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サイパンに散華した若武者
第一章
今私の机上に500ページに及ぶハード・カバーの「昭和史」著者半藤一利氏がある。
著者半藤一利氏は元文芸春秋の編集長、言論界では有名な人で、この本の内容は昭和時代の語り
部として、実に内容が充実しており、期待通りだった。 さすが、85歳にもなると読み進む時
間がかかり、約10日を要した。
大正9年生まれだが、私の人生は昭和の御世とともに過ごした思いがある。
20世紀は「戦争と革命の世紀」だった。多数の人命が失われた世紀だった。二度の世界大戦
を、この世紀は経験している。さすが、第一次世界大戦は生まれていなかったので記憶にない。
第二次世界大戦は年齢が重なり、参加させられた。多くの友人を失い、敗戦の惨めさを痛感さ
せられた経験を持った。戦争と恋愛は始まるのは簡単だが、終えるのは大変難事だという言葉が
あるが、昭和20年8月15日を東京の連隊で迎え、其の後の人生は昭和の後半とともに過ごし
たが、今振り返ると、昭和元年に小学校に入学し、昭和20年に終戦を迎え、まさに昭和時代の
申し子だ。私はこの本を読みながら、矢張り青春時代を3年半、近衛騎兵連隊で過ごしたから、
太平洋戦争の始まりから、終戦処理までが、どうしても印象深く、読み進んだ。 しかし、この
戦争が何故始まったかが歴史的に戻ることは自然ではないか。そこに北一輝という男の生涯が無
視できない存在があるのだ。
雑誌「正論」二・二六事件で死刑になった北一輝の革命伝説」松本健一氏の記事から。
北一輝は明治十六年(1883年)新潟県佐渡に生まれる。中学時代から社会主義に関心を寄せ
同三十九年、同四十四年、辛亥革命支援のため中国に渡る。 天皇を奉じたクーデターで国家改
造を行い、海外拡張を目指すという「国歌改造案原理太綱」のちに『日本改造法案大綱』と改題
して刊行)を大正八年から執筆。
青年将校らの間に影響が広がった。 昭和十一年、陸軍統制派に対立した皇道派の青年将校によ
る二・二六事件が失敗すると、事件の黒幕として逮捕される。謀議とは無関係にあったにもかか
わらず、非公開の特設軍法会議にかけられ、首謀者として死刑判決を受けた。同十二年八月十九
日、銃殺、五十四歳) 深淵に臨むが如し(危険の境地に置かれてひやひやする)時代が押し寄
せ始めたのが、日本の経済の不況問題がある。しかしこれを説き始める余裕はないが、その結果
として、2・26事件が起こり戦争問題が始まり歴史が動き始めた。
昭和十七年十月一日私の運命は軍隊入営と言う個人としての歴史が始まった。
当時の教官は陸軍士官学校55期生の野本憲志氏で、これまで何度か野本氏の情熱溢れる指導と
精神教育は報告した。 戦況いよいよ押し詰まり、昭和十九年三月二十四日、彼に突如サイパン
島へ転属命令が下った。
戦況不利の中、サイパン島にたどり着いた野本氏は母上に下記の手紙を出している。
母上様
謹啓 出発時忙しさにまぎれ種々ご迷惑をかけました。
当地は実に平穏風景、民風等も殆ど内地とかはらぬ「ガラパン市内」に今、分散宿営中です。
只暑いのには閉口、現在は涼季と言はれますが、それでも三十二度に上がります。
パパイア、パイナップル、バナナ、シャシヤップ等々、極めて豊富。毎日二。三十本づつ食っ
ておりますが腹もいためません 至極健全日増しに黒くなってゆきます。只今、班長です。
仕事も面白いです。 町には実業学校、中学校等もあり、夜はきれいな星夜がつづきます。
今もすずむしに似た虫がさかんにないてゐます。裸でもあせばみます。
蚊が多いですが、「マラリア」等は皆無です。
鶏や牛もおり、「キュリ」や「トマト」も食ってゐます。全然御心配なし。
今日は丁度飛行機の便を得ましたので寸暇を見て大急ぎでかいてゐるのです。
何れ次便に於て写真でも送りませう。
