柄の人が多いが、李登輝さんは長身で、風貌
もますらおめいている。陳舜臣氏にとって、旧友である。おかげで夜八時、お茶を夜に招ばれた。
李登輝氏はよく語った。「退職したら、自分にとって新しい学問をやりたい」分子生物学と哲学だ
という。「権力」についての話もでた。
私は人間にとって、“権力”がセックスとともに、ついに科学によって解析できない最後のものだ
ろう、といった。まことに権力はバケモノであり、麻薬である。
「そうかもしれないが、私の場合はちがう。私は権力を、科学的に、あるいはプラグマテイズム
(実際主義)としてさらには合理主義的な方法で解明でき、運用できるものだと思っている」と、
おそらくアジア史上の元首として最初のことをいった。じつに新鮮だった。
このシャイな知識人でこそ言えることばである。
「私の魂には、ピュアーな(純粋な)“日本人”の精神があります」誤解してはいけない。
“ピュアな日本人”など日本のどこにもいない。日本時代の台湾で初等、中学、高等教育をうけた
とき、日本でもありえないほどの知的武士としての教育をうけとったという意味なのである。
「長じて日本にも別な面があることを知りましたが、いったん受けた教育はなおらない」李登輝さ
んは、クリスチャンでもある。
私は、明治人をおもった。とくに武士の世がおわったあと、もっとも武士的な人がプロテスタン
トになったことをおもった。たとえば新渡戸稲造や内村鑑三の印象とかさねてみたりした。
ともかくも、現実の李登輝さんは、“大統領”というイメージよりも、もっとも豊潤な意味での永
遠の書生という印象のほうがつよい。「台湾を、アジアの金融と技術のセンターにしたい。むろん
それはアジアの役に立っための存在としでです」この人は私が日本人であるという当然のことには
っと気づいたらしく、輝くような笑顔で、「日本は世界の面倒をみるでしょう。台湾はアジアをう
けもちます」イデオロギーの時代は、たしかにおわった。(平成五年一月十四日)
追記:孤蓬万里さん
ことしの菊池寛賞に孤蓬万里編者「台湾万葉集」が選ばれた。孤蓬万里とは呉建堂氏のペンネー
ムである。産婦人科のお医者さんで、剣道八段の教士で、台湾で「台北歌壇」を主宰する歌人であ
る「日本語のすでに滅びし国に住み 短歌詠み継げる人や幾人」(孤蓬万里)日本統治時代の台湾
でかって日本語教育を受けた世代のなかで今も日本語を愛し、日本文芸を愛している人たちがいる
その人たちが短歌でもって人生記録の苦楽をつづったのが「台湾万葉集」だった。呉先生は、今の
日本語の乱れについて、戦後歌壇の退廃について、皇后様バッシング(そんな時代だった)の許し
がたいことについて・・・・・・説き去り、説き来たって倦むことを知らなかった。同歌壇の同人
の一人、嘉義市に住む蕭翔文氏は産経歌壇にも時々投稿されている。蕭さんは日本の主義主張に共
鳴し、祖国を救おうと陸軍特別幹部候補生に志願して航空兵となり、特攻基地・知覧に赴いたとこ
ろで敗戦を迎えた。台湾へ帰って師範学校を卒業、中学で地理と体育を教えていた。「日の丸と軍
歌に酔いて征きし駅 今夢のごと陸橋ゆ見る」そうした蕭さんたちに日本は冷たい仕打ちでしかこ
たえなかった。日本を信じ、日本とともに戦い、ともに敗れた台湾の歌人の境遇を思えば、深い感
慨を覚えずにはいられないのである。(産経抄石井英夫氏)私は中国と台湾の政治問題には触れた
くない。分からないのである。しかし、以上の台湾の人々の日本に持ち続ける友情には感動を覚え
るのみである。戦後60年を経て、なお日本について好意を持ち続けてくれる人々がいることは、
嬉しいことではないか。その人たちも、やがて失われてゆくのが、寂しい。自治国として立派に独
立しているが、国連のメンバーには参加できないでいる。せめて、日本は国連加盟には、堂々と賛
成の手を挙げるべきではないか。これほど信義の厚い国民にたいしては・・・・・
|