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この英語はリテラシーと呼び。辞書によると、読み書きの能力、(特に言葉)に堪能である
ことと出ている。敢えてこの英語に注目したのは、先日の新聞記事に、ケータイ小説という
題目で初めて知った言葉だった。
ケイタイとは電話の代名詞であるが、若者では、これを使えない人は皆無に近いと思わ
れるからであると同時に、老人には簡単に理解できない電話機器だからである。
しかもケータイ小説という名前の小説が流行し、印刷部数が50万部から100万部の勢いで
売れていることを知ったのである。
最近の書籍発行数は平均して一万部売れれば、良く売れたほうで、普通は三千部ぐらいから発
刊し、売れ行きを見ながら、増刷する傾向が強いのである。
しかも地方の町に住んでおれば、地元の本屋さんも、売れ残りを案じて、なるべく少なめに仕
入れをするので、初めから売れ切れの場合が多いのだ。
流行作家名になれば、部数は多少の違いはあるだろうが、一般的にこの傾向が普及している。
つまり、書籍の発行傾向が少なめになっていることは、残念ながら事実だ。
それに反して、ケータイ小説は全く逆現象らしい。
例えば、「もっと生きたい・・・」というケータイ小説が(スターツ社)が発売二週間で五十
万部を売り上げた。版元によれば百万部に届く勢いという。
もとはケータイ電話に配信されたものに、一話千二百字前後で配信元にアクセスして読むとい
う仕組みだ。作者は読者の反応をアクセス数や感想メールで確認しながら書き進めることができ
る。例えば話の筋の一例として、母親の巻き起こすグロテスクな事件を通じて、愛の尊さを描こ
うとした作品だ。読者の中心は中学二,三年生の女子で、版元には「人を愛する意味、命の大切
さ、親子のきずなが非常に分かる本である。「私が生きていることが、私がここにいられること
が幸せだったことを知りました」と言った好意的なメールが多数寄せられている。
民族学者の大月隆寛さんは、「従来の(文学)のスキル(理解力・判断力)を持たない人が、
「ケイタイ小説」用のスキルだけで作品を発表するため、文学と「ケータイ小説」の間にすさま
じい断層が生じた。大人が読むに堪えないと感じるのは、従来のリテラシー(読み書き能力)に
染まっているから。(頻繁にケータイメールを利用することで)従来と次元の違うリテラシーを
身につけつつある若い世代にぴったりきたのがヒットの要因では」と解説してくれたが、この解
説は今も有効だろう。
スターツ出版の山下勝也取締役は、YOSHI の作品に対する批判を認めた上で、こう反論する。
「十四、十五の子たちは、誰もが自分を不幸だと思っています。その子たちがYOSHIの作品を読
むことで、不幸なのは自分だけではない)(自分は本当は幸せだったんだ)と感じ、ほっとする
んです。彼は双方向を持ったケータイ小説で鍛えられ、読者を喜ばす計算ができるからです。
彼の作品を読んで、自分でも書けると思って持ち込む人もいますが、それはとんだ勘違いです。
しかし、従来の文学に親しんだ者が読めば、荒唐無稽な筋、ご都合主義の展開、貧弱な文章力
と構成力、浅薄な人間観といったアラが目立ち過ぎ、「これが小説か?」とあきれ返るばかりだ
往時は文学を志すものは、文士と称し、赤貧洗うが如く、文士と聞けば、世論は家も貸さず、
娘も呉れなかったほどであった。苦節十年せめて一冊で一年暮らせたものだった。それほど苦労
話は聞いていたが、今や時代は完全に変わったらしい。
われわれは、現代仮名遣いによって古典文学を失い、今携帯電話によって近代文学も失おうとし
ているのではないか。
二十年後、存在していればの話だが、書店の平台にどんな小説が並んでいるだろうか。漱石・芥
川龍之介の小説が果たして並ぶ姿が失われるのではないかと嘆きの声が聞こえてくる。
新しい時代について行くことの難しさが痛感されるのだが・・・・
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