ユダヤ難民の足跡

 平成21年6月18日産経新聞の記事を読んだ。題名は上海 ユダヤ難民の足跡:サブタイトルには、ナチス逃れ流入、ゲットー居住・・・・・
記事によるとユダヤ難民の足跡をたどるツアーが中国上海市を訪れる外国人観光客に静かなブームになっている記事だった。 

 1933年のナチスドイツの台頭で欧州を追われたユダヤ難民のうち、日本などを経由して3万人近くが上海に流入した。戦後、米国に亡命して生き延びた人も少なくなく、その子孫や関係者らが「ルーツ探し」の一環として上海へも足を運ぶようになった。

 上海の日本人居留地区の中に、“ユダヤ難民ゲットー”が置かれていた事情もありゆかりのある日本人も訪れるという。産経新聞の記事から・・・・・。
私は1920年生まれで、上海で生まれた18歳の年齢まで育った。
この思いもよらぬ新聞の写真を見て、同級生の仲間と語りたかったが、現在は殆どいない。写真は1943年ごろの上海市内のユダヤ難民ゲットーの街並みの写真だ。
その頃は、米英の共同租界が上海の良い場所を共同租界と称して、勝手な地域を実質的に仕切り、日本人の多くはこの地域に住居を決め、所謂日本人の多くは虹口地区に住んでいる人が多かった。下記の中国語は上海語なのだ。中国は戦前は極端に言えば、広い国の中で、それぞれお国言葉があり、統一されていなかった。

 その頃の中国人(ツンコウニン)は最低の生活をしており、写真にあるように、人力車(ワンポウツオー(黄包車)を引いている人は裸足で車を引っ張っていた
極端な人は、夜は車の中で寝泊りをしていた人もいたくらいだった。これ以上の最低生活はなかったのだ。
市内は電車が走っていたが、外国人、日本人は1等の箱に乗り、2等車、3等車には大体中国人が乗っていた。上海に限っていたのかも知れない。

 これ以上の最低生活はなかったのだ。市内は電車が走っていたが、外国人、日本人は1等の箱に乗り、2等車、3等車には大体中国人が乗っていた。上海に限っていたのかも知れない。これほどの差別を受けながら、実に逞しい生き方をしていたのが、ユダヤ人だった。私が軍隊へ入隊を控え、両親のもとへ(上海)へ帰り)友人と別れのため、お茶で飲もうかと探したのが、ユダヤ人の店だった。

 店に入るなり、ピアノで『見よ東海の空明けて』をいきなり弾いてくれるではないか、コーヒーだけでは悪いような雰囲気だった。このような逞しさがあればこそ、どのような生活も出来たのではないかと痛感したのだ。上海に今でも残るゲットーの写真を見て、その昔日本軍が保護を決めたのは、人道的措置にも、多少の下心があったのかも知れない。

 る機会はなかったが、黄浦江という名の蛇行する河を遡って船は上海に着くのだが、その向こう側に浦東がある。昔は何もない普通の農村地帯だったが、現在は飛行場ができ、道路は整備され、大都市の様相を見事に描いている。現在の上海の実に立派な姿は、新しい中国政府の新しい実力をまざまざと見た。まさに昔日の面影を宿すのみの感だ。

      平成25年2月7日             石井 立夫