繰り返さない六十七回目の誓い

 沖縄慰霊の日が行われ五千人の人が黙祷を捧げた。
沖縄の戦いは略単独で行われ、大本営では何の指示も与えていなかったのではないか?
むしろ指示する余裕はなかったのではないだろうか?
当時私は東京の部隊で勤務をしていたが、通信班長として無線を聞いていたが、沖縄での戦いは全然聞いた覚えがなかった。

ただし鹿児島の鹿屋特攻基地から毎日のように飛び立って行く特攻兵の記事を毎日のように聞いていた覚えがある。結局828名が出撃したのである。
その頃は日本は既に末期状態にあり、大本営の沖縄に関する放送は聞いた覚えがない
五人の通信兵を部下にしていたが、私は毎日のようにハワイ放送を聞いていた。
そこでは、
本物の戦闘状態の放送が行われていたのだ。それでも尚正直に日本の置かれた立場を何らかの偏見を持ちつつ聞いていたのだ。
結論は敗戦になったのだが、むしろ、その時の軍隊での最後のほうが私には印象が強かった覚えがある。

 例えば乗馬部隊であったので、馬をどのように処分するのか、興味があったが、一頭当たり結局九百円で販売したのである。
関東方面の兵隊は一人で三頭も購入した兵隊がいた。
乗馬は生き物だから、餌やら水の補給もしなければならず、結局関東方面の者が優先して購入していた。

 
天 皇 陛 下 御 製 慰   霊   碑

私は九州出身だから、購入することは出来なかった。
帰途豊橋で奇妙な光景を見た。
捕虜としていたアメリカの兵隊が解放され、ピストルを構えて窓の近くの復員兵から、軍刀・財布・時計・肩章などを盗んでいた光景を見た。

敗戦の情けない光景をまじかで見たのだ。
大分県臼杵町へ無事帰国し、その後の経過は別項で私の履歴書で書いた。

        平成24年7月12日             石井 立夫