公式には手紙は出せませんので、今度は何時になるか分かりません。取り敢えず。
一同御壮健まで。
三月二十五日夜
(全文旧仮名使い)この書面は教育勅語のモデルにもなろうかと思いました。
反面情報面でいささか不足気味ではないのか、情報班長をしながら、グワム,ヤップ島にも飛
んでいたと聞いているが、ニミッツ長官率いる艦隊が、ビアク島を経て、グワム、ヤップ、テ
ニアン島を経て、サイパン島に近接しつつある時期にあたり、それらの情報が入手していなか
ったのか、母上様宛ての手紙には、それらの気配が察しられないのが、不思議である。この後
六月十八日には、強力なアメリカ海軍の艦砲射撃の後、サイパン島に上陸し、その戦闘詳報は
全部隊突入後全滅したと報告されている。野本氏は富士の裾野にあった少年戦車学校の教官の
話もあったまた陸軍大学への進学も予定していたと聞く。
死んだ子の数を数えるような話だが、何故サイパン島に行かねばならなかったのか?陸軍大
学へ進むには、一度は野戦での経験が必要であったかも知れない。
それにしても、運命はまさに過酷なもので、遂に一番危険な戦闘に参加し、サイパン島に散華
した若武者となってしまったのである。この運命のいたずらには、いかなる帝国軍人と言えど
も抗し様もありはしない。
悲しいかな靖国神社に祀られ永遠に日本国を守る神となられたとしか言い様がない。
サイパン島が占領され、東條英樹大将が総理大臣、参謀総長の地位から辞職している。
さて、戦後六十年を経て、太平洋戦争について、いろいろな批評が書かれている。
正に時代が変わり、その歴史への反省がなされてきた。しかし我々の青春は無駄ではなかった
と言いたいのだ。生きて日本の真の姿を見守る運命に全てがゆだねられたのだ。
第二章
司馬遼太郎氏の「この国のかたち」の一文に“統帥権”の無限性という文章が載っている。
彼も戦車中隊の一少尉であり、栃木県佐野市へ陣地を構え、終戦を迎えた。
復員して新聞記者から、小説家になったことは承知の通り。いささか長文になるが、ここに引
用させて貰いたい。昭和ヒトケタから同二十年の敗戦までの十数年は、ながい日本史のな
かでもとくに非連続の時代だったと言うことである。
たとえば戦後、“社会科学”的な用語としてつかわれる「天皇制」などというえぐいことば
も、多分にこの非連続的な時代がイメージの核になっている。
あんな時代は日本ではない。と、理不尽なことを、灰皿でも叩きつけるようにして叫びたい衝
動が私にある。たとえば、兼好法師が生きた時代とこんにちとは、十分に日本史的な連続性が
あるまた芭蕉や萩生徂徠が生きた江戸中期とこんにちとは文化意識の点でつなぐことができる
つなぐとは単純接着という意味でもあり、また電流が通じうるということができる。
「司馬さんには昭和の戦争時代が書けませんね」と、いつだったか、丸谷才一氏にいわれた
ことがある。なさけないが、うなずくしか仕様がない。
私事をいうと、私は、ソ連の参戦が早ければ、その当時、満州と呼ばれた中国東北地方の国境
の野で、ソ連製の徹甲弾で戦車を串刺しにされて死んでいたはずである。その後、日本に戻り
連隊とともに東京の北方に駐屯していた。もしアメリカ軍が関東地方の沿岸に上陸してくれば
銀座のビルわきか、九十九里浜か厚木あたりで、燃え上がる自分の戦車の中で骨になっていた
にちがいない。そういう最後はいつも想像していた。
その当時、いざというとき、私どもが南下する道路の路線は、ニ車線でしかなかった。
その状況では、東京方面から北関東へ避難すべく北へたどる国民や彼らの大八車で道という道
がごったがえすにちがいない。かれらをひき殺さないかぎりどういう作戦行動もとれないので
ある。さらには、そうなる前に、軍人よりもさきに市民たちが敵の砲火のために死ぬはずだっ
た。何のための軍人だろうと思った。その時期、それやこれやの想像で頭がはちきれそうにな
っていたのだが、映画がおわるように、それらの想像が終了したのは、敗戦の日だった。場所
