失われる含羞

 含羞は「がんしゅう」と読む。はじらい・はにかみ・広辞林から・・・・・。
日本人独特のはにかみ・はじらい・と思っていたが、英語にもBashfulと言う言葉がある。英語の場合は日本人の恥じらいとはいささか、異なるのではないかと思う。
断定は出来ないが・・・・・・。

 日本語の含羞は文化の違いにあるのだ。日本語の恥じらいは、例えば毒舌で有名な故山本夏彦氏によれば、まじめな話は常にいくらかの笑いといくらかの含羞を帯びなければならない・・・・・と言っている。曽野綾子さんのオピニオンでの発言を読んだ。最近の若人はテレビの前で、例えば、有名な柔道の選手が優勝して嬉し涙で泣いていた。

 曽野さんの意見では、昔の人間は簡単には泣かなったという意見を書いていた。最近は「自分の思い、他人も理解」との甘い前提があるのではないかと指摘していた。含羞とは直接関係ないが、現在の日本人の大部分は含羞を失っていくのではないかと思うのだ。テレビの影響がその原因ではないかと思う。テレビの罪は大きいのだ。電車に乗っていて、人の見ている前で、お化粧直しをする、大声でしゃべりまくる、人の迷惑など無視する若者が増える一方だ。この種の弊害について誰も忠告を与える雰囲気はとっくの昔に消えており、ヘタに忠告することが怖い雰囲気なのだ。含羞のひとかけらも無い時代が生んだ代物かもしれない。日本人全体が失われる含羞時代になりつつあるのかもしれない。

時代の変化についてゆけない老人夫婦がいる。毎回テレビを観ながら嘆いているのだ。
これは世間に迷惑をかけ、新聞などに投書するようなことまでしない。ただ嘆いているだけである。

      平成25年1月17日             石井 立夫