は栃木県佐野だった。敗戦の数ヶ月前、私どもはいた宿舎は小学校で、この宿舎に来て最初に
やったのは、敵の空襲から被害を避けるために付近の山々に穴を掘って戦車をかくすことと、
校庭に小さな濠を掘って、対空用の機関銃座をつくることだった。その作業中、私は、しきり
に謡曲の「鉢の木」のことをおもった。鎌倉の昔、無名の旅の僧(じつは北条時頼)のために
宿をし、鉢の木を炊いて暖をとらせた牢浪の佐野源左衛門常世のことである。源左衛門尉がわ
び住まいしていた佐野とはこの土地ではないかと思うと、まわりの山河が沁み入るように愛お
しくなった。その後、場所については異説があることを知ったが、この時期はこここそ“佐野
のわたりの雪の夕暮”のあの佐野であると思いこんでいた。
やがては、源左衛門尉やその妻、あるいは平明な良心だけを政治の心としていた時頼などが
私のなかで歴史的な日本人の代表のように思われてきた。というより、すでに日本に帰りなが
ら、日本のことが恋しくなっていた。さらにいえば、自分が身を置いている進行中の日本が本
当の日本なのかと思ったりした。降伏後も、数週間、この野ですごした。
(日本人や日本人は、むかしから今のようなぐあいだったのか)という茫々とした思いを持
ったひょっとするとむかしの日本や日本人はちがっていて、昭和という時代だけがおかしいの
ではないか、とも思ったりした。それより前、私は当時、満州とよばれた中国東北地方にいた
そのころノモンハン事変(昭和十四年)のことがたえず脳裏にあった。
ひとつは、私どもの部隊の先祖(といってもわずか四、五年前の先祖だが)がこの凄惨な戦
闘に参加し、こなごなにやられたということもある。それに、私どもの仮想敵はソ連だったし
具体的にはソ連の戦車だった。常住、それを想定して訓練がおこなわれた。
私が訓練を受けた四平街の戦車学校校庭のすみの草むらの中に、破壊されたソ連のBT(ベーテ
ー)戦車が放置されていた。機械装置その他は日本の戦車にくらべて大量生産むきのごく雑な車
体だったが、兵器のいのちである攻撃力(火砲)と防禦力(装甲)においてすぐれていた。
ノモンハン当時、日本の八九式中戦車や九七式戦車がこれを射ってもタドン玉を投げつけた
ほどの効果しかなかったが、むこうの弾はこちらをやすやすとつらぬいた。あの事変では戦車
の数も、こちらが一に対しソ連は十の勢力をもっており、結局、戦闘の進行中、関東軍は戦車
隊の育成と保全のためという奇妙な論理をたてて、戦場から戦車部隊だけを撤退させた。それ
が私どもの“先祖”だった。結果としてノモンハンの草原上の日本軍は七十パーセント以上と
いう世界戦史にもまれな敗北をして停戦した。この事変は、日本から仕掛けた。しかも日本国
家の国家的意志によってやったものではなかったのである。関東軍参謀の独走によっておこな
われたもので、参謀の元締である東京の参謀本部でさえ事後に知らされた。ノモンハン事変は
そのごく一例にすぎない。
『参謀』という、得体の知れぬ機能を持った者たちが、愛国的に自己肥大し、謀略をたくら
んでは国家に追認させてきたのが、昭和前期国家の大きな特徴だったといっていい。
たとえば、昭和三年には、関東軍高級参謀の河本大作が、幕末の志士気どりになって、一個
人でもって国家行為をおこすべく企図し、奉天軍閥の首領張作霖を謀殺した。
次いで昭和六年、同軍参謀石原莞爾らが、“満州”の独立をひそかに議し、満鉄の一部を爆
破(柳条溝事件)し、この爆破を中国側がやったとして満州事変をおこした。
昭和前期の日本というのは、統一的な意思決定能力をもった国家であったとおもわれない。
私は、ついに書くことはないだろうと思うが、ノモンハン事変を、ここ十六、七年来調べてき
た生き残りの人達にも、ずいぶん会ってきた。
当時の参謀本部作戦課長でのちに中将になった人にも会った。この人は、さきごろ逝去され
た。六時間、陽気にほとんど隙間なく喋られたが、小石ほどの実(じつ)のあることも言わな
かった。私は四十年来、こんなふしぎな人物に会ったことがない。
私はメモ帳に一行も書かなかった。書くべきことを相手はいっさい喋らなかったのである。
これとは逆に、戦場で生き残って、そのあと免職になった一連隊長を信州の盆地の温泉町に訪
ねたときは、まだ血が流れ続けている人間を見た思いがした。その話は、事実関係においての
凄惨で、述懐において怨嗟に満ちていた。うらみはすべて、参謀という魔法の杖のもちぬしに
向けられていた。他者からみれば無限にちかい権能をもちつつ何の責任もとらされず、とりも
しないというこの存在に対して、しばしば悪魔とよんで絶句した。
(元亀天正の装備)という形容を、この元大佐は使われた。当時の日本陸軍の装備についてで
ある。いうまでもなく元亀天正とは織田信長の活躍時代のことである。この大佐とその部下た
ちはその程度の装備をもって、ソ連の近代陸軍と対戦させられ、結果として敗れた。その責任
は生き残った何人かの部隊長にかぶせられ、自殺させられた人もあった。そのころの日本陸軍
の暗黙の作法として、責任をとらせたい相手の卓上に拳銃を置いておくのだが、右の元大佐は
このばかばかしさに抵抗した。このため、退職させられた。
しかしこの悲惨な敗北のあと、企画者であり演出者であった“魔法使い”たちは、転任させ
られただけだった。たとえば、ノモンハンの首謀者だった少佐参謀の辻政信は上海に転任し、
その後太平洋戦争では大きく起用されてシンガポール作戦の参謀になった。作戦終了後、その
魔法の機能によって華僑の大虐殺をやり、世界史に対する日本の負い目をつくることになる。
話は、かわる。Aさんという呉服屋の番頭をしている小柄な老人は、私は未熟児でございま
してと自分の体力のなさについて、身も世もなくかきくどく人である。見たところ、小学生ほ
どの腕力もなさそうで、顔までが、茶道師範のお婆さんのようにやさしい。そういう人ですら
大戦の末期には徴収され、関東軍の一兵士になった。その上、ソ連によってシベリアに送られ
奴隷労働させられた。多くのひとが栄養失調などで死んだが、この虚弱なひとは命冥加にも生
きて帰った。「よほど楽な労働にまわされたのですね」そうきくと、答えが意外だった。
「いいえ、岩山の岩を削らされておりました」話が岩割りのことになると、Aさんの顔に血が
のぼり、情熱的な目つきになった。
兵隊の中には学者がいるものでございます。どんな岩にも、理(すじ)というものがある。
大理石の理、そいつをさがしだして、その理に沿ってノミを叩きつづけてゆくといつかは大割
れに割れるものだ。そういうことを申すものでございますから、みなでそのとおりに致します
と本当に割れました。そういう理でもってシベリアの岩をずいぶん割ってまいりました、とい
った。「その学者は、前職は何でしたか」『錺職(カザリ)でございました』後年、藤堂明保
氏や山田勝美氏の本『漢字の語源』などを読むと、理はこの錺職がいうような意味をもってい
る山田勝美氏によると、理のツクリの里の音は「離析」はなれるをあらわし、これに王へんを
つけて理になると「王のさけ目、筋模様」をあらわす文字になる、という。中国のむかし、細
工人が玉器をつくる場合、王のさけ目やスジ模様__理__に従って細工をしたというのであ
る。錺職のいうところは、まことに理にかなったことだった。
以上、われながらとりとめもなく書いている。
私自身の考え方がまだ十分かたまらずに書いているからで、自分でもいらいらしている。と
もかく自分もその時に生存した昭和前期の国家が何であったかが、四十年考えつづけても良く
わからないのである。よくわからないままに、その国家の行為だったノモンハン事変が書ける
はずがない。それは天皇制ファッショの時代だったから。という述語を使ってしまえば通過は
できるが理解はできない。たとえば、ちゃんとした統治能力を持った国なら、泥沼におちいっ
た日中戦争の最中に、ソ連を相手にノモンハン事変をやるはずもないし、しかも事変のわずか
二年後に同じ“元亀天正の装備”のままアメリカを相手に太平洋戦争をやるだろうか。信長な
らやらないし、信長でなくとも中小企業のオヤジさんでさえ、このような会社運営をやるはず
もない。この魔法の岩にも、さきの錺職(カザリ)のいう理(スジ)があるはずで、おろかな
ことだが、ごく最近になってその理が、異常膨張した昭和期の統帥権の“法解釈”ではないか
と思うようになった。明治憲法はいまの憲法と同様、明快に三権‘立法、行政、司法“分立の
憲法だったのに昭和になってから変質した。統帥権がしだいに独立しはじめ、ついには三権の
上に立ち、一種の万能性を帯びはじめた。統帥権の番人は参謀本部で、事実上かれらの参謀た
ち(天皇の幕僚)はそれを自分たちが、“所有”していると信じていた。
ついでながら憲法上、天皇に国政や統帥の執行責任はない。となれば、参謀本部の機能は無
限に近くなり、どういう“愛国的な”対外行動でもやれることになる。
司馬遼太郎氏は“統帥権”がすべての原因ではないかと問うている。さて、戦後六十年にな
ると戦前の歴史はすべて否定され続けてきた感がある。
たとえば、次のコラムには驚いたのである。
第三章
怨 念
二・二六事件を起こしたいわゆる青年将校は、陸軍大学の試験に落ちて懊悩する不平派であ
ったと聞く娑婆でなら、官僚になる道の東大が駄目でも早稲田から木鐸を目指すわいと、一応は
方向変換も可能であった。しかし大正中期には毎年七十名にも達した陸大卒業生の、その群れ
に加えて貰えなければ、軍服の世界に代替の行路はないから、前途真暗闇、出世の見込みを完
全にたたれたうえ、天保銭に頭を踏んづけられたまま、定年を迎えるしかない。
この目前に立ち塞がる鉄壁の序列に例外を認めさせ、不可能を可能にして将官に駆け昇る機
会として戦争あるのみ。血気に逸った連中が処刑された前車の徹を踏むまいと、残った怨念派
が連繋して、戦争が起こる方向へ力を致した。日本陸軍は陸軍大学という余計な制度を作った
ばかりに出世の見込みを絶たれて憤る多数の不平派を産みだした。彼らに下から突き上げられ
中堅層から期待の眼で見つめられ、将軍たちもまた火中の栗を拾わざるを得なかったのであろ
う。この書簡は戦後六十年を経た今日だからこそ、許容されるもので、今更問うべき相手もい
ない。事実の実感すら感じさせない。かくして歴史は徐々に消され、真実の熱情は無視されて
ゆく年月の虚しさを感じるのみである。
(追伸): 『春秋に義戦なし』とは辛口批評家故山本夏彦氏が好んで引用した孟子の言葉である。
私は中国の歴史に通暁しているわけではない。
私なりに解釈しているのは、いかなる戦いであっても、双方に正義の言い分はあるのだ、と言
いたいのだ。日米戦争にも、日本には日本の正義があり、それを信じて戦ってきたのだ。上述
の司馬遼太郎氏の統帥権の問題は、あったにせよ、ABCDラインに囲まれ、太平洋戦争に巻き
込まれ我々は参加し、命冥加に生きながらえて現在がある。
日本の現状は世界第二位の経済大国になっているのは結構なことだが、教育、政治、風俗な
どなど憂うべき問題を抱えているが、老境に達した我々には、いまや発言の元気もない状態だ
平成17年2月17日中部国際空港が完成し、開港記念日の第一便が、初の外来飛行機とし
てサイパンから到着した。なんという皮肉なことだと思った。60年前なら、B29が日本の
本土に飛来したのである、誠に今昔の感がした。
余命を大事にし、変わり行く日本の姿を眺めながら、思いつくままに、この一文を書いた。
サイパンに散華し、棺を覆いて事定まる野本氏の若武者ぶりを思い出しながらここに擱筆しま
す。合掌 平成17年3月吉日
石 井 立 夫
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